20、同質
「精霊は、触れたり会話したりできるのですか?」
それは、「今日のデザートは何がいい?」くらいの、なんでもないちょっとした疑問だったのだろう。視えないヴィンセント様にとっては、精霊とはどんなものかという好奇心もあったのかもしれない。
一方で私は、頭の片隅にすら考えたことのない質問に、うんともすんとも言えずただぽかんとしてしまう。
何故ならば物心ついた頃から“人ならざるもの”は草木と変わらずその辺に当たり前のように存在していて、関わってはいけないモノであったし、触れるか喋るかなんて考え至らないモノだった。関わってはいけないモノを除けば、今でもその考えは変わっていなかった。
そこら辺に生えている草に、これは喋るのだろうかと「こんにちは、今日はいい天気ね」と声をかけてみたりはしないし、どんな触り心地だろうかと手を伸ばしてみたりもしない。ただ、そこにあるなぁ、と眺めるくらいだ。
ヴィンセント様の求める答えが私の中にはなく、誤魔化すこともできずに口を開閉することしか出来なかった。
そんな私の様子を見て何か察してくれたのか、ヴィンセント様はすっと手を前に出して私の言葉を制する。
「すみません、困らせるつもりはなかったのです。ただ、貴女の視ている世界がどんなものか知りたかっただけなんです」
さながら恋人に囁くような甘い声にうっかり流されそうになる。
今まで否定されていたこの世界を、受け入れようと理解しようとしてくれているのは嬉しい。きっと、もう二度とないことだろう。
けれど、これ以上のめり込んでしまっては、いざという時に戻れなくなる。ヴィンセント様は誰にだって優しいのに、勘違いしてしまいそうになる。···まぁ、完全に私の中の問題だけれど。
お兄さまといい私といい、本当にヴィンセント様は罪なお方。
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そんなことがあってから、ヴィンセント様のご期待に答えるべく精霊について独自で追究してみることにしたのだ。それが可能なのは、少なくとも今は、精霊の姿を完璧に視ることのできる私だけの特権だろう。
人の少ない廊下をひたひたと歩く。
目的はただ1つ、精霊探しの散歩だ。もちろんこの屋敷の主人が精霊に懐かれやすいものだから、主人の側だけでなく屋敷の至る所に黒いモノはうようよと存在している。
これは精霊の問題ではなく、人目の問題だったりする。出来るだけ、奇異な行動をしても気付かれにくい場所がいい。
(あ···)
そんな人目のつかない場所を重点的に探していると、大人しそうな黒い塊と目が合った─気がしただけかもしれないが─。
怖がらせないように屈んで、「怖くないよー」と本物の動物にでも触れるように声をかけて手を伸ばすが。そんな願いも虚しく、私がヴィンセント様に触れた時と同じようにすうっと薄くなって消えてしまい、虚しく空を掴む。
分かってはいたが、実際に目の当たりにしてしまうとショックを受けるものだ。やはり精霊には好かれない霊力なのか。
ユーリア様は、力が強すぎるためだとフォローを入れてくれたが、私の前に筋肉ムキムキで大剣を持った大男が現れれば、相手に悪意があろうがなかろうが恐怖におののいてすかさず逃げ出す。なんなら泣きながら叫びながら逃げる。精霊にとって私とはそういう存在なのだ。
「なにをなさっているんですか」
誰もいないと思っていたのに、急に後ろから声をかけられて飛び跳ねる。
いつから見られていたんだ。廊下の隅でなんにもない空間に手を伸ばす私は、どう考えても不審者である。なんとか自然に感じられる言い訳はないかと逡巡しながら、ブリキ人形のように振り向き見上げれば、可哀想な者でも見るような目で私を見つめるグレイスさんが立っていた。
グレイスさんで良かったのかどうかは分からないが、廊下の隅にかがみ込んで手を伸ばしているこの状況の言い訳は考えなくて良さそうだ。
ついでに彼も視える人なので、ありのまま状況を説明することにした。
「精霊って話したり触れたりできるのかなって思って···」
「で、どうでしたか?」
「逃げられました···」
「ははっ」
やっぱりねとでも言いたげにカラカラと笑う。というか、グレイスさんもぼんやりとは精霊が視えるのだから、私が逃げられていたことは分かっただろうに。
伸ばしていた手を膝の上に戻して、そのまま腕に力を入れて立ち上がる。伯爵令嬢らしからぬ行動は許して欲しい。精霊に触れられなかった手を労わるように、反対の手で揉み込む。そのまま、笑顔を崩さない人物へと目を向けた。
グレイスさんの言うように、触れるかを試そうとしても私では逃げられてしまう。しかし、ヴィンセント様がせっかく私が視ている世界─精霊に興味を持って下さったのだ。出来ることなら確かな答えをお持ちしたい。
─それを試すには、ちょうどいい人が目の前にいるじゃないか。
「グレイスさん、そこに手を置いてみて下さいません?」
「···そこそこ大きな黒いモノがあると認識しますが」
「大丈夫です。ちょっと大きなスライムみたいなものがいるだけです」
「なぜそれを触らせようとするんです!?」
珍しく動揺するグレイスさん。
言い方が悪かったかもしれないが、スライム以外になんと表現したらいいのか分からない。ないことは無いが、形状不明な粘土のようなものとか、小麦粉をこねてパンを形成する前のようなものとか、まどろっこしい言い方になってしまう。
一番、人ならざるものっぽい形ではあるが、精霊からは程遠い形のようにも思える。だからといって他の精霊と変わった動きをするかと言えばそんなこともないので、本質は変わらないのだろうが。
犬だったり猫だったりヒヨコだったりと様々な姿がいるのが、なかなかどうして不思議だ。
精霊は、特に逃げる様子もなく佇んでいる。私たちの言葉は理解しているのだろうか。少なくとも、害を与えられるように感じている様子ではない。
「精霊も嫌がってなさそうなので。さ、どうぞ」
「扱いの雑さはフィオナ様も大概ですよね···」
グレイスさんには負けると思う。
自分のことは棚に上げて、やれやれとため息をつく執事をジト目で見る。降参を示すようにぱっと両手を顔の横で開いたのだが、それはどうやら私に向けてではないようだった。
「あなた達は廊下の隅でなにをやっているんですか」
振り返れば、呆れたというよりはもう慣れたといったように眉を下げたヴィンセント様が立っていらっしゃった。
この精霊屋敷のご主人様の登場である。
執務室の近くではあるが、余程目立っていたのか余程煩かったのか。兎にも角にも申し訳ないことをした。謝ろうと口を開いたところで、グレイスさんの方が動くのが早かった。
「精霊に触れたいそうなのですが、フィオナ様は精霊には好かれ···いえ、逃げられてしまうようでして」
間違いなく彼は「好かれない」と言おうとしたか。
グレイスさんは私の視線など何処吹く風で、ヴィンセント様を精霊の近くへと促した。なるほど、ヴィンセント様が気になっていたのだか
らヴィンセント様が体験してみるというのも道理である。
···触ることで害があるかないかは不明なので、若干、いやかなり不安ではあるが。さらに言うならば、彼は今まで精霊に(悪意はないとはいえ)苦しめられていた人だ。何か起こってもおかしくない。
そんな思いは届かず、ヴィンセント様はグレイスさんに促されるままに精霊へと手を伸ばした。
「············」
祈るような気持ちでヴィンセント様の近くに立つと、ヴィンセント様は息を飲んだ。
視えていないはずなのに、その精霊の存在に心当たりがあるような、なにかを思い出すような、そんな視線を手の先にいるモノに向けた。
言葉を探しているようにも見える。
如何なさいました?というグレイスさんの声に目を瞬き、触れていたモノを傷つけないようにそっと手を引いた。
「いや···」
グレイスさんの声にはどこか上の空で返事をし、何かを確かめるように、精霊に触れた方の手を何度かぐっぱっと閉じたり開いたりしている。
どうだったのだろう。先程の反応からして、何も感じなかったことはないはずだ。余程気持ち悪い感触だったのか、形容し難いような感触だったのか。
急かすのも如何なものかと思い、ヴィンセント様の感想をじっと待っていると、おもむろに顔を上げた。
透き通るようなアメトリンの瞳が、私を見つける。
「···似ているのです」
「え?」
ヴィンセント様は視線を逸らし、何度か言い淀んだあとに私に視線を戻してきた。
なんだ、そんなに言い難いことなのか。
無意識に左胸に手をあてる。
「その···、感触というものはなかったのですが、フィオナ嬢に触れた時に感じる温かさと同じものは、確かに。」
今度は私が息を飲む番だった。
まさか、私が触れると温かいってなんだ。それと同じ感覚が、精霊と触れた時にもあるとはなんだ。
誤解がないように言っておくならば、私は人間だ。間違いなく。可視化できる精霊などではない。
(どういうこと···?)




