6
あやめそっくりの、彼女よりも幾分大人びた雰囲気を持つ少女。
もうこの世界にはいないはずの少女が、茜に染まる病室のベッドに腰掛けたまま、俺に微笑んでいる。
「たっくん……私の事思い出してくれて、ありがとう」
「何で……」
まるで一枚の絵画の中にでも入り込んだような気分だった。
――もし、もう一度彼女に会えるなら……。
起こる事などありえないはずの願望が、すぐ目の前で具現化している。
これも……いつも見る夢と同じものなんだろうか……。
でもこんな記憶は俺には無いはず。
それに何よりも、目の前にいる友香はあの事故の頃よりもずっと大人になっていて、綺麗だった。
頭を整理しきれない俺に、少女は語りかけてくる。
「普通は……ビックリするよね。それに、あやめと双子じゃなかったら、こうして君の前には出てこれなかったかもしれない」
照れながら笑う仕種は、今のあやめそっくりだった。
それに子供の頃から見ていたような、とても懐かしい「お姉ちゃん」の表情。
「本当に……友香なのか?」
こくんと、一度だけ頷く少女。
ついそんな問いを投げてしまったけど、その答えは聞くまでもなかった。
俺の前にいるのはあやめではなく、その姉――友香。
見た目は瓜二つだったけど、雰囲気があやめのそれよりも幾分柔らかく感じる。
幼い頃の記憶が戻った俺には、何となくだけどわかった。
でも、そうだとしたら、ここはやっぱり現実の世界ではないのだろうか……。
「どうして、ここに……?」
聞きたいことをろくに言語化できないほどには動揺していた。
ただ、そんな俺の様子を察してか、前から鈴を転がすような声音が返ってくる。
「たっくんは、昔に約束したの、覚えてる? また必ず会おうって」
「約、束……」
――またいつか会おうね。約束。
……夢の中で、交差点であやめと別れた時に夕暮れの世界で聞いた声。
以前、あやめはその約束を交わした事を知らないと言っていた。
「あの時、風に乗って聞こえたのって……」
「うん、私」
やっぱり、そうだったのか。
離れた場所からでもハッキリと声が聞き取れたのは、風のせいなんかじゃなくて、彼女がそばで話していたから……という事だったのか。
「あの頃のあやめはすっかり塞ぎこんでたし、たっくんは記憶に傷を負ってた。あの日のあなた達を見てると、そのまま二人の絆が壊れてしまいそうで……怖くなったの。だから、無理矢理約束なんかしちゃったんだ。ごめんね」
「い、いや……謝るような事じゃないさ……」
……そうだ。
突然の出来事に混乱はまだ続いていたけど、正直なところ、これが夢であろうと幻覚であろうと……どっちでもいい。
今、目の前には友香がいる。それだけで十分。
この事を疑うよりもまず、俺には彼女に言わなければならない事があったんだ。
未だ震える唇に一度噛みしめるように力を入れ、俺は言葉を吐き出した。
「あの時、助けられなくて……ごめん」
「え……」
そして深く頭を下げる。
小さい頃から一緒にいた、まるで本当の姉のような人。
ようやく思い出せたいつもの優しい表情。
どんな形であれ、また会えた事が嬉しくて堪らなかった。
でも、まず俺が口にしたのは……謝罪だった。
結局は何の意味もない、ただの自己満足の行為かもしれない。
自分の中に潜む、今にも暴れ出してしまいそうな後悔の念。そんなものを、救えなかった少女本人にさらけ出すなんて……とてもみっともない事だ。
けど、今の俺には謝る以外の事はできそうになかった。
俺は胸から来る嫌な気持ちに喉を詰まらせながらも、頭を下げ続けた。
「顔をあげて……たっくん」
でも、それもほんの少しの間だった。
ふいに優しく頭に伝わる感触。友香の手だとすぐにわかった。その冷たさから、この人はもうこの世にいないという事実が嫌というほどに伝わってくる。
……あの頃とは、全く正反対の温度だった。
小さい頃、友香には何度となく頭を撫でられていた。
彼女の手の温もりに触れた俺は、いつも気恥ずかしく思っていた。
そして、どうしようもなく大きなものに包まれたような感覚になって、その度に実感していた。
ああ、この子はどこまでも俺達のお姉ちゃんなんだ、って。
しばらくして、床に落とした視線を顔ごとあげる。そこには案の定、友香が立っていた。
容姿は大人びているけど、三人の視線がほぼ同じだったあの頃とは違って、彼女は俺よりも頭二つ分ほど低い背丈だった。
「たっくんは、何にも悪くないよ」
「……」
「あの時ね。たっくんが私を助けようとしてくれたの、知ってたよ。そして今だって、私の事をちゃんと思い出してくれた。だから今日はお礼を伝えに来たんだ」
「友……ちゃん」
「ありがとうね、たっくん」
彼女から紡ぎ出される言葉がじわじわと胸に染み込んで、俺の傷口に触れる。
どうして、俺が礼を言われるんだろう。
あの時も何にもできなかった。
それどころか、その事故があった事自体……大切な人の存在すらもすっかり忘れ去って、今までのうのうと暮らしてきた。
そんな愚かな俺の事を、逆に恨んでくれてもいいくらいなのに。
でも、どうやら俺の負けみたいだ。
背伸びしながら俺の髪を撫で続ける小さな手。その心地よさの前では、俺のみっともない自己嫌悪すらいともたやすく霧散していく。
しばらく会えなかった大好きな人が、ようやく帰ってきてくれたような気持ちだった。
まるで子供の頃に戻ったように。
辛い事など何にも無かったあの頃に戻ったように。
俺は懐かしい安心感に包まれながら、声をあげて泣いた。
「そろそろ……いかなきゃ」
ようやく落ち着いてきた頃、友香は少し寂しそうに呟いた。
「あやめの事、たっくんに任せたからね」
「ああ、わかった」
「また二人一緒に、墓参りにでも来てよ」
「う、うん。勿論、必ず行くよ」
「よしよし。こんなに姉を想ってくれる妹と弟に出会えて、私は幸せ者だよ」
悪戯に笑いながら、
「……じゃあね。二人も、幸せにね」
友香はそっと、そのクルミのように円らな瞳を閉じた。
その拍子に彼女の頬を一筋の光が伝う。
それは彼女がこの世に残した最後の傷痕だった。
「さよなら……お姉ちゃん」
また俺の記憶に戻ってきてくれてありがとう。
あの日、夢の中で約束してくれてありがとう。
――もう一度あなたに会えて、本当に良かった。
心で呟くと同時に、急にあたりは眩い光で満たされ、視界は白一色に染まっていった。