29、疾走
精霊を追いかけて、広間を出て、玄関ホールを出て。
さて、私が追っているのは犬型の精霊である。動物の犬と精霊の犬。彼らにどんな違いがあるのか分からないが、今、一つだけ分かったことがある。
(足がっ、速い!)
まさか、そんな。小人の精霊はゆっくり歩いても追いついてしまうくらいだったのに、犬型になった瞬間こんなに変わるなんて!
玄関ホールを出てからだいぶ経った─気がするだけかもしれないが─のに、犬はまだ止まる気配がない。
しかも、中庭すらも抜ける勢いである。ローザリア様がいらっしゃるのは、どうやら敷地内ではないらしい。
いよいよ、『誘拐』『売り飛ばし』などという単語が身体中を駆け巡ってくる。
既に汗だくで、息も切れ切れ、足も棒のようになりつつあるのに。
(身体を鍛えておくべきだった……!)
そんなことを後悔しても後の祭り。
そもそも、貴族の令嬢が身体を鍛えるなど普通では有り得ないことである。ただし、私は今普通ではないことばかりしているのだから、身体を鍛えるくらいしていても良かったかもしれない。
人間は、『こうしておけば良かった』と思うことに直面した時に初めて後悔するものだ。何事も無駄なことなんてない。痛感した。
反省したので、どうか私の体力に合わせて走ってくれないだろうか。
「あのっ、ほんとに、待って……!」
どんどん小さくなっていく犬の姿に、焦り出す。見失ったらまずい。
敷地外なら尚更である。
協力はしてくれても、私に合わせるかはまた別物ということか。
足が棒になりつつあり、それよりもっと速く走らねばと足を動かそうとしたらどうなるか。どんなに願っても、身体は心に追いつかない。結果は火を見るよりも明らかだ。
とうとう足は限界だと職務を放棄し、小石すらない平らな地面につま先が引っかかる。
ゆるい衝撃を感じた刹那、地面は顔に近付いてくる。ヴィンセント様にいただいたドレスが汚れたらどうしようだとか、顔に傷がついてしまったらパーティーでヴィンセント様に恥をかかせてしまうなとか、割と冷静なことを考えていた。
「フィオナ嬢!」
突如、透き通るような声が耳を貫く。
それと同時に、近付いていた地面との距離が止まった。
「……ヴィンセント様」
お腹に手を充てられた状態のまま見上げる。ヴィンセント様は慌てたように瞳を見開いていたが、すぐさまギュッと眉を寄せて厳しい表情へと変わった。
――あ、怒ってる。
思ったのも束の間で、私はなぜ転びそうになるまでに急いでいたか。大変だ、ただでさえ見失いかけていたのに。今はもう遥か彼方かもしれない。慌てて犬型精霊が走っていた方に顔を動かす。
道の真ん中にポツリと立つ黒い影にほっと息を吐く。犬型精霊は、止まってこちらの様子を伺っていた。
ヴィンセント様が、いるからだろうか。
流石精霊ホイホ……いや、これは失礼な言い方のような気がするからやめておこう。流石は精霊に好かれるお方だ。
しかし、ほっとしても居られない。犬型精霊は待ってくれても、ローザリア様の方は待ってくれない。こうしている間にも、遠くへ行ってしまっているかもしれないのだ。
急いで追いかけなければ。
「ヴィンセント様、ありがとうございます。突然抜け出してしまい申し訳ないのですが、行かなければならない場所があるのです」
「……なんとなく、貴女が何をしようとしていたのかは想像出来ますが」
ヴィンセント様は渋い顔をした。
そしてヴィンセント様の更に奥へと目をやると、立派な馬が佇んでいた。私を支えた手とは反対の手で、手綱を握っている。ここまで、慌てて走らせて来たのだろう。申し訳ないことをした。
謝ろうとして、待てよ、と馬に注目する。
ローザリア様がいるのは敷地外と分かった今、彼は非常に役に立つのではないだろうか。ドレスのまま上手く操れる自信はないが、自分の足を使うよりは間違いなくマシだろう。
私の視線――あるいは考えに気付いたのか、ヴィンセント様はあからさまに深いため息を吐いた。
「話は後です。行く先は分かりますね?私には視えないので誘導をお願いします」
言いながら、「失礼します」と私の腰を持ち上げて馬へ乗せてくれる。全てお見通しということか。
しかし、ヴィンセント様を巻き込むには気がかりな事が一つある。馬の上で落ち着く姿勢を探しつつ、困ったようにヴィンセント様へと視線を下げる。
「精霊が本当にローザリア様の元へ連れていってくれるかは確証がないのです」
「フィオナ嬢は彼を信じているのでしょう? ならば私も信じます」
こちらを見上げるヴィンセント様の瞳にはなんの躊躇いもなく、私に続いて馬に飛び乗った。突然の背後のぬくもりに、びくりと肩を震わす。
ヴィンセント様の指示で馬が走り出すと、少し先で大人しく待っていた犬型精霊も、またくるりと背を向けて駆け出した。
「こちらに到着した時から、何かを探している気配はありました。それでも見つからないということは、敷地外にいる可能性が高いのではないかと」
なるほど、ヴィンセント様は既に当たりを付けていたのか。だからこうしてタイミングよく馬を用意出来たのだろう。
私が出る幕はなかったのかもしれないと、先程の突飛な行動を恥じた。
犬型精霊の行く道を、「あっちです」と指をさしながら誘導する。
どんどんと屋敷から遠のき、不安が振り返してくる。
「敷地外にいるなら、やはりローザリア様は……」
誘拐されたのでは、とは言葉にならなかった。
今から追いかけて間に合うだろうか。
先程とは違う意味で焦る私の頭上から、唸るような声が降ってきた。
「……馬が、恐らくローザリアの、一頭だけいなくなっていました」
「ローザリア様はドレスを召していらっしゃいますよね……?」
つまりそれは、ローザリア様が自ら馬を使って、敷地外に出たということだろうか。それにしては、無理があるような。
そう思っての発言だったが、ヴィンセント様は僅かに眉を寄せてキッパリと言い放った。
「彼女は、そういう人です」
どういう人だ。
ただ、私を安心させるために言ったその場しのぎの言葉ではないことだけは理解出来た。
まさか、令嬢の中の令嬢だと思っていた方は、パーティー前にドレスを着たまま馬に乗ってどこかに行くような自由人なのか。
侯爵夫妻が話している途中に急に何処かに走り出す私も中々だと思っていたが、その上を行くレベルの話ではなかろうか。
兎にも角にも、犬型精霊の行く先に身を任せるしかなさそうだ。
「あぁ、それと」と、何かを思い出したように言葉を紡ぐ。背後にいるため表情が確認できないが、それを抜きにしても感情の読み取りにくい声色が降ってくる。
「先程の言葉の意味は、後でゆっくり聞かせてください」
先程とはなんだろうか。しばらく逡巡して、あっと思い出す。
間違いなく『ヴィンセント様を貸す』発言だろう。引きこもり令嬢のくせに生意気ななどと思われているのかもしれない。
今すぐ地面に頭をついて謝り倒したい気持ちになったが、馬の上でこの状態では難しい。ヴィンセント様の言う通り、後でゆっくりと謝り倒すことにしよう。
――これが、最後になるかもしれないのだから。
ローザリア様は無事に見つかって欲しい。見つかって欲しいけれど、ヴィンセント様とは会わないで欲しい。
この方の助けになりたい、唯一になりたい、この優しさに触れていたい。何より、こうしてどんどん欲深くなっていく自分が酷く恐ろしい。
胸の奥からじわりと広がるようなドロドロしたものに目を瞑って、ただ犬型精霊の後を追った。




