ヴィンセント様が倒れた
お久しぶりです。そしてお待たせしました!
本の発売日が決定しました!
発売日は、7月2日になります。(予約も開始しているらしいです。)
WEB版よりかなり加筆修正して、番外編も2つ追加しております。より密度の高くなったフィオナとヴィンセント、是非、お手に取って読んでいただけたら嬉しいです!
よろしくお願いします。
ヴィンセント様が熱を出して倒れた。
そう聞いたのは、公爵邸に来て一週間が経った頃だった。
昨日まではピンピンして……いや、体調が悪そうなのはいつものことである。とはいえ、昨日まではヴィンセント様に、特段の変化はなかったように思うが。
私が来たことにより、環境も大きく変わったはずだ。無理をしていたということだろうか。
グレイス様にヴィンセント様の様子を聞くと、なんとも微妙な表情が返ってきた。それはどういう感情だ。
「いえ、なんといいますか……。ヴィンセント様のお身体は、フィオナ様もご存じの通りです。見た目に反して、お元気でいらっしゃる。ですから、今まではあのように倒れられることって、あまりないんですよ」
「それが今回は、倒れてしまったと? もしかして、かなり容態が悪いのですか!?」
グレイス様の手にあるのは、水の入った盆とタオル。これからヴィンセント様の看病にいくのだろう。
あまり切羽詰まった様子はグレイス様の表情からは窺えないが、あのグレイス様である。表に出すのをぐっと堪えているのかもしれない。
私があまりにも不安そうな顔をしていたのか、グレイス様はこちらに体を向けてニッコリと微笑んだ。
「いえ、そこまで酷い様子ではないですよ」
「そうなのですか?」
「えぇ、ヴィンセント様がこうなったのは、四回目です」
「四回……?」
なにやら具体的な数字が出てきた。
倒れる前に、大きなイベントでもあったのだろうか。
グレイス様は一本、指を立てた。
「一度目は、夜会でフィオナ様と踊った翌日に」
「え」
「その時は一週間ほど、寝込んでしまうような状態でした。なので、快復しても今までに溜まっていた仕事に終われ、フィオナ様からいただいたお手紙もまともに返せずだったのです」
そんな事情があったのか。確かに、立て込んでいてとかなんとか言っていたような気がする。
かなりお怒りなのかと、怯えていたのがなつかしい。
続いて、グレイス様は指を二本立てた。
「二度目は、フィオナ様とフェリクス様を招待した夜会の三日後です。こちらもやはり、寝込むような状態に。ただし、寝込んだのは五日ほどでした」
「…………」
嫌な予感がするのは気のせいか。以前もこんなデジャヴがあったような。
冷や汗が流れる。
私の様子など気にした風もなく、グレイス様が指を三本立てた。
「三度目が、フィオナ様を庭園にご招待した五日後に。その時は三日ほどで快復しました。……ここまでお話すればご想像もつくかと思われますが、四回目が、フィオナ様がこちらにいらして、一週間後の今日のことでございます。 今までの間隔でいくと、一日二日で落ち着くものかと」
一度目が、翌日に体調を崩し七日ほどで戻る。二度目が、三日後に体調を崩し五日ほどで戻る。三度目は五日後に体調を崩し……なので、四度目は普通に計算をすれば一日二日ほどで戻るだろう、ということらしい。
果たしてそんなに世の中上手くできているのかという疑問と、やはりそれには私が関わっているのだろうということが胸の中をぐるぐると巡る。
「ヴィンセント様が倒れたことは、私が関係していると……?」
「まぁ、そうでしょうね」
グレイス様は、確信めいたように頷いた。
そうなのか。
私はがっくりと頭を俯かせる。どうも私の力は、良くも悪くもヴィンセント様に影響を与えるらしい。
しかし解せない。触れれば精霊が離れていき、体調が良くなるから、このように近くに置かれたのではなかったか。体調が悪くなるなんて聞いていない。
「殿下にも相談してみましたが、恐らく好転反応だから大丈夫じゃないかとおっしゃっておりまして」
「好転反応?」
「はい。主人はこれまで、ずっとあの黒い物体……精霊に憑かれることで、体調に異変がありました。その原因が無くなれば、もちろん体調は改善しますが、その際の身体への負担もなくはないのです」
「負担……ですか」
精霊がいなくなることは、負担になるのか。解放されて、万全の状態にはならないのか。
私が全く理解出来ない表情をしていたのか、グレイス様はちょっと考える仕草をした。
「要は、『何もついていない状態』に慣れていないのです。わたくし達にとっての『普通』は、主人にとっては『異常』です。なぜなら、主人は精霊がついているのが『普通』で、精霊がついていない状態を経験したことがないのですから」
あ、と思った。
精霊が離れれば、体調も顔色も良くなる。普通の人と変わらなくなる。それが、当然のことだと思っていた。
でもヴィンセント様にとって精霊がいなくなること、つまり身体が軽くなることは、無意識のうちに身体的な負担になっているのだ。
ようやく私は、『普通だと思っていた』ことを押し付けていたことに気付く。誰よりも『普通』の押し付けを嫌っていたはずの私が。
「一時的なものだろうというのが、殿下の考察です。精霊がついていない状態をある程度経験していけば、ついていない状態に慣れるはずですから」
「そう……ですね」
私が触れて精霊が離れていくと、ヴィンセント様は身体が軽くなったと嬉しそうに微笑んでいた。その後に、倒れるほど大変な思いをするなど、そんな素振りは全く見せなかった。
触れていれば良くなるものだとばかり――……。
「グレイス様、私も、ヴィンセント様の様子を見に行ってはダメですか?」
「いえ、ダメなことはないですよ。フィオナ様は驚かれる状態かもしれませんが」
私が驚く? 一体どんな状態だ。
しかし、私が引き起こした事態ならば、きちんとこの目で見ておく必要がある。
「行きます」と頷けば、グレイス様はそれ以上は止めることなく、ヴィンセント様の部屋の方に向かって歩き出した。その後ろを、ちょこちょことついていく。
大きな扉の前に立つと、コンコンと小さめのノックをした。何も返事はなかったが、グレイス様は静かに扉を開けて、中へ滑り込んだ。ちらと私の方を見る目は、「お静かに」と言っていたように思う。承知である。
部屋の中は暗かった。カーテンも閉まっていて、僅かな隙間から光が入り込むくらい。目が慣れないうちは、何が何だかだ。
「ヴィンセント様、起きていらっしゃいますか? タオルを変えましょう」
「ぅ、ん……」
グレイス様が奥に向かって声をかけると、鼻を抜けるような掠れた声とシーツが擦れる音が返ってきた。
いつもの柔らかな声の面影はなく、やはり体調が優れないのだと分かる。意識があるのかも怪しい。
迷いなく、ベッドが置かれているであろう方向へ、グレイス様が歩いていく。
ようやく目が慣れてきて、グレイス様の様子が見える。そして、ぎょっとした。
グレイス様が、濡れたタオルを移し変えた場所。大きなベッドがあり、恐らくヴィンセント様がいる場所。
部屋の中が暗いと思っていたが、ただ暗いだけでなく、精霊のせいもあったらしい。ヴィンセント様がいるであろう場所は、精霊でどっさり埋まっている。普段の比ではない。
グレイス様が言う「驚くかもしれない状態」というのはこのことだろう。
恐る恐る、黒い山に近づいていく。
グレイス様が私の気配に気付き、振り返った。
「驚かれましたか? 主人は倒れると毎回こんな感じです」
それは、一回目の時からそうだったのだろうか。『これ』が精霊だと知らなかった時は、不安で仕方なかったのではないだろうか。
私の考えを察してか、グレイス様はふっと口角を上げた。
「どうか、主人の傍にいてやってください。わたくしは、仕事をある程度片付けてくるので」
グレイス様はそう言うと、前に使っていたであろう水の入った盆とタオルを手に取って立ち上がった。軽く一礼すると、私の返事など待たずにさっさと部屋を出てしまう。
傍にいろと言われても……。
ちらと、ヴィンセント様がいるであろう黒い山を眺める。僅かに人がいるのが分かるが、それくらいしか分からない程度には精霊に囲まれているらしい。
精霊がいない状態は、ヴィンセント様にとって『普通でない状態』と言っていた。果たしていつものようにしていいのか少し悩み、そしてそっと黒い山に手を伸ばした。
ヴィンセント様に触れようと手を進めると、私の手を避けるように精霊が逃げていく。ぽっかりと開いた穴の先に、ヴィンセント様の顔がうっすら見える。
精霊は、私の手の周りだけ避けるようにして、あとは相変わらず我先にとヴィンセント様にまとわりついている。
まるで、深い闇に飲み込まれてしまったような。まるで、精霊たちが自分の世界にヴィンセント様を連れていこうとしているような。
――ざわりとした。
精霊から、私の元へ引き戻さねば。躊躇わず、うっすら見えていたヴィンセント様の頬を撫でる。
すると私の手を中心に、霧が晴れるように黒が徐々に消えていく。漸く、ヴィンセント様の姿が見えた。
苦しそうに眉を寄せ、荒い息を吐くヴィンセント様。
その姿があまりにも色っぽくて、場違いにもドキリとしてしまった。
そんな邪な考えを払うように、額に乗っていた、ぬるくなってしまったタオルを手に取って、近くの盆に浸して冷たい水を絞る。そうしてもう一度、彼の額に戻すと、小さく唸った。
「ヴィンセント様? 大丈夫ですか?」
「…………レイ?」
焦点の定まらない視線と、うっすら開いた口から漏れたのは先程までここにいた執事の名前だった。ややムッとしつつ、いいえと首を振る。
「フィオナでございます、ヴィンセント様」
「フィオナ……? フィオナ、嬢?」
まだぼーっとするのだろう。揺れる瞳が、僅かに私を捉えた。それに満足して、ニコリと笑って頷いた。
隙をついてヴィンセント様に近付いてくる精霊からガードするように、ヴィンセント様の手を取る。
「はい、そうです。お加減はいかがですか?」
精霊が離れて、少しは軽くなっただろうか。それとも、精霊がついていないことは負担になっているのだろうか。
でも、慣れていくのだとあのとき殿下は言っていた。ならば少しでも多く、こうして触れていた方がいいのだろう。
ヴィンセント様は、不思議そうに自分の手を見やった。ひとつ瞬きをして、自分の手を握っている人物に視線を流す。
とろりとした目が私を捉える。
そして――嬉しそうに細められた。
「え」
「ふふ、フィオナ嬢? あなたの手は、冷たくてとても気持ちいいですよ」
私は思わず赤面してしまう。
彼は病人だ。熱に浮かされているゆえの発言に違いない。今のだって、お加減いかがですか? に対する答えなのだろう。
それにしたって、こんな風に微笑まれて、こんな風に答えられたら。
無意識に逃げようとして、しかしそれは、ヴィンセント様に手を強く握られたことで阻止された。
「あ、あの、ヴィンセント様……」
「私の様子を看に来てくれたのでしょう? ならば、もう少しここにいて下さい」
「た、確かにそうなんですけど、でも、」
「………………ダメ、ですか?」
ダメじゃない。
不安そうに見上げてくるその表情に私は唇を噛んで、ベッド脇に置かれている椅子に腰をかけた。
「ちゃんと、お傍にいますから。どうか早く、良くなってくださいね」
繋いでいない方の手で、ヴィンセント様の頬を撫でると、気持ちよさそうに目が閉じられて、擦り寄せてくる。普段は眩しいくらいのイケメンなのに、こうして見ると可愛らしい猫のようだ。
しばらくそうしていると、静かな寝息が聞こえてきた。どうやら眠れたらしい。呼吸も落ち着いているし顔色も悪くない。
もう大丈夫だろう。
……でも、きっと私がいなくなってしまったら、精霊たちが戻ってきてしまうだろうから、もう少しここにいよう。
離れようと思えば離れてしまえるほどの力で握られている手を、私はきゅっと強く握り返した。




