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学園から少し離れた大学病院の廊下。
澄下が入っていった病室から出てきたのは、無精髭を生やした若い医師だった。どこか見覚えのある人だ。
「彼女は落ち着いたよ。今はベッドで横になってる」
落ち着いた口調の彼の言葉に、俺は安堵の息を吐く。
「今はご両親が中にいる。できれば面会は明日以降にしてくれないか?」
「そうですか……」
どうやら大事にならなかったようで、良かった。
でも、なぜ急にこんな事になってしまったんだろうか。俺が話しかけるまでは、澄下は全くいつも通りの様子だったはずなのに……。
「……」
ふと、思う。
俺の言葉が知らずしらず、彼女にショックを与えてしまったのだろうか。
それも……倒れてしまうほどのショックを。
「なあ」
「……え?」
自分が呼ばれた事にすぐに気づかず、慌てて顔を上げる。
すると、無精髭の医師が少し訝しげに俺の顔を覗き込んでいた。
「君は、たしか……」
◆
「大きくなったもんだな」
「あ、はい。おかげ様で」
病棟の待合室。
ガコンと鈍い音がして、無精髭の医師が自動販売機から缶コーヒーを取り出す。
彼は、俺が頭をぶつけて入院していた数日間、世話になった先生の一人だった。
「あの時はお世話になりました」
「ん……まあ、直接治療したのは、外科の先生だけどな」
当時怪我をしたのは頭。そのせいもあって、入院中の間は傷の治療のほか、脳に異常がないか調べるために他の科の先生のやっかいになっていたのだ。
その中でも一番多く問診を受けたのがこの無精髭の先生。今になってようやく、彼の顔をおぼろげに思い出す事ができた。
「ところで……澄下さんに異変があった時、君が側にいたようだけど。その辺を聞かせてくれないか?」
「はい」
俺はこれまでの経緯を出来る限り詳しく話した。
自分と澄下は昔からの知り合いだった事。
彼女が遠くへ引っ越して、最近学園で再会した事。
そして今日、澄下の姉の話をして、直後に彼女の様子が一変した事。
それを聞きながら、先生は何度か考え事をするように唸っていた。
一通り話し終えた後、片手で弄んでいたコーヒー缶をテーブルに置き、先生が俺に向き直った。
「君は、まだあの時の事を思い出してないんだな……」
「え……? あの時、とは?」
「君が頭に怪我を負った時、だ」
「……」
急に俺自身の話題を振られ、一瞬呆然としてしまった。
思い出してないって……何の事だ?
たしかにこの怪我をした時の事は全く覚えてないけど、それが今、この状況で関係ある事なのか?
俺が疑わしい視線を送っていたからか、先生は軽く咳払いをして続けた。
「彼女が引っ越す直前の事は覚えてるか?」
「あ、いえ……。彼女の事を思い出したのもつい最近でしたから」
そうか、と黙りこくる先生。病院の廊下に木霊する医療機器の機械音がやけに耳についた。
「澄下さんの事は、立場上あまり言えないが……」
と前置きした後、先生は真剣な表情になる。
「澄下さんは今、苦しみを抱えている。もし、君にその苦しみを和らげてあげたいという気持ちがあるなら、まずは親御さんに当時起こった事について話を聞いてみてくれないか。それは自然と、君と澄下さん達に関わってくる」
「当時起こった事……ですか」
「そうだ」
第三者のオレからより身内から聞いた方がいいだろう、と呟きながら先生は付け加える。
「ただ、それはとても信じられない話に聞こえるかもしれない。君も苦しい思いをするかもしれない。それを受け止める覚悟があるなら、だけどな……」
どうやら、今澄下が倒れたのはその時の事が原因かもしれない……という事はわかった。
そしてそれは、俺のこの頭の傷とも関わっている。
先生も両親も、俺が記憶を失ったのは、小さい頃に頭をぶつけたからだと言っていた。
でもそれ以外の事は、俺は何も知らない。
知ろうともせず、今まで何もなかったように生きてきた。
でも……。
そんな俺とはちがい、澄下は恐らく、当時からずっと、何年も悩んできたのかもしれない。
それはとても苦しい日々だったにちがいない。俺の不用意な一言で気を失ってしまうほどには……。
(本当は、俺も一緒に背負わなきゃいけない苦しみなのかもしれないってのに……)
今更になって、罪悪感が胸の辺りを蝕みはじめる。その気色の悪い感覚はどんどんと脳にまで上がってきて……やがて――
――俺は、当時の事を思い出さなければいけない。
ごく自然と、そんな答えに辿り着いていた。
「一度、家に帰って話をしてみます」
「……分かった」
先生は微笑んで、ぽんと肩を叩いてくれる。
「澄下さんは二、三日こちらで様子を見る。また、見舞いに来てやってくれ」
「分かりました。また来ます」
コーヒーを飲み干しながら軽く手をあげる先生。そんな彼に軽く礼をして、俺はその場を後にした。
◆
「おかえり、拓也。遅かったわね」
「ああ、連絡しなくてごめん」
家に辿り着いた時には、既に暗闇が辺りを包んでいた。
リビングでは母さんがソファに座って夕刊新聞をめくっている。
「大丈夫? なんか疲れたって顔してるけど」
「ああ、大丈夫」
洗面台で顔を洗い、キッチンでコップ一杯の水を飲み干す。喉が潤い、幾分心が落ち着いてきた。
「なあ、母さん。ちょっと話したい事があるんだ」
「ん? どうしたの?」
「俺の記憶の事」
彼女の顔がやや強張ったのが分かった。
新聞をめくる手を止め、俺の顔を見上げる。
俺はキッチンの椅子に座り、一呼吸置いてから話し始めた。
「今日さ、俺が不用意な事言ったせいで、クラスの子を傷つけたんだ。その子、『澄下あやめ』って名前なんだけど……。覚えてる? 俺の昔の知り合いだったはずの子なんだけど」
母さんは目を見開いて俺の方を見る。そして、どこか戸惑った様子で頷いた。
「ええ、覚えてるわ……あやめちゃん、かぁ……。クラスメイトになったのね」
話しながら、母さんはソファから立ち上がり、俺の向かい側の椅子に再び腰掛ける。
母さんが俺に向き合ったのを見て、今日の事を少しずつ説明していった。
「そうだったの……」
俺の話を聞いた母さんは、小さく溜息を吐く。
「あやめちゃんには、辛い思いをさせてしまったわ。母さん達があなたに何も伝えていなかったせいね……」
「母さん達が昔の事を隠してたのは、俺の為だって分かってる」
彼らはいつも、人一倍俺の身を案じてくれていた。時にはこっちが煩わしく思ってしまうほど……。
当時何が起こったのかはわからない。
けど、俺が過去を思い出して傷つかない為に、敢えて口を噤んできた。
そんな両親の気持ちが、今なら理解できる。
でも、本来なら知っておくべき事だったのかもしれない、と今日の出来事で痛感した。
そして今からでも知っておかなくちゃいけない事だ。
とても大切な何かが、そこにある気がしていたから。
「あの頃何があったのか、教えてくれないか? 辛いかもしれないけど、元々俺も持ってなきゃいけないはずの記憶だと思うんだ。俺だけ何も知らないで、澄下や母さん達だけが苦しい思いをしてるなんて……嫌なんだよ」
しばらく俯いていた母さんだったが、佇まいを正して俺を見据える。何か吹っ切れたような表情だった。
どうやら母さんは、俺に全て話す覚悟をしてくれたようだ。
もうあやめに悲しい思いをさせたくない。
俺も、覚悟を決めよう。