26、帰宅
「フィー?」
「えっと……戻りました、お兄さま」
私の姿を視界に入れるなり、お兄さまは目をまん丸くした。
ちゃんと連絡はしたし、先日出した手紙にも、この日に帰ると書いたのだからどう考えても分かっているはずなのに。来るべきではないモノが現れたみたいなその反応はなんだ。
お兄さまは、がしぃっ! と私の両肩を掴んだ。女性は丁寧に扱っていただきたいものです。
「どうしたんだ!? 手紙を見てびっくりしたぞ。ヴィンセント様の美しさに辛くなったのか?まさか……高級なものに囲まれすぎて体調不良にでも?」
私はすっと目を細めた。
心配の方向がややおかしい。
真っ先に出てきそうな、使用人やその他令嬢から嫌がらせを受けたのか?という質問が全くない。逆に、よくそれを思いつくなという可能性がぽんぽんと出てくる。
美しさにやられたわけでも高級酔いしたわけでもなし、もちろん嫌がらせだって受けていないのだが。
私の冷めた視線を否定と受け取ったのか、「なら良かった」と笑って、「おかえり」と言ってくれた。
荷物をエマに預け、おいでおいでと楽しそうに先導するお兄さまについて行く。なぜこんなに楽しそうなんだろう。まさか、私が帰ってきたことを喜んでいるのか……?
ダイニングルームに近付くにつれ、私はあることに気付く。鼻をくすぐるあの香り。
これは──
「お菓子ですね!? スコーンかしら!」
パンッと手を叩いて、この香りの予想を伝える。お兄さまは振り返って、ニコリと微笑んだ。当たりらしい。
お兄さまはダイニングルームの扉を開けつつ、それだけじゃないぞと呟いた。
扉の先、テーブルに用意されていたのは先程香りで当てたスコーンだったが、確かにそれだけではなかった。スコーンの間にはイチゴのジャムとクリームが挟まれていて、挟んだ上にはもう一度クリーム。てっぺんにイチゴがちょんと乗っている。
見た目で言うならば、手のひらサイズのショートケーキがいくつも並んでいる。正に天国。
お兄さまは促すように両手を開いて、嬉しそうに言った。
「じゃーん、お兄さま特製お手軽ショートケーキだ!」
「お兄さまが作ったんですね!」
パチパチと手を叩きながら、吸い込まれるように席へと座った。
お兄さまも正面の席へと座ると、タイミング良く使用人が紅茶を注ぎに来る。
スコーンの香りと、追従するようにほわんと紅茶の香りが襲ってきて、私はほっと胸をなでおろした。
公爵邸の居心地が悪いなんてことはない。寧ろ、ここまでと思うほど良くしてもらっている。けれど、一番落ち着くのはやはり我が家のようだ。
フォークを生地に刺し、切り離すように動かして一口大程を乗せる。落とさないように気を付けながら口に運ぶと、ほんのり暖かいスコーンと冷たいイチゴとクリームが爆ぜた。
「美味しい……!」
「そりゃ、俺が作ったんだからな」
当然とでも言いたげに胸を張った。私の様子に満足したのか、お兄さまも一つショートケーキを取り、上品に食べ始める。
そういえば、お兄さまはたまにこうしてお菓子を作ってくれていた。小さい頃のお兄さまは、それはそれはお菓子が大好きだったらしく、同じくお菓子好きの私の分まで奪っていた時期があった。
もちろんそれに私は泣き叫んだ。お兄さまは申し訳ないと思ったのか、翌日にはお菓子を買ってきてくれたり、自らお菓子を作ってくれたりした。
不思議なことに、『お詫びのお菓子』には決まって手を出さなかった。ただニコニコと、私がお菓子を食べる様子を眺めていたのだ。私だったら、多めに買ってきて、少し自分の分にして食べてしまっていると思う。
最近はそんなこともないし、何ならお菓子もそこまで好きなようには見えない。単に成長期だったのだろうか。
一個目を平らげ、二個目にフォークを刺したところで、私は「お兄さま」と口を開いた。
「もし私が結婚しないとなったら、お兄さまはどうしますか?」
自分でも気付いていなかったが、長いこと気を張っていたのだろう。落ち着く雰囲気の我が家と、お兄さまお手製お手軽ショートケーキと紅茶のおかげで気持ちが緩んで、ずっとずっと胸の奥底にしまい込んでいたことが、ポロッと出てしまった。本当に、ポロッと。直前まで、このことについて話そうなんて微塵も、これっぽっちも思っていなかったのだ。
だが、一度言ってしまったものは仕方ない。お兄さまはどんな反応をするだろうか。
非常に困る質問を投げているのは承知している。どうしますか? と選択を与えるような言い方をしているが、本心では思っていても『捨てる』という回答など出来ないだろう。
何言ってんだ?とはぐらかされるか、捨てるわけないじゃないかぁ!と笑い飛ばされるか、そんなので構わない。ただ何となく、漠然と浮かんだ不安を聞いてくれればそれでいい。
私はなんてことのないように、ショートケーキの一欠片を口に含む。ふわふわさくっとした食感と、イチゴの酸味が口に広がった。
一方で、子供がふと思いついたイタズラを突然投げられた状態のお兄さま。
ショートケーキを食べる手を止め、睫毛をぱしぱしと瞬かせる。片手は頬を乗せて肘をつき、フォークを置いたもう片方の指でコツコツ、と二回テーブルを叩いた。
返答の正解を探しているというよりは、突然降ってきた言葉を噛み砕いて飲み込んで、整理しているように見える。
「フィーがここに居たいって言ってくれるなら、いくらでも居てくれて構わないよ」
もぐもぐと動かしていた口が止まった。
お兄さまから出た言葉は、私が求めていたものであり言って欲しくなかった言葉である。自分でも矛盾しているなとは思うが。
年頃の娘が結婚もせず実家に居座る。それはこのご時世、受け入れられ難いことだ。良しとするはずがない。
お兄さまに気を使わせてしまう、そのことが私にとってとても辛い事だった。
完全に食べる手を止めて視線を下に落とした私に気を使ってか、お兄さまは更に言葉を続けた。
「フィーが辛いと思うことを、無理にやる必要はないさ」
「……甘やかしすぎでは?」
「甘やかす? まさか! 人間には自分の好きなように生きる権利があるという、至極当たり前のことだよ」
平然と、当然のように言ってのける。
お兄さまは昔からそうだった。
他の人とは違う私を、決して他の人と同じように『普通でない人』として扱わなかった。人それぞれの個性なんだと、きちんと『フィオナ・メラレイア』として受け入れていた。
それで苦労もしただろうに――今もしているかもしれないが――、そういう弱音や愚痴は聞いたことがない。
「でも、お兄さまは良くても、伯爵家に影響があるかも……」
「俺がそんなこと如きで、メラレイア伯爵家を危うくするほど落ちぶれちゃいないさ」
それこそ無用な気遣いだ。手を払ってお兄さまはきっぱりと言い切った。
「周りの目なんか気にせず、フィーが正しいと思うように動いたらいい。俺はそれを応援こそしても、咎めるようなことは絶対にしない」
犯罪をしようとするなら、また話は別だけど。と付け加える。
つまり、結婚しないことは、犯罪ではない。
今の世の中、女性は結婚するのが普通であるが、しないことが犯罪に値するほどの悪ではない。
だったら好きなようにしたらいい、そう言われている気がした。
どんな結果になろうと─例え、ヴィンセント様の側にいることが出来なくなっても。私はきっと、この行動を後悔することはないのだろう。
目の前の霧が晴れていくようだ。
私が、精霊のために、ヴィンセントのためにと思って動いたことは、決して悪いことではない。それは私にとって、どんなに心強いことか。
ありがとうだけでは到底足りないこの気持ちを、どう伝えたらいいのだろう。
エマを呼びつけ、先程預けた荷物を持ってきてもらう。ゴソゴソと中を漁り、ひとつだけを抜いて、あとの残りを袋に入れたままお兄さまの前に置いた。
王城の帰り、伯爵邸に戻る前、ミランジュで買ったお菓子達だ。
自分の好きな物を相手に贈る──こういう感情なのだと初めて知った。お兄さまもそうだったのだろうか。もしかしたら、今もそうなのかもしれない。そうだったらいいなと、心の片隅で思った。
お兄さまは目の前に置かれた袋と私を交互に見て、ポカンとしている。
「私、お兄さまのこと大好きなので!」
言い切ったあと、こそばゆい感情に襲われた。残りのショートケーキを素早く自分のお皿に乗せて、ダイニングルームを飛び出した。
だから私は知らない。
私が出ていったあと、お兄さまは袋を手に取って、それを宝物でも見つけたような笑顔で抱きしめていたことを。




