1.魔王の弟子[挿絵]
【前章のあらすじ】
中学2年生に上がり、思わぬ形で世間に名を広めてしまったGandharvaは、音楽プロダクション・J-WORKの堀という男からコンタクトを受ける。”口出しプロデューサー”という奇妙な関係性を以て、彼女たちは本格的なバンド活動を始めることになる。
しかしそれは、人間関係の軋轢やメンバーへの劣等感など、ただ「楽しい」だけでは済まない苦難の道の始まりでもあるのだった。
晩秋、肌寒くなった季節の中、私は2時間電車を乗り継いで、単身ある住宅街を歩いていた。自分に足りないものと向き合うための旅だった。
私の目の前には、トラウマの巣窟となったあのレコーディングスタジオ『ダディロール』が聳え立っている。震える足にぎゅっと力を入れ、一人魔窟の中へと入ると、魔王が私を案内してくれた。
「じゃあ荷物はそこの部屋に置いといて」
「はい!」
魔王こと、強面のレコーディングエンジニア、蟹沢さんだ。勇者と呼ぶにはあまりに貧弱で臆病な私は、彼に立ち向かうどころか謙って挨拶をした。
「あの、今日はお時間を取っていただき、ありがとうございました」
「いや、勇気出して来たんだろうけどさ、うちはスクールじゃないのよ。堀さんにも言ったけど」
もう間もなくブッキングしたライブの日程が始まり、またバンド活動に忙しい日々がやってくる。その前にどうしても、私は蟹沢さんに会っておきたかったのだ。何しろ私に足りないものを最も多く知り、致命傷になるほど鋭く突っ込んでくれるのは、彼をおいて他には居ない。
私は堀さんにお願いして、蟹沢さんへコンタクトを取れるよう取り次いでもらったのだ。あわよくば鍵盤やアレンジについて色々と教わりたかった。かっこつけた言い方をすれば、弟子入り志願するつもりで今日ここに来たのだった。
これまで親切に私を指導してくれた栞乃愛ちゃんや泉海ちゃんも、本格的にバンド活動が始まった以上、自分の仕事に集中したいはずだ。これ以上足を引っ張ったり、手間を取らせたくはない。
バンド練習のない日曜日、私は無理を言って蟹沢さんに時間を作ってもらい、トラウマに立ち向かうべくレコーディングスタジオを訪れたのだ。
あのレコーディングを行ったコントロールルームに通され、私は蟹沢さんと向かい合う形でソファに掛けた。
「わ、私の先生になってください!」
どちらにしろ気の利いた話など私にはできないのだ。単刀直入に頭を下げて私はお願いした。蟹沢さんは困った様子で溜め息を吐きながら答えた。
「だから、俺キーボーディストじゃないし。音楽の先生でもないんだよ」
「それでも、たぶん教われることが沢山あるんです。レッスン代ももちろんお支払いします!」
「んなことしたら闇営業だろ。俺はここに勤めてんだから」
「お、お願いします……後生ですから」
「……」
私は頭を上げなかった。どんなに理屈で捻じ伏せられてもこのスタンスを変えるつもりはなかった。そのうち女子中学生に頭を下げて懇願されるという構図にバツが悪くなった様子の蟹沢さんは、態度を軟化させた。実をいえばそれも狙い通りだった。小賢しいだろうが、音緒ちゃんを少しでも見習っての打算的な演技でもあったのだ。
「……まずな、金払って教わったって、何も学べないんだよ。その時点でお客様になっちまうから。金ヅルに毒吐いて追い払う商売人はいない」
「……と、言いますと」
「金を貰いながら教わるんだよ」
「え、ええと、ごめんなさい、私頭が悪いので……」
蟹沢さんは理解力のない私に丁寧に教えてくれた。要はここで働きながら知識や技を盗んで学べというスタンスらしい。だが中学生を雇用するなんて出来ないし、そもそも私に出来るような仕事はここにはほとんどないだろう。だからあくまで「勝手に忍び込んで掃除でも手伝いながら聞き耳を立てているガキ」という体で、私がここに居座ることをスタジオのオーナーにも話してくれることになったのだ。
この際雑用でも何でも構わない。いわばそのバイト代がレッスン料と相殺されるようなものだと考えれば良い。というか実際は電車賃だけで大赤字なのだが、そこはライブの集客を頑張って少しでも黒字を出そう。何ともザルな皮算用だが、決意の表明ということにしておく。
その日から、私は不定期に蟹沢さんのいるスタジオを訪れるようになった。「勝手に盗め」というスタンスということだったが、手が空くと私の持っているパート譜を見て添削してくれたり、シンセエディットなど音作りの基本についてわざわざ教えてくれることもあった。
第一印象がとても怖い人だったからか、何だかとても面倒見の良い大人に見えてきた。一方で見かけによらず綺麗好きな性格でもあるようで、機材や床などの掃除が細かい部分まで行き届いていないと怒られることも多かった。その度に私は演技でも何でもなく、普通に怖くて泣きそうになるのだが、それに関してはいくら弱気な態度を取っても許してもらえなかった。いや、当たり前なのだが。
「考えることを止めるな。常に頭を回せ。掃除も音楽も何でも一緒だ。どうやったら効率よく掃除を終わらせられるのか。苦手な運指を克服するためにはどう練習したら良いのか。#や♭の多い譜面でもスラスラ読むためには、どんな風に考えるのが良いのか。要領の良い奴はそれをいつも無意識に続けてる。答えを知らなくても、問題の解き方を知ってるんだ。お前は頭の回転も遅いし、バカ寄りかもしれない。でも考え続ける癖があるのは良いことだ。あとはそれをくよくよ無駄な心配事に使うんじゃなくて、未来に繋がることに使うようにしろ」
彼が教えてくれたこの言葉は、音楽や掃除に限らず、その後の私の生き方を支える大きな指針になった。自分の頭や要領が悪いことを受け入れた上で、常に考え続けること。どうしたら一歩でもみんなに追いつけるのか。精神論じゃなく、実際に次に自分がするべき行動の一挙手一投足を吟味するのだ。
「だから、鍵盤はこっち向きに立てかけるなって言ってんだろうが!」
「ひっ! ごめんなさい……」
もちろんその選択を間違えることもあり、その度に私はきつく怒鳴られる。私は学校などでも大人しく、目立つようなことはしないから、ほとんど人に怒られたことなどなかった。怒られ慣れていない分、突き刺される言葉のひとつひとつにいちいち魂を削られるような気持ちになる。
だがそれも含め経験値にするのだ。考えた末の失敗なら、きっと価値もあることだろう。
*
「……ねえ、なんで私なの?」
「一番向いてるじゃん。泉海しっかり者だし」
「栞乃愛とかの方がしっかりしてるじゃない!」
「そんなことないよ、泉海の方がしっかりしてる。副部長だし」
「栞乃愛! 押し付けようとしてるでしょ!」
ある日の部室で、泉海ちゃんは1冊の通帳を持たされ、メンバーみんなに囲まれていた。
このほど、チケットの売上が黒字になりそうな見込みが立ったため、バンド用に銀行口座を開設することになったのだ。その管理者を誰にするかという会議で、多数決により泉海ちゃんが選ばれることとなった。最も堅実で真面目で、悪いことには使いそうもない。信用の塊のような泉海ちゃんこそ相応しいだろう。
ついでにこれまた皮算用だが、CDが売り上がればそれも収入になる。業界事情的には売れたとしても入金されるのは何ヶ月も先のことらしいが、準備しておくに越したことはない。
またたとえ未成年でも、収入が多くなれば確定申告も必要となる。泉海ちゃんのお父さんは自営業の建築仕事なので、その辺りの知見も持っていることだろう。などと、栞乃愛ちゃんは持ち前の知識をなんとかこじつけてGandharvaの勘定方を泉海ちゃんに押し付けようとしていた。泉海ちゃんは文句を言いながらも、無事丸め込まれてしまった。
「よし、じゃあリハやろう!」
通帳を手に立ち尽くす泉海ちゃんも顧みず、バンド練習が始まった。年末から年明けにかけて、私たちはこれまでにない大規模なライブ巡業を予定していたのだ。
これまでは地元近郊のライブハウス数ヶ所を回るだけだったのだが、今回は県外へ飛び出し、1都6県を網羅する各地のライブハウスへとブッキングを組んでいた。もちろん私たちだけではそんな広範囲のライブハウスは調べきれない。そこで堀さんの力を借り、有力且つ私たちの雰囲気にマッチしそうなハコを見繕ってくれたのだ。活動も波に乗ってきたところで、堀さんの意向により応募するライブハウスも中々出演ハードルの高い場所に絞っていた。
だがそれでも、クオリティの高いCD音源にテレビ出演という箔まで付いたことで、私たちが応募したライブハウスの出演審査に落ちることはなかった。それどころか、ネットから広がった話題のおかげで、初めて行く遠いライブハウスでも、チケットの予約が次々と埋まっているというのだ。
実際に目にしないことには実感も湧かないが、沢山の知らない人が私たちを見に来る。それ相応の演奏を見せなければならないのだ。散々練習してきた曲でも油断はできない。セットリスト自体はほとんど固定のようなものだが、何しろ何ヶ所ものライブハウスで演奏を披露することになる。それでいて初めて見る人にとってはその1回が私たちの印象になる。メディア出演同様、1度たりとも恥を晒すわけにはいかないのだ。
私は気合を入れてリハーサルのセッティングに臨んだ。
「あれ? みちる、それ買ったの?」
「ううん、お借りした」
「誰に?」
「師匠」
「……ししょう?」
蟹沢さんのところへ通っているのは私の独断なので、みんなにはちゃんと伝えていなかった。そして相変わらず自分で機材も買えないのは情けない限りなのだが、それを見兼ねて師匠こと魔王こと蟹沢さんは、私物のキーボードを私に無償で貸してくれたのだ。「本職のパートじゃないから大したモデルではない」と言っていたが、Roland製のそのキーボードは、今の私には手に余るほどのグレードだと思う。
いつだったか泉海ちゃんが自分のレスポールを買ってきたとき、私だけ古い安物モデルを使っていて、それが分相応なのかもしれないと卑屈になっていた。
だがいざちゃんとした機材を持ってみて思う。そのグレードの楽器に相応しいレベルの奏者になるために、私たちは必死で頑張れるのだと。製造した人にも、貸してくれた蟹沢さんにも、一緒に演奏してくれるメンバーや共演者、そして見にきてくれるお客さんにも、恥ずかしくない演奏ができるようにと。
今年の冬休みは、ライブ巡業で年末年始も忙しくなりそうだ。まだ見ぬ共演バンドやライブハウス、そして各地のお客さんに会うことへの期待と不安を混じらせ、私たちは入念なリハーサルを重ねていた。




