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ティッシュ配りを始めて2時間が経過──振り分けられたダンボールが空になった。切符売り場にある時計を見ると22時前だった。僕はダンボールをコンパクトに折りたたみ、歩道橋へ向かった。
何度も言うが、僕はこの春という季節が好きではない。好きではないのだけれど夜は別だ。春の夜の匂いが何故か好きで、心がすっと落ち着くのだ。理由はわからない。考えた事もなかったが、以前にその事を彼女に話した事があった。彼女は僕に抱きついてきて、『私とどっちが好きなん?』と言った。僕は少し照れて、『春の夜の匂いかな』と答えた。彼女は悪戯な目で僕を見つめて、右頬を思いっきり抓ってきた。この街には彼女と一度も来た事がない。それなのに、見るもの全て、感じるもの全てに彼女が存在していた。
例えば、某デパートのクリアランスセールと書いてあるポスターの女優さん───彼女がメイク等を真似していると教えてくれた。例えば、今通り過ぎた女性からは、彼女が使っていた香水と同じ匂いがした。そんなこんなで、何処にいようと、何をしていようと、まだまだ彼女の幻影から逃れられずにいた。このティッシュを配っている時間以外は。
「お疲れ!」
歩道橋の下に、レプ、江戸やん、李君がいた。李君が大きな声で『お疲れ!』と叫んだ。僕は足早に彼等の元へと向かった。夜はまだ少し肌寒く、春の夜の匂いが、丁度よく身体に染み込んでいくのを感じた。
「お前、めっちゃティッシュ配るん速いらしいな」
「自分でも驚きの才能。マジで『無』やったし」
李君は馴れ馴れしく僕の首に両手を回して、甘噛みならぬ、『甘ヘッドロック』をかましてきた。
基本的にそういう馴れ馴れしい奴は嫌いだったが、この李君に対しては嫌な感じが一切なかった。むしろ、『嬉しい』に近いものだった。あまり褒められた事がないからだろうか、あるいは、彼から特別な何かを感じたからだろうか──。
「お前ら、ほんまありがとう! 約束通り、飯奢るわ」
「めっちゃ腹減ったし! 江戸やんは?」
「近ちゃん、めちゃくちゃ減ってる」
「よっしゃ! 俺がよく行くバーガーショップあるからそこに行こうぜ!」
ティッシュ配りを終えた僕等は、李君の奢りでバーガーショップへと向かった。