16、壮行
必要最低限の荷物をトランクに詰め込みながら、「はぁ」と何度目かのため息を吐く。落胆とかそんな意味ではないのだが···。
ヴィンセント様に出会ってから色々な事が起こるなぁと、王城でのことを思い返した。
────
ユーリア様は、閉じた本の上にそっと手を置く。
視線はまっすぐ、私たちに向けて。
「この文献を信じるなら、ヴィンセントのそれは改善が見込めるということだ。
─まぁ、ずっと触れていなければならないというのが少々厄介だけれど」
なんてないことのようにおっしゃるが、少々どころかそこが1番大問題である。
ダンスやエスコートとはわけが違う。下手したら、その辺の婚約している男女や夫婦よりも···いや、これ以上言うのはやめておこう。
つまり、色々と難があるのだ。
「み、未婚の女性と触れ合うなど···!」
震える声で訴えるヴィンセント様は最後までは言わなかったけれど、ここにいる誰もが考え至ることだろう。
─未婚の女性と男性がひとつ屋根の下で手を繋いだりしているなど、キズモノだとも思われかねない。
忌み嫌われるこの紫の瞳で、ひたすら理解できない話をしていた今までの私のことを考えれば、それは取るに足らないことなのかもしれない。きっと誰も気にしないと思う。
私はただ黙って、2人のやり取りを眺めていた。
「だから行儀見習いというカモフラージュを使っているんじゃないか。ロイシュタイン公爵家に奉公に行ったとなればそれだけで箔が付くし、それでもダメと言うなら僕が直々に相手を探す。」
キッパリと述べるユーリア様に、ヴィンセント様はぐっと押し黙る。
私は気にしていないが、どうやら彼らは私の行く末を大変心配してくれているようだ。申し訳ないやら有難いやら。
「今はまだいいかもしれないけれど、ずっとその状態だとどうなるかは分からないんだ。なにか“よくないこと”があるから、彼らは対策をしたはずだ」
「ずっと触れていなければならない」という部分に意識を持っていかれすぎていてなんとなく末梢的な雰囲気になっているが、本来の目的はヴィンセント様の体質を改善するという真面目なお話だ。
ユーリア様の発言に、私たちの意識は本来の目的に戻った。
ユーリア様は、それはそれは素敵な笑顔で微笑んだのだ。
それはもう、私ですら赤面してしまいそうなほど素敵な笑顔で。
「ねぇ、フィオナ嬢。協力してくれるかな?」
語尾に「さっきは協力してくれるって言ったよね?」と付いてきそうなほど威圧を感じる。
肯定するように、ただコクコクと頷くことしかできなかった。
なんて押しに弱いのだろうか。いや、王太子の頼みなど断ることは出来ないのだから、これは仕方のないことのはずだ。
──────
ユーリア様の言う“よくないこと”。それが何かは分からない。
ただ、何が起こるのかをヴィンセント様を通して知りたいとは思わなかった。
そもそも、ずっと触れて精霊を遠ざけることで長年悩んでいたというヴィンセント様の体調は改善するのだろうか。改善するとして、どの程度まで?
触れなくても普通の人と変わらない生活を送れるようになるのか、はたまた今までよりかはマシだけれども定期的に精霊を遠ざけねばならないのか。
前者だと、いいなぁ。これからずっと、こんな女を傍において定期的に触れなければならないのはヴィンセント様が不憫だ。ユーリア様の有無を言わさない言葉に頷いた私に申し訳なさそうな表情をしていたが、どちらかといえば私の方が申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
彼は、素敵な婚約者を持って、いつか結婚もするだろうに。
─触れる以外にも何か方法があればいいのだけれど。
ユーリア様が見せてくださった本は、歴史上の大発見ではないかと思えるほど貴重な内容がこれでもかと書かれていたが、私たちの状況を考えると些か物足りないような気もしてしまう。
人ならざるモノが精霊だと知れただけでも大きな進歩ではあるのだけれど。
(どうして、私なんだろう)
街に出かけられるような簡素なドレス何枚かを、体重をかけてぎゅうぎゅうと押し込む。
昔から思ってきたことだ。
どうして私にだけあの黒いのが視えるのだろう。どうして私だけ紫の瞳なんだろう。···どうして私は普通の人と同じように生きられない?
(でも)
押し込んでいた手をぴたりと止める。
─誰かに必要とされるのは、嬉しいこと。誰かを助けられるなら、もっと嬉しい。私にしかできないことがある。
ヴィンセント様は初めて会った時、挙動不審な私を蔑んだ目で見るでもなく罵倒するでもなく、笑ってくれた。
人ならざるモノ─精霊がいなくなった時も、気持ち悪がるでもなく「心地いい」とさえ言ってくれた。
どういった感情からくる気持ちなのか分からない。けれど、「この人の力になれるのなら」と強く思う。
もしかして、お兄さまのヴィンセント様に対する気持ちと似ているのかしら?
「フィー」
(!)
誰もいないはずの部屋から声がする。
ちょうどトランクを閉じようとしていた所で、驚いて手が滑ってしまいバタンと大きな音が部屋に響いた。
恨みがましく声のした方を向けば、お兄さまが扉の前に立っていた。
今までうるさく扉を開けていたけれど、今度は静かに開けて入ってきたのね···。毎回パターン変えてこなくていいから、普通に入ってきて欲しい。びっくりサプライズは求めていないのだ。
「お兄さま、いつも言っておりますが、私の部屋に入ってくる時は一声かけてくださいませ」
静かに入ってきた上に急に声をかけてきたせいで、こんなことになってしまったじゃないか。と伝えるように、先程大きな音をたてたトランクに視線をやった。
お兄さまはそのトランクを目に止めて口を真一文字に閉じる。それ以上は感情の読み取れない表情をしていた。
「お兄さま?」と声をかければ、ハッとしたように私に視線を戻す。
「フィーが、ヴィンセント様のところへ行儀見習いに行くと聞いた。···羨ましすぎる!四六時中あの方と同じ空間に居られるなんて!!」
ちょっと様子がおかしいかな?という不安は一瞬にして吹っ飛ぶ。相変わらずのヴィンセント様節でございます、お兄さま。
ただの行儀見習いであれば代わってあげてもいいのだが、生憎と今回のそれは本来の目的ではない。
「お仕事で行くのですよ」
「分かっている。だが···」
もう一度、私と私の荷物を一瞥したあと、ふっと目を細めた。
その様子に思わず瞠目していると、ふわりと私の頭に暖かいものが乗る感触がする。
「フィー、良かったな。行っておいで。」
見上げたお兄さまの表情はなぜだかとても幸せそうで、言葉には表し難いムズムズとした感情が渦巻く。
そんな顔、普段しないくせに。
やっぱり、ちょっと様子がおかしいのかもしれない。
ただ、頭の上にある手の感触に、不思議と懐かしい気持ちになるのだった。
隙あらば登場するお兄さま。
P.S.お兄さま視点書きたいです。