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恨みの殻を破る時  作者: 沖 元道
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第二章 恨みの代行

 行きつけのバーで三杯ほどカクテルを飲んだ後、深夜一時過ぎに早紀は自宅に戻ったが、目が冴えてなかなか眠れない。暗い部屋の中で横になっていると、恨みが再び蘇ってきた。

 暗闇の中に母と萌の姿が浮かび上がり、二人とも嬉しそうに笑ってこちらを見ている。

 早紀は二人を睨み付け、「許せない!」と大声で叫ぶと、二人の姿は消え、元の暗闇に戻った。

「どうして私ばかり……」

 早紀はそうつぶやき、悔し涙が出そうになったが、目を強くつぶり必死にこらえた。静けさの中で目覚まし時計の秒針の乾いた音だけが耳に入ってくる。

 その時、部屋の空気が動く気配を感じた早紀は、目を開けた。

 ベッドの横に、白い上下のスーツを着た男性が立っている。

「誰?」早紀は驚いてベッドの上に起き上がり身構えた。

 暗闇のはずだが、その男の回りだけはぼんやりと明るくなっている。結婚式の新郎か、歌謡ショーの司会者のような格好で、年齢は不詳だ。

「私は幽霊です。名前はユウスケと言います」男は笑顔で優しい口調で答えた。

「幽霊? ユウスケさん?」

 早紀は夢を見ているのかと思ったが、右手で左腕をつねると痛みを感じた。

「何で幽霊が私の部屋にいるの? 私は恨まれるようなことは何もしていないわよ!」早紀は怒った表情になり、苦情を言うような口調で言った。

「はい、それはよく分かっています」ユウスケは笑顔で答えた。

「じゃあ、来る場所を間違えたのね?」

「いえ、私は早紀さんが、母親や妹のことを強く恨んでいるということを知り、ここにやって来たのです」

「どうしてそんなことを知っているの?」

「ある人から聞きました」ユウスケは相変わらず笑顔であり優しい口調だ。

「ある人って、誰?」

「早紀さんが知らない人です」

「それで、何の用があるの? 私に……」

「早紀さんは直接恨みを伝えたいのではないかと思い、お母さんの霊をお呼びしました」

「何ですって?」

「今、ここにお呼びします」

 ユウスケの隣に、亡き母親の姿が現れた。

「ママ!」早紀は驚いたが、懐かしそうに呼びかけた。

「早紀も元気そうだね」母は笑顔だ。「ところで、私に何か恨みがあるって聞いたけれど、どうしたの?」

「ええと……」早紀は、母の真っ直ぐな問いかけに対して、言いよどんで沈黙した。

「何もなければいいわ。じゃあ元気でね」

 母がそう言って去っていきそうになったので、早紀は思いつめた表情で言った。

「いえ、あります」

「何?」

「ママは、いつも萌ばかり可愛がって、私には厳しかった」早紀は真剣な表情で母を見た。

「そうだったかしら? 気のせいじゃない?」

「いえ」

 早紀は、子供の頃の出来事をいくつか思い出しながら伝えた。

「こんなふうに、ママはいつも萌ばかりを可愛がっていた……」

「そんなことあったかしら?」

 早紀は、母が亡くなった後の家事の苦労話もした。

「萌は、家事を何もやらず、やりたいことだけやって、高校や大学も楽しく過ごし、大きな会社に就職して、すぐに結婚して、今は夫婦でパリで暮らしている……それに比べて……」早紀は、少し涙を滲ませながら訴えた。「私は、これまで何度も仕事が変わり、今でも一人暮らしなのよ」

「お父さんは萌の方を可愛がっていたのかもしれないわね。でも、それは私のせいじゃないから」母は、早紀の訴えを全く意に介さないかのように、あっさりと言った。

「……」

 早紀が沈黙しているのを見て、母が言った。

「まだ何か言いたいことがあるの?」

「いえ……」早紀は、涙が滲んだ目で母を見つめた。

「じゃあ、私、いろいろと忙しいから行くわね。早紀も頑張ってね」

 そう言うと、母の姿は消えた。

「十分に恨みを伝えることができましたか?」ユウスケが早紀に尋ねた。

「私の恨みや苦しみを全然分かってくれていない……」早紀はうなだれている。

「そうですか」

「こんなに恨んでいるのに、それが伝わらないなんて……どうすればいいの……」

「早紀さんは、妹の萌さんにも恨みを抱いているようですから、萌さんへの恨みは、私が代行しましょうか?」

「恨みの代行?」早紀は顔を上げて、ユウスケを見て尋ねた。「どういうこと?」

「人間というのは、恨むことで膨大な時間やエネルギーを無駄にするだけでなく、恨みに囚われていると大きな失敗をしてしまいがちです。そんな人生を送るのは、馬鹿げていると思いませんか?」

 早紀は黙ったまま大きく頷いた。

「そこで、幽霊である私が恨みを代行することで、早紀さんは恨みから解放され、生き生きとした人生を送ることができる、ということです」

 早紀は、俯きながら少し考えていたが、顔を上げてユウスケに尋ねた。

「でも、白いスーツ姿で穏やかな笑顔のあなたは、深い恨みを抱えた幽霊とは思えない。それで、恨みの代行なんてできるのですか?」

「恨みを代行する時には、それに相応しい姿に変えます」

「どんな姿ですか?」

「こんな姿です」

 ユウスケは一瞬姿を消し、再び現れた。

 髪はぼさぼさで、着ている白い古びた着物は乱れ、顔は歪み、目は異様な光を放っている。

 早紀はぞっとして身震いした。

「とても恐ろしい姿ですね」

 早紀の言葉を聞き、ユウスケは再び消え、元の白の上下のスーツ姿で現れた。

「では、私が恨みを代行するということでよろしいですか?」ユウスケは笑顔で尋ねた。

「でも、その代わりに魂をいただきます、って言うのじゃないでしょうね」

「はっはっはっ。それは、悪魔の話ですね」ユウスケは右手を左右に振りながら答えた。「私は幽霊ですから、そんなひどいことはしません」

「私に不利なことは何かないの?」

「ありません。ご安心ください。幽霊としての社会奉仕活動だとご理解ください。ただ、一つだけ条件があります」

「えっ? 何?」

「私が恨みを代行している間は、早紀さんは恨みを完全に忘れてください。早紀さん自身が恨んでしまうと、私の代行との間で衝突が起きてしまうからです」

「……何か良く分からない話だけど……それはできそうね」早紀はユウスケの目をしっかりと見ながら言った。「分かりました。お願いします」

「それでは、四、五日経ったら、恨みの代行の状況報告をするため、また訪問します」

「分かったわ」

「では、また」

 ユウスケは姿を消し、部屋は静かな暗闇に戻り、目覚まし時計の秒針の音が、早紀の耳に入ってきた。

 気持ちが落ち着いた早紀は、すぐに深い眠りに落ちた。


 翌朝、早紀はすっきりと目覚め、ベッドの上に起き上がり、周囲を見回した。

――あれは、夢じゃなかったはず……幽霊のユウスケさんが、私の恨みを代行してくれると言ったので、私は確かにお願いした……。

 窓のカーテンの隙間から朝陽が差している。

――私が恨みを思い出して、ユウスケさんの代行に支障が出るようなことがあっては大変。萌への恨みは完全に忘れなきゃ。母への恨みも一緒に忘れよう。

 早紀は立ち上がり、カーテンを勢いよく開けた。眩しさで一瞬目を細めた早紀は、目が明るさに慣れてくるにつれて、心の中も明るくなってくる気がしていた。

――恨みの代行を頼んで本当に良かった。とても幸せな気分。

 早紀は、今まで経験したことのない心の軽さを感じ、わくわくとした気分になっていた。

――もう、恨みの発作もなくなるに違いない。そうすれば、私がこれまで続けてきた努力もきっと報われるんだわ。

 早紀は、壁にかけた鏡を覗き込むと、明るい笑顔になっている自分が映っていた。

――今日は日曜日だから、久しぶりに洋服でも見に行こうかしら。

 早紀は、鏡の前でくるりと一回転してから、「よし!」と声を上げ頷いた。


 二日後。

 早紀は、日曜日に新調したばかりピンクのワンピースを着て、朝早くに東京都内のホテルにやって来た。このホテルの大会議場では、今日から四日間の日程で『世界物産展』が開催されることになっており、早紀はその会場で通訳として仕事をすることになっている。

「大沢先生ですね?」

 ロビーで不意に声をかけられた早紀は、驚いて振り向いた。

「ああ、あなたは……」早紀は、若い男性の顔を見て、オンライン語学教室の生徒の一人であることはすぐに分かったが、一瞬名前が出てこなかった。

「イタリア語を習っている、金村幸二(こうじ)です」幸二は笑顔で答えた。

「こんなところでお会いするとは……驚きました」

「僕は、このホテルでコンシェルジュをしています」

「そうだったんですか」

「英語とドイツ語はできるのですが、さらにイタリア語を身につけようと思って」

「金村さんは、上達が早いと思っていたけれど、こういうお仕事だったのですね」

「先生は、世界物産展の通訳ですか?」

「そうなんです」

「では、頑張ってください」

「ありがとうございます」早紀は、軽く会釈をして三階の会場に向かった。


 幸二は、コンシェルジュのデスクに戻って、仕事を再開した。

――あっ、あれは……。

 幸二は、ロビーの人込みの中にいる一人の中年の男に目を止めた。

――間違いない。親父だ……。

 幸二の頭には、父との思い出が蘇ってきた――。


 幸二の父は貿易商をしている。父は、小さい頃から兄の幸太郎(こうたろう)ばかりを可愛がり、幸二には冷たかった。そして、四十歳の時に、長年連れ添った妻を捨て、浮気相手であった当時二十三歳の(まい)と再婚した。その時、兄の幸太郎は十八歳、幸二は十五歳であった。

 幸二は、激しく父を恨み、心の底から継母を憎んだ。一方、幸太郎は、相変わらず父に可愛がられ、舞とも上手く付き合い始めた。

 現在、幸二は二十九歳であるが、大学卒業後の七年間、父とは一度も会っていなかった。幸太郎は父の会社で働いており、父は幸太郎を自分の会社の後継者として育てていた。


 夕方、世界物産展の参加者が一斉に会場を出てロビーに流れてきて、ロビーは混雑している。

 幸二が人込みに目を向けていると、早紀の姿を見つけた。早紀は一人の外国の男に何かを言われ続けており、話の内容までは聞こえないが、困っている表情のように見える。

 幸二は、さりげなく近づいて、早紀の背後から二人の話を聞いた。言葉はイタリア語であることが分かった。その男が早紀を食事に誘っている、ということも聞き取れた。

 早紀は、イタリア語で断っているが、男はしつこく誘い続けており、早紀の連絡先も聞き出そうとしている。

 幸二は男に歩み寄り、習いたてのイタリア語で話しかけた。

「お客様。何かお困りですか?」

「何も困っていない」男は幸二を一瞥してから、再び早紀の方を見て話し始めた。

「彼女は僕の友達です」幸二は再び男に言った。

「それがどうした? 僕も彼女の友達だ」男はうるさそうに幸二を見た。

「僕はとても親密な友達です」幸二はさらに言った。

「僕もだ」男は全く動じる気配がない。

「僕は、彼女と来月結婚することになっています」幸二は思い切って大胆なことを言った。

「は?」男は肩をすくめると、不機嫌そうに立ち去っていった。

「ありがとうございました」早紀は笑顔で幸二に礼を言った。

「僕のイタリア語はどうでしたか?」

「とっても上手でした」

「あのイタリア人はしつこそうでしたね」

「そう、とても困っていたところだったの」

「今日は終わりですか?」

「はい。物産展は金曜日までで、あと三日間あるので、また明日もまた来ます」

「頑張ってください」

「ありがとうございます」

「あの……今度、都合が会えば、対面で授業をお願いしてもいいですか?」

「え?」

「無理でしょうか?」

「いえ……私はやったことがなかったので……でも、いいですよ」

「ありがとうございます。じゃあ、次のオンライン授業の時に、日時や場所を相談させてください」

「分かりました」

 早紀は、笑顔で会釈をし、エントランスに向かって歩き始めた。

――金村さんは、ちょっと私の好みかも。

 早紀は、ユウスケに恨みを代行して以来、心も軽く幸せな気持ちになっている。

――もしかすると、良いことが起こるかもしれない。恨みを自分の中から追い出すと、代わりに幸せがやって来るような気がする。

 早紀は、エントランスまで来て立ち止まり、振り返った。幸二が外国人を相手に仕事をしている姿を見て、早紀はにっこりとほほ笑んだ。


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