三部作の上です。
序章
目覚めの瞬間が訪れた時、蒼奏斗には、ここがどこなのか咄嗟には判断がつかなかった。
慣れ親しんだベッドの感触は、そこにはない。背中には、硬くて冷たい木質の床。樹脂塗装がなされ、滑らかな光沢を放つそれは、見間違いでなければ体育館の床フロアだ。
仰向けに寝そべったまま、顔を正面方向に戻す。視界一面に広がる天井は抜けるように高く、煌々と点けられた照明が寝ぼけ眼にまばゆく降り注ぐ。
ぱちぱちと瞬きをし、それから奏斗は、ゆっくりと上体を起こした。
「……? あれ。オレ、何してたんだっけ……?」
前後の記憶がない。軽い頭痛に顔をしかめながら、いまだ覚醒しきらない脳で記憶を辿ろうとし――それに気づく。
「何だよ……コレ……?」
何気なく見下ろした自分の姿に、ぎょっと目を剥く。視界に映るのは、体を横切るように入った白と黒の鮮やかなボーダーラインの衣服。それだけではない。腕にはギラリと輝くブラック・アルミの手錠が左手首にだけ装着されており、首元の冷たい感触に恐る恐る両手を持っていくと、まるでペットか何かのように極太の鎖が巻きつけられていた。これでは、まるで囚人だ。もちろん、奏斗はこんな趣味の悪い服など持っていないし、ましてや手錠や鎖に繋がれる趣味があるわけでもない。
と、そこで初めて気づく。
この体育館にいるのは奏斗だけではなかった。奏斗の通っている私立高校のほぼ二倍はあろうかという広大な敷地面積の体育館内には、老若男女、様々な人々が存在している。その数、ざっと百人以上。男性はズボン、女性はスカートと、デザインに若干の差異こそあれ、誰もがみな同じ囚人服を身にまとい、一様に動揺した面持ちを浮かべている。
「どうなってんだ……?」
見知らぬ体育館に集まる囚人たち。まるで、どこぞの刑務所にいるかのような異常な光景。
「ママー。ココどこー?」
囚人服を着せられた小さな男の子が、同じく母親と思われる女性を不思議そうに見上げている。近くには父親らしき男性もおり、眉間にしわを寄せて慌ただしく周囲を窺っていた。どうやら事態が把握できないのは、奏斗と同じらしい。
『ぴんぽんぱんぽーん☆』
ふいに瑞々しい果実のようなアナウンスが耳に飛び込んできた。音源は体育館の各所に設置された屋内スピーカーのようであり、突如降って湧いた少女の声に、人々の注目が一心に集められる。
『はいは~いっ! お集まりの、みなみなさぁ~ん! 今回は〈ボーダーランド〉攻略ツアーにご参加いただき、マコトにありがとーございまーすっ! ってことで、まことに申し訳ありませんが、お時間の方がございませーん。早速ですが、予選を開始したいと思いまーすっ☆」
『〈ボーダーランド〉ぉ?』『予選?』『それより、ここはドコなのよォ!』『こんな格好させて、一体どういうつもりなんだァ!』
少女の発言を皮切りに、人々の間から次々に罵声、怒声が飛び交っていく。体育館内が一気に騒然とする中、しかし声の主は微塵も動揺を滲ませることなく、滑らかに言葉を紡いでいく。
『これから〈試練者〉の皆さまには、ここであるゲームをしてもらいまーすっ……っと。その前に、ご紹介が遅れましたー。わたくし、このツアーの責任者を仰せつかっております、トロメアと申しまーすっ。よ・ろ・し・くー☆』
とろ……めあ……?
突然の自己紹介に戸惑う奏斗を余所に、『ではでは、皆さま、中央にご注目~☆』と、トロメアと名乗る少女の声が続けられる。きゅるきゅると鳴る異音にふと視線を上げると、そこにはワイヤーロープで吊るされた大型液晶モニターが天井から次々と降下してくる光景が見えた。どうやら外部からの命令を受けて作動しているようだ。ほどよい高さで停止すると、直後に電源が入ったモニター画面に、一人の少女が映し出される。
『はーい! というわけで、早速ルールの説明に入らせていただきまーすっ☆』
登場した美少女が、愛くるしい微笑みを咲かせて元気いっぱいに告げた。清潔感のあるベージュのブレザーに、旬の野イチゴを思わせる鮮やかな赤いチェック柄のスカート。小動物を思わせる大きな丸い瞳と小柄な体躯が可愛らしく、モニター越しにも年齢はかなり幼く見える。
この子が、トロメア? 長めの前髪を指先で払い、モニターに映る可憐な少女に、じっと目を凝らす。名前と深い海色の瞳から察するに、外国人の子供だろうか? それにしては、やけに日本語が達者だ。発音には、ほとんど違和感がない。いや、そんなことよりも、先ほどの責任者という発言は、一体どういう意味なのだろうか。彼女自身、どう見ても小学校、それも低学年くらいの子供にしか見えない。
困惑する奏斗を余所に、少女はハニーブラウンのツインテールをぴょこぴょこ揺らしながら一度画面外に出ると、よいしょよいしょと何やら奥からホワイトボードのようなものを引っ張り出してきた。予想外の展開の連続に、頭のてっぺんに血が上った人々も、たまらず声を失っている。
『ルールはカンタンでーすっ☆ まずは、こちらをご覧になってくださーいっ」。そんなこちらの様子を知ってから知らずか、トロメアがマイペースに背後のホワイトボードへ注意を促す。『皆さまの胸元、えっと正確には左右の鎖骨の中央下辺りになりますかねー。キレーなクリスタルちゃんがあると思いまーすっ!」
自身の制服の襟元付近を指差すトロメアにつられ、奏斗も下方に視線をずらし──すかさず驚きの声を上げた。
「……な、なんだよ、コレ!?」
そこには、まるで肌と一体化するように、奏斗の胸元に光るティアドロップ型のクリスタルが埋め込まれていた。
『そのクリスタルちゃんの正式名称は〈ペインハート〉と言いましてー。この場にいらっしゃる〈試練者〉の皆さまにとっては特に重要なものなので、絶対に壊したり、無くしたりしないでくださいねー☆』
壊したり、無くしたりと言われても、体の中に半分埋まってるんじゃ、そんなことできようもない。にわかにざわつき始める人々の反応を楽しむかのように、トロメアが抑揚豊かに続ける。
『それでは皆さまー。もう一度、こちらをご覧になってくださーいっ☆』
こう矢継ぎ早に話を振られては、物思いにふける余裕すらない。引っ張り出されるように、奏斗はモニターに意識を戻す。『そんな、ちょー大切な〈ペインちゃん〉は、すっごく優秀な子なんですよー。ほらほら見てくださーい。今この〈ペインちゃん〉から、数字が出てるのわかりますかー?』
奏斗たちと同タイプの──何やら〈ペインハート〉と言うらしい──を手にしたトロメアに、ぐいっと画面がフォーカスされる。見ると、彼女の手にある水晶を基点として、ぼんやりと数字が浮かび上がっていた。分かりやすく言えば、裸眼で視認できる立体映像といったところだろうか。表示されている数字は【0・0:4】。一番上が青、真ん中が赤、一番下が黒と、各色が振り分けられているところを見ると、どうやらそれぞれの数字が独立した意味を持っているらしい。
『どうですかー? いかにも、サイセンタンって感じがしますよねー☆』
くるくると楽しそうにスカートを翻す少女を、人々は呆気に取られて眺めていた。どうやら怒りを通り越して呆れてしまっているようだ。それも無理ないだろう。今こうして画面の中で繰り広げられる光景は、ただ無邪気に子供がはしゃいでいるようにしか見えない。
『はい! というわけで、今から〈試練者〉の皆さまにも機能をオンさせてもらいまーすっ☆』
『えいやあっ☆』の脱力するような掛け声とともに、奏斗たちの〈ペインハート〉が、どくんと脈打つように輝いた。何が起こったのかと、あたふたする奏斗の隣で、母親と一緒の男の子が『ママからも数字が出たー!』と、はしゃぎ声を上げる。
『あは☆ スゴいでしょー? でもでも、こんなのはまだまだジョのクチなんですよー? この子ってば実は……っと。これは、まだ言っちゃいけなかったんでしたーっ☆』
わざとらしく口元を手で覆い、えへへと可愛らしく舌を覗かせる。
『お話がズレてしまいましたー。説明に戻りますねっ☆』。小首を傾げ、ピンとトロメアが小さな人差し指を一本立てる。「今、皆様の前にある数字は、これから行われる予選に使用されるものなんですっ」
そう言われても、まずその予選というのが何なのか分からない。そもそも、ここがどこだかすら把握していないというのに。
しかしそれらについての説明は一切なく、少女が嬉々として桜色の唇を動かしていく。
『あ、その前に一つ、お気づきですかーっ? 実はこの数字、本人さまのものだけは自分で視えないようになってるんですよー?』
言われて初めて気づく。確かに、他の人々の〈ペインハート〉なる怪しげな水晶からは、先ほどの三ケタの数字が浮かびあがっているのに対し、自分の胸元に目を移してみるとそこには何も映し出されていない。それはつまり、他の人々には視えているのに、奏斗本人にだけは視えていないということなのだろうか。
『どーですかー? まだどこにも発表されていない、わたくしたち独自のハイパーな技術をふんだんに使うことにより、見事この奇跡を実現しちゃいましたー☆』
顔の前に掲げたクリスタルに、ちゅっとトロメアが唇を触れさせる。そのハイパーな技術が一体何の役に立つのかは知らないが、それが真実ならば確かにスゴイことなのだろう。
『それでは、ちょこっと遠回りしてしまいましたが、いよいよゲーム内容を発表しまーすっ!』。ツインテールを揺らしてホワイトボードに向き直り、色とりどりのマーカーを使って、すらすらと何かを書き込んでいく。末尾の一字を結び、ふーっと額を手の甲で拭うと、春風に舞う桜の花びらのように、くるりんとターンした。
「予選は、数字の大きさで勝敗を決める『勝ち抜きバトル』っ! 〈試練者〉の皆さま、大変長らくお待たせしましたっ! それでは、ルールの発表でーすっ☆」
【ボーダーランド】〈予選〉〈試練者数・152名〉
基本ルール
一 ゲーム開始とともに、各〈試練者〉の〈ペインハート〉から数字が表示されます。
一 数字は【0・0:0】が基本形であり、上から順に『勝利数』・『敗北数』・『攻撃力』を表しています。
一 ゲーム内で使用するのは、あくまで一番下の『攻撃力』のみであり、ここには『0~9』までの正数が入ります。数字はそのまま強さの値となり、0が一番弱く、9が最大です。(例外として、0は9に勝つことができます)
一 各〈試練者〉は、数字の大小で勝敗を競い、制限時間内に規定勝利数を獲得することが目標です。
逆に、三敗してしまった時点で、その〈試練者〉は失格となります。
一 数字が相手と同じ場合は新たに数字を選び直し、決着がつくまで繰り返します。
また、相手プレイヤーに対戦を挑まれても、一分以内であれば辞退することが可能です。(その場合は、相手プレイヤーに一勝が入ります。断ったプレイヤーに対しては特にペナルティは与えられませんが、辞退できるのは各プレイヤー一度のみとします)
一 なお、数字は一試合ごとに自動的にシャッフルされます。また『シャッフル』とコールすれば、いつでも自分の数字を入れ替えることができます。その際、シャッフルに制限はありません。
一 制限時間は三十分。五勝以上を目指して頑張ってください。
『はーいっ! 以上が、ゲームをプレイする上での基本的なルールでーすっ☆』
ひょこっと画面外からトロメアが顔だけを覗かせ、ひらひらと片手を躍らせた。続いて小ジャンプでフレームインをし、説明を続行する。
『何やら、ややこしそーに言ってはおりますが、けっきょくは相手よりも強い数字を出せばいいだけの、お手軽勝負っ! ……なのですが、そうカンタンにはいきませんよーっ。自分の数字が分からないからこそ生まれる、このキンチョーカン! シンプルながら奥が深い、ナイスなゲームなのですーっ☆」
やたら愉しそうに腰をシェイクし、トロメアがミニスカートを無防備に翻す。今にも下着が見えてしまいなくらいハジける少女を、ぽかんと半口を開けて眺める囚人姿の人々。奏斗もその限りではなく、その珍妙な行動やら発言内容やら、そのすべてが理解できない。
サンバのリズムを思わせるダンスを交えながら、少女が流暢に言葉を継ぐ。
「以上で、ルール説明は終わりまーすっ。あ、その前に一つ、ご注意をばー。自分や他人の数字を聞いたり、教えたりという行為は、すべてルール違反となりますのであしからずーっ!』
『ちなみに、ルールを破った人は問答無用で失格となるので、ご注意くださーいっ☆」と、びしっと横ピースを決める少女の姿が館内中のモニターから一斉に発信される。
そのあまりにも一方通行すぎる物言いに、人々たちからもたまらず言葉が失われる。
(けっきょく、何か? オレたち全員で、仲良くゲームをしろって……そういうことなのか……?)
凍りついたように静まり返った体育館内で、モニター越しに生き生きと躍動する少女。なぜ? どうして? それは何も奏斗だけではなく、「これは何の余興だ」。「失格って、どういうことよ」「もしかして、テレビの収録か何かなんじゃない?」などと、不満や疑念の声がぽつぽつと上がりはじめた。当然の反応だ。大事なことは何一つ話されない上に、こちらの意向は一切お構いなし。そもそも、この場にいる理由すら分からないというのに。
しかしそれらについて、ついに少女の口からは何も語られることなく、涼やかに締めくくられる。
「ではでは、皆さーんっ! 失格しないように、じゃんじゃん勝ち星を稼いでくださいねーっ☆ 制限時間は四十分でーすっ! それでは、はりきって……」。真っ赤なプリーツ・スカートのポケットの中から、異様にごつい銃を抜き出し「予選、カイシでーすっ☆」。真上に高々と掲げ──轟音高らかに発砲。
華々しいマズルフラッシュが画面内に飛び散り、ぷつりと映像が途絶える。それがスイッチにでもなったかのように、体育館各所のスピーカーから軽快なミュージックが巻き起こった。
少女が姿を消した後も、しばらく奏斗はその場を動くことができなかった。
奏斗だけではない。周囲の人々も同様だ。自分の置かれている立場や状況が理解できず、ただ漫然と立ち尽くす。それでも事態の整理を図ろうと一応の努力を試みたが、与えられた情報が少なすぎて、どこから手をつけていいのかすらも判然としない。
その結果陥った、半思考停止状態。どこぞとも分からないこの体育館内で、奏斗たちは迷える子羊のごとく停滞の一途を辿る。
だが、それも仕方ないのないことだろう。いきなり連れてこられて、こんな恰好をさせられた挙句、責任者と名乗る子供にゲームをしろと一方的に告げられたのだ。そんな話があるはずもなく、ましてや「よし。それじゃ、みんなでゲームしようぜ!」なんて気持ちになるわけがない。事実、ちらほらと目に入るトロメアと同年代くらいの子供たちでさえも、戸惑うような表情を見せている。
「……ちょっと。何なのよ、コレ。夢?」
誰かが呟いた。そう考える気持ちはよくわかる。仮にこの一連の出来事が奏斗たちに対するサプライズ的な何かなのだとしても、これはさすがにやりすぎだ。正直、まともな人間のやることとは思えない。
あるいは、本当にただのゲーム大会に参加しているという構図ならば、時間はかかるだろうが受け入れられたかもしれない。
しかし、そうはならない重大な理由がそこにはあった。その最たる例が、この胸で輝く〈ペインハート〉なる美しい水晶だ。奏斗自身、さっきから取り外してみようと何度か試みているのだが、一向に外れる様子はない。つまり、完全に体と一体化してしまっているのだ。まるで、人間には元々それが備わっていたかのごとく。
それだけじゃない。そもそもの話、奏斗の記憶には、ここに来るまでの過程というものが一切存在しない。この場所に覚えがないのだから、恐らく何者かに無理やりに連れてこられる何なりしたのだろうと推測されるが、それにしたって妙だ。仮に、何者かに無理やり連行されたにしても、その前後の記憶というものは多少なりとも残っているはず。それが、まったくない。一欠片の断片すらも。まるで、そこだけ奇麗にくり抜かれてしまったように。
なぜ。どうして。ここはどこだ。いったい何が起こっているんだ。
深まる謎に頭を悩ませる間にも 体育館内の屋内スピーカーからは場違いなほどにノリのいいミュージックが流れてくる。この馴染みのある曲は『天国と地獄』。運動会などでよく聞く、あの定番の曲目だ。
「……ふざけるなよッ!!」
曲に導かれるように幼き日の記憶を呼び覚ましていた奏斗の脳裏に、突如そんな怒声が響いてくる。声を辿ると、ゆでダコさながらに真っ赤になってモニターを睨みつけている五十代くらい男性の姿があった。
「こんなところに連れてきて、ゲームをやれだと!? 私が誰だか分かっているのか! おい! 聞いてるのか!! 責任者は今すぐ出てこい! 全員訴えてやる!」
その口ぶりからして、社会的に地位の高い人物なのだろう。彼を筆頭に、ここまで押し殺してきた囚人姿の人々の怒りや不満が、ついに爆発する。
「そうだ! 俺たちのことを何だと思ってるんだ!」。「こんなことが許されるわけがない!」。「早く、ここから帰してよぉ!」。
撒き散らされる怒鳴り声に引っ張り出されるように、次々と熱狂的な人々からの主張が乱舞する。まるで外国のデモ活動さながらだ。しかし、それも致し方ないことだろう。本人の承諾も得ずにこんなことをされれば誰だって怒る。
人々の加熱した感情で、一気に沸騰する体育館内。小さい子供や女性、老人たちはその騒々しさに眉をひそめているが、それでも思いは彼らと等しいようだった。もちろん、それは奏斗も同じ。罪も犯していないのに囚人服を着せられるなんて、縁起でもない。
「ダメだ! どこにも出口がないぞ! それどころか、外部に通じる道すら見当たらない!」
周辺を窺っていたと思われる大人たちが、ぞろぞろと館内の中央付近へ集まってきた。こんな時でも率先して行動する積極派の人物はどこにもいるようで、深刻そうに話しこむ彼らを、人々が不安そうに見守っている。
「当然よ。すぐ逃げられちゃったら、アタシたちをココに閉じ込めた意味がないじゃない」
と、左肩の方から滑らかに紡がれた声に、奏斗は反射的にそちらに振り向いて──息が止まるような衝撃に見舞われた。
「こんなに大それたことをしてるんだもん。相手も、それなりの覚悟をもってやっていると見るべきだわ」
あるいはこれは本当に夢なのか、と無条件に確信してしまうくらいの、とてつもない美女がそこにはいた。
触れればさらりと溶けてしまいそうな雪のように白い素肌に、女性的で繊細な肢体。オレンジブラウンの絹髪に縁取られた小顔は、美の女神の加護を受けたかのような完璧な造形を成しており、くっきりとした二重の瞳が奏斗を捉え、凛と強い輝きを放っている。
世界中に散らばるありとあらゆる宝石すら、彼女の前ではただの石ころと化す。そんな美の結晶体のような女性が、微笑みを湛えながら言葉を繋ぐ。
「それに、この場所。一見、何の変哲もない体育館のように見えるけど、実はそうじゃないわ。見て」
少女のしなやかな人差し指が、ぐるりと周囲三百六十度を一周する。半ば夢心地のまま、奏斗も油の切れかけた機械人形のように首を巡らせた。
「ココにある体育館内の窓ガラス全部。ミラーガラス製の特注品よ。その証拠に、こっちからは外の景色がまったく見えないでしょう? 普通の学校に、そんなもの取りつける必要なんてある?」
少女の言葉に、はっと意識を覚醒させる。改めて窓ガラスに視線を凝らしてみると、確かに窓からは外の様子を見て取ることができない。ここから確認できる窓だけでも、そのすべてが、こちら側をそのまま映し出す鏡になっている。
「恐らく、アタシたちをココに連れてきた連中は、この場所を特定されてしまうことがよほど困るらしいわね。逆説的に、外の様子を見ればココがどこだか分かってしまうってことかしら? とにかく、この大人数を一度に集められるところといい、敵は相当な権力と財力を持ってるらしいわ」
うなじに零れる髪を背中にすき流し、少女が愉快そうにローズピンクの唇を緩ませる。
「き、キミは……?」
思わず高めに上ずってしまった問いにも気にする素振りも見せず、少女が快活に自己紹介を始める。
「アタシは、椎名香帆。十六歳の高校一年よ。よろしくね」
すらりと奏斗の正面に伸ばされた手が何を意味しているのか、初めは分からなかった。訝しげに小さく首を傾げる香帆の態度を見て、自分が彼女に握手を求められていることにようやく気付く。
「あ! お、オレは、蒼……奏斗。……タメ」
慌てて右手を差し出しかけ、すぐさま腕を引っ込める。ごしごしと囚人服の腰辺りに手のひらを勢いよく擦りつけ、それから改めて腕を伸ばした。
「やっぱり同い年さんだったんだ。そうじゃないかと思った」
緊張しながら触れた香帆の手は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。
それにしても、本当に綺麗な子だ。こうして真正面から対してみて、改めて彼女の美貌が際立っていることを実感する。見つめられるだけで、こんなにも動揺するのは初めてのことだ。ほのかに漂う甘い香りが鼻腔から体内に侵入し、全身の神経がとろけるように弛緩する。
「えっと、それじゃあ、カナトくんって呼ぶから。早速だけど、カナトくん。キミも、どうやってココに来たのかは覚えてないのよね?」
「……ん。あ、ああ。起きたら、いきなりこんなトコにいて。もう何がなんだか……」
「そ。ちなみに覚えている範囲でいんだけど、一番最近の記憶って思い出せる?」
「一番最近……? ……昨夜のこと……かな。今は、ちょうど冬休みだからさ。ちょっと旅行に行く予定があって。昨日は早く寝て、そこからの記憶がないんだ」
「ふーん。旅行……ね」
香帆が形のいい顎に手を添える。何かを思い巡らせるように斜めに視線を持ち上げる彼女の姿は、同い年とはいえ大人びて見えた。と、その首元でキラリと輝く物体が目に映る。〈ペイン・ハート〉だ。奏斗のそれと同じように、彼女のものからもゲーム用の三ケタの数字が映し出されており、男性より大きめに露出したネックラインに3D映像のようにして浮かび上がっている。
「……なに見てるのよ」
前のめりに胸元を注視する奏斗に、じろっと香帆の一瞥が浴びせかけられる。さっと胸の前で両手をクロスさせる彼女の仕草から、どうやら自分は大変不本意な勘違いをされたようだ。慌てて両手を振り、言葉を吐き出す。
「い、いやいやいや違う! オレは別に、そんなところ見てたわけじゃなくて。いや、実際に見てたんだけど……。そうじゃなくて! なんていうか……その……」
軽蔑するような眼差しが、ぐさぐさ心に突き刺さる。小さく身を縮めながら後ずさる香帆に、さらなる弁解を連ねようとするが思考も言葉もうまくまとまらない。
結果、見苦しく口をぱくぱくさせることとなってしまうことになった奏斗を面白そうに眺めやり、香帆が言った。
「冗談よ」
意地悪く唇を曲げながら、姿勢を元に戻す。
何だ、冗談か。にやにや笑う彼女を前に、どっと肩から脱力する。気を取り直すためにぶるぶるっと首を振り、短く息を吐くと、改めて彼女に向き直る。
「そんなことより、さっきオレたちがココに閉じ込められたっていうようなこと言ってたけど、あれはどういう意味なんだ?」
「どういう意味って、そのまんまよ。自分たちの意志で自由に外に出られないんだもの。それって、この場所に監禁されてるってことにならない?」
深刻に相談し合う大人たちを手のひらで示し、香帆が小さく肩をすくめる。
「監禁って、そんな……。そもそも、誰に? 何の目的で?」
「それが分からないから困っちゃうのよね。誰か教えてくれないかしら」
白い頬に手を添え、ほうっと香帆が悩ましげに嘆息を漏らす。
「監禁なんてされる理由、オレにはないぞ」
「理由ならあるわよ。ほら。あたしたちって、一応、囚人みたいだし?」
「笑えない冗談だな。それ」
左手に装着された手錠を見下ろし、語調を低めて言葉を継ぐ。
「でも、ホントに妙だよな。こうして考えてみても、やっぱりただのおふざけとは思えないし」
気がつくと、そこは未知の場所。前後の記憶はなく、いきなり謎の美少女が現れるや、突拍子もないことを告げられる。しかもどうやら簡単には戻れないようであり、所在や目的、その他すべてが一切不明。おまけに、胸に光るは妖しく輝く謎の水晶。まるでこれから異世界ファンタジー物語でも始まりそうな展開だ。
「確か、あの子〈ボーダーランド〉って、言ったっけ。えっと、椎名さんは……」
「カホでいいわよ」
すぐさま返ってきた言葉に、僅かに躊躇いながらも言い直す。
「カホ……は、なにか、その名前に心あたりとかないのか?」
「あいにく、そんな夢と魔法の国のような名前、聞いたこともないわ」
皮肉交じりに、香帆がひらひら片手を躍らせる。トロメアの口から出た〈ボーダーランド〉という名称。名前だけ聞くとなるほど、確かにどこかのリゾート施設のようだ。
「そっか……。ホントに、あっちもこっちも謎だらけだな。それにしても、こんなトコにオレたちを集めて一体どうしようっていうんだよ。まさか、ホントに皆で楽しくゲームをすることだけが目的なんじゃないだろうな」
神妙な面持ちで身を寄せ合う人々を視界に捉え、それから斜め右前方に吊り下げられたモニターに目を移す。真っ黒に沈黙していた画面には、いつの間にかデジタル表示の時計が表示されていた。どうやらトロメアが言っていた制限時間を表しているようだ。残り四〇分を示すタイムカウンターが、刻々と〇に向けてカウントダウンを刻んでいっている。
「さあ? でも、連中の狙いは何となくだけど分かるわ。あたしたちを試そうとしてるんでしょ」
「……試す?」
「そ。だってあの子、トロメアって言ったかしら。あたしたちのこと〈試練者〉って呼んでたじゃない?」
そういえば、少女は奏斗たちのことを事あるごとに〈試練者〉という言葉を使って呼んでいた。何かを試される立場だから〈試練者〉。なるほど、道理だ。
「とにかく、これからの行動と言動には十分に注意した方がいいわよ。もうゲームは始まっているんだから」
真剣な面持ちで告げる香帆に、思わず奏斗の口に笑みがこぼれる。
「注意って。そんな、たかだかゲームくらいで大げさな……」
「いいかげんしろッ! もう限界だッ!」
野太い咆哮が体育館内に高く響き渡った。声の主は騒ぎの中心にいた、あの中年男性だ。傍らでは部下と思しき痩身の男が、情けない表情を浮かべながら、おろおろしている。
「私はなァ! こんなことをしてる暇はないんだぞッ! わかっているのか! 今日は社運を賭けた大事な交渉があるんだッ! 万が一にでも破談になった場合、一体誰が損失を保証してくれるっていうんだ!? ああ? おいッ!」
ヒステリックに喚き散らす男に、部下を始め周囲の人間が必死にたしなめていた。こういう異常な状況に陥った場合、嫌でもその人物の本性が現れてしまう。
「やめろぉ! 離せ、貴様らァ! これが落ち着けるわけないだろう! なにがゲームだァ! 【4】だの【6】だの、バカバカしいと思わないの……っ!?」
その時だった。館内を駆けめぐる軽快なBGMを突き破り、耳障りな警報音が鋭く鳴り響く。何事かと慌ただしく周囲を見回す奏斗たちの頭上で、無邪気な少女の声が降り注いできた。
「ぴんぽんぱんぽーん☆ はーいっ! ふたたびのトロメアちゃんでーすっ! ここで皆様に哀しいお知らせがありまーす。ただいま〈試練者〉のお一人が、規則を破ってしまいましたー。ということで、ルールを守れない方は失格でーす。は~い。それでは、さよーならー☆」
ゲームにおいて、ルール違反は失格となる。
それは、ある意味では当然のことを言っているわけであって。
事実、確かに彼女はそう言った。
しかしそれは、あくまでも単なるゲームの、ただのお遊びのなかでのことだと、この時は誰もが理解して。
だがそんな気の抜けた思い込みとは裏腹に、奏斗たちに突きつけられた現実はおよそ想像もできないことだった。
「……? う……うあぁ……? うぅうああぁァ……? うるゥるるぅぐァあぁァ……?」
盛大に喚いていた男性が、突然苦しげに呻きはじめた。胸の辺りを裂くような勢いで掻きむしり、やがてどさりと膝をつくと、身を激しくよじりながら地面を激しく転がり始める。
何が起こったのかと目を見張る奏斗の耳に、いきなりエアタービンのような高速回転する音響が飛び込んできた。その神経を削り取るような不快な音に、思わず顔を歪める奏斗の視界に、次の瞬間、信じられない光景が映し出される。
激しく悶える男性の全身が、突然、血のような濁った赤に染めあげられたのだ。信号機が変わる直前のようにチカチカと眩く点滅を繰り返し、それにつれて耳障りな音響も更なる高まりをみせていく。
成す術もなく、その様子を黙って見守るしかない人々の前で、男性は引きつるような絶叫を噴き上げると──そして。
まるで炭酸が弾けるかのように、パンっという無機質な音を撒き散らし、男性の体が一瞬にして飛び散る光の泡へと消えた。
「はい! というわけで、皆さん、頑張ってくださいねー☆」
ことりと、ただ一つ残された〈ペインハート〉が床に落ちて乾いた音を立てる。
その光景を、声もなく、ただ呆然と眺める人々。
「言ったでしょう? 私たちは試されているのよ」
隣で、ぽつりと香帆が呟いた。
第一試練 NO EXIT
ゲーム開始から、すでに十分ほどが経過していた。
男性の謎の消失という、衝撃的すぎる出来事を経た後の人々の反応は様々であり、また実に簡潔で分かりやすいものだった。
あるものは泣き叫びながら救いを求め、あるものは魂が抜かれたように茫然と立ち尽くし、またあるものはここからの逃亡を図ろうと躍起になる。
彼らは気付いてしまったのだ。この異常な状況が、決して戯れなどではないということを。
少女の発する言葉の意味が、自分たちの想像とは、およそかけ離れたものであったということを。
そう。
ここでの失格。それはすなわち、その人物の死を意味している。
その事実に行きあたり、しかしなおゲームに努めることができる人間は、ある意味では冷静なのかもしれない。
なぜなら、奏斗たちにはもうゲームに勝ち抜くことしか生き残る術はないからだ。単純に失格=死という公式が当てはまるならば、予選を突破できなかった人物も同じく失格となる。つまりそれは、男性と同じ陰惨な結末を迎えるということに他ならない。
突然、突きつけられた理不尽な現実。主張したいことや、考えたいことは山ほどある。しかし、どうやらそんな悠長なヒマは与えられていないようだ。奏斗と同じ結論に至った人々は、すでに予選突破を目指してゲームに打ち込んでいる。四十分という限られた時間が定められているなか、迷いや躊躇いは命取りだ。すべての疑念や疑問を胸の奥へと押しやり、生き残るためにこの現実を受け入れるしかない。
(とは、言っても……)
奏斗は焦っていた。
現在行われているのは、トロメアが言った通り〈ペインハート〉から発せられる数字を用いた一対一の対戦形式のゲーム。少女の説明をおぼろげに思い出しながら、実際にゲームを開始している人々の様子と照らし合わせて、ゲーム内容を再確認。ルールは至極簡単だ。【0】から【9】までの数字の大小で勝敗を競うという、これ以上はないほどシンプルなもの。より分かりやすく伝えるならば、トランプをイメージすればいいだろう。相手のカードよりも強い数字を出した方が勝ち。それだけだ。
そうして、ここにいる囚人姿の人々と対戦を繰り返し、五勝以上することで勝ち抜け。逆に三敗してしまえば……考えたくもない末路を辿ってしまうという悪魔のような図式。
逃げることも、拒否することも許されない。まさに牢獄に繋がれた囚人。なるほど。この身なりはそういう意味があったのかと暗い気分で納得する。
と、そんな奏斗の視界に、今まさに対戦を挑みかけようとしている人物の姿が映った。
サラリーマンを絵にかいたような、これといって特徴のない男だ。相手はシルバーのフレームレス・メガネをかけた若い女性で、不安そうに周囲に神経を配っている。
男の〈ペイン・ハート〉から浮かび上がっている数字は【0・0:3】。これは現在、男が0勝で0敗であり、対戦に使用する数字の強さが【3】であることを示している。
一方で、女性の方は【0・0・4】。上二つは男と同じく未対戦のままだが、数字は【4】と男性より一つ上。つまりこのまま対戦をするならば、勝負を挑みかけた側である男が負けるという結果になる。
客観的に見れば、それは男の自滅行為のようにも見える。なぜなら、男は自分よりも強い数字を持つ人物に、自ら対戦を持ちかけていっているのだから。そんなもの、わざわざ負けにいくようなものだ。
しかし、男は勝負をやめようとしない。それどころか、どこか自信に満ちたような顔つきすらしている。それに対して女性の方はというと、突然の男の提案に驚いたように瞬きを繰り返し、それからそっと男の数字へと視線を下向け──そのまま黙り込んでしまった。表情が曇っているところを見ると、どうやら対戦を受けるかどうかで迷っているようだ。勝負を受ければ、女性の一勝は確実。しかし、そうすることができない。
なぜか。それは、やはり自分の数字が分からないという点に尽きるだろう。つまり、例え男性の数字が【3】という低いものであったとしも、もしかしたら自分の数字はそれより低いものなのかもしれない、という心理がどこかで働いてしまったのだ。だから迷ってしまう。軽々しく勝負を受けてしまっていいものなのかと。
『一分間を数えます』というユニセックスの機械音声が、女性の〈ペインハート〉から静かに発せられた。どうやら奏斗の想像以上に、この胸元を占有する美しい水晶は高機能を備えているらしい。
勝負を受けるか、否か。解答を得るための猶予時間が女性に与えられる。即答は避け、狂おしげに眉を寄せる女性。脳裏にちらつくのは、もちろん失格の二文字だろう。敗北は、そのまま死に直結している。いくら三敗までは許されていると言っても、どうしても慎重にならざるを得ない。
『残り十秒です』。〈ペインハート〉がそう告げるまで、彼女はそのまま顔をあげることすらしなかった。限界まで悩み、悩み、悩み──そして彼女は勝負を拒否した。曖昧な勝利よりも、絶対的な安全を選んだのだ。
ドロップアウトをしたことにより、勝負を挑んだ男に一勝が加算。女性には特にペナルティの類は与えられないものの、これで一度しかない貴重な拒否権を使いきってしまった。ゲームは、まだ序盤。その事実は言葉以上に大きい。
さらに深刻なのは、女性のメンタル的な部分だ。一度折れた心は容易には立ちあがらない。これから先、女性はまともにゲームに挑むことができるのだろうか。
力なく項垂れる女性の後ろ姿に、ある種の同情心のようなものを抱きながら、それでも他人ごとではないと奏斗は目元を引き締めた。
残り時間は、およそ三十分程度。それまでに、何とか五勝を勝ち取らなければ。
しかし思いとは裏腹に、奏斗の足はなかなか前へと進まなかった。視界に流れる数字に意識を馳せ、低い数を見つけてはぐっと足元に力を籠めるも、やはり動かない。
動かない? いや、違う。動けないのだ。
そしてその理由は、奏斗自身が誰よりもよく知っている。わななく唇を無理やりに抑えつけ、ぎゅっと強く目を瞑る。勢いを駆って前進しようと試みるが、ふとした拍子にすぐに意志が挫かれる。
(……ダメだ。こんなことをしていたら、いずれにしろ失格してしまう)
首を振って脳裏に張りついた悪夢のようなビジョンを払い落し、深く呼吸を吐き出す。それから、ようやく奏斗は一歩を踏み出した。慣れ親しんだ自分の足が、まるで鉛のように重たい。磨き抜かれた体育館の床を歩くたび、歓喜に震える絶叫や、絶望に暮れる悲鳴が聴覚を揺らす。メガネをかけた大人しそうな少年の発する怪鳥じみた奇声。頭を抱えて天を仰ぐ青年。不安そうに、とぼとぼと歩く金髪の屈強な男。背後では、おしとやかそうな女性が拳を振り上げ、ガッツポーズを繰り出している。大人も子供も、男も女も関係ない。こんな異常事態だからこそ、人々は普段は決して見せないような感情を発露させる。
そんな人々の隙間を、奏斗は身を隠すようにして彷徨い歩いた。なるべく強い数字を持つ相手に勝負を挑まれないように。目立たず、慎重に。狙うのは、もちろん数字が低い人物。それも【1】や【2】などではない。
【0】。ゲームに使われる数字の中で、もっとも低い数。それならば、仮に奏斗の数字が最弱である【0】であったとしても、少なくとも一度目での敗北と言う事態だけは避けることができる。
しかし引き分けの場合は、その時点でお互いの数はシャッフルされ、新たに選択された数字で対戦を継続しなければならないので、結局のところリスクは付きまとう。さらに厄介なことに、万が一奏斗の数字がもっとも高い【9】であった場合は、例外により【0】に負けてしまうことになる。
ならば、その一つ上の【1】を狙い撃ちにするべきか? いや、それでは結局のところ同じだ。勝利、引き分け、敗北。どんな形にしろ、すべての可能性は否定できない。
つまりは、百パーセント勝つ方法など存在しないのだ。それは、どんな勝負でも同じこと。
だからといって、逃げ続けているばかりではいつまで経っても状況は好転しない。予選突破には、最低でも五戦は戦うことが必須条件。時間に追い詰められ、焦って高数字の相手と勝負するよりは、余裕がある今の内にできるだけ弱い相手と戦う方が有利なのは火を見るよりも明らか。敗北にこだわりすぎるのは、結果的に自分の首を絞めることになる。一度や二度の負けを気にしていたら何もできない。要は三敗しなければいいのだ。
(わかってるんだ。わかってるんだよ、そんなことは……)
理解しているのに、それを実行できないジレンマ。と、陰鬱に伏した奏斗の瞳が瞬間的に【1】の数字を捉えた。かっと両目が見開かれ、飛びつくように振り向いたその相手は、穏やかな物腰の初老の女性だった。
……チャンスだ。今度こそ行く! 全身に覚悟の血流を駆け巡らせ、すぐさま足に命令を送ろうとした、その瞬間──。
「うるるるるるるぐァアァァァァア……アァッ……ッ!」
聞き覚えのある高周波音めいた雑音に混じり、何者かの悲痛な呻き声が迸った。即座に奏斗の脳に一つの映像がフラッシュバックする。『今回の結果により、貴方は三敗となりました。残念ながら失格となります』。澄んだ透過色の水晶から吐き出される、無機質で冷酷な宣告。それは一瞬にして周囲の空気を冷たく凍らせ、つかの間、この場にいるすべての人間の時の流れを奪い去る。
「……メるラぇァッ!」
そして、訪れる悲劇の時。理解不能な言語に混じって響く、盛大な破裂音。瞬く光塵を撒き散らし、名も知れぬその人物は虚無の彼方へ消滅した。
立ち尽くす奏斗の目の前が、煙が立ち込めたように真っ白に染まった。何も見えず、何も考えることができない。やがて感覚の失われた眼差しが、少しずつ現実の光景を取り戻していく。耳元で脈動する、乱れて揺れる呼吸音。意識もせぬまま正面に返した瞳に、怯える女性と【1】という数字が映り込む。
敗北は、失格。
失格は、消失。
消失とは、すなわち。
──死。
奏斗の上半身が、ゆっくりと後方に捻られた。何をしているんだと抵抗を試みても、振り返ろうとする体は言うことを聞かない。まるでそれが当然であるかのごとく。視界から女性の姿を消し去ろうと、自動的に体が動き続ける。
そして、奏斗は背を向けた。
まるで、自分は初めから何も見ていないとでもいうように。
あるいは、これが正しい選択なんだと自らを正当化するかのように。
裸足の足音を床に立て、静かに、密やかに、そこから立ち去っていく。
「……何やってんだよ」
噛みしめた口元から、掠れた吐息が零れ落ちる。
衝動的にポケットをまさぐろうと囚人服の腰に手を伸ばし、そんなものがないことに気づいて奏斗は小さく舌打ちした。
「カナトくんじゃない。どう? 調子は」
あれから誰とも勝負をすることができず、途方に暮れていた時のことだった。
背後から名前を呼ばれて振り向くと、そこには微笑みながら手を振る香帆の姿があった。
「あ、カホ」
呼びかけに、艶やかな髪を肩に揺らしながら香帆が歩み寄ってくる。
「久しぶり、って言っても、まだあれから十分くらいしか経ってないけどね」
おどけるように肩をすくめて香帆が言う。見知った人物との再会に、思わず頬に笑みが浮かぶ。と、奏斗の胸元を凝視していた香帆の眉間に、きゅっとしわが寄った。
「どうしたの? まだ一度も対戦してないじゃない」
拍子抜けしたように、香帆が長い睫毛を瞬かせる。出会いがしらに頭の痛い質問だ。負けるのが怖くて対戦できないなんて、とてもじゃないが言えるはずもない。
表層は努めて冷静さを装いながらも、その実、内心で大いに困り果てながら、奏斗は必死に弁解の言葉を募った。
「いや。じ、実はさ。このゲームの、その、必勝方……みたいなのを思いついちゃってさ」
「ひっしょーほー?」
ぱっちりとした瞳をまん丸くさせ、次いで不審そうに細められる。
「あ、ああ。それを実証するために……今までチャンスを窺ってたんだよ」
なんと必勝法ときたもんだ。我ながら何と大それたことを言うのか。そんなものがあるのなら、是非とも教えてもらいたい。身の丈に合わない見栄とプライド。美しき虚栄心。いつの時代も男は美女に弱い。
「ふーん。ま、いいけどー。でもせっかくこうして知り合ったんだから、すぐにバイバイするのだけはやめてよね」
軽々しい口調で、縁起でもないことを言ってくれる。曖昧に笑いかけ、何気なく彼女の胸元にある数字に目を移し──信じられない光景を目撃する。
勝利数……【5】? 香帆はこの時点で、すでに予選突破に必要な五勝を獲得している!
「もう五勝したのか……」
しかも驚くことに、敗北を示す値は【0】。つまり、彼女は一度も負けることなくここまで勝ち続けたことになる。
「ん? ああ。これくらい当然よ」
何でもないよとばかりに、香帆が片手を振る。その口ぶりは、まるで小学生のテストで満点を取ることくらい当たり前だとでもいいたげだ。
「当然って……」
手首に巻きつく手錠を不快そうに揺らす香帆に、奏斗は心の底から感服した。あんなショッキングな光景を目の当たりにし、それでもなお怖がらずにゲームに挑み、なおかつ無敗で勝利を重ねることができるなんて。よほど神経が図太いか、あるいは芯が強くなければ到底できることではない。ましてや、彼女は女の子だというのに。
「必勝法も結構だけどね。何事も、踏み出す勇気と度胸がなければ始まらないわ。確実性を求めていちいち怯えていたら、自分の可能性まで見失ってしまうわよ」
まったく、おっしゃる通り。耳が痛いとは、まさにこのことだ。正論すぎて、ぐうの音も出ない。
それにしても、近頃の女子はどうしてこうも強く、たくましいのだろうか。おかげで自分がひどく幼く思えてしまう。いや、幼いことについては否定しないが。
「とにかく頑張って。じゃ、あたしは行くから」
颯爽と片手を振ってスカートを翻し──思い出したように肩越しに振り返る。
「念のために言っておくけど、このゲームのキモは運や駆け引きなんかじゃないわよ。必要なのは、人を見る洞察力や考察力。負けるのが怖くてモンモンしてるヒマがあるのなら、それを少しでも勇気に変換することをおススメするわ」
ズバリと心理を読まれ、んぐっと表情が強張ってしまう。麗しの令嬢は唇に微笑を湛えると、毅然とした足取りで囚人たちの群れへ消えていった。
参った。こちらの考えていることが、すべて手に取るようにバレている。
「……椎名香帆、か」
奏斗と同じ十六歳。高校一年。普段は、どんな女性なのだろう。奏斗のことを気にかけてくれているところからみても、どうやら悪い人間ではなさそうだ。一人だけいやに落ち着き払っているのが気になるが、それは多分に自信の表れか。実際、頭もいいのだろう。それでも優等生特有の見下すような嫌みさは、まったく感じさせない。それに、何といっても美人である。
ともかく、彼女のおかげでさっきまでの暗澹とした気分が幾分晴れてきた。張りつめた気持ちも和らぎ、前向きな思考も取り戻してくる。
「洞察力と、考察力か」
香帆の芯のある美声が耳裏に蘇る。すでに予選突破を決めている彼女だからこそ、その言葉には重みがある。そこには何か重大なヒントが隠されているはずだ。
それにしても、さっき出会ったばかりの自分に、なぜ彼女はそこまでしてくれるのだろうか? まさか惚れたのか、と内心でジョークを飛ばしつつ、大きく深呼吸。
同い年の女の子だって、できるんだ。オレだって負けてられるか。
ちらりとモニターに視線を流す。残り時間は、約二十分。勝負はこれからだ。絶対に勝ち残ってみせる。
対戦を吹っかけられたのは、それからすぐのことだった。
「ねえ、キミ。ボクと勝負しない?」
鼻につくようなその高い声の主は、でっぷりとした体格に、ぱさついた黒髪をセンターで分けた若い男だった。ぱっと見たところ、奏斗よりも年上で大学生くらいだろうか。体に比して全体的に顔のパーツは小ぶりであり、薄い唇がうっすらと斜めに吊り上がっている。
「あ。オレと、ですか?」
「いえーす」
指で銃を形作り、ふざけ半分に奏斗の胸へ照準を合わせてくる。
(……勝負か)
ついに、この瞬間がやってきた。無意識に、ごくりと喉が上下する。運命の初対戦。しかし、それはまだ決定されたことではない。誰かから対戦を挑まれた際には、相手はまずそれを受けるかどうか、決める権利が与えられているのだ。
すなわち、拒否権の行使。もっとも、それは各人一人しか与えられておらず、残されていない場合は、問答無用に勝負は開始されしまう。奏斗の場合は、まだ一度も対戦していないので、もちろん使用していない。
勝負を受けるか、それとも引くか。一分以内に、まず奏斗が解答を示さなければならない。
昂る闘志は、いまだ熱を帯びて胸中に滞在している。しかし、だからといって矢継ぎ早に勝負を受けるのは早計だ。受けるか否かは相手の数字次第。覚悟は決めたといっても、勝率は少しでも高い方がいいに決まっている。
男の爬虫類めいた双眸を見つめ返し、奏斗は徐々に視線を下降していった。【2・0:2】。現在男は二連勝中で、数字の強さは【2】という意味だ。数字については、ほとんど最低クラスといっていいだろう。これより低い数字は【1】と【0】のみ。単純計算で、奏斗がそのどちらかの数字の確率は五分の一。つまり五回勝負しても四回は奏斗が勝つ計算になる。
状況は、奏斗が圧倒的に有利と言えるだろう。
しかし、それはあくまで確率論の話。実際には、今自分の〈ペイン・ハート〉から表示されている数字が【1】や【0】である可能性はないとは言い切れない。そしてもっとも重要なことは、これはただのゲームではないということだ。五回のうちの一度の負けが、そのまま致命的なものへとなりかねない。
『残り三十秒です』
思考を回転させる奏斗の胸元で、〈ペインハート〉が、きらっと光を放つ。三十秒以内に答えを提示しなければ、奏斗は対戦放棄となり失格となってしまう。
「ノコリ、さんじゅうびょーデース!」
おどけた口調で間抜け顔を作り、けらけらと男が笑う。
おかしい。男の様子を間近に見つめ、微かな違和感が胸に生じる。さっきから、なぜこの男はこんなにも余裕綽々に振る舞っているのだろうか……?
そこでふと、奏斗の脳裏に電撃的にある仮説が閃いた。
もしかして今の自分の数字は、限りなく【0】に近いものなのではないだろうか? 胸元の視えない数字に視線を定め、更に思考を走らせる。
奏斗には視えないこの数字は、男の目には今も当然のように視えている。それにも関わらず、あんなにも余裕がある。その理由はなんだ? 決まってる。奏斗の数字が低いからだ。そもそも、勝負を挑んできたのは男の方からだ。自らの数字が分からないこの状況下で、強い数字の人間にわざわざ勝負を挑みに行くだろうか。
答えは否。獲物は弱いものを狩るのが定石。そして奏斗は弱い。だから、男はこんなにも自信たっぷりに構えている。
「ちょ、ちょっと待ってください」
動揺を気取られないように笑みを張りつけ、改めて男の数字に視線を注ぐ。勝利数【2】。そして敗北は【0】。
男は一度も負けていない。単に運がいいだけなのか? いや、そんなことはないはず。恐らく、この男は自分が勝てるであろう相手にしか勝負を挑んでいないのだ。それは、限界まで勝率を高めてから対戦するという、極めてオーソドックスな戦法。だがそれゆえに間違いの少ない、堅実な戦略パターンでもある。だから怖がっていない。そうじゃなければ失格=死という緊急事態に瀕し、こんなにもへらへらしていられるはずがない。
となると、やはり奏斗の数字は低いのだ。しかし、それは【2】である相手も同じこと。問題は、男がどの程度のラインをアリと判断しているかだ。人によっては相手が【5】や【6】という中間層でも果敢に挑むチャレンジャーはいるだろう。男がそういうタイプではないという確証がないのも、また事実だ。
「やるか、やらないか。一分以内に結論を出すのがルールだったよねェ? 早くしないとキミも……バラバラになっちゃうよ~?」
粘つくような声の背後で、突然シュパーンッと鋭い音が弾けた。びくっと肩をすくめる奏斗の目線の先で、存在の残り香のように煌めく純白の微粒子が放射状に拡散していく。
かたんと床に跳ねかえった〈ペインハート〉を呆然と眺め、『残り十五秒です』との警告で、はっと奏斗は我に帰った。
「あらら。言ってるそばからアレだよ」
くくくと喉奥から哄笑を吐き出し、くいくいと男が背後に親指を突き出す。
……落ちつけ。奏斗は内心で自らを叱咤した。こちらにプレッシャーをかけようとしているのが見え見えだ。その手には乗るもんか。
竦みかけた心に鞭を打ち、ふらついた重心を立て直す。ここは勝負だ。このやり取りがよくも悪くもいいきっかけになったのか、奏斗は決断した。『残り十秒です』。カウントダウンが開始される。勝負を受けるか、受けないか。どちらかを答えなければ、その時点で奏斗も彼らの仲間入りだ。それだけは絶対に避けなければならない。
〈ペインハート〉から顔を上げざまに、承諾を口にしようと息を吸い込んだ──その瞬間だった。
「バァアァんっ!!」
正面からの大音声に、奏斗の体が引きつけを起こしたように硬直する。何が起きたのか、すぐには分からなかった。緊迫した一瞬の時が過ぎ、やがて一時的に空白になった奏斗の意識に〈ペイン・ハート〉の無機質なカウントダウンの音が刻々と鳴り響いてくる。
『五……四……』
まずい! このままじゃ、時間切れになってしまう!
状況も把握できないなか、噴出した危機感に衝き動かされるように奏斗は咄嗟に口を開こうとした。しかし勢いよく肺に呑みこんだ息はすぐには循環をせず、意思を声に作り変えることができない。
焦っていたのだ。その時の心境については、そうとしか表現することはできない。
突然のハプニング。暗転した意識。迫るカウントダウン。課せられた選択。
だから次の瞬間に、うっすらと視界に過ったその光景──かつて人間だったものが光の雨となって散りゆく様を目にし、思考が完全にそちらに奪われてしまった。圧倒的な恐怖が奏斗の狭窄した意識のすべてを瞬く間に侵食し、急ごしらえの勇気すらも一息に呑み込んで、そして……。
「す、すみません ……おりますッ!」
固めた意思は脆くも崩れ去る。
それは、引き裂かれるような緊迫した状況だからこそのリアルだった。
上機嫌に去っていく丸い背中を断腸の思いで見送り、奏斗はうつむけた視線を〈ペインハート〉に向けた。『対戦終了につき、数字のシャッフルを開始します』と高低差のない合成音声が告げられ、奏斗の運命を決める数字が何者かの気まぐれな意志によって決定される。
初対戦を対戦拒否という結果で終えた奏斗の現在の勝敗は、0勝0敗のまま。近くのモニターに目を流したところ、残り時間はおよそ十八分少々といったところであり、まだ十分に勝ち残るチャンスはあると思えた。
しかし今の奏斗からは時間よりももっと大切な、勝負には絶対に必要不可欠なものが失われかけていた。
それは、自信。読んで字の通り、自らを信じる心。自分の数字が分からないこのゲームにおいて絶対的に必要なものであり、逆に持ち続けることが非常に難しいもの。そして自信と不安の間で常に揺れ動いていた心の間隙を、見事にあの男に突かれてしまった。
そう。今にして思えば、先ほどの男は初めから勝負をすることが目的ではなかったのだ。
男の目的は、対戦相手にドロップアウトをさせること。ルール上は相手が対戦を肯んじない場合は、勝負を挑んだ側に一勝が入ることになっている。だからこそ、男は奏斗を心理的に揺さぶるような発言や行動を繰り返した。タイムオーバー間近の叫び声は、恐らく男の必勝パターンなのだろう。いずれにしろ男にとって重要なのは、数字の大小などではなく、対戦相手がいかにして勝負を降りるかということ。裏を返せば、それは奏斗が臆病な男だと思われた証拠だった。
ふつふつとやり場のない怒りが湧きあがってくる。とは言え、土壇場でのあの自らの行動を鑑みれば、そう思われても仕方がないのは事実だ。
いや、そんなことよりも、奏斗にとって、もっと絶望的なことがある。
それは過去に犯した罪深き所業。三年前のあの日──あの事件から、自分は何一つ変わっていない……!
自覚していたこととは言え、それは奏斗にとって途方もなく救いようのないことだった。同時に、この場所に来て忘れかけていた負の感情が地の底から目覚めるように腕を突き出しては、奏斗の惰弱な精神を乗っ取るがごとく絡めとる。
全身を重たく這いまわる失望や虚無感、そして深い後悔。
奏斗はしばらくの間、まともにゲームのことを考えられなくなってしまった。
その後、放心状態に陥ってしまった奏斗は、この数分の間に三度の対戦をほぼ自動的な思考で行った。
結果は、一勝二敗。一勝したのはともかく、二敗で済んだのは幸運だったと言わざるを得ないだろう。
『残り時間は五分ですっ☆』とのトロメアの館内放送をきっかけに意識が覚醒した奏斗は、自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだということを強く自覚した。
もう一度も負けられない。この先、無傷で四連勝をしなければならなくなってしまった。それも拒否権はなく、どんな数字を持った相手であろうと勝負を仕掛けられたら必ず対戦しなければならない。
奏斗は絶対的に追い詰められてしまったのだ。
絶望に心が蝕まれていく。なぜ気をしっかり持たなかったのかと今さらながらに悔やまれる。
そんな奏斗の五メートルほど前方に、一人の人物の姿。
胸に【9】という数字を携え、じっと一点を見据えている。
やがてその人物は、ゆるりと薄い唇を持ち上げると、鷹揚に長い足を前に運んだ。
その焦点が捉えている先の人物。それは──。
顔を歪め、強く額を抑えつける奏斗本人だった。
「ちっといい?」
目の前で止まった足を眺め、まず初めに思ったのは捕まったという思いだった。恐る恐る顔をあげていき──更なる衝撃が脳を直撃する。
上昇していく視界に映し出されたのは──【9】という数字。それは言うまでもなく、このゲームにおいてそれ以上は存在しない、最大を冠した数。
悲鳴をあげなかったのが不思議なくらいの衝撃が背筋を貫く。奏斗だけではない。どうやら、今この場にいる誰もが最も関わりたくない人物に目をつけられてしまったようだ。
「てぃーっす。いきなりワリィね」
さっと額の前で指を振る男に、すかさず急ごしらえの引きつった笑みを返す。無造作に散らした茶髪に浅黒い肌が特徴的な、いかにもチャラそうな青年だった。だらしなく着こなされた囚人服の襟もとで、カラフルな色を宿した三つの数字が圧するように佇んでいる。
失格にリーチがかかっている状態で、よりによって一番戦いたくない相手と出会ってしまった。およそ考えうる最悪の事態に、体中の汗腺からどっと嫌な汗が噴き出してくる。
正確には、この最強である【9】に唯一勝てる数字として【0】が存在するのだが、無論、奏斗の所持する数がそれである保障などどこにもない。ましてや、幸運なことにたまたまそうだった、などとそんな都合のいい展開が待ち受けているはずもなく、対戦すれば十中八九、奏斗の敗北は必至だろう。かと言って、頼みの綱の拒否権が行使できない以上、もし対戦を吹っ掛けられでもしたら──もっともこの状況下において、それはほぼ確定事項なのだが──一巻の終わりだ。
三敗すれば失格。脳裏に瞬いた悪魔の呪文に、雷のごとき戦慄が背筋に一直線に迸る。無意識に動いた奏斗の右手が、ポケットを探して囚人服のズボンを這いまわった。すぐにそんなものがないことに思い当り、それが功を奏してか、とりあえずの冷静さを取り戻す。
「いきなりこんなことになっちまって、お互い大変だべな」
と、世間話をするような調子で男が声をかけてきた。だが、口中に張りついた舌がすぐには動かず、相槌を打つのに若干の時間が必要になってしまう。
「は、はい。そうですね……」
何とかそれだけを言い、目線を素早く斜めに伏せる。
焦るな。ここで焦った様子を見せてしまったら、男の数字が高いことをみすみす教えてしまうようなものだ。胸を突き破るような動悸を抑えつけ、最大限の力を振り絞って表情を取りつくろう。
「だよなー。ったくよー。ゲームだか何だか知んねーけど、マジウゼーし。ぶっちゃけ、こんなことしてるヒマあったらイベサー行った方がマシっしょ。おめーも、そう思わね?」
「え? ……そ、そう、ですね」
にっと歯を剥き出して男が破顔する。イベサーとは、俗に言うイベントサークルのことだろうか? それにしても、随分とノリの軽い人だ。ふんふんと鼻歌を奏でながら髪を整える様子を見ても、緊張感や緊迫感といったものが毛ほども伝わらない。
果たしてこの人は、本当に今の状況を理解しているのだろうか、と自身に迫る危機すら忘れ、奏斗は小さく首を捻った。こんな場面でも気にせず自分を貫けるなんて、ある意味では大物なのかもしれない。単に鈍いだけなのかもしれないが。
「んーと。確か、上が……で……。……下が……だったよな……」
ぶつぶつと独り言を唱えながら、男が無遠慮に奏斗の〈ペインハート〉を覗きこんでくる。強大な数字に目を奪われていたおかげで気がつかなかったが、どうやらこの男はまだ誰とも勝負をしていないらしい。勝敗を表す数は【0・0】。対戦数字が【9】なので、誰も男には挑まなかったのだろう。
獲物を吟味するような視線が、しばらく奏斗の首周りに注がれる。頼む。どこかへ行ってくれ。祈るような気持ちで懇願する間も、べっとりと張りつく男の眼差しは離れることはない。眉を中央に寄せて低く唸るその仕草を見る限り、どうやら何かを思案中のようだ。何を考えているのかは、当然窺い知れない。
いつ牙を突きたてられるか分からない恐怖の時間が、奏斗の意識の中で緩慢に流れていく。と、次の拍子に、にぱっと男が口元を綻ばせると、曲げていた腰を勢いよく伸ばした。表情に清々しいまでの笑みを湛え、それから奏斗がもっとも恐れていた運命の言葉をついに口にしようとする──。
「うし! お前、俺と勝負……」
終わった。槍のように突き出された男の人差し指を前に、奏斗は確信した。これで奏斗は三敗めを喫し、ゲームから失格。そしてその代償として、奏斗はこの世界から永遠に追放されてしまうことになってしまうのだ──。
その時だった。
「あ、いたぁー! も~。メッチャ探したよぉ~?」
最悪のシナリオに新たな展開を書き加えたのは、意外な人物の一声だった。奏斗たちは同時にその人物──巻き髪カールの若い女性に振り返る。
「お、エミじゃん。どしたーい?」
「どしたーい、じゃねぇしぃー。なにエミおいて、勝手にどっか行ってんだよぉ~」
「いや、別に置いてってねーし。つか、もう時間ねーから早く行ってこいっつったの、おめーだべ」
ぷくっと頬を膨らませながら、女性がずんずんと前屈みに歩いてきた。二人の間に強引に割り入ると、戸惑う奏斗には目もくれず、男に向かって捲し立てる。
「はぁ~? なんだよ、それぇ~。ゆーちゃんが今まで爆睡してるのが悪いんぢゃんかー」
「っせーよ、おめー。だから今、こうやって必死こいてやってんだろーがよー」
「ちょ、うっせーって、なにそれぇー? 逆ギレとか、マジありえなくなぁーい?」
ほっそりとしたウェストに両手を当て、ぷんぷんと女性が憤る。覚悟の瞬間から一転、突然目の前で起こった出来事に脳がすぐには追いつかない。
「つーか、せっかくエミがルールとか教えてあげたのに、オマエ何様なんだよー」
「は? オレ、別に教えてくれとか頼んだ覚えねーし」
「はああ? まっぢムカつくんですけどー。てか、ちゃら男のくせに、いきってんじゃねぇよー」
「は? いきってんのはオメーだろうがよー。このブルドックがー」
「ぶるど……っ!? あー。はいはい。エミまぢギレ五秒まえー」
囚人服のカップル同士の口論は、それから一分ほど続く。その間、奏斗にできることと言えば、ただ黙って二人を見守ることだけだ。絶え間なく交換される怒号や罵声を耳にしながら、彼らの間に何度も視線を往復させる。
やがて、初めのころとは別人のように態度を変貌させたギャル女が、業を煮やしたように怒鳴った。
「もうオマエのことなんか知らねーしッ! 今すぐこいつとヤって自爆しろ!」
ど派手なネイルアートの施された指先が、びしっと奏斗の眉間に突きつけられる。そのあまりのスピードに、心臓麻痺を起こすかと思った。
「だから、今からそうすんだって言ってんだろ。ばーかっ!」
「はっ! つーかテメー、まぢ真正のバカじゃね? 数字の見方も分かんねーのかよ」
「あ? ……いっちゃん上の数字を見りゃあいいんだろ?」
「ち・げ・えって言ってんぢゃん! ホントにオマエ、アリエンティスト! もうエミ知らなーい。アデュー」
にぱっと作り笑顔を浮かべると、細い腕をひらひら振り、そのまま彼女は立ち去ってしまった。
「いっちゃん上じゃねーの……? ってことは、下……?」
真剣な表情で奏斗の顔を眺めていた男の目線が、そろそろ胸元へ下りていく。
「……ひゅー。マジアリエンティー」
細く口笛を鳴らし、パンパンと両手で奏斗の肩を叩くと、男は鼻歌交じりに人ごみの中へと消えていった。
二人が去っていき、その後、呆けた意識を立て直すのに、さらに数分の時を要してしまった。
「助かった……のか……?」
右手で摘んだ頬の痛みに、生きていることを改めて実感。最大級の危機を脱し、奏斗は詰めていた息を一挙に外へ吐き出した。
危なかった。本当に危なかった。
「……でも、あの人、なんで急に……?」
どっと押し寄せてきた疲労感に、思わずその場にへたり込みたくなるが、しかしそんな余裕はもちろんない。つかの間の安楽を求める欲求すら抑え込み、奏斗は先ほどのやり取りを心の中で分析した。
男の様子がおかしくなったのは、最後の会話の部分からだ。確か、数字がどうとか言っていた。その言葉が示すのは、当然ゲーム内で使われる数字のことだろう。そのあと、彼らは何と言っていたか。……そう。確か一番上の数字ではない、というようなニュアンスのことを言っていた気がする。数字……。一番上ではない……?
そうか。奏斗は、すぐにその答えに思い至る。恐らく、あの若い男はゲームに用いる三ケタの数字の意味を勘違いしていたのだ。
【0・0:0】。これは上から順に、勝利数、敗北数、そして現在の強さを表している。こんな初歩的なこと今さら振り返るまでもないが、しかし彼はそれを知らなかったのだ。いや、正しくは勘違いしていた。一番上の奏斗の数字──一勝なので【1】──を、彼は強さの値だと思い込んでいた。男はそれを見て、奏斗に勝負を仕掛けようとしてきたのだ。
そういうことだったのか。ようやく合点がいく。その後、彼女に間違いを訂正され、改めて奏斗の真の数字を知ることになった。結果、彼にとって何か不都合な事態が起こり、対戦を押しとどまった。つまりは、そういうことだろう。
「……そりゃ、【1】だと思ってた相手が、実際違う数だったらオレでも驚くよな」
高数字の相手と戦っても何のメリットもない。相手は弱いに越したことはないのだから。
考えていることは、みな一緒ということだ。
「そうだよな。みんな低い数字の人を狙ってるんだから、それ以外の人に用なんて……」
ん?
……待てよ?
頭の中に、急速にある考えが閃く。
みんな、低い数字の人を狙う……?
と、いうことは、だ。
言い方を変えれば、それはつまり。
現在の奏斗の数字は強いという証拠じゃないのか?
そうだ。だから、先ほどの男は奏斗との対戦を思いとどまった。なぜなら、奏斗の数字が【1】などではなく、それを上回る高い数字だったから。恐らく、一目見た瞬間にすぐにでも身を引く決断をしてしまうほどに。
『ぴんぽんぱんぽーん。どうも〈試練者〉の皆さまー。ごきげんよー☆ 残り十五分前となりましたので、ここでお知らせしまーすっ! まだ規定勝利数に達していない方は、そろそろアセアセしてくださいねーっ☆』
すべてのモニターに一斉に表示されたトロメアが、その場ではしゃぐように賭け足をする。それに伴い、屋内スピーカーから流れる『天国と地獄』が、早送り再生をするようにテンポアップした。人々の危機感と焦燥感を畳みかけるように煽ってくる。
一勝二敗。残り時間は十五分。もう一度も負けられず、四連勝することが奏斗の予選突破の絶対条件。
読んで字のごとく、後はない。
「考えていてもしょうがない。……試してみるか」
胸に射しこんだ一筋の光明を頼りに、奏斗は決意の眼差しを上げた。と、ちょうどいい具合に、正面方向から髪の薄い一人の中年男性が歩いてくる。貧相な首周りに浮かぶ数字は【2・2:4】。考えが正しいのか見極めるには、ちょうどいい相手だ。それでも一瞬、躊躇うように奏斗の足が拒否反応を示しかけたが、なけなしの勇気を必死に掻き集め、変換した気合いとともに根性で前へと引きずり動かす。
「す、すいません。オレと勝負してください!」
心が折れる間も与えず、早口での対戦コール。これで相手が「イエス」と答えれば、その時点で勝負の成立となり、さらにお互いが二敗同士の状況ゆえ、対戦終了後にはどちらか一方が確実に失格することになる。
もう後戻りはできない。奏斗の命運が賭かった、一世一代の大勝負。
不意打ちの発言に、びくりと男が肩を上下させた。つぶらな瞳が瞬かれ、その意味を苦い表情とともに理解すると、当然のごとく奏斗の数字に視線を振る。瞬間、男の目が跳ねるように見開かれたのを奏斗は見逃さなかった。面持ちを暗澹と曇らせ、やがて伏せられた口元から、ぼそりと声が漏れる。
「ごめん。やめておく……」
対戦拒否。これにより、相手をドロップアウトさせた奏斗の勝利数に1が加算。短いお祝いメロディとともに、奏斗の勝利数が二勝に上積みされたことを〈ペインハート〉から告げられる。
悄然と肩を落として去りゆく男の背を見つめ、奏斗は力強く拳を握りしめた。
これだ。見つけたぞ!
このゲームの攻略法を発見。
失われかけた自信を、奏斗は自ら取り戻した。
『……さーん、にぃー、いーちっ……。しゅーーりょーっ☆』
タイムカウンターが0を並べるのと同時に、トロメアのミルキーボイスが高く響き渡った。
「……はー。なんとか間に合ったか」
無事にゲーム終了を迎えられ、自然と肩から力が抜ける。体育館内を見回してみると、百人以上いた人々が大分減っていることに気づいた。どうやら想像以上に失格者が出たようだ。
「どうやら無事だったみたいね」
声に振り向くと、そこには美しい顔にたおやかな微笑を飾った香帆の姿があった。同じく笑みで応じる奏斗に、囚人服の美少女が怪訝そうに目元を細める。
「……5勝2敗? ちょっと、ギリギリじゃない」
「ん。あ、ああ。いや、これはさ。あー。なんていうかー……。追いつめられないと力が出ないんだよ。ほら、オレって、テスト前とかもギリギリにならないとできないタイプだから」
「……あえての二敗ってこと?」
「そ、そそ。あえての二敗」
じとーっと横目を向ける香帆に、空笑いで誤魔化しを図る。本音を言えずに、いつも去勢を張ろうとするのは悪い癖だ。
「ふーん。そーなんだ。ま、いいけど。でも余裕があるのは結構だけど、そんなウサギさんみたいことばっかり言ってると、いつか足元をすくわれちゃうかもよ」
ウサギの耳を模した両手を、ぴょこぴょこと香帆が頭上で跳ねさせる。ごもっともな意見に反論の余地はない。
「そういうカホは、どうなん……」
話題の矛先をずらそうとした瞬間に、ぐいっと香帆が豊かに膨らんだ胸元を見せつけてくる。一瞬、違う部分に意識を持っていかれそうになり、すぐさま視線を軌道修正。くっきりと浮かび上がった鎖骨の中間点にある〈ペインハート〉に焦点を合わせ……。
「マジかよ。22勝……0敗……?」
およそ想像の域を超えた勝敗結果に、愕然と吐息が漏れる。右手の手錠をカチャカチャ弄びながら、香帆が小さく首をすくめた。
……信じられない。この目の前の美少女は、二十二戦にも及ぶ勝負を無敗で勝ち続けたというのか。いやそれよりも、そこまでする必要が一体どこにあるのか。いくら対戦に制限が設けられていないからといっても、そんなにまでして勝ち星を稼ぐ理由なんてどこにもない。もっと言えば、意味がないのだ。普通は予選突破の五勝を勝ち得た時点で、勝負からは遠ざかる。なぜなら、例え五勝以上を得たとしても、万が一、三敗してしまえば、その瞬間に失格が確定してしまうからだ。
「なに驚いてるの? これくらい普通じゃない。こんなお手軽ゲーム、やり方次第でいくらでも勝てるわ」
単純なパズルを解くかのような口ぶりに、奏斗は我知らず声を失った。言っていることは理解できるが、だからといって普通この状況でそんなことをするだろうか。目の前で次々と人が消えていくなかで、まともにゲームをすることすら困難だというのに。
「ん? どうかした?」
ふわっと香帆の顔が鼻先に寄せられ、奏斗の思考が強制的に中断された。突然、間近に迫った凄絶な美貌に、少しの間、軽いショック状態にも似た症状に見舞われる。そのまま吐息が触れ合うほどの距離で視線を絡ませ合い、ふと我に返った奏斗は、あたふたしながら言葉を並べ立てた。
「あ。い、いや! すごい女の子だな、って思ってさ。それにオレ、正直カホに出会わなかったら、生き残れなかったかもしれないし」
しっとりと濡れた唇に視線を引きながら、あさっての方向に顔を背ける。いきなり、何てことをしてくるんだ。それでなくても、同世代の女の子とあんなに顔を近づけた経験なんてないというのに。
大きく跳ね動く心臓をいさめつつ、ちらっと香帆に横目を返す。長い睫毛に縁取られた瞳が、食い入るように奏斗に注がれていた。まさに天と地が触れ合うような美しさだ。あんな至近距離から見つめられて、三秒と耐えられる男はこの世に存在しないだろう。
鼻腔を甘く撫でる女の子の香りに軽い目まいを覚えていると、不意に彼女の口から小さな溜め息が零れ落ちた。
「ちょっと。何おめでたいこと言ってるのよ」
「え……? おめでたいことって?」
言っている意味がわからず、きょとんと目蓋を瞬かせる。
「ゲームは、まだ始まったばかりじゃない。あの子、ちゃんと言ってたでしょ? これは予選だ、って」
「…………よせん?」
呆けた顔で、かくんと首を傾げる。
よせん……? よせん、よせん、よせん……。
胸中で繰り返し、そこでふと重大な事実に思い至る。予選! そうだ。無事に勝ち残ったことですっかり安心していたが、これはただの予選。つまり、この先に待つのは……。
「本戦がある……ってことかよ」
「えー……。今頃気づくとか、ありえないでしょ」
呆れたように香帆が額に手を当てる。
「そうか……。そういえば、あの子言ってたよな。〈ボーダーランド〉攻略が、どうとかって」
愕然としながら、いつの間にかモニターに顔を出したトロメアへ視線を送る。確かに、少女はこのゲームを予選と銘打っていた。であるならば、本戦に続くのは当然の成り行き。
てっきり、これで帰れるんだとばかり思い込んでいた。まさに、天国から地獄に突き落とされた心境だ。
「しっかりしてよ。そんなんで、よく予選を突破できたわね……って、まさかホントに運がよかっただけ?」
その言い草に、少々むっとして言い返す。
「そんなんじゃねーよ。オレなりにちゃんと、か・ん・が・え・て、戦いましたから」
「ほー。だったら、そのオレなりの戦い方、ってやつを是非ともお聞かせ願いたいものねー」
胡散臭そうな眼差しを向けられては、さすがにこっちもムキになってしまう。香帆に向き直り、高々と告げてやる。
「ああ。聞かせてやるぜ。ま、誰かさんみたいに、人に誇れるほどの成果を挙げたわけじゃないけどな」
皮肉混じりの言葉に、ひょいっと香帆が肩を縮める。いかにも余裕綽々といった様子だ。どうやら、奏斗のことを大いに侮ってくれているらしい。
こうなっては、こちらも黙っていられない。なけなしの自尊心に火がつくのを自覚しながら、腕組みをして待つ美少女に解説を始める。
「あのゲームの最大のポイントは、何といっても自分の数字がわからないってところだ。相手の数字情報のみで、こちらは勝負をするか、しないかを選択しなければならない」
唇に笑みを湛えたまま香帆が頷く。どうやら、お手並み拝見といったところらしい。
「もっとも、自分も相手も数字がオープンになってたら、そもそもゲームなんて成立しないわけなんだけどさ。で、あのゲームで勝利する方法は二つある。一つは、単純に数字で相手を上回ること。そしてもう一つは、相手に勝負を拒否させて勝ちを得る方法。いずれにしろ、自分の数字が不明な以上、結果はどうしても運任せにならざるをえない」
いつか奏斗がされたように、心理駆け引きなどを行って相手を意図的に降ろさせる方法もあるが、それには対戦を申し込むという大前提が必要となり、高いリスクが伴ってしまう。もしそのまま対戦を承諾されれば、自分が敗北してしまう可能性があるからだ。同様に、拒否権を持っていない相手に挑んだ場合も、その作戦は使えない。
「でも逆に言えば、それは自分の数字さえ知ってれば、確実に相手に勝つことができるってことだ」
その理由は、いわずもがな。自分の数字より低い相手であれば、仮にその人物に対戦を受け入れられても勝利を収めることができる。無論、相手が降りてくれれば、それだけで一勝。格上の相手には、初めから近づかなければいい。
「そうね。でも、そんなことができれば誰も苦労しないわ。どうやって自分の数字を知るつもり?」
当然の疑問に、奏斗は得意げな顔で指を左右に振る。
「数字を正確に把握する必要はない。少なくとも、ある一定の数よりは大きい、とさえ分かっていればいいんだから」
冴え冴えと煌めく黒瞳が、じっと奏斗を見据えてくる。
「オレさ。ラスト五分前くらいに、見るからにチャラそうな男に勝負を挑まれそうになったんだ。しかも、その時の相手の数字が【9】でさ。終わったとか本気で思ったんだけど、色々あって勝負は回避された。ていうのも、相手がオレの数字を勘違いしてみたいでさ。そのおかげで助かったんだ」
あの時の神経が引き裂かれるような絶体絶命の感覚は、いまだ脳に冷え冷えと残っている。
「つまり、相手はオレの数字が強かったから勝負を挑まなかったんだ。そのことに気付いて、ふと思い立った。自分じゃ視えない数字が、相手には視えている。だったら、教えてもらえばいいってさ」
にやりと頬を持ち上げる。単純な真理。同時に、それがこのゲームの最大の攻略法。
しかし、それはもちろん声に出して聞き出すという意味ではない。それではルール違反になってしまう。あくまでもスマートに。何食わぬ顔を装い、そこにある真実を掴み取る。
このゲームをするにあたって、多くの人間がする共通の行動とは何か。
言うまでもなく、それは【0】や【1】などの低数を持つ人々を見つけること。
運だの駆け引きだのと言ってはいるが、このゲームの本質は、ただ数字の強さが勝敗を決めるだけという極めてシンプルなもの。繰り返しになるが、わざわざ強い数字の相手に対戦を挑む必要などどこにもない。もちろん、あの異常な状況で冷静さを失い、形振り構わず特攻していく連中も中にはいただろうが、ゲームに参加しようと意思を立て直したものならば当然その思考に行きつくはず。
「そのことを知ったオレは、その後に一人の対戦者をドロップアウトさせて一勝を得た。当然、そこでオレの数字はシャッフルされちまうよな。本当の勝負は、そこからだ。もう一敗もできないし、時間もないしで、正直焦ってたけど」
それでも、奏斗は努めて冷静に人々を観察した。そして、見つけた。見るからに臆病そうな、奏斗と同年代くらいの一人の少年。眉を情けなく垂れ下げながら、慌ただしく周囲を窺っている。高数字の人々には見向きもせず、逆に低数字(【0】~【3】まで)を見とめるや、たちまち顔つきが豹変する。しかし、その人物が自分の前を通り過ぎようとしても、少年は動きを見せない。ただ未練がましそうな視線を投げかけるだけ。度胸がないのだ。だから、勝負を挑めない。ゲーム序盤の奏斗と同じように。
「臆病で意気地がなく、目的以外には興味がない。その半面、感情や欲望には正直で、執着心は強い。彼を指針にすることに決めた」
奏斗は、わざと彼の視界に踏み込んでいった。くりっとした少年の目が奏斗の数字を捉える。しかし彼は何事もないように顔を逸らした。その無関心な行動の意味するところは、奏斗の数字が【3】以上である何よりの証。
「あとは、オレも同じように【3】以下の人を見つけるだけ。自分の数字が【3】以上であることが分かってるから、自信を持って勝負を挑むことができる。それを繰り返せば、難なく勝利をさらえるって寸法さ」
仮にそこで奏斗の数字が低かった場合は、すぐさまシャッフルをコールすればいい。それから改めて少年の元へ行き、奏斗に興味がなくなったと確信できた時点で、晴れて対戦を挑みにいく。
「不思議なことに、人っていうのは堂々とした人間に話しかけられると、本能的に不安になっちまうものなんだよな。ありがたいことに、全員がドロップアウトしてくれたよ」
なぜこの人は、こんなにも自信があるのだろう。もしかしたら自分は勝てないかもしれない。そういうマイナスの心理が働いてしまうのだ。それも奏斗は、すでに体験済み。情けないことだが。
とにかく、そうして見事五勝を獲得。後はなるべく高い数字を維持したまま、タイムアップを待てばいい。もっとも時間ギリギリだったため、その必要はなかったが。
「運だけじゃない。誰かさんがおっしゃった、洞察力と考察力のなせる技さ」
とんとんと人差指でこめかみを叩き、ぱちりと奏斗は片目を閉じた。目の前の誰かさんは無表情に奏斗を見つめ、それから華が咲き誇ったように大きく顔を綻ばせた。
「へー。思ってたより、結構キミって適応力あるのね。想像とは、ちょっと違ったかも」
「おいおい。オレのこと、どんな風に思ってたんだよ」
「あえて、そこ聞く?」
「あえて、聞かせて欲しいね」
「……ナ・イ・ショ」
「何だよ、それ」
くすぐったそうに笑う香帆に半眼の眼差しを送っていると、近くのモニターから元気いっぱいの声が届けられた。どうやら、トロメアが人々に向けて何かを話しているようだ、
『はーいっ! ということで、勝ち残った〈試練者〉の皆さま、おめでとうございまーすだ、にゃん☆』
ハチミツ色の髪を頭の左側で結わったトロメアが、萌えキャラのお手本のようなネコちゃんポーズを決める。
「アタシね。ここを脱出できたら、まず一番初めにこのロリガールにオシオキしてあげようと思ってるの」
微笑み混じりに低く呟く香帆の全身からは、なにやら金色に揺らめくオーラのようなものが立ち昇っていた……いや、いるように見えた。……キレている。表面上はなごやかに装いながら、彼女は完全にブチ切れている。
『はいはーいっ! 諸々の都合により、残り時間もありませーん。予選を突破した皆さまには、休む間もなく次へと進んでいただきまーすっ! それでは、それでは~……ネクスト・ステージへ、れっつらごー☆』
緩んだ空気が冷気を帯びたように引き締まり、そしてゲームは第二幕を迎える。