前夜
〜 1週間前 〜
メタルマッチを擦ると火花が飛び散り、麻縄をほぐしてワセリンを馴染ませた火口が燃えて辺りが一気に明るくなった。そこに乾燥した松の枯葉に引火させ、その上に枯れ枝をくべていく。
焚火を起こすとチラッと乗用車の助手席を倒して寝かされた男を見る。その男はガタイのいい体躯をしているが、左肩に包帯を巻かれ額には水袋が載せられて具合が悪そうな顔をしている。
「社長。岩田さんの容態が悪いですね。早く病院に連れて行かないと危険です」
焚火を起こしていた男が社長に小声でささやく。
「そうは言ってもな。救助が来るまでここを動けんしな……」
社長と呼ばれた人物は上着を脱いだスーツ姿で眉間にシワを寄せて考えこむ。50代前半で精力的な顔をして上等なスーツを着ていた。
「あの状況を考えると救助が来るとは考えにくいですよ」
「菱木はどう考える?」
社長は焚火を起こしていた男である菱木に問いかけてきた。菱木弘は20代前半でラフな格好をしていて、引き締まった体付きを社長に向きを変えた。
「どうもこうもここは日本でいて日本じゃないと思いますよ。あのトレーラーを中心にして20mがすっぱりと切り取られたように先導車も道路も繰り抜かれてますからね」
「考えられんが……」
「実際社長も見たでしょ? 先導者のジープも車の中心から後ろ側しか残ってないし、綺麗に切り取られてる。その下のアスファルトもそうです。県道が何の標識もなくすっぱり無くなっているわけ無いでしょう」
社長は考えこむように沈黙してしまった。もう何度も繰り返されたやり取りだ。
その時、社用車である黒塗りのベンツの後ろ扉がバクンと開いた。
「いつまでここに入ればいいの? どうなってるのよ。 菱木君、あなたは街まで助けを呼んできなさいよ」
スーツを着た女がヒールを苛立たしげにコツコツと鳴らしながら車から出てきた。これも何度も繰り返されたやり取りだ。
「だからこの先も後ろも道が無いんですって。夏木さんも見たでしょ?」
「こんなことありえないわ。どうしてくれるの!」
夏木と呼ばれた女性は20代中盤でスタイルが良い美人で、女性物のピシっとしたスーツとタイトスカート姿でまるでテレビドラマに出てくる有能な秘書役を彷彿とさせた。
「そんなこと言ってもねぇ」
菱木は昨日の深夜に起こったことを回想し始めた。
俺は深夜にベンツを運転していた。職業は運転手だ。ぶらぶらとしていたのだが金が尽きたので、今の会社に雇ってもらった。この会社は軍事用の機械を研究開発しているようだが良くは知らない。社長付きの運転手なのだが会社の社員達にはバカにされているようだ。
後部座席には社長と夏木さんが乗っている。この夏木美玲が特に俺をバカにしている。夏木さんは社長と一緒に動くことが多いので目につきやすいのかもしれないが。
夏木さんは秘書兼研究者のようだが、その言動から社長の愛人なのではないかと俺は睨んでいる。いちいち社長にベタベタした感じが男女のそれを感じさせている。
深夜に山間部の県道をトレーラーや軍用車が一塊りになり走っている。俺はその集団の中心部に位置してベンツを運転している。前には自衛隊のジープ、それと後ろを走るトレーラー。このトレーラーに自衛隊に試験導入する秘密兵器が乗っているらしい。
県道ではあるが街灯一つ無く、車のライトだけを頼りに走って行く。おまけに土砂降りで、前を行くジープのテールランプが見えるのが、心強く感じるほどの豪雨と言ってよい。
「……凄い雨だな」
思わず独り言が口に出てしまう。
出てしまってから、バックミラーを覗く。独り言を呟いていると文句を言ってくる女が同乗しているからだ。
バックミラーを見ると後ろを走っているトレーラーに違和感を感じた。
「……ん?」
バックミラーを動かしながら注意を払う。
「菱木。どうかしたのかね?」
社長が俺の動きに気付き声を掛けてきた。
「いや……。後ろのトレーラーの上についているパラボラアンテナが動いている気がして……」
「そんなバカな……」
夏木さんが横から口を出してきた。
「動くわけ無いでしょ? 今は走行中よ。それにこんな山間部で動かして何かあるわけ?」
「いや〜。でもアンテナに付いているLEDが点灯して動いている様に見えますが……」
社長と夏木さんが後ろを振り向く。
「……確かに動いているな。夏木君、原因は分かるか? 連絡してみれくれ」
「……分かりました」
夏木は社長には殆ど口答えしないので、大人しく携帯を手に取る。だが、圏外になっているのか、通信機に手を伸ばした。
「聴こえます? こちら夏木。アンテナが動いてるようですけど」
夏木はトレーラーの同乗者と話したが、原因が分からないようだ。そして、PCを取り出し、遠隔でアンテナを止めることにしたようだ。
「原因が分かりません。トレーラーの乗務員も何も手を触れていないようです。……最も運転席に動かせるような設備はありませんけど」
PCをカチャカチャとタイプしながら喋るが何故か可愛くない言い方をする。
そう思った時、突然爆発音が聞こえ前を土砂崩れが起き、道を塞がれた。
「な、なんだ?」
社長が慌てたように見渡す。
二度目の爆発音が後方から聞こえると後ろ側の道路も土砂崩れが起こり完全に道を塞がれた。
トレーラーから同乗者で自衛隊の警備責任者である岩田曹長が飛び降りてきて前のジープに走っていくのが見えた。
「どうしたんですかね……もしかして襲撃?」
「バカじゃないの? こんなところで襲撃なんてあるわけないでしょ」
俺の呟きに反応して夏木さんが言い返してきた。
「じゃあ、なにが……」
俺が夏木に聞こうとした瞬間に土砂降りの中を走っていた岩田曹長の体が横にズレて倒れて動かなくなった。
「え?」
その瞬間、落雷が起こったかのようにカッと辺り一面が光に包まれた。
※ワセリン 薬局で売っているホワイトワセリンのことで石油から得た炭化水素類の混合物を脱色して精製したものです。主に皮脂の保護に使います。
コットンボールや麻縄に馴染ませてやると火口が長時間燃えて火をつけるのが楽になります。