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恨みの殻を破る時  作者: 沖 元道
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第五章 恨みの殻

 早紀は、自宅の部屋の床に伏せて泣いている。

「早紀さん」

 早紀は、自分の名前を呼ばれて顔を上げた。「あ、あなたは……」

 目の前にユウスケが立っている。

「花岡は、さきほど霊界にやってきました。非道な行いをした者は、幽霊として人間界に姿を現すことはできません。ですから安心してください」

「あなたは、花岡さんと、どういう関係なのですか?」

「私も、早紀さんと同じように、生前、花岡茂にもてあそばれた犠牲者です」

「どういうことですか?」

 ユウスケは、説明を始めた。

 花岡は、深い恨みに苦しんでいる人の表情を見て快感を覚える性癖があり、その性癖を満たすため、いくつかのバーのマスターと結託している。バーのマスターは、客の中で恨みを抱えている人間を見つけると、花岡に連絡することで謝礼を得ているという。

「ユウスケさんは、どんな恨みを抱えていたのですか?」早紀は、まだ涙で濡れている目をユウスケに向けて尋ねた。

「人にお話することではないと思いますが、早紀さんを苦しめることになってしまったので、正直にお話します」

 ユウスケは自分の過去を語り始めた――。


 ユウスケは、アユミという女性と深く愛し合って婚約もしていた。しかし、アユミはある日突然ユウスケに別れを告げた。ユウスケは理由を尋ねたが、アユミは「もうお付き合いすることはできません。私のことは忘れてください」と繰り返すだけだった。ユウスケは、都内の部屋から姿を消したアユミを見つけるため、アユミの実家を探し出し、監視を始めた。数日後、アユミが実家から男と出てきた姿を発見した。アユミの両親も玄関でその男を見送っている。

 ユウスケは、自分を捨てたアユミに対する恨みが募り、連日のようにバーに入りびたりマスター相手に恨み話をしながら酒を飲んでいた。ある日、花岡に声をかけられ、ラウンジに通うようになり、茉莉子と感情的に恨みを語り合うことで、ユウスケのアユミに対する恨みはどうしようもないくらい膨れ上がっていった。

 深く激しい恨みに心を支配されたユウスケは、ある日、ナイフを隠し持ってアユミの実家に向かった。アユミの実家のすぐ近くまで来た時、ユウスケはたまたま走ってきた暴走車にはねられ、救急車で病院に運ばれたが命を失った。

 幽霊となったユウスケは、恨みを晴らそうと思い、アユミの家に向かった。

 ユウスケが窓の外から家の中を覗いてみると、アユミはベッドに横たわったまま、壁に貼ってあるユウスケの写真を見て泣いている。

「アユミ。ユウスケさんに本当のことを言わなくて、後悔はしないの? 今からでも連絡した方が良くないかい?」アユミの母親が尋ねた。

「ユウスケさんは、とても心の優しい人だから……」アユミは、涙で声を詰まらせている。「本当のことを伝えたら、深く悲しんで、きっと……」

 ユウスケがしばらく見ていると、医者が入ってきた。その医者は、以前アユミと共に実家から出てきた姿をユウスケが見かけた男だった。

 ユウスケは窓の外から観察を続け、アユミは自分が不治の病に罹ったことを知り、ユウスケに理由を言わずに別れを告げ、実家で両親と医師に見守られながら最期の時間を過ごしている、という本当の事情を知った。

 実家に籠りきりになっているアユミは、ユウスケの死を知らない。

「私はもうすぐ天国に旅立ちます。ユウスケさん、どうか別の女性と幸せに暮らしてください。天国からユウスケさんを静かに見守ることを楽しみにしています」アユミはそう言うと、両親と医者が見守る前で静かに目を閉じた――。


「僕の話は以上です」ユウスケは小さな声で言った。「僕の愚かさを笑ってください」

「とても笑えるようなことではありません」早紀は、真剣な表情で答えた。

 ユウスケは少し沈黙した後、再び話し始めた。

「僕は、自分と同じような犠牲者が出ないよう、花岡の動きを連日観察していました。そして、早紀さんが花岡の新たな標的になっていることを知ったのです」

「それで、私のところに現れたのですか?」

「はい。でも、花岡のことを説明しても、早紀さんには理解できないと思い、とにかく、恨みというのは意味がない、ということを伝えようと思いました」

「それで、母の霊を呼び出したり、萌への恨みを代行したりしてくれたのですか?」

「はい。しかし、僕の思いとは異なり、早紀さんは、かえって恨みを深くしてしまいました」

「ええ。そうですね。一生恨みから逃れられないと感じて、深く落ち込みました……」

「恨みから解放されるためには、厚く固い恨みの殻を破る必要がある、と僕は言いましたが、それは簡単でないことは分かっていました。自分にもできなかった……でも、早紀さんには、いつか恨みの殻を破ってほしい、と心から願っていました」

「そうでしたか……」

「実は、萌さんの近況を報告した際、事実を一部省略していました」

「どんなことですか?」

「萌さんの夫はパリに住んでいる日本人女性と浮気をしています。萌さんはもうすぐそれを知ることになります。二人の間には、大変大きなトラブルが生じることでしょう」

「そうなんですか……」

「このことを伝えていたら、早紀さんは、自分の恨みが萌さんに通じたと勘違いするのではないかと思い、伝えなかったのです」

「……」早紀は少し考えこんでから静かな口調で答えた。「確かに、萌の不幸な出来事を聞いていたら、私は勘違いしていたかもしれませんね……」

「理解していただき、ありがとうございます」ユウスケは深く頭を下げた。

「ユウスケさんは、私のためにいろいろと心配して、支援しようとしてくれていたのですね。ありがとうございました」

「そう言っていただけると、助かります。私にできることはすべてやり切りました。いつかきっと早紀さんが恨みの殻を破る時がくる――と信じています。今は厚くて固い殻かもしれませんが、それを破って、幸せな人生を歩んでください」

 そう言うと、ユウスケは消えていった。


 翌日の昼過ぎ。

 早紀の携帯電話に、幸二から電話がかかってきた。

(この間は突然約束をキャンセルしてすみませんでした)

「そんなこと気にしないでください。お父さんが亡くなられたのですから」

(今週のどこかで、夕方食事をする時間はありませんか?)

「対面の授業ですよね? 今週は今日と明日は空いています」

(じゃあ、今日の夕方でいいですか?)

「はい。じゃあ、これから急いで授業の準備をしますね」

(いえ、授業はいりません。実は、僕はホテルのコンシェルジュの仕事を辞めました。イタリア語を習うのも止めます)

「え? そうなんですか?」

(詳しい話をあとで聞いてもらいたいと思っています)

「分かりました」

(じゃあ、レストランの予約をとったら、メールで連絡します)

 

 夕方、早紀は幸二とレストランのテーブルで食事をしている。幸二は、これまでと変わった様子はなく、笑顔でコンシェルジュをしていた際の面白い経験談をし、早紀は時々声を上げて笑いながら話を聞いている。

 食事を終え、デザートも食べ終えて、早紀は幸二に尋ねた。

「どうしてコンシェルジュを辞めてしまうのですか? いろいろとお話を聞かせていただきましたけど、とても充実していて楽しんでいたように思いましたけれど」

「僕にとって辛い思い出の仕事になってしまったからです」幸二は急に深刻な表情に変わり、早紀を見つめた。「そのことについて、少し話を聞いてもらってもいいですか?」

「ええ、もちろん。聞かせてください」早紀も真剣な表情で幸二を見つめ返した。

 幸二は、自分の子どもの頃の話から始め、父に対する深い恨みを持つに至った経緯を説明した。それから、世界物産展の初日に父を見かけたこと、その後、兄から連絡があり、父が誘拐されたことを知ったこと、誘拐された父から直接自分に電話があったこと、父への深い恨みを抱えていたこともあり、自分では何もせず兄に任せていたこと、そして、結局父は殺害されたこと、を早紀に話した。

「僕は、深い恨みを抱えていて、正しい判断をすることができず、結果的に父を見殺しにすることになった。人間としては最低の男だと思う……」

「そんなことないわ……」早紀は、私も恨みの辛さはわかる、と言いかけたが、言葉を呑んだ。

「大沢さんは、恨みになんて縁がないでしょうから、恨みに囚われている僕を見ると、なんて愚かな奴だと思うでしょうけれど、僕は、今回、初めて自分の愚かさを痛感したんです」

 早紀は沈黙したまま、幸二の目を見つめている。

「つまらない話を聞いてもらって、申し訳なかったんですけど、大沢先生に一つお願いしたいことがあって、この話をしました」

「何ですか?」

「実は、誘拐された父との電話のやり取りを録音したのですが、その最中に、父が犯人と外国語で話をしている部分があって、何を話しているか分からなかったのです。それを、大沢先生に聞いてもらって、もし、分かれば教えてもらいたいのです」

「分かりました。聞かせてください」早紀は、バッグからメモ帳を取り出しテーブルに置いた。

 幸二は、携帯電話に録音しておいた電話の音声を再生した。

 早紀は、じっと耳を澄ませ、メモ帳に書き込み始めた。

「もう一度いいですか?」早紀は、一度聞き終えてから言った。

 再び、早紀は真剣な表情で耳を澄ませた。

「お父さんと犯人の会話は、タガログ語です」二度目の再生を聞き終えた早紀は、顔を上げ、幸二の目を見て言った。

「相手はフィリピン人ということですね」

「はい」

「何を話していたのですか?」

「犯人が、『何故長男に電話しないで、次男に電話するのか』と、お父さんに尋ねています。『次男は、お前とは縁を切っているはずだ』と、別の男の声も聞こえます。それに対してお父さんは、『長男は小さなことでは要領は良いが、大きなことを判断する能力はない。その点、次男は大きなことを判断する能力のある男だ』と言っています。それから犯人が、『金を用意できるのは長男のはずだ。もう電話を終えろ』と言っています。お父さんは、『次男が最後の頼みの綱だ』と言っています。犯人とお父さんの会話は、それで終わりです」

 早紀の話をじっと聞いていた幸二は、聞き終えると大粒の涙を流し始めた。そして、人目をはばからずに大声を上げて泣き始めた。

 レストランの他の客が、幸二と早紀を振り返って見ている。

「ありがとうございました」三十秒ほど大声で泣き続けた幸二は、すっきりした表情で早紀を見た。

 早紀は、幸二の赤く腫れた目をじっと見つめている。

「僕が泣いてしまい、恥ずかしい思いまでさせて、すみませんでした。店を出ましょう」

 幸二はスッと立ち上がり、会計を済ませると、レストランを出てから、早紀に言った。

「ありがとうございました。大沢さん、これからも語学教室の先生として頑張ってください」

「もう一軒、このビルのどこかでお酒を飲みませんか?」早紀は、幸二に尋ねた。

「ありがとうございます。でも、今日は帰りましょう。僕は気持ちも少し晴れましたし、これ以上、こんなつまらないことで、大沢先生の貴重な時間をいただくのは申し訳ないと思いますので」

「何がつまらないと言っているの?」早紀は、突然、語気を強めた。

「僕の恨みや苦しみなんて、大沢先生にとってはつまらないことじゃないか、ということですが……」

「私も聞いてもらいたいことがあります」

「どんなことですか?」

「私の恨みや苦しみです。つまらないから、聞きたくないですか?」

「いえ、そんなことはありません……」

「じゃあ、あの店に入りましょう」早紀は、出たばかりのレストランと同じフロアーの向かい側にあるワインバーを指差した。

「分かりました」

「時間はかかりますけど、最後まで付き合ってくださいね」

「もちろん」

 二人はその後、ワインバーで深夜まで語り合った。


 一週間後。

 早紀と幸二は、幸二の自宅のマンションの部屋で一緒に夕食を取っている。

「今日、警察から電話があって、犯人を逮捕したらしい。あの電話の音声も、捜査の役に立ったと言っていた。早紀ちゃんのお陰だよ。本当にありがとう」

「良かったわね。お父さんに対する幸二さんの気持ちが、天に通じたのだと思うわ」

「それと、兄も密貿易の容疑で逮捕されたらしい。父の会社も倒産することになるだろう」

「それは残念だけれど、仕方がないことよね」

「僕は、父のように世界を股にかけて活躍できる貿易商になるよう、これから心機一転、必死に頑張る。もちろん、密貿易は絶対にしないけどね。早紀ちゃんも一緒にやってくれると言ってくれて、本当に心強い。ありがとう」

「世界中のどの国でも任せて。私が通訳してあげるから」

 二人は、夕食後、そろってマンション一階のコンビニに入り、イチゴショートケーキのデザートを二人分買って、コンビニを出た。

 その瞬間。

「死ね!」茉莉子が叫びながら、刃物を持って早紀に襲いかかってきた。


 一か月後。

 東京郊外の遊園地で、幸二と早紀は、ジェットコースターの先頭車両に並んで座っている。

「覚悟はできた?」早紀が笑顔で幸二に尋ねた。

「いや、まだだ」幸二は、緊張して顔がこわばっている。

「これに慣れれば、バンジージャンプだってできるわ」

「そんなもの、絶対に嫌だ」幸二は両手でしっかりと座席の前のバーにつかまっている。

 幸二の右腕には、茉莉子の襲撃から早紀を守った際にできた傷の跡がまだ残っている。

 ジェットコースターが動き出し、ゆっくりと急坂を上り始めた。

「わくわくするわね」早紀は笑顔で話しかけた。

「……」幸二は無言で下を向いている。

 ジョットコースターは、頂点でいったん止まり、それから一気に急降下した。

「きゃー!」早紀は、歓喜の悲鳴を上げた。

「うわー!」幸二は、恐怖の悲鳴を上げた。

「きゃー! あっはっはっはっ」早紀は、悲鳴を上げながら笑っている。

「うわー! うおー!」幸二は、悲鳴しかでてこない。

「きゃー! やっほー!」早紀は、悲鳴を上げながら流れていく景色を楽しんでいる。

「うわー! うううっ」幸二は、悲鳴を上げながら俯いている。

 空中回転や垂直落下を繰り返すジェットコースターの中で、恨みの殻を破り始めている早紀と幸二は、ぴったりと寄り添っている。

 早紀は歓喜の絶叫を、幸二は恐怖の絶叫を、心の底から思い切り上げ続けている。


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