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倚蘭操(中)

 冬になり、秀吉への陰口はしばしば忠三郎の耳にも入ってきていた。秀吉が耄碌したとの噂は藤袴の中で聞いた。

 部屋には、刈り取られた藤袴が忠三郎の周囲を取り囲んでいる。春を思わせる桜に似た芳香が漂っていた。

 最近、高山右近が時々訪れている。右近はオルガンティーノとしきりに接触しており、その甲斐あって、オルガンティーノは忠三郎に絶大な信頼を寄せるようになっていた。

 キリシタン領主達からの支持も得られるようになってきている。

「それで勇気をお出しになったのですか」

 部屋でくつろいでいる時、冬姫が尋ねた。

「そう。控え目にね、言ったつもりなのですが。呆れられました」

 差し向かいに座る冬姫に、心底おかしそうに笑った。

 実は先日、前田利長や細川忠興など、気心の知れた友人達へ、それとなく本心を打ち明けてみたのだ。

「秀吉はもう駄目なのではないかという話から、では仮に秀吉が亡くなったら、その後は誰が天下人になるだろうかという話題に、たまたまなったものだから──」

 秀吉の後の天下人は、当然、関白の秀次であろう。皆そうは思うが、どこか半信半疑。

 秀次や、まして生まれたばかりのお拾(秀吉の子)では、織田家の時の秀吉や家康のように、必ず野心家が立ち上がり、天下の座を横から奪って行く。

 それを誰しも思うから、秀吉の後に秀次が天下人となる可能性に疑問を抱いているのである。簒奪者が現れるかもしれない。果たしてそれは誰だろうか。

「やはり徳川殿か」

 前回、家康は立ち上がっているだけに、可能性が高い。しかも、秀吉にその座を奪われているわけだから、今度こそという思いがあるだろう。

 しかし、忠三郎は無理だと言った。

「隣の会津に私がいるから、無理。会津から飛びかかって食いつき、放しはしない」

「では、そこもとは誰だと思っておられるのか?」

 利長が問うと、忠三郎は相手を顎で差した。

「そこもとであろうが」

「それがしだ?」

 利長は目を白黒させ、次いで笑った。

「いや、地理的な面で見ても、石高、実力の点でも、そこもとの父上しかおるまい。その跡目は当然嫡男が嗣ぐ」

「なるほど」

 その場にいた者は納得したが、利長だけは呆れていた。

「私はそこもととは相婿だし、そこもとの弟御は私の娘婿。そこもとならば、従ってやっても構わぬと思う」

「何とも迷惑な話だ」

 利長は益々呆れた。

「何だ、そこもとにはその気がないのか?それなら……この蒲生氏郷が天下を頂いてやろうか」

 その時には必ず協力しろよと言ったのだった。

「どうも冗談と受け取られたようです」

 忠三郎が苦笑すると、冬姫もくすくす笑った。

「最初はそれで宜しいではありませんか。いきなり本気で打ち明けるのも、如何なものかと」

 皆友達だし、秀吉の耳には入るまい。

 ただ、少々不安なことがあった。その不安が忠三郎自身を蝕んでいくようで、得体の知れぬ恐ろしさが、絶えず腹の底から突き上げてくる。冬に入って、彼の体は益々疲れやすく、だるくなっていたのだ。寝込むほどではないのに、何故か不安に襲われる。

 そして、一気に症状が悪化したのは、瀬田掃部(正忠)の茶会に出席した頃からだった。

「毒ではござるまいか?」

 蒲生家中は騒がしくなった。しかし、忠三郎は違うと言った。

「瀬田殿は宗匠の高弟だ。茶に毒を入れるようなことは断じてない」

 忠三郎はそう信じている。思えば、掃部は朝鮮への出兵に反対していたから、毒を盛る理由がありそうだと冬姫は思うかもしれないが、千利休の高弟ともあろう者が、茶を汚す筈がない。

「殿がそう信じておられるからこそ、易々と茶に毒を仕込むこともできるというもの」

 隼人などもそう言う。忠三郎の信念は理解できない。

「おそれながら、近頃の殿は覇気が強すぎまする。ようやく乱世が鎮まり、誰もが一息ついている時に、再び世を乱そうというそのご気概は……」

 そんなふうだと、毒を盛ろうとする者が現れるだろうと、隼人は言外にたしなめた。

 しかし、忠三郎は、

(そなたもか)

 腹の中がむかむかとした。

 隼人の知る忠三郎は、かなり我慢強い性格で、怒りを面に見せることはなかった。だが、ここ最近はおかしな夢想にとらわれているようで、それを隠してはいるのだろうが、時折さっと影を出す。今も一瞬、顔色を変えて、隼人を見据えた。

(天下を奪える力はあっても、敢えてしない者が多いのだ。十年前とは違う、今は平穏な世。天下がとれるからと、それを乱す者は天下を手にする力はあっても、天下の座に相応しくない)

 天下人の器でない者がその座にあったとしても、その器量の者が脇で支えて平穏を守ることこそが正しい。簒奪して乱世に逆戻りさせるのは、国のことも民の生活も考えない者だ。隼人は、秀吉がどんなに横暴でも、臣下の忠三郎は真を尽くすべきだと思っている。

 一方で、忠三郎は家臣達への不満を冬姫にだけは口にした。

「あの者ども、わざと喧嘩しているのではないかと疑ってしまいます。わざと家中を分断させているのか……」

 そう思ってしまう自分にも嫌悪している彼を見、冬姫は思うところあって、

「殿のお食事は私が作り、私が配膳し、私が運びます」

と決意した。

「まさか姫さま、家中をお疑いにございますか?」

 聞いた加藤次兵衛が青ざめた。

「家中には色々な所から出入りがありますから」

 家臣達だって、最近召し抱えた者は信用しきれない。小者や下働きに至っては、どこの馬の骨とも知れず、忍びもいるかもしれない。誰かに雇われた刺客が、何食わぬ顔で出仕していても不思議はない。

「殿は秋頃から徐々に悪くなられているのです。毒なら、微量の微毒を日々盛られ続けている可能性もあります。このような盛られ方なら、毒味役に何らの反応も顕れないでしょう」

 以後、冬姫の姿を必ず厨で見るようになったが、秀吉が遣わした医師が来ても、悪化する一方であった。

「主治医にのみまかせる……」

 忠三郎は他の医師を拒むようになった。

「何かご不審なことでもあるのですか?」

 冬姫が問う。

 秀吉が寄越した曲直瀬道三は、当代随一と評判だった名医の養父と同じ名を名乗っている。先代の曲直瀬道三はオルガンティーノを診察したことがあり、それがきっかけでキリシタンになった。

「殿下が遣わされたからでございますか?」

「……近江の佐々木一族とは申しますれども……」

 信用できるといえばできるし、疑わしいとも言える家柄ではあるが、家柄を理由にすることなどあり得るだろうかと冬姫は察して、

「まあ、ではお薬は?」

「飲みません。飲んでもよくならないばかりか、最近、かえって悪くなっているし」

 天下の名医の後継者でさえ、信じないのである。

 そうしているうちに年は明けて、文禄四年(1595)となった。

 忠三郎もいよいよ不惑の歳を迎えていた。最も脂の乗りきった、男の円熟期にようやく入った。これからである。

 九十二万石を領するばかりでない。官位も従三位となっていた。また、参議でもある。ついに公卿に列した。参議であるので、会津宰相とも呼ばれる。


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