1. 前程万里①
(……帰りたい)
車の振動に揺られながら、憂鬱な表情を抑えることもせず、翠里は去っていく景色を眺めていた。
法律に則って着用しているシートベルトが、まるで翠里が逃げようと思うことさえも縛り付けているように感じられ、思わず溜息が出てしまう。
ポロン、と二つのスマホが通知を告げた。
「お、もう着いたのかな」
「ううん、まだ。鏡原さんがもうすぐで着くって」
父が運転する横で母がメッセージを確認する。
「楽しみだね」
「ね」
……全くもって楽しみでない。
ついにやってきてしまった日曜日、父の友達だとかいう人と初めて会う日。
月日は巡る。朝日は上る。新しい日はやって来る。
来てしまったものはしょうがない、と祖父と従兄弟達とラジオ体操をして、朝の散歩をして、好きなものをたらふく食べて、翠里は祖父母の家でやれることを時間の限り楽しんできた。
それでもやっぱり、不機嫌は直せない。
しかし、元来の翠里は思っていることが殆ど表情になって顕れてしまうとはいえ、普段は言われたことには素直に従う。こんなに不貞腐れて反抗することはあまりない。
何が彼女を頑なにしているのか。
「いつまでそんな顔してるの。いい加減直しなさい」
「陸くんもいつでも遊んでくれるって言ってたから、そろそろ機嫌直してほしいなぁ」
「だから陸は受験生だって」
「……」
翠里は、自分で思っているより従兄弟達、親戚みんなが好きだ。年上にはたくさん可愛がってもらっているし、年下はたくさん可愛がっている。
その中でも、翠里と五歳年上の従兄・陸は特に仲が良い。
八坂一族の孫世代は、陸までは香純と敦の子供である三人兄弟しかいなかった。大地と菜野の応酬は当時既に出来上がっていて、幼い陸は二人の間でおろおろするばかりだった。
そんな中での翠里の誕生。
初の従兄弟の誕生に三兄弟は沸いた。なんなら初の姪に香純と敦も沸いた。翠里はそれはもう可愛がられた。
それまで末っ子だった陸は、年下という未知の存在に積極的に関わった。翠里を巡った兄と姉の諍いの合間にも、漁夫の利とばかりに世話をした。たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん昼寝をした。翠里はその当時から、聞き分けのいい大人しい赤ん坊だったが、それでも年相応に泣いて笑って怒って、陸はその全部に根気強く親身になって接してきた。
こうして、陸兄大好きっ子が完成された。
「ねえちゃん、大じょうぶだよ、げんき出して」
「…………うん」
また、徹底的に「兄弟は仲良く」と仕込まれた結果見事どこからどう見ても仲の良い翠里と祐暉の姉弟関係も構築された。たまに小さな口論があるとしても、勾坂姉弟の仲は普段から本当に良好すぎである。
たくさん可愛がられたが、翠里は両親以外にも世話になることで様々な行儀や礼節も同時に叩き込まれたため、甘やかされて育つことはなかった。
しかし、こうも大切にされれば、家族が大好きになるのも必然である。小さい翠里は、週末のほとんどを祖父母宅か同じ敷地内の八坂宅で過ごし、小学生になってからは、月一回は必ずどちらかの家に宿泊するようになった。
そんな数あるお泊まり会の中でも特別なのが、昨日のような親戚が集まる日だ。
八坂家では兼業農家である祖父・豊の一声で、年に何回か農作業の招集がかけられる。例えば昨日、ゴールデンウィークに田植え、九月に稲刈り、十月に芋掘り、十二月に柚子とキウイ取り、不定期で草刈りや山掃除、などなど。その他に、年末年始やお盆、お彼岸等の年間行事の際にも集まる。
このような時は、祖父母と陸達の八坂本家、勾坂家だけでなく、香夜の妹家族・尺田家も加わる。
尺田家には、四歳と二歳の従妹、景と芽がいる。そして、彼女達の母・香織のお腹の中にも、もう一人従兄弟がいる。名前や性別はまだ決まっていないが、誰もがその誕生を心待ちにしている。
また、八坂家にはあと一人、末っ子の原がいる。
祐暉と同い年の彼も含めた従兄弟八人で、祖父母宅の広い部屋にぶっ詰まって寝る。夜遅くまでみんなでお喋りをして、朝遅く起きる。それぞれが好きな祖母の手料理を朝からたっぷり食べる。その後は一日中みんなで色々な遊びをする。
全員が集まる時のこの恒例行事が、翠里は何よりも好きだった。
そんな年に数回のイベントが一つなくなって、翠里はとても不機嫌になった。
(みんな今何してるのかな……)
翠里は、十キロ程離れた場所にある祖父母宅に思いを馳せた。
そしてまた憂鬱になった。
(……帰りたい)
着いてしまった。
「鏡原さんが入口らへんにいるらしいね」
「夕哉たちはまだだから、先に会っててって」
「いいの?」
「二人のとこはこの間ばったり会って、もう顔合わせ済んでるんだって」
父と母が何か言っている。翠里が理解したところによると、今から誰かに会うらしい。嫌だ。
「よし、行こうか」
父と母がシートベルトを外して車の外に出る。祐暉も出る。
翠里は諦めていないが逃げられないため、大人しく付いて行く。
「鏡原さんって、どんな人ー?」
全く人に物怖じしない祐暉は無邪気に聞く。
「うーん、そうだね。夕哉とはまた違った元気な人かな」
夕哉とは、剣持さんのことである。
今日は、剣持さんの御一家と鏡原さんと勾坂家で、河川敷の広場でバーベキューをする予定らしい。
バーベキューなら、翠里の中では今日、祖父母宅でみんなでやる心積りだった。毎年そうだからだ。
「牛肉食べたい!」
「朝ごはんで食べたんでしょ、ばあちゃんのやつ」
「うん、でも食べたい」
「野菜食べるならいいよ」
「…………」
翠里は嫌々連れて来られたのだから、好きな物をたらふく買い物かごに入れてやろうと目論んだ。
「うーん、いないね」
「入口らへんのはずなんだけどね」
鏡原さんの顔は父と母しか知らない。翠里は、自動ドア付近に立っている男の人達を見回していたが、どの人も当てはまらないみたいだ。
勾坂一家は、空いているスペースに寄って止まる。
母と話す父の隣で、翠里はなんとなく周りを伺って目ぼしい人を探す。剣持さんはとても明るい人だから、そんなイメージだ。
スマホを見ている人、駐車場の方を望んでいる人。
宝くじを買っている人を視線が通り過ぎた時。
やけにこっちを見て歩いてくる四人組に気付いた。
その集団は、おそらく家族で、翠里は全員の顔を見て驚いた。
キラキラしている。
道行く人々が思わずちらっと見て、少しの間目が離せなくなってしまうほどに。
それくらいに個々がハイクオリティだ。
「どうしたの、翠里」
その四人家族の長と見える男の人と目が合って微笑まれたため、翠里はおっかなびっくり目を逸らし、父の袖を引っ張った。
「あ、陽貴」
「え」
翠里に促されてそちらを見た父は、その男の人を見て、笑顔で手を振り始めた。
「???」
……あれ、どういうことだろう。
「アーサー!」
(……あーさー…………?)
父の名前は……旭。
「鏡原さん!」
「おう、ヤーさん!」
(……ヤーさん???)
翠里の頭にパツキンでグラサンでリーゼントの母が浮かぶ。
「その呼び方! なっちゃんも、久しぶり!」
「二人とも、久しぶり」
細い美人が喋った。
翠里は、何かおかしいと混乱している。
「そんで、その子たちがアーサーん家のか。前に会ったことあるんだけど……覚えてる?」
「…………」
「覚えてない!」
祐暉が元気よく答えた。
「だよなー!」
男の人は、わははと笑った。
「この人は、父さんと夕哉の友達で、鏡原陽貴っていうんだ」
「前にお店に来てくれて、その時に会ったことあるけど……翠里が小学校に上がってないくらいだったからね、覚えてないか」
翠里たちの母・香夜は祖母の光子と共に食堂を経営している。土曜日など保育園や学校が休みの日は、姉弟はその店奥の控え室で静かに過ごしている。
「そんで、この超絶美人さんが俺の奥さんな」
「鏡原奈月です。よろしくね」
超絶美人さんは、ふっと微笑んだ。美しい。
そして、翠里は先程から懸命に目を向けなかった方に立っている気配が動いたのを察知した。
見て見ないふりのように、極力気付いていない風を装う。
どうか、どうか翠里の中でいない存在のままでいてくれないだろうか。
「はじめまして」
冷や汗が出そう。
でも、話しかけられたため、礼儀としてそちらの方に恐る恐る顔を動かす。ギギギ、と音が鳴りそうだ。
怖い。怖いけど祐暉に格好悪い姿は見せられない。
「俺は、鏡原碧海。よろしくね」
(無理だよろしくできない他を当たってくれ)
目の前に、キラキラが立っている。
女に関する面倒事をたくさん引っ提げていそうな顔を持つ少年が、翠里の正面にいる。
「?」
微動だにしない翠里を少年は不思議そうに覗いた。
彼の妹と思われる美少女も、翠里をじっと見つめている。
祐暉も翠里の腕にくっついて心配そうに見上げている。
もしかして次は自分の番……? と周囲を伺おうとして、つい、ばちっと合ってしまった。
(あ、)
吸い込まれそうな瞳だ。光をいっぱい取り込んで、翠里までも取り込まんとしている。
(……はっ)
慌てて、逸らす。
そのままの勢いで、談笑している両親を向く。
キッと険しい表情で念を送った。
――こんなの聞いてない……!!
勾坂 翠里…9歳
勾坂 祐暉…6歳
勾坂 旭…37歳
勾坂 香夜…37歳
鏡原 碧海…10歳
鏡原 陽貴…37歳
鏡原 奈月…37歳
剣持 夕哉…37歳
八坂 豊…64歳
八坂 光子…64歳
八坂 敦…44歳
八坂 香純…42歳
八坂 大地…17歳
八坂 菜野…16歳
八坂 陸…14歳
八坂 原…6歳
尺田 香織…32歳
尺田 景…4歳
尺田 芽…2歳