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倚蘭操(上)

 秋風が昨年の忠三郎を癒やしたが、今年はどうも違う。夏の間は健やかであったのが、秋風とともに疲れやすくなった。

 どこがどう悪いというのではない。ややだるかったり、疲れやすかったりするのだ。

 寝込むほどのことはなく、通常の生活はできている。ただ何となく不調気味というだけである。

(気疲れだな)

 今年は戦がない。その代わりにしょっちゅう茶会や宴に招かれ、接待を受けたり、接待したり、気をすり減らすことばかり。

 労働による肉体疲労よりも、気疲れによる疲労の方が重くなる。

 それに、また秀吉が伏見の蒲生屋敷へ来るという。それに伴い、各大名や公家衆も多数招かなければならない。粗相なきように、細部にまで気を配って準備していたから、疲れてしまったのだろう。

 準備のため、伏見にいることが増えた。それも不調の原因かもしれない。

 冬姫もついてきてくれたのだが、時間ができたので、奥の彼女の部屋に行ってみたところ、仰天した。

 彼女の住まいの前庭は、藤袴だらけだったのである。

「何ですか、これは?」

 広廂から庭を眺める冬姫に話しかけた。

「あら、私の住まいは私の好きなようにして良いと仰いましたわ」

「いや、別にお好きなようになさって構いませんが、何だろうと思って、こんなに沢山」

 すると、冬姫は艶然と笑った。

「忠三郎さまが私を、藤袴の中に見つけて下さったと伺いましたので」

 それに、願掛けだと付け加えた。

 冬姫は夏の間に、各地から藤袴を取り寄せ、この庭に植えさせていた。

「まあ、草!」

 突然、声を上げると、庭に下りる。

 藤袴の群の中に、何本か雑草がつんつん伸びている。

「おっと!汚れます、おやめ下さい」

 冬姫が手ずから雑草を抜こうとするので、忠三郎が割って入った。

「私が抜いてあげますから──」

 そう言いながら、雑草を抜く。目に付いた五、六本を次々に抜いて、手についた土を払った。

「こういうことは庭師にさせて下さい。冬さまご自身でなさらないこと」

 忠三郎は半分呆れ、半分笑った。

 小姓が染み着いているのか、日本で三本の指に入る九十二万石の大大名になってもなお、まめな忠三郎は、大臣家の姫君である冬姫が除草するなど考えられないらしい。

「まったくどうしてご自分でなさろうとするのか」

「だって、蘭草を雑草と混ぜておくのは嫌ですもの」

 藤袴は蘭。王者の花。


──


習習谷風 以陰以雨

之子干帰

遠送之野 何彼蒼天

不得其所

逍遥九州 無所定処

時人闇蔽

不知賢者 年紀逝遇

一身將老


奏事傳青 閣払除乃

陶嘉散條

凝露彩含 芳映日華

已知香若

麝無怨直 如麻不学

芙蓉草空

作眼中花


蘭之倚倚 楊楊其香……


──


 蘭を高貴、高潔と最初に言ったのは孔子であろう。蘭は君子。孔子その人を表す。

 孔子は天下を巡行したが、ついに認められることはなかった。そして、祖国・魯に帰ってきて嘆いたという。

 ふと見ると、蘭が隠谷(幽谷)に雑草と混じって咲いていた。ひっそりと。誰の目にも触れられることなく。

 その姿が孔子自身と重なった。

 蘭──我は、王者の傍らにあって馥郁と香っているべきものだ。

 時運に恵まれず、世に出られず、雑草と共に野にある天下随一の才子。まさに王者そのものと言ってよい。それだけの人物が未だ世に埋もれている。

 世に埋もれたまま、このまま朽ち果てるのかと、老身の孔子は嘆いた。

 孔子は琴(古琴、七絃琴)をよくしたことから、琴は唐土の儒家、士大夫の重要な教養の一つとなったが、この時の嘆きを曲にしたものが『倚蘭操』である。日本では琴は平安時代後期に廃れてしまったが、譜だけは残っており、この曲の譜(碣石調幽蘭譜)は大変貴重な物として、大事に秘蔵されている。

 因みに、明では琴の絃を端の一番太いものから順に、第一絃、ニ絃、三……と称するが、この譜は古い時代のものなので、宮絃、商絃、角、徴、羽絃と称する。琴の創始は帝舜とされ、その頃は五絃であったので、五声を絃名にあてて宮、商……と称したのだが、殷周革命の頃、周の文王と武王が二絃加えて七絃となってからは、第六、七絃は文絃、武絃と称する。

 冬姫は風に揺れる藤袴を見つめた。

「蘭は百花の王者です」

 蘭は王。だから、蘭は雑草の中にあってはならないのだ。孔子と同じ嘆きを味わいたくはない。

「蘭──藤袴はとても貴いのですから」

「なるほど、冬さまは蘭でいらっしゃる」

(「隠谷の蘭」は孔子か。「蘭」は冬さまだが、「隠谷の蘭」は今の私でもあるな。私は未だ天下に手が届いていない。世に出ていない。だが、清らかに高潔に隠居するわけにはいかない。世に出られぬ不世出で終わることはできぬ)

「忠三郎さまが蘭です」

 冬姫は眼に強い光をたたえて、艶やかに微笑んだ。

「私は天下の座に就く──」

「はい。だから、雑草はいやなのです」

「ははは、だったら、庭師にやらせないで、私が自分で抜かないといけませんね」

 忠三郎は闊達に笑って、一本見つけた雑草を抜いた。

 久しぶりに顔色もよかった。

 ローマ法王から金冠を授けられてからまだそう日も経っていないが、忠三郎は秀吉を屋敷に迎える準備と共に、野望を叶える準備も始めている。

 まず、ローマ法王の意向をヴァリニャーノに伝えるべく、ニッコロのもとにいる貞秀にマカオへ向かうよう連絡した。また、前田家にいる高山右近に、伴天連や伊留満、武将達と連絡を取り合ってもらっている。

 あとは、ますます忠三郎が人望と実力を備え、逆に秀吉のそれを失墜させることだが──。

(朝鮮に大軍が出ている今だ。この大軍をうまく利用したいものだが──)

 忠三郎自身が朝鮮に出兵するには、どうしたらよいか。或いは、秀吉本人が渡海でもすれば、その留守に──。いずれにせよ、鍵を握るのは朝鮮に出兵中の軍勢ではなかろうか。

 秀吉を討つ方法は。戦か暗殺か。時は。所は。

 忠三郎の思考の日々は続く。

 そうした中、秀吉の訪問は伏見ではなく、京の聚楽第とは別の、新しい屋敷に変更になった。準備万端整えてあり、場所が変更になっても、さほど困りはしないのだが。

 非常に盛大な宴となった。客は八百人以上。

 忠三郎は接待に細心の注意を払わなければならなかったが、一度に多数の人と接することの叶う絶好の機会である。彼は一人一人に丁重に声をかけ、なるべく多くの人と接触するよう心掛けた。

 客たちは主の心尽くしと思ったであろう。忠三郎に好意を持ったかもしれない。だが、忠三郎は彼等の中から自分に従いそうな者と、敵対しそうな者とを見極めんとしていた。

 そうして彼等の間を回っていると、疲れを覚えてきた。頭痛さえしてきたが、忙しいと動けるものである。次第に疲れさえ感じなくなり、夢中で接客していた。

 すると、上段でふんぞり返っていた秀吉が、彼を呼んだ。忠三郎がその前に進み出ると、秀吉はその顔をじっと見つめる。

「飛騨、随分げっそりしておるのう」

「そうでしょうか」

「隈ができとるぞ。医者に診せたがよい」

「なんの、少々疲れたのでありましょう」

「じゃが、そちは去年病んでおる。大事にせんと」

 秀吉の目は珍しく本気である。だが、秀吉に心配される筋合いはない。それに、心配してくれるなら、放っておいてほしい。

(そなたに会うから、気分が悪いのだ)

 年明け早々上洛させられ、吉野に引っ張り出され、伏見の普請だの、やれ温泉だ茶会だのと、忠三郎は心落ち着ける間もない。もし、本当にげっそりしているのだとしたら、それは病み上がりの忠三郎を容赦なく引っ張り回した秀吉のせいだ。

「ちとわしも疲れたわい」

 別室で休みたいと秀吉は言った。忠三郎はあらかじめ設えておいた部屋へ、自ら案内して行く。

「ふう、疲れたの。そちもしばし寛げ」

「はっ、恐れ入ります。茶を差し上げとうございますが」

「ううむ、茶か。今は白湯の方がよいの」

「はっ、では」

 自ら立って行こうとする忠三郎に、

「そち自ら行くこともあるまい」

と秀吉は気遣いを言った。

 座って休んでいろというのだが、忠三郎は従わず、自ら立って、やがて白湯を運んできた。

「ほう、桜か」

 塩漬けした桜の花が浮いていた。ほんのりと芳香が立ち昇っている。秀吉は笑顔になり、それを飲み干した。

 夕方、上機嫌で帰って行ったが、秀吉はその夜、間に合わずに失禁したという。以前、そのようなこともあったが、湯治をして治していたのだが。

「殿下は朝鮮に出兵するなど、最近どうもおかしいと思っていたが、いよいよか?」

 秀吉の老害に喘いでいた人々は、秀吉が耄碌したと、噂し合った。


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