2.バンドのきっかけ[挿絵]
夕方頃、私たちは音緒ちゃんの自宅へと赴いた。ライブに誘われるや否や、その日のうちに予習&鑑賞会が発案され、すぐさま実行されたのだ。まさかあの泉海ちゃんが音緒ちゃんの家を訪ねる日が来るなんて、本人を含め誰も想像だにしていなかったことだろう。
「ただいまー」と言いながら自分で玄関の鍵を開け、音緒ちゃんは私たちを一軒家の自宅に迎え入れた。
そういえば私は、生まれてこの方一軒家というものに入ったことがない。今は和室6畳1Kのボロアパート、小さい頃もそれほど広くない2DKのマンション住みだったから、とても新鮮な気持ちだ。
音緒ちゃんの家は大豪邸というわけでもないのだが、それでも私にとっては途轍もなく広いお屋敷に見えてしまった。
ひとつ気になったのは、もう夕方だというのに、門灯も室内の明かりも全く点いていなかったことだ。どうやら今この家は私たち3人だけの貸切状態らしい。
はじめは広い室内にわくわくしていた私だったが、広いだけあって、次第に空虚な室内は物悲しく見えてきた。心なしか音緒ちゃんの表情も、いつもより少し曇っていたような気がする。
「うちね、お父さんもお母さんもお医者さんだから、忙しくてあんまり帰ってこないんだー」
そう言った音緒ちゃんは、いつになく寂しそうだった。顔は笑おうとしていたが、何か必死に溢れ出てくるものを抑えようとしているような、そんな言い方だった。
そういえば昼間にもお母さんは仕事でライブに行けないと言っていた。彼女によれば、2人ともとっても面白くて優しくて、大好きな両親らしい。でもだからこそ、ずっと会えなかったり、甘えたいときに甘えられなかったり、それが辛いのだろう。
音緒ちゃんは直接弱音を私たちに吐き出すことはしなかったが、そんな彼女の心情は簡単に想像がつく。
彼女が学校であれだけ積極的にコミュニケーションを取ろうとする原動力も、この家庭環境に根差しているのかもしれない。そう考えると、泉海ちゃんにも少し思うところがありそうだ。
何はともあれ、音緒ちゃんの部屋でJust Bird鑑賞会は始まった。
音緒ちゃんの部屋は散らかっているわけではないものの、とかく物が多かった。隣の部屋にある書斎には、立ち並ぶ本棚やCDラックにコレクションが堆く積み上げられている。そこから今気に入っているものだけを自分の部屋に置いているのだそうだ。
Just Birdに関しても当然シングル・アルバムともに全種揃っており、滅多にメディア露出しないという彼らの貴重なテレビ出演シーンの録画や、雑誌でのインタビューなどもずらり。さすがの泉海ちゃんもそのマニアぶりに慄いていたが、これらのグッズはお母さんが集めたもので、音緒ちゃん自身はお母さんの趣味に影響を受けただけだという話を聞いて、何故だか少し安心していた。
「あ、次の曲とかすごい人気だよ!」
「ああ! これ聴いたことある! 小学校の給食の時間に校内放送で流れてた!」
「へえー。センスいいね、みちるの学校の放送委員」
「もう! ここのフレーズがいいのに被せて喋ってたら台無し!!」
鑑賞会は夜まで続き、私は2人の熱狂的なファンにああでもないこうでもないと、あらゆるJust Bird情報を叩き込まれた。
それまで音楽などまともに聴いたこともなかった私だったが、彼らの曲は自然と耳に馴染んできた。優しい歌声に、絵本のような世界観、色彩感あふれる音色で、彼らが人気なのも頷けるというものだ。
そしてなにより、友達の家に3人集まってわいわい遊ぶ、同年代の子達にとってはごくごくありふれた日常なのかもしれないが、私にとってはそれも初めての体験。とても幸せな時間だった。
*
来る土曜日、私たち3人は電車で一路、彩京ニューアリーナを目指した。私は電車に乗るのもおよそ初めてで、不安でしょうがなかった。だがそんなことはお構いなしで相変わらず言い争いを続ける音緒ちゃんと泉海ちゃんに、ある意味頼もしさすら感じていた。
「わーすごい! 駅の端からもう次の駅が見える! うちの近くとは大違いだね!」
「矢継さんって来るの初めてなの?」
「うん。実はライブってもの自体、はじめて」
「なにそれ! すごい玄人感出してたくせに!」
「出してないでしょそんなの! 楽しみなだけだもん。そういう泉海は?」
「……はじめてだけど」
「ええ……」
そんなこんなで無事私たちは会場の最寄駅まで辿り着いた。
会場に近づくにつれてJust BirdのリストバンドやライブTシャツなど、いかにもな格好をした人々が周りに増えていき、その度に私たちの期待も高まっていった。
いざ会場に着くと、既に長蛇の列が会場の周りをぐるりと囲んでいた。入場を待つ列にグッズ販売に並ぶ列、まだ開場までは1時間以上あるというのに、ファンというのは恐ろしいものだ、とそのとき私は戦慄していた。
そして開場の時間、私たちも長い長い列に並んで、何とか入場することができた。席はアリーナ中央、2つ目のブロックの前方だった。けっこう遠い、がそれよりも、会場のあまりの広さ、そしてそれを埋め尽くす観衆、さらにはそれだけの環境が既に整っていながら、まだ開演までには1時間もあるということに、ライブというのは恐ろしいものだ、とそのときも私は戦慄していた。
ライブが始まる前から、既に私はけっこうな体力を消耗してしまっていたのだが、場内の照明が消え、入場のSEがかかると、さらにライブの恐ろしさを思い知らされることとなる。
まず音があまりにも大きい! これでは何の曲がかかっているのかすらわからない! しかもSEの音量に負けじと、客席からも大きな歓声があがる! いよいよメンバーがステージに上がってきたぞ! これにはさすがの私も、そしてもちろん音緒ちゃんも泉海ちゃんもボルテージMAXだ! っと、あれれ? なんだか後ろからすごく押されるぞ? さっきより5歩くらい前に来た! これならさっきよりだいぶ近くにステージが見え……いや見えない! おかしいぞ? みんなさっきより身長がずいぶん高くなって……わわわ! 地震か!? いや違う! みんなが飛び跳ねているんだ! 右手を挙げながら飛び跳ねている! これでは、身長150cmにも満たない私の身体では、ステージが見えない! 曲が始まったぞ! うわっ! みんなさらに前に押し寄せてくる! ぐえっ! 苦しい! このままでは潰されてしまう! 人の海に溺れてしまう! あれ? 音緒ちゃんと泉海ちゃんはどこだ? わからない! はぐれてしまった! どうしよう……あっ! この曲知ってる! なんか隣のおじさんも大声で歌ってる! これでは本人の歌声が聴こえないぞ! どうしよう……あっ! 音緒ちゃんと泉海ちゃんいた! よかった! あ、なんだか2人とも見たことないような表情してる……
色々な意味で呑まれてしまった私を待つこともなく、あっという間に曲目は進んでしまった。ときには所謂コール&レスポンスというのか、観客に曲の1フレーズを歌わせるようなこともあった。ほとんどの曲をうろ覚えだった私にとっては、まるで勉強していない科目の抜き打ちテストを受けているような気分だったのだが、「ラララ~♪」だけのところはここぞとばかりに大声で歌った。
そして曲目がひと通り終わり、アンコールで再びメンバーたちがステージに上がるや否や、「新曲、やっていいですか」とのギターヴォーカルのMC。このときの音緒ちゃんと泉海ちゃんの表情といったら、今日一、否、私と出会ってから一番、目をキラキラ輝かせていた。
*
圧巻のライブも終わり、激混みの上り電車に詰め込まれながら、私たちは鳴り止まない耳鳴りと、筋肉痛の予兆を感じていた。とにかくものすごい迫力で、言葉では言い表せない類の感情が芽生えていた。
東京を過ぎ、疎らになった乗客たちと一緒に、下りに変わった電車に揺られる。感動の余韻、疲れ、色々と理由はあったが、私たちは電車内ではひと言も交わさなかった。
やがて私たちの住む最寄駅に到着し、駅から1歩出たところで、突然目を覚ましたかのように、音緒ちゃんは言った。
「私たちも、バンドやろう!!」
衝動的な思いつき、何の根拠もない発言に、私も泉海ちゃんも呆れていた。しかしこのひと言が私たちの今後の人生を大きく変えるということを、まだ誰ひとり知らなかった。




