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人ならざるものの恩返し

作者: 虹彩霊音
掲載日:2025/10/10



夕方、仕事を終えた太陽が地平線の下へと姿を隠すころ。東雲 白夜は洗濯物を畳んでいる途中で玄関から何者かの気配を感じる。この時刻に帰ってくるのは弟の極夜くらいだが、もし極夜なら元気な声を出しながら帰ってくるはずだ。手を止めて、居間を出て、引き戸の隙間から外を覗く。


そこにいたのはやはり極夜だった。警戒する必要はなかったのはよかった。引き戸を全開に開けて出迎える。


「おかえり」


「ただいま……にーちゃん」


弟の視線は泳いでいて、明らかに落ち着きがない。いつもはきはきしている極夜にしては珍しい、とかなんとか考えていると何かを抱えているのに気がついた。


犬だった。


黒い毛皮は土に汚れ、怪我をしているのかほんのり赤い。左目は潰れこそしていないものの、裂傷が確認できる。


「その犬は?」


「帰る途中で、見つけて。ぐったりしてて、血だらけで、かわいそうで、その」


明らかに極夜はおどおどしていた。兄が怒るかと思っていたのだろうか。


「それで、その犬をどうしたいんだ?」


「このままにしてたら、きっと死んじゃう。この子が治るまででいいから、家に置いておきたいんだ」


「ああ。でも飼い主が居るかもしれないから、飼い主が見つかるまでな」


「やったー! よかったねワンタン!」


飼い主が居るかもしれないというのに、極夜はもう犬に名前をつけていた。でもこんなにも喜んでいる弟を見るのは初めてだから、まぁいいだろう。


「何か食べさせられるものないかな」


「野菜の残りしかないぞ」


残っていたキャベツを軽く水洗いし、細かく切り刻む。犬……ワンタンに差し出す、ゆっくりのそのそとキャベツに近づき、匂いを確かめるような動作をしたのち、ゆっくりではあるがもそもそと食べ始めた。


「よかった、食べてる」


「怪我もしているし、まともに動けるようになるまで休ませよう。ここには動物を診てくれる場所なんてないし」


ワンタンがキャベツを食べ終わったのを確認した後、ぬるま湯でワンタンの体を洗った。体毛に付着した土と血が洗い流されていく。手拭いで優しく拭った。


「なんか、綺麗だねこの子」


「案外金持ちのところかもな」


「でも道端で倒れてたよ? 人気のないところに」


装飾品の類のひとつも見当たらない。たまたま身綺麗なだけで誰にも飼われていない野良犬なのだろうか。それならそれで里親捜しが始まるだろう。動き回れるまで回復したら、里に出て飼ってくれる人を捜すしかない。


「にーちゃんもワンタン抱っこしなよ」


「……案外温かいんだな」


ワンタンは少しも抵抗しなかった。ただされるがままに白夜に抱かれていた。


「こんなのだけど、ベッドできたよ」


極夜が即席でワンタンのベッドを作る。段ボールにクッションを詰めただけの代物だが、ワンタンは何も文句を言わず、そのベッドの中で身体を丸め、眠りについた。



――――――――――――――――――



ワンタンが二人の家に来てから二日が経った。体力はすっかり回復したらしく、家の中を徘徊できるようになった。白夜は夕飯の用意をしながらその様子を見ている。


「よかったじゃん」


と、そこで突然ワンタンが玄関へと向かう。扉が開く音共に聞こえてくるのは極夜の声。


「ただいまー……え!?」


家事の手を止めて玄関に向かえば、そこには荷物を放ってワンタンのことを抱きしめる極夜の姿。


「わーい、治ったんだ! 良かったねぇー」


「おかえり」


「にーちゃん、ワンタンいつから元気になったの?」


「昼飯を食った後はずっと寝てたぞ。夕飯の用意をしていたらいつのまにか居た」


三人で飯をとり、初日と同じようにぬるま湯で洗ってやった。やはりワンタンは抵抗ひとつもしなかった。ワンタンの体を白夜が拭っていると、極夜があるものを取り出してワンタンの左耳につける。


「それは?」


「帰る途中で買ってきた! 犬用のイヤリング!」


「……ぶみぶみ」


すると、ワンタンが耳をぴくぴくしながら独特な鳴き声をあげた。ワンタンが鳴くところを見たのは初めてだった。


「もしかして、嬉しい?」


「ぶみぶみ」


「やった、買ってきた甲斐があったよ」


じゃれ合う二人を見て、白夜は思う。いずれこの時間にも別れの時がくるのだと。生き物を飼うということは、その生き物の生を責任持って見届けなければならない。極夜もそのことはわかっているはずだ、ワンタンを可愛がってくれる人は現れるだろうか。



――――――――――――――――――



ある日、異変は起きた。ワンタンがどこにも居ないのだ。


「にーちゃん、いた!?」


「家の周りには居なかった」


この家は少しボロい。玄関は施錠できるが、勝手口は完全に壊れていて施錠ができない。まさか、夜中に何者かが侵入してワンタンを攫った? そんな考えが白夜の頭をよぎった。


「いや、流石にそれはないか」


「ワンタン……」


「元気を出せ極夜、どこか放浪としてるだけだ。しばらくしたら帰ってくるさ」


白夜はわかっていた、こんな言葉気休めにすらならないことは。自分が無言の圧力から逃げたくて、こんな空虚な言葉を放ったなんてことは。


極夜の返事はない。その姿があまりにも痛々しくて、思わず『所詮は獣、恩知らずなやつ』と思いかけてしまった。


そこで白夜は思い出した。昨夜のワンタンの様子がどこかおかしかったことに。ただひたすら、窓の外を見つめ、時折り短く鳴いていた。それが因果関係につながるのかはわからないが、白夜はそのことを極夜に話した。しかし、極夜の元気が戻ることはなかった。



――――――――――――――――――



今日は比較的遠くまで捜索したが、ワンタンの姿はなかった。陽が傾いてきたころ二人は家に帰り着いた。


「ワンタン……どこにも居なかった……」


「……また明日捜そう。きっと見つかるさ」


と、気休めにもならない言葉を投げた時だった。白夜は机の上に一通の封筒が置いてあることに気がついた。


中から出てきたのは三つ折りにされた手紙。読みづらい文字ではあったが、読めないことはなかった。


内容は短く、すぐに理解することができた。つまり、あの夜はそういうことだったのかと白夜は理解した。


「なんて書いてあったの?」


白夜は説明せず、そのまま手紙を極夜に渡した。


「にーちゃん、これ!」


「お前の優しさ、ちゃんと届いてたみたいだな」


「にーちゃんのもだよ!」



 二人の人の子へ。


 まず、二人に秘密にしていたことがある。私はそこらに居るただの犬ではない。二人に伝えたいことがあって、こうして手紙を残している所存だ。


 最初はこの怪我が治ったら何事もなかったかのようにここを出るつもりだった。しかし、二人は怪我を負った私を看病してくれた。それはあまりにも薄情だと思ったから、せめて何か形にしようと思った。


 礼はしたいが、今は時間がない。これ以上家族を待たせるわけにはいかない。すまない、本当にすまない。


 二人ともありがとう、イヤリングは大事にする。



ここで文章は一度途切れた。数行の余白の後に書かれていたのは



 はじめまして。


 ここからは私の言葉で失礼します。まずは、うちの子を助けてくれて本当にありがとうございました。


 この子は特段頭がよく、人間の言葉は大抵理解することができます。二人がこの子にしてくれたことは犬の言葉がわかる友人を通して大方教えてもらいました。


 助けてくれたお礼も、帰らなければならない理由も言えないまま家を開けることを本当に申し訳なく思っていたらしいです。


 お二人には是非お礼をさせていただきたい所存です。私達の家は少し遠いところに建っていますが、後述する道を辿れば最短で辿り着けることでしょう。お二人のご来訪を心よりお待ちしております。


 光幻城当主代理:ライト



そうして綴られた手紙の最後には血印がされていた。


「……ワンタン、やっぱり誰かのペットだったんだ」


「……本当に別れることになるが、平気か?」


「ううん、大丈夫。この人優しそうだし、良い人に飼われてて良かった」


口ではそう言っていたが、明らかに声のトーンが低く、震えている。やはり、寂しいのか。そこで極夜は元気を取り戻すかのような声で


「それにしても、光幻城なんて初めてきいたよ。どこにあるんだろうね?」


「この道に沿っていけば良いんじゃないか」


「どんなところなんだろう、楽しみ」


極夜はそう言って涙を拭った。確かに光幻城というところかは気になる。しかし、白夜にとってそんなことよりも


「ワンタンに、会えるかな」


「ああ、きっと」


弟が多少なりとも元気になってくれたことが嬉しかった。





翌日、白夜と極夜は手紙に書かれていた地図を頼りに光幻城へ向かっていた。


「ねぇ、本当にこっちであってる?」


「地図はこっちだって言ってる。地図に書いてある通りの目印に従って歩いているから大丈夫だろう」


「それなら良いんだけど……なんか、おっかないっていうか……さっきからグルグル聞こえるっていうか……」


「………! 極夜危ない!!」


二人の目の前の叢から、一匹の巨大な熊が唸り声を上げながら襲いかかってきた。白夜は極夜を庇うように前に出る……その時



「グギャッ!!」



熊の短い悲鳴、そして骨が砕け肉が千切れる音。白夜と極夜や恐る恐る顔を上げる。血が流れ、かすかに痙攣している熊を踏むように、その少女は立っていた。


「……無事か?」


「あ……ああ、助かった。……君は?」


少女は、一礼する。少女から放たれる言葉は、妙に威厳があった。


「私は、光幻城当主のエニグマである」


「こ、光幻城の!」


「………あーっ!?」


極夜がエニグマを指差した。正確には彼女の左耳を。


「なんで、なんでそれをつけてるの!? それはワンタンにあげたやつなのに!!」


それを聞いたエニグマは、頭を掻く動作をした後ふっと息を漏らして口角をあげてこう鳴いた。



「………ぶみぶみ」




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