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30、ローザリア

犬型精霊がピタリと止まり、顔だけ振り返ってふんと鼻を鳴らした。私が慌ててヴィンセント様に制止を伝えると、私達を乗せて走ってくれた馬も歩く速さになりやがて止まった。

それを確認すると、犬型精霊はお座りをしてパタパタと尻尾を振る。まるで、ご褒美をくれと言っているようである。後で必ず約束は守ろう。今は緊急事態だ。


犬型精霊が連れてきたのは、華々しかった侯爵邸周辺とは異なり、立派な木が立ち並んだ自然豊かな印象を与える場所だった。……まさかここにローザリア様が?


「ここは……」


何か思い当たる節でもあるのか、背後にいるヴィンセント様は唸るように呟いた。そのまま犬型精霊の付近まで歩かせると、馬からひらりと降り立ち、次に私を降ろしてくれた。


見上げると、ヴィンセント様は眉間に皺を寄せて何かを考えるような仕草をしていた。どうしたのか尋ねようとしたところで、何かが動く音が聞こえる。

二人は視線を見合わせたあと、その音の方へバッと顔を動かす。


「馬」

「馬ですね」


木の影になって見えにくかったが、そこには毛並みの綺麗な馬が繋がれていた。足を進めると、きらめく水面が広がった。馬はどうやらその泉の水を飲んでいたようである。

あの馬がもしかして……。


そのまま視線を横にすべらせると、一面ピンクの花畑があった。足元を風が吹き抜けて、まるでこちらに来いと言っているようである。

考えるより先に、誘われるように足は動いていた。


そしてその行動は正解だったと悟った。


「あら、貴女が来たのね」


花畑の中心に、探していた人が立っている。

藁にもすがるような思いで頼ったのだが、まさか迷うことなく導いてくれるとは。やはり、人智を超えた――紛うことなき神に近い存在なのだろう。


私を見据えてけろりと述べるローザリア様の声色や表情は、驚きでもなく落胆でもなく、ましてや喜びでもなかった。

恐らくこの後のパーティー用なのだろう、白銀のふわりとしたドレスを身にまとっている。


花畑に静かに立つその姿は、花の女神でも降りてきたかのようだ。いや、花の女神とか知らないけれど。実在していたらこんな感じだろうか。

ただ、ここに来るまでのことを知ってしまうと、なんというか、筆舌に尽くし難い気持ちになる。


……この方が、これを着て馬に乗ったのか?


すごく変な顔をしていたのか、ローザリア様は鈴を転がすような声で笑った。そして、「こちらへおいでなさい」と優雅に手を伸ばして自身の隣を促した。

お茶会の時とは違う穏やかな雰囲気に驚きつつも、ちょこちょことローザリア様の側へ寄る。私が近くに来たのを確認すると、つま先から頭までついっと視線を滑らせて首を傾げた。


「随分な格好をしてらっしゃるのね?」

「えっ、あ……申し訳ございません、このような格好で……」


視線ですぐにわかった。ホールから庭まで全力疾走したおかげで髪はボロボロ、ヴィンセント様に止めてもらったおかげで泥まみれのドレスは避けられたが、それでも形は崩れてしまっている。

いくら必死だったとはいえ、多少は整えてからローザリア様の元へ行くべきだった。慌ててドレスを撫でるように手を滑らせるけれど、そんな程度でなんとかなるものでもない。


やや視線を下げていると、頭上にふっと影が差し「そのような意味でいったつもりではないのだけれど」と涼やかな声がした。髪に何かが触れた気がしたのは気のせいだろう。


「後で、うちの者に直させましょう」

「え」


聞き間違いかと驚いて顔を上げると、ローザリア様は口元をゆるりと持ち上げて微笑んでいた。

だって、気に食わない存在の身なりなど気にするとは思わないじゃないか。精々、パーティーで笑いものになればいいと思っても不思議じゃない。


自身のパーティーに、小汚い小娘が来るという見栄えと天秤にかけてのことだろうか。それとも――。

ローザリア様は小さく咳払いをすると、表情を戻して腕を組んだ。お茶会で見たような、侯爵令嬢然とした雰囲気だ。


つい見とれてしまっていたが、後ろから草花を踏む音がした。「ローザリア」と、花を撫でるような声に身体はふるりと震える。


「あら、ヴィンセント様ごきげんよう。わざわざ御足労頂き恐悦至極ですわ」

「何をふざけているんだ。侯爵家の者も夫妻も心配している」


ローザリア様の仮面を被ったような笑顔と、ヴィンセント様の冷めた言葉。夢でも見ているのではないかということが、前と後ろで起こっている。挟み撃ちである。横にずれて逃げていいだろうか。

これはどうするべきだろうかという、私にとっては耐え難い長い時間が過ぎた頃、背後で身動ぎをする気配がした。


「とにかく 、侯爵邸に戻ろう。パーティーの前に話があるんだ」


婚約云々の話に違いない。

それ以上聞かなくても、あの手紙を見てしまった私は図らずも察してしまう。カウントダウンは既に始まっているのだ。


ドロドロとした汚い感情を抑えるために、きゅっと奥歯を噛む。

ローザリア様は私を見、にんまりと口角を上げた。勝利の微笑みに違いない。花の女神から勝利の女神へと姿を変えた目の前の人物を直視することが出来ず、逃げるように足元の花々に視線を落とした。


そよそよと風に揺られる穢れを知らなそうな花に、顔を埋めたい気持ちになる。そうすれば少しは、この得体の知れないドロドロを排出できるのではないだろうか。

ローザリア様は首から下げていたらしい懐中時計をパチンと開いた。


「まだパーティーの時間には早すぎるでしょう」

「パーティーの前に話があると言ったはずだ」

「まぁ。そんな話、一瞬で終わるでしょうに」


小首を傾げて、ヴィンセント様の話など分かりきっているというように不敵に微笑む。

それもそうだ。うんと頷くだけでいいのだから、一瞬も一瞬だろう。ヴィンセント様もローザリア様の言葉には同意なのか、言葉を詰まらせた。

ローザリア様はもう一度、パチンと子気味のいい音をたてて懐中時計を閉じる。その仕草でさえ、気品溢れる侯爵令嬢そのものだった。


「私、そちらの方と二人きりで少しお話をしたいの」


だから離れていてくださる? という言葉に、ややトゲを感じる。

まさか女同士の戦闘がここで始まろうとは、誰が予想出来ただろうか。


お茶会では取り巻きに言わせたい放題でただ眺めているだけだったようだが、とうとう我慢の限界だということだろう。

私はそっと、横にずれた。


「屋敷に戻ってからでもいいだろう」

「二人きりがいいの。そんなに時間はかけないわ。ねぇ?」


ねぇ、と言われても。はい喜んで! などと返せるわけがないのである。

しかしこのままでは埒があかないし、私に対して思うところがあるのも理解できる。ここは覚悟を決めるしかない。二つの視線を左右で感じながら、神妙に頷いた。


「そういう事。馬の様子でも見ててくださいな」


ローザリア様の勝ち誇った声色と、ヴィンセント様の乾いたため息。もしかして、戻る戻らないの決定権は私に委ねられていたのだろうか。


「……何かあれば言ってください。すぐに駆け付けられるところにいます」


ヴィンセント様の口調が変わった。いつもと同じ、とろけるような甘い声と丁寧な、私に向けられた口調。

ただ少しだけ、壁を感じるのは気のせいか。

ヴィンセント様を視界に入れることが出来ないまま、サクサクと遠ざかっていく足音。私と、ローザリア様だけが残される。

足音が聞こえなくなるまで、二人の間は無言の風が流れていた。


私から何か言うべきなのだろうか。だとしたら何を言うべきなのだろう。無言の空間に耐えられず焦り始めた頃、先に動いたのはローザリア様だった。

両手を後ろで組み、くるりと半回転する。翻った柔らかいスカートが、草花を撫でた。


「ここはね、ヴィンセント様と私、二人でよく遊んでいた場所だったの」


昔話でも語るような軽い口調。これを私はどう受け止めるのが正解なのだろうか。

余計なことを言わないよう、黙って聞くことに集中する。恐らくローザリア様も、私の相槌など期待していないはずだ。


「でも、ヴィンセント様がここを探し当てたわけではないのでしょう?」

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