美人なんて、もう真っ平御免だったのに…!
今度生まれ変われるなら綺麗な人に生まれたかった。
そんなこと願うんじゃなかったと心底後悔したのは、伯爵家の令嬢を筆頭としたお嬢様方に真冬の倉庫に閉じ込められた時だった。
凍えるほどの寒さに震えながら倉庫の片隅で膝を抱えて助けを待っていた私は、朦朧とする意識の中で不意に思い出した――――自分がこの生を受ける前に、貧しい平民の娘カトレアだったことを。
***
父親を早くに亡くした私は、病気がちな母親を養いながらわずかな稼ぎで食いつないでいた。
花屋での宅配の仕事だけでは足りず、捨てる前の花を善意でもらってポプリに加工したものを街頭で根気強く売ってお金を稼いでいた。
そんな毎日は十五歳になったばかりの私から気力も体力も奪っていった。
寒さと水仕事で荒れた手はひび割れて動かすだけでも激痛がはしった。
毎日が生きるのに一生懸命で、自分が疲れ果てているという自覚もなかった。
そんなある寒い日のことだった。
いつも立っている場所に、小さな青い鳥が雪に埋もれているのを見つけた。
死んでしまっているかと思った鳥はわずかに息をしていた。
可哀想に思ってかじかむ手で包み込んで温めてあげると、青い小鳥は少しだけ元気になった。
お昼に食べようと朝ご飯の残りのパンを持っていたことを思い出して、カチカチになったパンを小さくちぎって鳥に食べさせた。
ありがとう、と言うように「ピイ」と小さく鳴いた小鳥を懐に入れてポプリを売りはじめたけれど、悪天候のせいで人通りもほとんどない街角でポプリなど売れるはずもなく、一個も売れないうちに夕方になってしまった。
その日は運悪く花屋の宅配の仕事もほとんどなかった。
これじゃ、パンも買えないわ。
私は家で待つ母親の姿を思い出して、もう少しだけ頑張ってみようと明かりが灯りだす町を歩き出した。
布の靴を履いていたけれど、靴の底や側面から雪の冷たさが伝わってくる。
冷たいを通り越して突き刺すような痛みを感じた足は、一度歩みを止めるともう一歩も踏み出すことができなくなっていた。
その場から動くこともできずに蹲る。
誰も通らない路地は静まり返っていた。
建物の間と間を吹き抜けるヒューヒューという風が寒さを一層際立たせる。
寒い。冷たい。痛い。おなかすいた……。
ふと向こうの通りを一組の親子が身を寄せ合って歩いていくのが見えた。
子供の方――同じ年ごろの女の子には見覚えがあった。私がポプリを売って街頭に立っていたように、彼女はマッチを売って歩いていた。毎日顔を合わせていたが、ある日を境に姿を見なくなった。
どうやら裕福な家の養子になったらしいと知ったのは、それからしばらく経ってからのことだった。
私たちのような貧しい子供が生きていくためには、手に職をつけて働くか私のように何かを売って稼ぐしかない。養子なんて、よほど容姿や体格に恵まれた子供しかなれない。外見も体格も平凡以下な私には縁のない話だった。
本当は手に職をつけられればもう少し稼ぐこともできたのだけど、その場合は職人に弟子入りして住み込みで働かなければならなかったため断念した。
貧しくても、病気がちな母親のそばにいたかったから。
結局、私に残されていたのはこうしてポプリを売って歩くことだけだった。
「……プリ……いか……すか?」
ポプリいかがですかという言葉すら唇がうまく動かなくて言えなかった。
ようやく見つけた人も、自分に気がつくことなく行ってしまった。二人分の足音が遠ざかって静寂が戻ってくる。
待って。待ってよ。
残る力を振り絞って一歩踏み出そうとした私は、雪に足を取られて真っ白な雪の中に背中から倒れ込んだ。
ボスッという音とともに視界の端に雪が映った。結構深く沈み込んでしまったようだ。
仰向けで倒れたまま雪の降る空をぼんやりと眺める。
私の好きな星空は分厚い雲に覆われて見ることはできなかった。
だんだんと意識が朦朧としてくる中、ふと懐に動くものを感じた。
小鳥を入れたままだったことを思い出してそっと出してあげる。
踏みつぶしてしまわなくて本当によかった。
「ごめ……ね」
震える手を空にかかげると、青い小鳥は「ピイ」と小さく鳴いて羽ばたいた。
そのまま飛び立つかと思った鳥は、私のお腹に着地してピョンピョンと軽やかな足取りで私の顔の近くまでやってきた。
首を少し持ち上げると、「どうしたの?」とでもいうように青い小鳥の黒い瞳が私のことを見下ろしていた。
「だめ……。はやく……いか、なきゃ……」
凍えちゃうよ。
首を持ち上げているのも辛くなって、力なく仰向けに横たわる。
だんだん意識がぼんやりとしてきた。
このまま眠ったら楽になれるかしら。そんなことが頭をよぎった。
でも、私が死んだらお母さんはどうなるの?
お母さん……。
あばら家で横たわる痩せ細ったお母さんの顔を思い浮かべて、さっきの通りかかった親子を思い出した。
せめてあの女の子くらい可愛かったら、私の人生は変わっていたかもしれない。
お母さんを大きな病院に入れてあげることだってできたかもしれない。
今度生まれ変われるなら、綺麗な人だったらいいなぁ……。
ぼんやりとそんなことを思いながら、私の意識は闇にのまれた。
***
カトレアの死後、私はどうやら生まれ変わったらしい――――願い通り、誰からも愛されるような恵まれた容姿をもって。
伯爵家にカトリーナ・エルバレとして生まれた私は家族に愛されて何不自由なく育ち、貴族の通う学園に入学した。
そこで待ち受けていたのは、壮絶ないじめだった。
まさかこの恵まれた容姿のせいでいじめられるとは思いもしなかった。
原因は自分というよりは、自分に好意を抱いてしまった男子生徒によるものが多かった。
なぜ婚約者がいるのに、私を口説きに来るのか。
ある者は真実の愛を見つけたと囁き、またある者は婚約を破棄するから自分と結婚してほしいと迫ってきた。
そのせいで女生徒やその婚約者から妬まれるようになったのは言うまでもない。
たぶん、私の婚約者が決まってなかったことも大きい。
私の両親は娘を大切にするあまり、急いで結婚相手を決めることはせずに候補選びに余念がなかった。両親曰く、少しでもいいところにお嫁に行けるようにということだった。
貴族にとっての結婚なんて家同士のつながりを作るためのものであって、自分で結婚相手を決められるわけではないでしょうに。
かといって波風を立てたくなかった私は、男子生徒からの好意を適当に受け流していた。
そんな曖昧な態度も余計にまずかったと気がついた時には、もうすでに手遅れな状態だった。
学園に入ったらお友達を作ってキャッキャウフフな学園生活を楽しむつもりだったのに、どうしてこうなってしまったのかしら。
ことの発端は同じクラスの伯爵家のご令息クライス様が私に言い寄ってきたことから始まった。彼は同じクラスに婚約者であるマリアンヌ様がいるというのに、人目もはばからずに私に付きまとった。
クライス様はきらめく金髪に青い瞳をしていて、目鼻立ちの整った顔をしていたことから他のご令嬢からの人気も高かった。
そんなクライス様の婚約者であるマリアンヌ様も彼に引けを取らないほどの美人で、伯爵家のお嬢様方を率いるような人だった。
マリアンヌ様の婚約者への想いは深く、クライス様に心酔している彼女は彼が私に言い寄っているのは『私が彼を誑かしたからだ』という取り巻きの言葉を容易く信じてしまった。私なにもしてないのに。
そうして迎えた十五歳のある冬の寒い日に、事件は起きた。
前日、教室でクライス様からマリアンヌ様と婚約解消をするから僕と婚約してほしいと言われた。よりによってみんながいる前で。
あまりのあり得なさにくらりと眩暈を覚えた。
もちろん断った。彼が言い切る前に、語尾がかぶるほどの勢いで即行お断りした。
クライス様はどうして私が断ったのか理解できないという顔をしていたが、私はそれよりも彼の肩越しに見えたマリアンヌ様の青ざめた表情に目が釘付けになった。
マリアンヌ様はよほどショックだったのか、ふらふらとおぼつかない足取りで教室を出ていかれた。
彼女の取り巻きが何人か後を追って教室を出ていく。
私もすぐにそれを追いかけたかったけれど、しつこく食い下がってくるクライス様のせいで追いかけることは叶わなかった。
そうして迎えた翌日、私はマリアンヌ様の取り巻きに呼び出されて人けのない倉庫に閉じ込められた。
外から鍵をかけられてしまったようで、鉄製の重い扉はびくりともしなかった。
格子のはめられた小窓をちらりと舞う影が見えた。
雪だわ。
道理で寒いわけだ。
少しでも暖を取ろうと、手をこすり合わせて身を縮める。
寒い。寒すぎる。
そして、この身を切る寒さのせいで前世のことを思い出したのだ。
「はは……私もバカね……どうせ願うなら『綺麗な人』じゃなくて、『幸せな人生』とかにすればよかったのに……」
自嘲した呟きと共に白い息が吐き出される。
ああ、寒い。
だんだん考えがまとまらなくなってきた。
ふと外から鉄のドアが叩かれるような音が聞こえた。
それは不規則に何度も。
誰かが助けに来てくれたんだろうか。
私はかじかむ手を必死にドアに向かって伸ばした。
「…………たすけて……」
けれど、ドアは開かれることはなく、私の意識はそこで途切れた。
***
そして、今世。カトレア・グロッシー 十五歳。
なんの因果か、最初と同じカトレアという名前で平民の家に生まれた私は再び前世の記憶を思い出した――――真冬の冷たいの池に落ちた瞬間に。
ちなみに落ちた原因は嫌がらせだ。あちらはまさか私が池に落ちるとは思ってなかったみたいだけど。
三日三晩高熱にうなされ生死の境をさまよった。ようやく熱が下がったと思ったら、今度は自分の顔を見て卒倒した。
美人なんてもう真っ平御免だったのに。
鏡に映る艶やかな金髪に鮮やかな碧の瞳をした自分の姿をみて絶望した。
そう。私は今世でも恵まれた容姿で生まれてしまっていた。
そして、またしても通っていた学園でいじめにあっていたのだ。
思い出される陰湿ないじめの数々に、自分の顔を見るだけで動悸がするようになってしまった。
このままじゃダメだ。転校しよう。
転校して、一からやり直すんだ。今度は絶対目立たないようにしなきゃ。
私は自分の容姿を隠すために瓶底眼鏡をかけて長かった髪を肩まで切り、地味な服を着るようになった。
瓶底眼鏡は優秀だった――眼鏡をかければ自分の容姿を隠すだけでなく、視界が歪んで自分の顔も相手の顔も直に見ないですんだから。
こうして、私は心の平穏を手に入れたのだ。
私の変わりように家族も周囲も戸惑ったけれど、私は自分の意思を変えるつもりはなかった。
でも、いくら自分の容姿を隠しても地元の人は『昔の私』を知っている。
学園デビューするには地元から遠く離れた知り合いのいないところにしなければならなかった。
私は猛勉強をして、王都にある全寮制の学園に編入を果たした。
ガリ勉少女・カトレア・グロッシーの誕生である。
***
編入して半年。
ガリ勉キャラで通した結果、周りから陰キャラだと認定されたらしい。
前世でも今世でも放課後ともなると見目麗しい男子生徒からひっきりなしにお誘いを受けていたのだが、編入してからはそれがない。
彼女と別れるから付き合ってほしいと付きまとわれることもなく、女子から恨まれることも妬まれることもない。
煩わしさのない放課後はとても快適だった。
一つ誤算だったのは、同性からも敬遠されてしまったということだ。
正直、学園に入ったら同じクラスの子と放課後の買い食いとかしてみたかったのに、つきあいが悪いと思われたのか全く声をかけてもらえなかった。
キャラ設定ミスったわね、と気づいた時にはもう遅かったのは言うまでもない。
でも、幸いなことに大人しい感じの女の子が多いグループに入れてもらうことができた。
本当の自分はもっと色んなことにチャレンジしてみたいと思っていたけれど、目立って目をつけられたらたまったもんじゃない。
もういじめには遭いたくない。
私はここで地味だけど平穏な学園生活を送るって決めたんだから。
私は特にやることのない放課後を図書室で過ごすようになった。
寮に帰ってもやることもないし、町を散策するのも一人ではすぐに飽きてしまった。
編入して半年もすれば、だんだん顔見知りが増えていく。
図書室には私のように時間を持て余した人、勉強を頑張る人、課題に追われた人が集まって、それぞれ思い思いの時間をすごしていた。
話したこともないのに不思議といつもの顔ぶれに親近感が湧いてくるから不思議だ。
そのせいあってか、近頃知り合いができた。
「やぁ、カトレア。君も調べもの?」
声をかけられた方向に顔を向ければ、青みがかった銀髪に瓶底眼鏡をかけた少年が立っていた。
彼はフィル・サムウェル。
同じ学年で隣のクラス。放課後を同じように本を読んですごすうちに仲良くなった読書仲間だ。
「うん。植物図鑑を探してるの。フィルは?」
「僕は鳥類図鑑」
ちょうど私の背後にある本棚に動物系統の本が並んでいるらしい。
私は植物関係の、彼は鳥類関係の本を探しながら背中越しに小声で話す。
せっかくだから借りて外で読まない? とフィルが提案してくれたので、私も二つ返事で目的の本を借りて中庭に出た。
木陰になっているテーブルに向かい合わせで座ってしゃべるわけでもなく読書にふける……特に会話もないのに気まずくもならないこの時間が、私は結構気に入っている。
「そういえば、カトレアは花が好きなの? よく花の本を読んでるけど」
不意に話しかけられて本から顔を上げる。
フィルはテーブルに頬杖をついて鳥の描かれた図鑑を眺めながらページをめくっていた。フィルは時折こうしてふらっと声をかけてくる。
私も同じように花の絵に視線を落としてふらっと答える。
「どうだろう、好きなのかな? 昔よくポプリを作っててね……あの頃はこれが何て花だったのかもよくわかってなかったなって。だから、今度はちゃんと調べて作ってみたいんだ」
「ふぅん」
「…………フィルは鳥が好きなの?」
「うーん……どうかなぁ……」
「なによ、それ」
「君だって似たような答えだったじゃないか」
「それもそうね」
言われてみれば確かに。
代わりに花は好きかと聞いてみれば、フィルは本に目を落としたまま答えた。
「うん。美味しいから好きだよ」
「………………うん?」
「あ。いや、甘い匂いがね、美味しそうだなって」
「私の話、ちゃんと聞いてた?」
「き、聞いてたよ! その……ちょっとお腹がすいてただけで」
なかなかに苦しい言い訳な気がする。
必死に言い訳するフィルがちょっと可愛らしくて笑ってしまった。
「フィルって意外と食いしん坊なのね」
そういえば鞄にチョコレートを入れていたことを思い出してフィルに差し出せば、彼は肩まで伸ばしっぱなしになっていたボサボサの髪をかいて照れたように笑った。
それから私たちはお互いに好きな食べ物の話をして、今度放課後にクレープを食べに行く約束をした。
それをきっかけに、私たちは時間が合う日は放課後を一緒にすごすようになった。
***
そうして編入して一年ほどが過ぎたある日、それは起きた。
放課後フィルと一緒に歩いている時に、廊下の角で同じクラスのロバート君と出合い頭にぶつかった。
衝撃でロバート君の持っていたペンケースが落ちて中身が散らばった。ころころと転がったペンが私の足元で止まったので、それを拾いあげてロバート君に差し出した。
「ごめんなさいっ! 大丈夫だっ……た?」
ペンケースを拾い上げたロバート君と目が合って、彼は私を見て固まった。
そして、私も彼の顔を見た瞬間に固まった。
とても整った顔立ちをしていたからだ。
短い金髪に澄んだ空のような青い目をした爽やか系イケメンというやつだった。同じグループの子がかっこいい男子の名前を挙げていた時に彼の名前も出ていた気がする。なるほど、たしかにかっこいい。
無意識に顔に手をやれば眼鏡が外れていた。道理で視界がクリアなわけだ。
久しぶりに見る端正な顔に、心臓が嫌な音を立て始める。
気がつけば、私は拾い上げたペンを取り落として逃げるように走り出していた。
背後に「カトレア!」と呼ぶフィルの声が聞こえたけど、私はかまわずに腕で顔を覆って走り続けた。
人けのない校舎裏で蹲って動悸が治まるのを待つ。
どうしよう、眼鏡忘れてきちゃった。
あとは帰るだけだったとはいえ、素顔をさらしたまま寮には帰りたくなかった。
時間を置いてから取りに行くしかないかと思って膝を抱えていると、目の前に眼鏡が差し出された。
レンズの厚みが半端ない瓶底のような眼鏡。
差し出してくれた相手を見上げると、フィルだった。
「カトレア。眼鏡、ないと困るだろ?」
「…………ありがとう」
呆然と受け取って眼鏡をかければ、視界が歪んで見慣れた世界が戻ってきた。
ようやく落ち着きを取り戻して立ち上がった私は、はっと気づいてしまった。
フィルに顔を見られた!?
嫌な汗がぶわっと吹き出るのがわかる。
恐る恐る震える口を開いた。
「フィル……見た……?」
「見たって、何を?」
「か……」
『顔を』と言いそうになって、フィルがいつも通りに接してくれているのに気づいて言葉を止める。
フィルも眼鏡をかけているし、もしかしたら私の顔もよく見えなかったのかもしれない。
うん、きっとそうに違いない。
自己完結して、何でもないと首を左右に振った。
懸念していたことは次の日から始まった。
今まで向こうから関わったりすることのなかったロバート君が、やたらと私に付きまとうようになったのだ。
これには参った。
移動教室があれば一緒に行こうと誘ってくるし、ロバート君が私に話しかけるたびにそれまで彼がかまっていた女子からは冷たい視線を向けられるようになった。
ああもう! こうなると思ったから顔を隠してたっていうのに。
今のところ私の素顔のことは他の人には言っていないようで、みんなどうしてロバート君のようなイケメンが私のことをかまうのか理解できないようだった。
なんとなくクラスに居づらくなって、放課後になるとすぐに図書室に逃げ込んだ。
結構広い図書室なのに、フィルはいつも私のことを見つけてくれて、外に出るのを嫌がる私を無理に連れ出すことはせず、前と変わらずに向かいの席で本を読んですごしてくれた。
フィルのそばは不思議と安心できた。
なんでだろうと考える。
あれかしら、瓶底眼鏡のせいかしら。
分厚いレンズのせいで、フィルのことも薄ぼんやりとしか認識できていない。
じっと向かいに座るフィルのことを見ていると、ふと顔を上げた彼と目が合った……ような気がした。
「なんか今失礼なこと考えてなかった?」
「!? か、考えてない!考えてないよ!」
「ほんとにー?」
「ほんとホント! フィルのそばが落ち着くのって、その眼鏡のせいかなって思ってただけで」
「…………それ、眼鏡が僕の本体だって言ってる?」
「言ってない! 言ってないってば!」
慌てて否定すれば、彼は気を悪くした様子もなくいつもと同じように笑ってくれた。
そんな何気ないやりとりが今の私にはありがたかった。
***
それから二週間ほど経ったある放課後のこと。
そそくさと図書室に向かおうとした私はロバート君に腕を掴まれた。
いきなりの彼の行動が理解できずに困惑ぎみに声をかける。
「あ、あの……ロバートくん?」
「カトレア! 今日こそ逃がさない!」
がしっと腕を掴まれたまま教室の外に引っぱり出される。
ひえっ……なに!?
そのまま校舎裏まで連れてこられると、いきなりその手を放した。
勢いのまま校舎の壁に背中を打ちつけて顔を顰めると、ロバート君はすかさず壁に左手をついて逃げられないように退路を塞いだ。
ロバート君は空いている方の手で私の眼鏡をひょいっと取って放り投げた。
カシャンと音がして眼鏡が地面に落ちる。
「あっ……」
慌てて拾おうと地面に伸ばした手を掴まれて壁に押しつけられる。
冷たくて硬い壁に押しつけられた手が痛い。
ロバート君の顔を睨みつけると、昔私に言い寄ってきたクライス様と同じような青い目をしていて恐怖で体が震えた。
「なぁ、俺とつきあえよ」
「いっ……痛……」
「この俺の誘いを断るとか……ないよな?」
「は……はな……して……」
まともに顔が見れなくて俯きながらに抗議したものの、私の口からは情けないほど小さな声しかでてこなかった。
怖い。
体がすくんで震えが止まらない。
俯いていた私の顎のクイッと持ち上げられて無理矢理上を向かされる。
狂気の滲んだ目が私を見下ろしていた。
怖い怖い怖い。
はくはくと声にならない声で助けを求めた。
たすけて……。
その瞬間、私とロバート君の間に誰かの手が割り込んできた。
その手は私の顎を掴んでいる方の彼の手首を掴むと、思いっきり捻り上げた。
「いでででででで! おい、何しやがる!」
ロバート君が顔を向けた方に私も顔を向ければ、そこにはいつものボサボサな髪をさらに乱したフィルの姿があった。
「何してやがるはこっちのセリフだよ! カトレアに乱暴するな!」
「おいおい、いつも一緒にいるからっていい気になるなよ!」
「別にいい気になってるわけじゃ……」
フィルが言い切る前にロバート君の拳が繰り出される。
フィルは咄嗟に腕を交差させて顔を守ろうとしたみたいだけど、防御もむなしく華奢な体はそのまま吹っ飛ばされて背後の壁にぶつかってずるりと落ちた。
「フィル!?」
力なく地面に座り込んでしまったフィルに駆け寄って肩を揺する。
気を失ってしまったのか何の反応も返さないフィルに不安になる。
どうしよう、変なとこ打った!?
全身から血の気が引いていくとともに、さっきまでロバート君に感じていた恐怖心が消えていくのがわかった。
「…………なんてことを……」
私はゆらりと立ち上がると、フィルを殴って呆然としていたロバート君に向かって手を振り上げた。
「フィルになんてことしてくれたのよ! この馬鹿!!」
バシッと乾いた音とともに、ロバート君の頬を全力で振りぬく。手がじんじんしたけど、昂った気持ちを抑えることができなかった。
今さらながらに涙が溢れてきた。
「フィルに何かあったら絶対許さないんだから!!」
「こ、こいつが勝手に……」
なにやら言い訳がましいことを言い出しそうになったので、キッと睨みつけて黙らせた。
ロバート君はピクリとも動かないフィルに怖気づいたのか、顔面蒼白になって「俺は知らないからな!」とその場を逃げ出していった。
あまりにもひどい対応に唖然としてしまったけれど、フィルをそのままにしておくこともできずに彼のそばにしゃがみこんだ。
本当にどこか変なとこ打ってたらどうしよう。
「フィル! ねぇ、フィル! しっかりして!!」
あまり揺らすのもどうなのかと思いつつも、何かしらの反応がほしくて先ほどより強く肩を揺すった。
肩と共に頭も揺れて、するりとフィルのかけていた眼鏡が地面に落ちる。
分厚いレンズの眼鏡が外れてフィルの綺麗な顔があらわになる。
「え……」
固く目は閉じられていたけど、息をのむほどの美少年だった。
今までずっと眼鏡で隠れていたから素顔をさらしたことなんてなかった。
美しく整った中性的な顔立ちに、反射的に体が強張って動悸が早くなる。
フィルは無理矢理つきまとったり、いじめたりなんかしないってわかっているのに。それでも、綺麗な顔を見ただけで体が拒否反応を示してしまう。
今すぐにでも逃げ出したい気持ちを抑えつけて、その場に縫いつけられたかのように動けないでいるとフィルが小さく呻き声を上げてゆっくりと目を開いた。
彼の黒い瞳と目が合う。
その瞬間、呪縛が解けたかのように自由に動けるようになった。
そうだ、誰か……そう! 医務室の先生を呼んでこよう。
「ぁ……わ、わたし、先生呼んでくるっ……!」
踵を返してこの場を逃げようとした私の手がぐいっと後ろに引っ張られる。
「まって!」
「わっ!」
意外と強い力で引っ張られて後ろに――フィルの上に倒れこんだ。
華奢な体を押しつぶしてしまったんじゃないかと心配になったけど、フィルは私の体を抱きとめるとそのまま背後からぎゅっと抱きしめてきた。
「待って、カトレア……お願い。逃げないで」
「フィ、フィル!? フィル、なのよね……?」
「うん。僕だよ」
フィルの声が耳のすぐ後ろで聞こえて体が強張る。
私は目を泳がせながら綺麗な人が苦手なことを白状する。
「ご、ごめんなさい……あの、わ、わたし……き、綺麗な顔をした人がね……」
「知ってる。苦手なんだろ?」
「しってた……の……?」
「知ってたも何も……僕の顔、見覚えない?」
「………………?」
まるで以前にも会っているかのような言い方に、怖いと思いつつもちらりとフィルを見る。
中性的な整った顔立ちにボサボサな青みのある銀髪…………そういえば、この組み合わせどこかで見たことあった気がする。
どこでだっけ。
思い返して、学園の編入試験の日に同じ色合いの男の子に話しかけられたのを思い出した。
あの時、綺麗な顔の男の子をうっかり眼鏡なしで見てしまって叫び声を上げて走り去った――――思い返せば返すほど不審者だったなと遠い目をしたくなる。
「…………もしかして、編入試験の日の……あれ、フィルだったの?」
「うん」
「でも、なんで? そんなに綺麗な顔をしてるなら眼鏡で顔隠すこともないでしょうに」
「…………カトレアに」
「私?」
「カトレアに逃げられるからに決まってるじゃないか。この顔のままだと君、逃げるだろ?」
「へ? あ、いや……うん、そうかもしれないけど……」
けど、何か腑に落ちない。
だからって、たかがそんな理由で視界が悪くなる眼鏡をかけてまで顔を隠す必要があるだろうか。
「そんなに私に逃げられたのがショックだったの?」
「ショックだったよ――――やっと君のそばにいられると思ったのに……」
拗ねたような声でフィルが答える。
やっと?
まるでここで出会う前から私のことを知っているみたいな言い方だ。
こんな目の覚めるような綺麗な顔をした人なら、会ったら忘れないと思うんだけどなぁ……。
私はもう一度だけフィルの姿を仰ぎ見た。
そうして黒い瞳と目が合う。
黒い目。
一瞬だけ、遠い雪の日の景色が脳裏に蘇った――――埋もれる雪の中で、私の懐から出てきた一羽の青い小鳥を思い出した。
姿も形も全然違うというのにどうしてかしらと思っていると、フィルが「君は忘れてしまったかもしれないけど」と前置きをした後で信じられないようなことを口にした。
「僕は昔、君に助けてもらった青い鳥だよ」
「え……」
フィルが、あの青い小鳥?
今しがた言われたことに自分の耳を疑っていると、フィルは昔話をするかのように目を細めて話し出した。
「青い鳥ってさ、幸せを運ぶとか言われてるだろ? 僕はそんな迷信を信じた人間に捕まえられて檻の中に閉じ込められてたんだ。ようやく逃げ出せたと思ったら、あの雪の中だろ? 食べるものがなくて餓えて死にかけてた。もうダメだと思った時に君に……カトレアに拾われたんだ」
そう言われて、私もあの寒い雪の日のことを思い返す。
そうだ、確かに私はあの日雪に埋もれて死にかけた青い小鳥を拾った。
「君は自分が食べるはずだった食べ物を僕に分けてくれて懐で温めてくれた。僕は君に恩を返したかったけど、君はその前に死んでしまって……だから、願ったんだ。どうか、次に生まれてくるときは君がよりよい人生を送れますようにって」
フィルは一度そこで言葉を切った。
「生まれ変わって違う色の鳥になったあとも、君のことを遠くから見ていた。生まれ変わって姿形が変わっても、僕にはすぐにカトリーナがカトレアの生まれ変わりだってわかった。そうして、君が幸せになるのを今度こそ見届けようと思ってたんだ――――それなのに」
フィルの顔に暗い影が落ちる。
私は彼が何を言いたいのかわかってしまった。
「君は幸せになるどころか……」
「そうね……私もまさか倉庫に閉じ込められて凍死するなんて思ってもみなかったわ……」
「ごめんね。君は僕を助けてくれたのに、僕はあの時誰かに君の場所を伝えるだけで精いっぱいだった。結局、僕も誰かが来る前に力尽きちゃったわけだけど」
「え……?」
フィルの言葉に、わずかに残る記憶を手繰り寄せる。
カトリーナだった頃に鳥の記憶はない。
けれど身を切るような寒さの中、薄れてゆく意識の片隅で私は誰かがドアを叩くような音を何度も聞いたのだ。不規則に、何度も何かがドアを叩く音を。
まさか。あれはフィルだったっていうの……?
鳥にドアを叩けるわけがない。
だとしたら、あれは……あの不規則にドアに何かがぶつかる音は。
答えは一つしかない。体を張ってドアにぶつかってくれていたのだ。命を張って、私の閉じ込められた場所を誰かに伝えようとしてくれていた。
「今思えばさ、誰か呼んで来ればよかったんだよね。鳥の思考回路ってすごく単純だからさ、そこまで思い至らなくて……」
ははっとフィルが自嘲ぎみに笑う。
彼は笑って言ったけど、私は胸が締めつけられて涙が溢れた。
知らなかった。あの時、私を助けてくれようとしていた人がいたなんて。
私はフィルの腕の中でぐるりと方向を変えて、彼の胸に顔を埋めて胸をドンドンと叩く。
「馬鹿ね……フィル、あんた馬鹿よ……もっと自分を大切にしなさいよ……」
「ごめん……だからね、今度生まれ変わったら君の隣にいられるように人間になりたいって願ったんだ。まさか、こんなに簡単に叶うなんて思わなかったけど…………それなのに、ようやく会えたと思ったら今度は逃げられるし」
フィルが苦笑しながら私の頭をなでてくれる。
「それで君と同じ格好をすればいいんじゃないかと思ったんだ」
「ふぇ?」
「大成功だっただろ?」
そう得意げに話すフィルの顔を見上げてしまって体が強張る。
条件反射で強張ってしまう体が憎い。
私は自分の目を手で覆ってフィルを見ないようにしながら、謝罪を口にした。
「ごめん、なんか全部私のせいだった」
「そんなことないよ。僕がしたかっただけ――――ねぇ、カトレア」
フィルはそう言って、目を覆う私の手に自分の手を重ねた。
「僕、君のことが好きなんだ。もう遠くから見てるだけなんて嫌だ。今日みたいなことがあったら絶対に助けに行くって約束する。だからさ、僕を君のそばにいさせてくれないかな?」
思いがけない言葉に、私はフィルが今どんな顔をしているのか気になって目を覆っていた手を下ろした。
一緒にフィルの手も下ろされて視界が開ける。
信じられないくらい綺麗な顔が、私を見て微笑んでくれていた。
それを見て、今度は別の意味で動悸がする。
どうしよう、キラキラし過ぎて直視できない。
「め、眼鏡! 眼鏡つけてくれるなら!」
思わず顔を背けて残念なことを口走ってしまった。
その言葉に、フィルはふはっと吹き出した。
「なっ、なんで笑うのよ! こっちは真剣に……!」
「うん、わかってる。わかってるから――――でも、カトレアはずっとそのままでいいの?」
「え?」
「君はずっとその眼鏡に頼って生きてくのかって聞いてるの」
「それは……だって、しょうがないじゃない。綺麗な人、苦手なんだもの……」
俯いてぎゅっと拳を握る。
自分の顔も、綺麗な人の顔を見るのも苦手だ。
私だってこの苦手意識をどうにかしたいとは思っている。でも、いじめられた記憶が原因なので、そう簡単に克服できるものではないこともわかっているのだ。
そんな私の事情をたぶん知っているフィルは、私を見て一つの提案をした。
「じゃあさ、手始めに僕から見慣れたらいいんじゃないかな?」
「………………は?」
「こう言っちゃなんだけど、僕は君が逃げ出したいほどの見た目をしてるんだろ? じゃあ、まず僕で練習してみたら? 僕なら絶対にカトレアをいじめないってわかるだろ? なんなら、僕を見て鳥を思い出すといいよ」
「んん!?」
待って待って。
なんか話がおかしな方向に行っている気がする。
慌てて止めようとした私をフィルが「カトレア」と私の名前を呼んで止める。
「君はもっと胸を張って生きたらいいよ。顔を隠すことも自分を抑えることもしなくていい。何かあったら僕が必ず君を守るから……だからさ、少しずつ頑張ってみよう?」
「う……」
「ね? カトレア」
有無を言わせないと言わんばかりの笑顔で言われて、ますます体が強張る。
トラウマのせいなのかドキドキしているせいなのかわからない動悸に、いてもたってもいられなくなって近くに落ちていた瓶底眼鏡を拾って装着する。
クリアだった視界が歪む。
おかしなことだとは思うけど、やっぱりこっちの方が落ち着く。
そんな私の眼鏡を少しだけずらして、フィルがずずいと顔を近づけてくる。
「まずは一日三十秒からね」
「まっ……まだやるって決めてな……」
決めてないって言い終わる前に、フィルも自分の眼鏡を拾って身に着けた。
いつものフィルの姿に強張っていた体から力が抜ける。
それを感じ取ったのだろう、先に立ち上がったフィルが苦笑して私に手を伸ばしてくれた。
「大丈夫。カトレアの中身を見てくれる人だって、ちゃんといるから――――ほら」
フィルの手を取って立ち上がった私は彼の示した方向に目を向ける。
そこには、同じグループで仲良くしている友達二人がこちらに向かって走ってくる姿があった。
どうやら、私がロバート君に連れていかれたことを知って心配になって探しに来てくれたらしい。
どうしようもなく嬉しくなって泣いたら、逆に二人に心配されてしまった。
***
その後、私は放課後に少しずつフィルの顔を見慣れる練習を始めた。
フィルとのやりとりは私の交友関係にもいい影響を与えてくれた。私を心配して駆けつけてくれた友達ともう少し踏み込んだつきあいができるようになったのだ。
そのかいあって少しずつ、本当に少しずつ人への恐怖が薄れていった私は、最終学年に上がる頃には眼鏡を取って生活を送れるようになっていた。
私のガリ勉キャラもしっかり定着していたおかげか、クラスでの眼鏡を外した私への評価は『顔は可愛いけど、中身がなぁ』な残念女子という位置づけになった。
いつも隣にいるのが瓶底眼鏡をかけたフィルなのも原因の一つだったみたいだけど。
そんなフィルは年末に開かれたパーティーで眼鏡を外した。
もうすぐ卒業だし最後くらいは素顔で出るかと言ったフィルは、パーティー会場を大いに沸かせた。
今まで知ることのなかったフィルの素顔にみんな驚愕して見惚れ、一夜にしてファンクラブができたらしい。
その時に催された学園のベストカップル賞で私とフィルが選ばれたものだから、私たちがつきあっているのに異論を唱える人はいなかったそうだ。
私はフィルや友達のおかげで学園生活を楽しく送ることができた。
美人なんてもう真っ平御免って思ってたけど、ちゃんと中身を見てくれる人がいるってわかった。
本当、きっかけをくれたフィルには感謝してもしきれない。
そんなフィルとは学園卒業後も恋人としていい関係が続いている。
お互い並んで歩くと目立つからいう理由で、今でもたまにあの瓶底眼鏡をかけて一緒におでかけを楽しんだりしている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!