名のない画家の半生
地面に、木の枝で絵を描く。下手くそ。描きたいものにこれぽっちも似てない。グリグリと上から描き潰し、また同じ様な絵を描く。何度描いても納得がいかない。
ふと視界が涙で歪んだ。ぽたっと地面に吸い込まれたひと粒の涙は、あっけなくその跡を消していく。自嘲気味に笑い、空を見上げた。
大きな雲のかたまりが、いくつもいくつも流れていった。雲についた陰影と、空の色コントラストがあまりに綺麗で思わず息を飲む。——儚い青から薄いオレンジ色が混じり合った、神秘的な空の美しさ。太陽の光に雲は輝き、その反対側は陰る。雲の隙間からは光が漏れ、どこか彼方を差していた。
あの家で一度だけ見た宗教画の様だ。立派な額縁に入った、大きな絵。天使がいる華やかな天界は皆笑顔だ。花は咲き、果実は実り、神々は酒を酌み交わす。……そしてその天界の下には不毛の大地が広がっていた。飢えと病で苦しみ這いずり回る人々。死体は積み上がり、血濡れた剣を持つ男の隣には悪魔が立つ。
天国なんて信じちゃいないけど、こんな美しい空を見たら、そう思えてもしょうがない。俺がいる地上は、絵の地獄そのもの。だけど下界でどれだけ騒ごうが、空はただただ美しく通りすぎるばかり。何の関心もない。天国というのはそういう所だ。
俺はまた足元に視線を戻し、また木の枝で絵を描き始めた。どうしたら描けるんだろう。何度も何度も描いた。陽は少しずつ傾いていく。
変な男に出会った。見慣れない服を着た、黒い髪の毛のおっさんだ。大きな古びたリュックをからい、手には杖を持っている。初めて見る人種で、俺が地面に絵を描いてるのを見るとニコニコと近寄ってきた。言葉は通じない。おっさんは自分の杖の先で地面に絵を描き始めた。……それが、驚くほど上手だった。俺は絵の描き方を教えて欲しいとねだった。でも全然伝わらない。家族が誰ひとり居なくなってしまった俺は、去りゆく黒毛のおっさんに強引に着いて行った。歩き出して分かったが、俺の体は空腹と喉の渇きを長時間訴えていたようだ。しばらく歩き、視界は暗転し、そこからしばらく記憶がなかった。
黒毛のおっさんは、名前をケンタと言った。ケンタは不思議なやつだった。勝手に着いてきた俺に驚きながらも、ケンタの行く先々に俺を連れて行ってくれた。と言っても目的地はないようなので流浪の旅だ。金が必要になると、料理を作りそれを売ったり、病人に薬を煎じたかと思えば、吟遊詩人のように流暢な物語を歌って聞かせ、懐を満たしていった。
ケンタは色んな事を知っている。互いの言葉に歩み寄り、コミュニケーションが取れる様になると、俺は色々な質問をした。ケンタはその全てに通じていて、全部に詳しく答えてくれた。
ある日ケンタが聞いた。
「何で俺について来たんだ? 俺が悪いやつだったら、お前殺されてたかもしれないんだぞ? 」
「……別に殺されても良かった。生きてても意味はない。でも、あんたみたいに上手く絵を描きたかった。だからついてきた」
絵が上手くなりたいというと、ケンタは笑って「じゃあ教えてやるよ」と言った。
「絵が上手いってどういう事だと思う? 」
2人して地面に落書きをしながら、ケンタが問う。俺は考えても、いまいち答えがまとまらない。上手いってどういう事だ? 綺麗に描ける事? でも綺麗に描くって何を? 俺が困っているとケンタが笑ってフォローしてくれた。
「はは、別に難しく考える事はないさ。上手いってのは、自分が思う通りに描ける事だよ。複雑でも単純でも、こう描こうと思った通りに描ける事。だけどこれが難しいのさ」
ケンタはそう言うと、地面に描いた落書きを一旦消し、何かを書き出した。
「例えば、昨日街で馬見たよな? 思い出せるか?」
馬。茶色い大きな動物で、とても美しかった。ありありと思い出せる。
「じゃあそれ描けるか?」
そう言われて俺は地面に馬を描こうとした。でもいざ描こうとすると、どこから描いていいのか分からない。頭ではしっかりイメージ出来るのに、それが描く瞬間になると急にモヤがかかるんだ。細部を思い出そうとしたら、頭の中の馬はとたんにあやふやになる。俺がそうしてちんたらしてる間に、ケンタは大きな馬の絵を描き上げていた。印象的な顔と立派な体躯にスラッとした4本の足。たてがみと尾は風に揺れている。力強いその絵は、昨日見た馬そのものだった。
「すごい……」
思わずため息をついた。
「思い通り描く、というのは頭の中でにイメージしたものをそのまま描く事だ。この"そのまま描く"というのが難しくてな。練習がいるが、やればめっきり上達するぞ」
そう言うと、ケンタは俺に林檎を描いてみろと言った。林檎なら簡単だ。地面に木の枝でガリガリと書き始める。上手く丸をかいて、ちょんと枝と葉っぱを描いた。ケンタはふむふむと言いながら、さっき描いた馬を消して自らも林檎を描き始めた。
「一見単純に見える林檎も、よく見ると面白い形をしている。この辺りの林檎は小ぶりで、横からみた形は正円ではなく、下に行くにつれくびれている。真上にあるくぼみは、横から見るとこう、少し角度を上げて見るとこうだ」
ケンタは喋りながら、器用にいくつも林檎を描いていく。
「どうだ、林檎も簡単そうで難しいだろ」
俺は素直に頷いた。ケンタの描いたものと俺のは全然違う。
「俺とお前の違いはな、イメージしたものを絵に起こす能力が、俺の方がちょっとだけ高いって事だけだ。お前もいい線行っている。これは訓練でどうにかなる」
ケンタは不敵に笑うと、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
その日からしばらく俺はその辺に生えている花や木の実を見ながら一生懸命絵を描いた。最初は出来るだけ単純な形。相変わらず地面にガリガリと木の枝で描きながら頭の中でケンタの教えを反芻した。
「素描——デッサンはな、頭の中のイメージを正確に描く練習なんだ。実物を見ながら描くから、イメージじゃないと思うかも知れないが、対象物に視線合わせたまま絵を描く事は出来ない。ちゃんと手元を見ないと描けないだろ? 視線がモチーフからキャンバスに向かうと、視界からそれが消える。いざ描こうとする時頼りになるのは、脳の記憶、つまりイメージとなるんだ」
ケンタの言葉には時折分からない単語が出てくる。でも何となく分かる。
「強いイメージを持つ事、イメージをより具体的に描写する事、これが思い通りに絵を描く1番のポイントだ。まずは簡単なものからデッサンしていき、徐々に複雑な形にしていく。コツなんてない。ひたすら練習だ。だが、やればやるほど上手くなる。脳と腕のシンクロ率を上げるんだ。お前は林檎が描けた。大丈夫だ、お前ならやれるよ」
ある日ケンタが薄い石板を持ってきた。綺麗で四角く、思ったより軽い。それと棒状の木炭。その木炭で絵を描くと、いつもかく地面に比べ驚くほど鮮明に描けた。濃淡もつける事が出来る。ナイフで先端を削ると細部まで描けるし、洗い流せば石板に描いた絵は消える。俺はケンタに礼をいい、またひたすら絵に没頭した。
何回も何回も描いて、俺はケンタに「上手くなったな」と褒められた。そして、俺はずっと描きたかった絵を描こうと思った。
綺麗にした白い石板に、まずアタリを付けていく。最初は薄く、大まかな形を描いていき、段々と濃ゆくして詳細を書き込んでいく。輪郭、顔のパーツ、髪を描いていくとどんどんそれらしくなっていった。目を書き込んだ時は急にその人らしくなった。最後に微笑む口元を描いたら完成だけど、それに近づくにつれ腕が震え、目から涙が溢れていった。
ケンタが横から覗き込んだ。
「綺麗な女の人だな。上手く描けてる。お前の好きな人か?」
イタズラっぽく笑うケンタ。俺は絞り出すように声を出した。
「……母、親」
するとケンタは特に何も言う事なく、「そうか」と告げると俺の頭をぽんぽんと撫でた。どんな表情をしていたかは分からない。
その時ちょうど、口元を書き終えた。あの頃の母が俺に微笑みかけてきたような気がしたた。
俺は堰を切ったようように泣き出してしまった。情けなく声を張り上げて。石板にはしっかりと微笑む母の姿絵。最後に見たあの悲しそうな顔じゃない。死ぬ直前まで泣きながら謝っていた母じゃない。
俺が大好きだった笑顔の母だった。
……母が死んだ日、俺は人を殺した。母を辱めて殺した男だ。そしてそいつの家に飾ってあったあの天国と地獄の絵を、俺は忘れられない。人を殺したというのに、母が死んでしまったというのに、俺はその絵に心を奪われてしまったんだ。すごく綺麗な絵だった。綺麗なだけじゃなくて醜悪で残酷だった。あの日以来、俺の心の真ん中にずっとその絵は居座り続けている。
絵の中に血濡れた剣を持つ男がいる。悪魔に囁かれ、人を殺したのであろう哀れな男。あれはきっと俺だ。天国を仰ぎ見る事なく、地面に這いつくばり、生き続けて罪を背負う。そんな俺を裁きもしない天国は、やはり下界の地獄にはさっぱり興味がないんだと思う。どうして俺は生きているんだろうな。
俺はただただ泣き続けた。空は綺麗に晴れ渡っていた。
◇
それからしばらくして、俺は随分長いこと一緒にいたケンタと別れた。描きたい絵があるからだ。幸いな事に、俺は他の奴等よりちょっとだけ見た目が良かったので、とある貴族のパトロンを得た。贅沢な画材で絵を描く事が出来た。時折婦人が遊びに来るから相手をする。俺はいわゆる愛人だった。
描いて描いて描きまくった。発表する場もなく、絵だけが積み上がっていく。
婦人の事は、別にこれっぽっちも執着がなかった。求められるがまま体を差し出すだけ。それは俺が絵を描く代わりに払う対価だ。知らない間に体の中でくすぶっていた欲求を、ものも見事に婦人は受け止める。そして決まって最後は口づけをし、何食わぬ顔で部屋を後にするんだ。
俺の心はどこかおかしい。きっとあの時に壊れたままだ。人を見ても何も感情が揺さぶられない。俺の心を動かす事が出来るのは絵だけだ。随分前に見た、あの天国と地獄の絵だけが俺を生の支配していた。
——つかの間、夢を見た。
特別に綺麗でもない女の子が、恥ずかしそうに微笑んでいる。
ほんの気まぐれで俺はその子をキャンバスに描いてみた。夢で一瞬見ただけだけど、随分デッサンをしてきた甲斐があって、その一瞬のイメージをぴったりと記憶し、そのままを描く事ができた。その少女を描く間、少しだけ、いつもより幸せな気分になった気がした。気がしただけかもしれない。何せ俺は壊れている。
描き上がったその絵は、今までと同じく部屋の片隅に積まれていった。そして俺は今日も絵を描く。明日も明後日もこの先ずっとそう。死ぬ瞬間まで絵を描き続けるだろう。俺は人を殺した罪人で、感情が壊れた欠陥品だ。でも許されている。俺の唯一の糧である、絵を描く事が許されている。罪を償う事なく、ひたすら生を貪っている。これで良いんだ。
だって天国は、下界の様子など気にも留めてないのだから。
◇
ep.
資産家が集う大広間には、贅沢を凝らしたシャンデリアが吊るしてある。中は大いに賑わい、ウエイターが淡いゴールドのシャンパンを客へと運んでいる。
騒めく聴衆のなか、カンカン、と甲高い木槌の音が響いた。
「——本日最後は、こちらの絵画でございます。あの幻の"unknown(作者不明)" シリーズの中でも特に異彩を放つ逸品、『微笑む少女』。今夜はこちらをお目当に来られた方も多いでしょう。絵画収集家の間でも特に人気の高い——」
カンカン、と甲高い木槌の音が響いた。
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