彼女と初デート
うららかな春の日差しが降り注ぐ。
煉瓦敷きの歩道の上、街路樹に寄りかかりながら上を向くと木漏れ日がキラキラと俺、鈴木松久の目にまぶしい。
ああ、人生とはかくもすばらしい物なのか。
道行くイライラとした様子のサラリーマンも、大股を広げてパンツ丸出しで道に座り込んで携帯をいじる女の子も、パンツが半分見えた腰パン姿でナンパ相手を探している眉毛のないヤンキーも、全てが輝いて見える。
なぜなら俺は今日、初恋の相手で先日からおつきあいを始めた彼女とのデートなのだ。
上から下まで全て渋谷マル9メンズ館に入ってたとあるブランドで店員さんに見立ててもらい、同じく生まれて初めて美容室で髪を切り、準備は万全。
もちろん、気合いを入れるためにパンツと靴下もおろしたてだ。
(決して、下心からではない・・・・、はずだ。)
父親の書斎に忍び込み拝借してきたロレックスで時間を確認していると、カツ、カツと美見慣れたミュールの音が聞こえてきた。
「ごめん、松久くん、待った?」
振り向けばまず目に入ってきたのは、ぷるりと潤いのある唇。
実はゼリーか何かでできてるんじゃないかと言うほどに透明感のある唇が言葉を紡げるのは奇跡に違いない。
更に清楚さを前面に押し出した白を基調とした帽子の下に見える大きな目は、長い睫毛に縁取られ、黒曜石のような瞳でこちらを見上げている。
「う、ううん、全然!」
ほとんど心の準備をすることなく間近に見た彼女の顔は可愛すぎて心臓に悪い。
今日は、膝丈までのストライプワンピースにローヒールのミュールだ。
ベージュのストッキングから透ける足は見つめていてもいいんだろうか。
胸元にはパールをあしらったカジュアルなネックレスを付けており、そこへ視線を投げると、いつの間にかふっくらと柔らかそうなバストから顔の方向をずらすのが難しくなってしまう。
怪しまれないうちにと意を決して顔を振れば、なぜか二つもある肩掛けバッグと、そこから繋がっているロープ。
「ん?」
不思議に思ってロープの先をたどっていくと、彼女の足下から一歩下がったところにふさふさとした毛の塊がいた。
「えっ、犬?」
思わず尋ねると、彼女は少し頬を染めて恥ずかしげに視線を彷徨わせた。
「ごめんね。
ちょっと事情があって家に置いておけなくて・・・。
でも、どうしても松久くんと初デートしたかったから・・・」
少し悲しげに視線を彷徨わせ、軽く握った片手を口元に添えた彼女は破滅的なほど愛らしかった。
弓矢が心臓に突き刺さったような衝撃を受けた俺は、訳が分からないうちに問題無いとか、可愛い犬だし、とか適当な言葉が自分の口からこぼれているのを、足が地面から3センチぐらい浮いたような心地で聞いていた。
「・・・本当に?」
そのまま、上目遣いで見つめてくる彼女に必死で肯定の言葉を返す。
ブンブンと頭をふり、屈んで犬好きをアピールしようと頭を撫でた。
「俺、犬好きだし!
名前はなんて言うのかな?」
ガブッ。
その瞬間、何が起きたのか、浮かれていた俺には分からなかった。
小さな俺の手のひらほどの頭の犬の口の中に、俺の手が吸い込まれている。
「マロンちゃん、駄目じゃない!」
そうか、この犬はマロンという名前なのか。
そんな事を考えながら呆然としていたら、慌てた様子で彼女が犬の口の中から俺の手を救い出してくれた。
じんじんとした痛みが今更ながら指を遅う。
「大丈夫、久松君?」
突然の出来事にかるく意識が飛んでいた俺は、目の前の心配げな表情の彼女の潤んだ瞳に釘付けとなった。
そして、今気づいたが彼女の白魚のような手が、俺の手を大事な物をそうするかのように、そっと両手で大切そうに握っている。
彼女の手に触るのは初めてだが、そのさらさらとした手の感触に、つるつると輝く彼女の貝殻のような爪に、傷の痛みより大きな衝撃が俺の胸を襲う。
「血が出ちゃってる・・・。
ごめんなさい!
絆創膏は持ってるけど、洗わなきゃ」
おろおろとしている彼女に何かしら問われ、答えたのは覚えている。
そのまま手を取られて歩き出し、たどり着いたのは近くの公園に併設されているシャレたカフェだった。
席を取り、とりあえず水面所を借りて手を洗う。
というか、彼女が洗ってくれる。
席に戻るとバッグから彼女が取り出した清潔なタオルでぬぐわれ、さらにいつも常備しているらしいクローバーの柄の入った絆創膏で傷口を覆われた。
至れり尽くせり。
ここは天国だろうか。
と、彼女の手が離れ、ようやく人心地つくと辺りの様子が見えてくる。
ここは、今流行のドッグカフェらしい。
しかも、店員は優しい感じのお姉さん、横のテーブルにいるのは良い感じに油の乗ったお姉様、その向かいは若干乗った油も抜けてさっぱりしてきたお姉様。
お母さんらしき妊婦さんに、その娘らしき女の子。
店の中に男は俺しか居ないらしい。
その時になってようやく状況を把握した俺は若干の居心地の悪さを感じ始めていたのだが、まさにその時、店員さんがいつの間にか頼んでいたドリンクを持って来てくれた。
俺の前に置かれたのは手作りジンジャーエール、コップの縁に彩りよく輪切りになったレモンが飾られている。
そして彼女の前に置かれたのはなにやらスタイリッシュな木の葉が描かれたカプチーノだった。
「かわいいね」
カプチーノのカップを両手で持ち上げ、嬉しそうににこりと笑う彼女がまぶしい。
そうだね、と返事をしながら焦りを隠すようにジンジャーエールをがぶ飲みしようとして、むせた。
・・・市販の慣れてるジンジャエールと違い、非常にスパイスがきいていた。
というか、辛い、マジで辛い。
再び心配そうに声をかけてくる彼女に、大丈夫だよ、と返事をして深呼吸する。
頑張って動悸を落ち着けて、とにかく何か話さなければと犬の話題を持ち出すことにした。
「見たこと無いけど、何の種類の犬?」
彼女は店からサービスされた犬用クッキーをマロンに上げながら口を開く。
「何だろうね、ミックス?」
「ああ、ざ、・・・ミックスかぁ」
危うく雑種と言いそうになってミックスと言い換える。
デートに連れて来るほどだ、彼女は犬を愛しているに違いない。
雑種と言う言葉が愛犬家にとっては逆鱗だということを聞いたことがあった。
その後、どうにか穏やかに会話を繋ぎ、気がつけば1時間近くカフェにいたらしい。
店を出て、公園を散歩しているとマロンが唐突に木の陰で腰を中途半端に下げたまま止まった。
彼女は鞄から飲食店に良くある少し大きな紙ナプキンみたいな物を出すと、マロンのおしりの下にそれを敷く。
それを確認したマロンは待ってましたばかりにその場で(大)をした。
片付ける前に彼女の手がマロンの頭に伸び、その頭をなで回す。
ニコニコと微笑んだ彼女は、
「えらいね、マロンちゃん。
ちゃんとできたね」
と褒めちぎった。
・・・正直、うらやましい。
犬らしく、下の場所なんて気にするんじゃねぇよ。
と、大人げない思考が頭をかすめる。
もし、失敗したら。
彼女の家の廊下や何かで粗相してしまえば。
彼女はきっと驚いた顔で寄ってきて、
「久松くん、駄目!」
俺を、きっとあの白魚のような手で捕まえて、粗相した場所に連れて行き。
「めっ、ちゃんとするときは、決まった場所じゃないと駄目って言ったでしょ?」
少しだけ困ったように目を眇めて、しかりつけるのだ。
「ちゃんと分かったの?」
あの手で俺の全身を掴み、顔を近づけ、
ガブッ。
「マロンちゃん、駄目じゃない!」
彼女の声にハッとして足下を見れば、マロンが俺の足首にがぶりと噛みついている。
・・・俺は、どうにもこの犬とはあまり相性がよくなさそうだ。