चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-
レクイエム
私はもうじき死ぬ。どういうわけか、私にはそれが明らかであった。そうと知った途端、心なしか体調が急激に悪化してきた。あと数時間も持たないだろう。自分の心臓がそう告げた。
さて、この世から旅立つ前にやっておきたいことを昔から考えてきていたので、遂に実行する日が来たかと思うと少し感慨深い。そんなに沢山のことではない。どうせあと少しの命なのだ。やりたいことはただひとつだけ。
「アリスや、」
まず、自分の愛しい一人娘を呼び寄せた。アリスに続いて三人の孫たちも一緒になってぞろぞろ部屋に這入ってきた。
「どうしたの、お父様」
「急にな、お前たちの前でピアノを弾きたくなったのじゃ」
ちょっとしたコンサートを開こうと思うてな。私の部屋は以前は音楽室と呼ばれた部屋だった。その名残で、やや広めの空間の壁に近いところに古いグランドピアノが置いてある。
「私は仕度をするから、お前たちは皆を呼んできておくれ」
アリスと孫のリリー、エド、ジェーンはそれぞれ駆けて出て行った。その間に私は一番お気に入りの服装に着替えて待つ。
程なくして、屋敷中の人々が集まってきた。リリーにエプロンの裾を引かれて来た料理人がボウルと小麦粉の袋を持ったままであることから、皆それぞれ何かしら仕事や作業の最中だったらしいと推察できた。エドはきっと誰が何の用事で呼んでいるのかを伝えなかったのだらう、靴磨きがほんの少し不機嫌な面持ちで、靴とクリームの瓶をぶら下げている。
私はピアノの前に立って咳払いした。
「皆、忙しい時に突然呼び出してしまって悪かったのう。今回集まってもらったのは他でもない、私の演奏を久し振りに聴いてもらいたくてな。急なことで申し訳ないが、年寄りのさいごの頼みと思って、我慢してほしい」
異を唱える者は誰ひとりいなかった。私が座るように促すと、人々は三々五々座った。孫たちはアリスにくっついて座った。私もピアノの前に座ると、ジェーンが母親に訊ねた。
「ジョージおじいさまのピアノ? おじいさまは、ピアノを弾くの?」
ああ、そうとも、ジェーンや、その通り、私は心の内でアリスに代わって答えた。お前の祖父のさいごの演奏だよ。よく聴きなさい。
***
私は、この家が代々継いできた仕事を継ぎ、それなりに財を築くことで、何百年も続くこの屋敷を保ってきた。その家業の傍ら、昔から嗜んできた音楽の才を生かして作曲活動をし、まあまあ名の知れた作曲家としての一面も持っていた。これから弾くのは、私の曲の中で最も有名と言われている作品で、水のような繊細さと煌めき、そして悲愴さを表現したものである。芸術の何たるかを追い求めた、かの詩人ベルトランBertrandに対峙した悪魔・夜のガスパール氏は彼に渡した原稿の中で斯く語りき。
――芸術は常に対照的な2つの面を持っている。言ってみれば、片面はポール・レンブラントの、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。(アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール レンブラント、カロー風の幻想曲』及川茂訳、岩波文庫)
私はこの曲の中で一生懸命水を表現した。そうして、持てる力を尽くして、演奏者と、聴衆の前に伝説の妖精を創出したのである。生み出された妖精は、伝承のように、私たちを海底にある城に誘ってゆく。甘美で、倒錯的で、透き通るようなその声は、聴く者すべての神経を刺激し、誘惑する。
「聞いて! 聞いて!」
水飛沫の跳ね上がるような軽やかな舞踊は、己の思慕の情乃至求婚の儀の成功には些かの疑念も抱くことがないような、明らかな自信に満ち溢れたもので、命に限りある人間である私たちも思わず連れ立って踊ってしまいそうであった。水の中は地上と異なってからだがゆったりと運動し、時に言うことを聞かないのだが、妖精はそんな私たちの手を取って、一歩ずつ、優しくリードしてくれる。息が苦しいのはとうの昔に忘れてしまった。彼女が微笑み掛けてくる。私たちも微笑み返した。
妖精の歌声もまた、普通のおとなを優に二十人はいっぺんにとりこにするほどの魔性の響きで、煌びやかで、蠱惑的で、愛情に満ちていた。
しかし、別れの時は唐突にやってきた。妖精が、その玲瓏たる美声で、我が指輪を受け、我が城の主となるよう求めるのを、有限の時間を生きる人間が拒むことで、彼女は泣いて悔しがり、やがて高らかに笑いながら波のひとつとなって消えるのであった。
***
次の題目も、私がまだ若かりし頃に書いたもので、大地を統べる神を讃える歌の中で、地上に咲く花たちが歌うものであり、その中の一節『秘密のひと時』なる、一瞬の風の吹く中に佇むような曲である。この曲を書いた当時の私は、この花の優美さをあらわすのに苦心したものだった。まだ経験も浅く、余裕もない時期の作品で、いくらか技巧に走った臭いのする感じではあったものの、最終的には何とか予定されていたサイズに収まって、楽譜と相成った。予定されていた、とは、当時私は隙あらば名前を売ろうと、いくつかの演奏会に対して自分の曲を持ち込んでいたのであり、それの完成期日や演奏時間などが予め決められていたのである。
私の頭の中で描かれていた筋書きはこうである。身分が懸け離れた男女が、ひとの目を盗んで、或いは垣根の向日葵に隠れて、或いは偶然と必然の折り重なる路上の片隅で、こっそりと逢瀬の甘いひと時を味わうのである。それも頻繁に会えるわけではないから、その一瞬一瞬を忘れまいとお互いを見詰め合い、手を取り合うのである。この時間は、誰も邪魔するものはいない、完全なる二人だけの時間。やがて二人は躊躇いがちにゆったりとしたワルツを踊り始める。濃厚な花の香りが漂う夕暮れ、これは間もなく危険を孕んだスリリングな禁断の恋を象徴することになろう、そういった香りを、私なりに音にした次第である。締め括りは、舞い上がる花弁のようなアルペジオを用いた。
***
演奏が終わる毎に、観客は拍手をしてくれた。さいごにもう一曲だけと、そう前置きして私は短い前口上を述べた。
「次の曲は、まだ私は世に出していない、まったく新しい曲なのだ。もしかすると、聴き慣れない、或いは嫌と言うほど聴き慣れた、そういう不思議な気持ちにさせるかもしれない。それは人それぞれだとは思うが、どうか最後まで聴いてほしい。
「私はこの曲を、私の家族、それと私たちに仕えてくれる者たち、それから――私の亡き妻に捧げようぞ。殊、私の娘、そして孫たちは、仮令私がいなくなったとしても、自分をしっかり持ち続けて、これから先を生き抜いてほしいと、そう思う。そういう願いも込めて、さいごの曲を弾こう」
仮令。――自分のことながら分析するとすれば、運命を先延ばしにしようと、深層心理ではそう考えているのかもしれない。「私がいなくな」るのは、あと数分後である。これは確定未来である。私の心臓よ、どうか、私の演奏会の終わりまでもってくれたまえ。曲の演奏途中で途切れようものなら、私は死ぬに死ねないではないか。
先ほど述べた通り、私はこの曲を、完成してからは一度も披露したことがない。正真正銘の初演を、我が人生の終焉に持ってくるとは、我ながらユーモアの効いたジョークである。しかし、それを笑う余裕も、私にはもう残っていないらしい。せめて、この曲は無心で、さいごまで演奏しきることを念頭に、指をそっと鍵盤に乗せた。
***
曲が終わりに近づいてきた時、瞼の裏に走馬灯のようにこれまでの人生が蘇った。願わくは、我が子孫は、私と同じ轍は踏まないでほしい。
アリス、私は君に十分な愛情を注いであげることができただろうか。少なくとも君は、君の子供たち皆に平等に愛を注いであげてくれたまえ。そして、君の夫と、楽しい人生を送って呉れることを願っているよ。
リリー、エド、ジェーン、君たちのこれからの人生は長い旅になるのだから、広く視野を持って、それぞれ立派に世界に羽ばたいておくれ。その様をこの目で確かめてあげられないことが、心残りだ。
頭の中でさいごの一小節が見えたとき、天から一筋の光が差し込んできた。その光の先で、美しい一人の永遠の女性が私に笑い掛けていた。
ああ、私の愛しい妻、ヘルガよ。君が先に旅立ってから早十数年、私はずっと君が恋しかったよ。
――もうすぐ、君の許へ行くからね。
私は、私自身の書き上げたさいごの曲を、さいごの力で弾き終えると、そのままの恰好で動かなくなってしまった。屋敷の皆の拍手に包まれ、私は衆人環視の中、そのくせ人知れず、息を引き取った。
…Requiem
『चंद्र讚歌』シリーズ連載はこれにて終了です。
楽しんでいただけたでしょうか。
毎週更新は自分にとって初の試みで、なかなか思うように筆が進まず苦労したこともありましたが、この経験は間違いなくプラスになったと感じています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
This is the end of “La L’inno per il Candra” series. I hope you all enjoyed reading my works.
It was hard work for me to upload a story every week and sometime I had difficulty on writing or creating the new idea. However all the things that I experienced for these 3 months are the VAIRY treasures.
Thank you for your reading, and I hope you again see and read my pieces.
Hidari CEKI,
関ひだり