5
* * * *
「ありがとうね、たっくん。すぐにジュース買ってくるから、少し待ってて」
そう言って自動販売機に向かう少女。俺はそんな小さな背中を黙って見送る。
その光景を目にしていると、不意にぽっかりと空いていた記憶の溝に、まるでパズルのピースがはまるように、彼女の記憶が入り込んできた。
澄下あやめの双子の姉――澄下友香。
彼女は俺にとっても姉のような存在。
俺とあやめと三人で、こうしてよく遊んだり散歩したりしていた。
俺はあやめと二人、茜色に染まっていく景色をぼうっと眺めていた。
さほど大きくない町の、人通りの少ない交差点。時おり数台の車が通り抜けていく。
電線にとまる雀のさえずりや風にざわめく木々の擦れる音が、心地よく鼓膜を揺らす。
そんな穏やかな風景だった。
――キィィィィィィイイッッ!!!!!
でも――その静かな時間は、突然十字路に鳴り響いた異様な音で破壊されることとなる。
「あっ! 危ないっ――」
次の瞬間には、あやめは言葉を失い、俺は持っていたラムネを放って走っていた。
友香に向かってまっすぐ走る俺だったけど、突然、暗闇が視界を覆い、頭に衝撃が走る。
そして真っ暗な中でも視界がグラついているような感覚に襲われた。
「あ……、いや…………、いやあぁぁぁぁ……!!」
……どれだけ目を瞑っていたのか、時間の感覚がまるで掴めないでいた。
でも、辛うじてあやめの泣き叫ぶ声が聞こえ、異常にしぶとく閉じようとする瞼を懸命に開く。
俺の左の頬に当たっているのは黒い壁……いや、地面だ。アスファルトだろうか。そこにはラムネ菓子が数粒転がっている。
虚ろな視界が、目の前の光景を徐々に明るく照らしはじめる。
そこに見たのは、一部分を真っ赤に染めて、形を歪に変えた乗用車と自動販売機。
……そのなれの果てだった。
* * * *
朝だ。
寝汗の不快感とともに目を覚ます。
体が重い。まるで手足をベッドに縛り付けられてるようだった。
昨晩、母さんが話してくれた俺の過去。まるで、それをそのままなぞったような夢を見ていた。
「友ちゃん……」
あやめと俺と、三人でよく遊んだ記憶……俺の中でしばらく居場所を失っていた記憶が、徐々に甦ってくる。
幼い俺はたしか彼女をそう呼んでいた。
家からちょっと離れた公園。子供の足では、そこに行くだけでもちょっとした旅行気分だった。ボールやブランコで遊んだり、帰りに駄菓子屋さんに寄ったり。
別れ際、いつもの十字路で手を振り合うまで……それこそ一日中一緒にいた事も少なくなかった。
――そんな日常は、あの日を境にして終わってしまったんだ。
わんわんと鳴り響く頭の中にあやめの叫び声がこびりついている。
無残に潰れた車と自動販売機。
ついその時まで、その場に立っていた少女。
あの惨劇を、あやめはすぐ目の前見ていたんだ。
血を分けた自分と瓜二つの少女。ついその瞬間まで、慕い続けていた優しいお姉ちゃん。
そんな彼女が一瞬にして、この世からいなくなる瞬間を。
ようやくあの時の事を思い出せた。
でも、そこに達成感などあるはずもなく、ただただ泥のように粘り気のある汚れた感覚が次々と溢れ出してくる。
俺はあの時、友香を助ける事ができなかった。それどころか、事故や友香の存在すらも忘れて生きてきた。
もし、あの日に戻る事ができたら。
もう一度、友香に会えるなら。
そんな叶うはずもない願望ばかりが、俺の頭の中を酷く掻きむしっていた。
◆
左右に開く自動扉を抜け、澄下のいる病室を目指す。
独特の清潔すぎる空気が鼻についた。
俺は知らず知らずのうちに彼女の傷を抉ってしまっていた。今となっては、彼女には酷い仕打ちをしてしまった、という思いでいっぱいだった。
かといって、謝って済むような問題でもない。
むしろ、彼女をさらに傷つけてしまうかもしれない。
モヤモヤと考えながらも、目的の場所に到着する。
丁度、無精髭の先生が部屋から出てくるところだった。
「先生」
「ああ、君か。親御さんとは話をしたのか……?」
遠慮がちに尋ねてくる先生。その仕草から、俺の事を心配してくれていたという事がよくわかった。
「はい。全部思い出しました。あの事故の事も……」
「そうか……」
「澄下はいますか?」
「ああ、中にいるよ」
すぐ目の前にあるスライド式の扉。その向こうにいるであろう澄下は、どんな顔で、どんな気持ちで俺を見るだろうか。
怒りか、悲しみか。
俺に会って、また体調を崩してしまわないか……。
実際、ここに来るまで何度も引き返す事を考えた。
「あっと、その前に……君に頼みがあるんだ」
「え?」
「彼女……澄下あやめさんは、つい数か月前までここに通院してたんだ。最近は落ち着いていたようなんだが……、どうもまだやりきれない部分があるんだと思う」
ほぼ確実に、あの事故のせいだろう。
彼女は何年もあの悪夢に囚われていたんだろうと、容易に想像できる。
「それでだ。昔仲の良かった……同じ過去を持ってる君が、これから彼女の支えになってやってくれないか?」
たしかに「過去の悲惨な事故の被害者」という同じ境遇を持つ俺なら、彼女の思いを他の誰よりも理解できるのかもしれない。
「はい……。俺にできる限り、彼女と向き合ってみます」
「ああ、頼んだ」
「やっぱり腹割って話せるのは医者なんかより恋人だよな」と笑いながら、髭の先生は廊下の奥へと歩いていった。
◆
病室の中はやけに静かだった。
窓から西日が射しこみ、パイプ椅子が床に影を伸ばしている。
あやめはベッドの上で上体を起こして、窓の方を向いていた。
いつの間にかお馴染のポニーテールは解かれていて、栗色の髪が肩付近まで垂れていた。
いつもの元気な彼女からは想像もつかない。
まるで、今にも消えてしまいそうな……そんな雰囲気を纏っていた。
「あやめ、具合はどうだ?」
そう口にした途端、自分の喉が異常に渇いているのに気がついた。
自分の発した言葉なのにどこか浮ついていて、まるで現実味がない。
何だろう……何か変な感じだ。
胸騒ぎというには少し違う。だけど、自分の鼓動はやけに激しく騒ぎ立てている。
まるで知らない世界に入り込んだかのように戸惑う俺。
それとは正反対の、さらりとした仕種で彼女は振り向いた。
「あ……」
途方もなく長い一瞬だった。
彼女の動作は快活などとは無縁の……怖いほどに大人びていて、どこか艶っぽささえあった。
空気に触れてふわりと舞う栗色の髪。絹糸のように流れるその髪は、西日を受けてきらきらと輝く。
少し幼さの残る端正な顔立ちに笑みを浮かべる少女。
その穏やかな双眸がたたえる柔らかな碧に、俺は思わず息を呑んだ。
頭の中で、何かがカチリと音を立てて填まるような感覚。
俺はつい最近も。
いや、もっと小さい頃に何度も……この雰囲気に触れた事がある。
恐る恐る辺りを見回すが、少し色あせた壁、古びた時計。ベッド脇に無造作に立てられたパイプ椅子。何の変哲もない病院の一室がある。
俺はたしかに、あやめがいるはずの病室に入ったはず。
だけど、ここは何処だ?
俺は部屋を間違ったのか?
そもそも……これは現実の世界なのだろうか?
考えれば考える程、混乱の糸は複雑に絡まり合う。
そんな心境とは裏腹に、
「澄下、友香……?」
そして俺の口は、恐ろしく簡単にその名前を呟いていた――