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ACT5.騎士は英雄と語らう

「ま、とりあえずどうぞ」


「あっ……はい、頂きます」


 カチャリと音を立てて置かれたティーカップを一瞥し、頭を下げてからシエルはおずおずと口を付けてみた。中に入っていたのは極普通のハーブティーのようだ、高級感は無いが口から鼻を通して芳醇な香りが駆け抜けて行く。

 どうのこうのと評価を考えるよりも、先に出て来たのは単純に美味いという感想だ。優しく飲みやすい味だと、次にはそう思った。


「ふーん」


「えっと、どうかされましたでしょうか?」


「いんや、よく僕が出した物を飲めるなってさ。五年前なら何か細工されてるよ、それ」


「えっ……ああ!?」


「だけど残念、今回は普通のハーブティーだ。新鮮な反応をありがとう」


 悪戯成功してやったりとほくそ笑みながら、向かい側の椅子に座ったランスリーは自分のカップに口を付ける。変装を解いて露になったその姿は、当然の如くシエルの知る五年前のそれよりも男らしく成長していた。

 ロクに手入れもしていないらしい、ボサボサになった青色の髪は樹脂製のカチューシャによってオールバックに。身長も少し高くなっていて、程よく筋肉も付いたようだ。それでも、顔はほとんど変わっていない。

 印象に残る心底楽しそうな笑い方も、隙あらば人をからかう悪癖も同じ。この方は本当にランスリー=ブレーブスなのだと思うと、不意にシエルの眼からはまた熱い物が込み上げそうになった。


「本当に、お変わり無く」


「どうかな? 僕としては丸くなった気がするんだけどね、隠遁生活に感化されたのか。……そう言う君は変わった、主に胸が。うん、壁が小山になったぐらいだけど」


「……本当に相変わらずですね」


「ふははは」


 上品からわざとらしい下品への転落は早い。そういえば、変に格好つけてから自分でそれを壊すのはランスリーの常套手段だった。

 気にしている事をよくもぬけぬけと口にしてくれる、と若干苛立ちながらもシエルはあえて反論せずに黙る。こうやって彼が茶化してくるのは、少しでも緊張を解かしてやろうという気遣いの表れだからだ。


「さて、それじゃあ本題に入ろうか。君は僕に何を望んでここに来た?」


「えっ?」


「いやいや。えっ、じゃないよ。大魔導士の居場所なんて国を傾かせるような情報を掴んでおいて、何もありませんなんて事があるわけないでしょうに」


「……あぁ、あれ?」


「いやいやいやいや」


 時間掛けて言葉の意味を理解したシエルは、首を傾げて思考を巡らせ始めた。

 そういえばここに来たのは衝動的な、発作のような感情の爆発が理由なので大袈裟な目的は何も無い。ただ、後に何があろうともランスリーに逢いたいという想いに本能が従っただけだ。

 しかし、よくよく考えてみればとんでもない情報を握ってしまったらしい。自分だけしか知らない今ならば、まだ色々と交渉も可能なのではないだろうか。

 それどころかこれは千載一遇のチャンスだ、主に自分の欲求を満たすための。国の利益や騎士の誇りなど知った事ではない、まずは情報の整理から始めよう。

 等と意気込んでみたところに、不意打ちを仕掛けたのはランスリーだった。


「とにかく、百歩譲って望みが無いにしても来た理由ぐらいはあるだろうに。さっさとそれを教えなさいな、その心は?」


「ふぇっ!? その、ただこうして会ってお話させて頂きたくて」


「……えっ、それだけ?」


「はい」


「他には?」


「何もありません」


「いやいやいやいやいやいや」


 あり得ん、と一言呟きランスリーは片腕で頭を押さえた。そのように理解が出来ない素振りをされようとも、シエルにとっては本当なのだから仕方がない。

 どう声を掛けるべきか分からずに焦っていると、ランスリーは大きく溜め息を吐いてまた口を開く。


「例えば、国に僕を差し出せばその時点で大昇進間違い無し。居場所を教えるだけでも報奨金ぐらいは貰えるだろうね、こっちとしてはお尋ね者にでもなった気分さ」


 打算的だが、とても現実的な台詞だ。国にとしては大魔導士であり第三皇子であり英雄であるランスリーのネームバリューはどうして手に入れたい、その為の対価ならば多少の無理難題でも払ってみせるだろう。

 個人の問題だけではなく、家名を上げるにももってこい。フェルミールのような名家にもなれば、他の貴族を出し抜く絶好の機会になる。

 誰もが望む、ランスリーの身柄を。だが、シエルにはどうでも良かった。


「貴方様の居場所について、私はまだ国王はおろか私の親族にも漏らしていません」


「何故?」


「そうしなければ、貴方様はまた去ってしまうと考えたからです。密告していれば、お会いする機会は永遠に失われていました」


「だろうね。父上が総出で僕を捕まえようとするなら、そのまま逃げて何処かに移り住む」


「はい、私はそれが怖かったのです」


「ふーん……」


 緊張によって固まった口を力一杯に動かし言うと、ランスリーは無表情に曖昧な返事を返す。シエルを言い分を信じるべきかどうか判断が付かない、そう物語る顔だ。


「君が一人で来た時点で、まだ国にバレていないことは分かってた。そして、君がフェルミール家を代表して、もしくは個人の望みを叶えるために来たんだと思った。なのに、君はただ僕に逢いたいだけだと言う。嘘を吐く理由は無いから信じるにしても……解せないな、今更それが何になる?」


 ただ純粋に分からないらしい、どうしてシエルが自分に執着しているのかを。どう答えるべきかと、シエルは一瞬だけ判断に迷った。

 それでもランスリーを見直して、


「答え合わせ、それを望みました」


「答え合わせ?」


「はい、貴方様が私に出して行かれた難題の答えです。自分の意思、その意味を探していました」


「なるほど、君はずっとそれを。……あっははは、やっぱり真面目真面目」


 パンパンと手を叩き茶化す姿は、どこか悲しげだ。しかし、内心には喜びがあるようにシエルには見えた。

 答え合わせに行き着くまで考えが纏まってはいない。それでも、こうしてランスリーと再会した事によって何か切っ掛けが生まれたような気もする。

 いや、ただ気付いていないだけだった。何が最優先であるべきなのか、対象が目の前に見えていなかっただけだ。


「幼少の頃から、長らく騎士として……フェルミールの家系としての教育を受け、流れのままにここまで来ました。それでも、あの戦争から帰って辺りを見渡してみれば、私には個人として誇れる物が何もありませんでした。騎士としてではなく、私としてです」


「それでも、君には素晴らしい功績がある。騎士団長になった、魔導士にもなった」


「肩書きはそうでしょう。しかしそれは家の望みに導かれ、なし崩しに与えられたものに過ぎません。……確かに国のために、という意識はあります。それでも、心にはいつも寂しさがありました」


 虚無感、と言い換えてもいい。整備された一本道を歩いていると、いつの間にか今の位置に辿り着いていた。ただそれだけで、自らで考えて行動した事などあっただろうか。

 そんな疑問はランスリーの存在によって、次第に憧れへと変わる。自らに与えられた地位を全て破り捨てて、自由気儘に走り回っている姿が眩しくてたまらない。

 自分とはまるで違うその姿を、気が付けばシエルは崇拝するようになっていた。そして戦争中の一ヶ月間の生活や別れてからのこの五年間で、崇拝は恋慕に変わった。

 あの御方のように自分も自由に生きてみたいと、そう強く強く願う。それでも、シエルには今までの全てを捨てる勇気が無い。

 意思に従わなくとも確かにシエルが歩んで来た人生なのだから、彼女はこれを否定出来ない。否定するのが怖い。もしかしたら、今の自分が壊れてしまうかもしれないという恐怖が付き纏う。

 個人的には地位に対する思い入れは無く、いつ無くしてもいいとすら考えている。しかし、問題はそれによってフェルミール家がどうなるかだ。

 それなりに由緒正しき家系の跡取りである重圧、盛り立てて行かなければならないのだという使命感。自分が望むままに行動すれば、つまりランスリーのように消えてしまえば、間違い無くフェルミール家は崩壊するだろう。

 だから、シエルは騎士の肩書きに縛られている。王族である自分を嫌うランスリーとは、そこが決定的に違う。違うからこそ、


「私は騎士である事を強いられています、そうでなければ家は没落を免れません。だから私の意思など望むべきではない、それでも」


 望みはただ一つだ。


「私は貴方様にお仕えしたい。いや、貴方様の傍にいたい!! この五年、私自身を誤魔化していました。しかし、それでも……」


 そこで、シエルは俯き言葉を止めた。最後まで言い切れと頭の中で念じてみても、口は閉じて動いてくれない。

 あまりにも荒唐無稽な言い分だ、ランスリーはどう思うのだろうか。拒絶されるかもしれない、そう思うと前を見る事は出来なかった。

 永遠のようにも感じる、長い長い、恐らくは短い沈黙。どうしてこんな事をしてしまったのだろうという後悔と共に、泣きたくなる気持ちが浮かび上がって来る。

 これ以上、情けない姿を見せてたまるか。そうシエルが自分を叱咤した瞬間、


「すまなかった」


 ランスリーは短くそう謝った。驚いて前を見ると、視界に飛び込んで来たのは机に擦り付けんばかりに頭を低くした彼の姿だ。


「ら、ランスリー様!? いけません、そんなに頭を下げられては」


「ダメだ、譲れない」


「しかし!!」


「いいから、そのまま聞いてくれ!!」


 頭を下げた姿勢のまま、ランスリーが一喝した。思わずすくみシエルが黙ると、少ししてから彼は頭を上げ直し、強い力の籠った目で真正面を見る。

 見て取れた感情は、怒りだろうか。


「僕は、君にそう言ってもらえるような立派な人間じゃないさ。人を殺して、国から逃げ出して、誰かに見付からないかとビクビクしながら生きている臆病者だ。人が思うような英雄なんて、この世にはいない」


「違います、私は英雄や大魔導士に惹かれたのではありません。強さではなく、人間性に……」


「なら、尚のこと間違いさ。僕は君を利用しようとした」


「利用?」


 ランスリーの下唇と握り締められた拳からは、じわりと血が滲み出している。

 彼の言う利用というのが、何に対してかは分からない。だが、とにかくそれを後悔しているようにシエルには見えた。


「人は死を目前にすると、本能的に子を為そうとするらしい」


「こ、子供?」


「あーいや、変な意味じゃなくただの例え話だから、これは気にしないように。……それと同じで、僕はブレーブスに僕がいた証を残したかった。捨てようとした場所から自分が消えるのが、怖かったんだ」


 それはそうだろう、よく分かる。そう言いかけてシエルは口をつぐんだ。

 ベクトルは少し違えども怖いという想いは同じ、誰だって知らない領域に踏み込むのには勇気がいる。しかし、ランスリーは恐怖を振り払って先に進んだ筈だ。

 そんな事は知っていた、そういったところに憧れた。なのに、今更それが何だと言うのか。


「ウォーレンは、今どこに?」


「私が、部屋に保管しています」


「そうか、持っていてくれたのか。……僕は、ランスリー=ブレーブスがただ英雄として残されるのが怖かったんだ。戦果による武勇伝じゃなくて、僕っていう人間が残って欲しかった。だから、君にウォーレンを渡して僕を覚えていてもらおうと思った」


「……」


 更に彼は続けて、


「戦前のランスリー=ブレーブスを本当の意味で知っている人は極一部さ。そして、戦中の僕を本当の意味で知っている人は、一人もいない。どんな葛藤を抱えていたか、どんな意思を持っていたか。……僕は、それを君に押し付けたんだ」


 イマイチ、要領を得ない説明だ。それでも一つ一つの意味を繋いでみれば、曖昧にランスリーの考えが見えて来た。

 つまり、


「願望と責務の板挟みになるように私を誘導した、という事でしょうか?」


「……精神状態がおかしかった、なんていうのは言い訳にならない。僕は、王宮の誰でもいいから、僕と同じ考えを持つような人を作りたかったのさ。そして、たまたま近くにいた君を巻き込んだ」


「道連れ、ですか。一人で消えるのは怖く、理解者がいないのも怖い。……卑怯です」


「くっ、はは。そうだ、卑怯だ」


 ポトリと赤い水滴が机に落ちた。続けて二滴、三滴と続く。後悔し、五年間を生きて来たのだろう。孤独の中で誰にも打ち明ける事も出来ずに、一人で溜め込みながら寂しく畑を耕し、人から逃げていたのだろう。

 未練がましくクーリンガルにしがみ付き、もしかしたら戻ってみたいとすら思ったか。ランスリーの心中など、シエルには何も分からない。

 それでも、言いたい事はある。


「この葛藤が作られたものだとしても、変わりません」


「……何が?」


「まず勘違いされては困りますが、それを聞いても尚、私は貴方様を恨んではいません。逆に感謝しています」


「へっ?」


 キョトンとしたランスリーに微笑み返し、ハーブティーで優雅に口を潤しながらシエルは続ける。


「いや、でもあれです。ムカつきました。貴方様が私を誘導しておきながら、更に恨めとはどういうおつもりですか。どれだけ自分勝手なんですか」


「えっ、あれ? 君……随分と性格変わったような?」


「これもランスリー様のせいです。なので、責任を取って頂きます」


「責任、ねえ」


 変わったという自覚など、ありすぎる程にある。そしてそれを悪いことだとは、ほんの少しも考えてはいない。言うなれば、自分の可能性を広めてもらったのだという思いが強い。

 視野や心の機微など、色々なものが確かに広がっている。例えば、最初にカールに話し掛けた時のように、自ら積極的に行動する事など昔のシエルからしてみればあり得ない事だ。

 ランスリー自身が言うように丸くなったのならば、受け取った剣から彼の尖った部分、積極性や色々なものが流れ込んで来たのだろう。そう考えてみると、シエルは何となく幸せだった。

 だから、この幸せを逃さないように目の前の男に首輪を嵌めなくてはいけない。家とランスリーの両方を手に入れるための、その条件は全て揃っている。

 さも悪戯を思い付いたとばかりにほくそ笑む彼女を目の前にして、ランスリーはひしひしと嫌な予感を覚えて身体を震わせた。


「まず、そうですね……誓って頂きたいのです。どうあっても黙って私やサーニャの前から居なくなりはしないと。貴方様のこの居場所を、私は壊したりなど致しません」


「一言残せば消えてもいいって、そう聞こえるけど?」


「その場合は、私も同行させて頂きます」


「はい!? さ、さっきまでの葛藤云々は何処に……」


 ランスリーとの再開によって、今のシエルは一種の暴走状態にあった。五年間もうじうじと悩んでいたのが信じられない程に望みが明確になり、後先を考慮せずポンポンと要求が出て来る自分に陶酔すらしている。

 テンションの高まりと共にあっさりと迷いの垣根を乗り越えた彼女は、左手の親指と人差し指を突き立てて更に言う。


「二つ目、これと同じ物を頂きたいです」


「あー、それは言うと思った。ちょっと待ってて」


 机に置かれていた三日月の首飾りを指差してみると、ランスリーは納得した様子で立ち上がって、リビングの角に設置された箪笥を漁って中から何かを取り出した。

 戻って来た彼が机に置いたのは、ガラスの蓋を被せられた細長い三つの小さな木箱。ゴトリと重量を感じさせる音を響かせた、木製の鞘に収められた刃渡り十センチ程度のナイフ。更にはシンプルな銀の指輪。

 ガラスを通して見える木箱の中には、サーニャの物と同じような種類の形の違う首飾りが入れられている。ナイフは見た通りだ、恐らくは果物か何かを切るための安物なのだろう。

 よくよく感覚を研ぎ澄ませてみれば、どれもこれもぼんやりと魔力の残留因子らしき物が感じられた。それは魔導師クラスですら気付けるどうか微妙な量で、シエルが目敏く看破したのは奇跡とすら呼べる域だ。

 勿論、その理由は彼女がランスリーに飢えていたからなのだが。


「では、これを」


「ナイフじゃないのか、君なら実用性を重視すると思ったんだけどな」


「その……私もオシャレの一つや二つもしてみたいと思いまして。大切にします!」


「ふーん、そんな安物でいいなら幾らでもどうぞ」


 指輪を摘まみ取り、シエルは少し迷ってから未だに突き立ったままだった左の人差し指にはめ込んでみた。測ったかのようにピッタリとそれは指に馴染み、僅かな魔力を確かに伝えて来ている。

 顔のニヤけを抑えきれない彼女をランスリーは不思議そうに眺めて言うが、あまりにも見当違いだ。値段ではなく、ランスリーに指輪を貰った事が重要なのだから。


「それで、また暇な時に来るのかな?」


「あっ、はい。迷惑でなければ」


「別に迷惑なんかじゃないさ、ただバレたりはしないように頼むよ。黙ってくれるだけで僕としては大助かりなんだけど、何だかんだでやっぱり話し相手は欲しくてね」


 万事上手く行っている、とシエルは心の中でガッツポーズを作る。ただ話すだけだった当初の目的から外れて、流れるままに都合良く出入りの許可まで貰ってしまったのだからもう笑いが止まらない。

 正直なところ、彼女にとってランスリーの懺悔はどうでも良かった。今更彼に対する気持ちが変わる訳も無く、どんな考えでウォーレンを渡されたとしても確かに意思は剣を渡って流れているのだ。

 重要なのは、これで定期的に……いや、毎日でも都合を付けて会いに来れるという一点のみ。ただ、それでもまだ話は途中だったと思い直す。


「ランスリー様の意図が何であれ、私は貴方様から離れるつもりはありません。その方が、楽しいと思えるからです」


「楽しいから、それだけで君は僕を国に突き出す義務を怠ると?」


「はい、私は貴方様にそう誘導されてしまいましたので」


 わざとらしく満面の笑みで言ってやると、ランスリーは驚いて固まった。シエルの言動が信じられないという思考が伝わって来るが、彼はすぐに再起動したかと思うと、大声で笑い声を上げて、


「放蕩騎士め!」


 と至極楽しそうに表現した。


「放蕩騎士、良い響きです。ですが、私は貴方様のように吹っ切れてはいません」


「そりゃそうだ、放蕩は放蕩でも騎士は騎士、英雄なんかとはまた違う。それでも君は僕に付き合おうとする時点で放蕩だ」


「それは、重畳です」


 明確に放蕩がどういった意味を持つのかは分からない。だが、シエルにとってはその称号を認められた事が至上の喜びだ。

 自分は心底からこの御方に心酔しているのだと改めて自覚し、それが報われるのかもしれないと思うとまた更に嬉しくなった。


「さて、一つ君に頼みたい事がある」


「っ……はい」


 しかし、そんな気持ちは他ならないランスリーによって一瞬で冷やされる。重要な話のようだ、もう彼は笑わずに顔を真面目一辺倒に作り替えていた。


「僕はもう王族である事を辞めた、だから様付けと尊敬語は禁止」


「えっ?」


「ここでならランスリー、外でならカール。とにかく、堅苦しいのはよしてほしい」


「し、しかし、そう言われましても……」


 つまり市場の時にカール相手に接したようにしろという事なのだが、いきなり変えろと言われても無理な話だ。尊敬し崇拝する相手には言葉遣いからして敬って当然、それがシエルの常識だった。

 だが、ランスリーは許さないとばかりに畳み掛ける。


「ほらほら、呼んでみなさい。ランスリーか妥協してランスリーさん、適当なあだ名でも可。ただ、サーニャみたいにおっちゃんは勘弁!」


「へ、へうぅぅ……」


 ランスリー、完全復調。重苦しい話によって意気消沈していた彼は、この時点でスイッチを入れ直して復活してしまっていた。

 明らかに躊躇って涙目になっているシエルの状態を全く考慮せず、更に矢の雨を降らせるかの如く煽り紛いの口撃を続けていく。折れるまで解放しないつもりらしい。

 どこが丸くなっているんだと身体を震わせて恐々としながら、彼女は覚悟を決めて小さく一言、その名前をしどろもどろに時間を費やして呟く。


「ら、ランスリー……さん?」


「うーむ、やっぱりさん付けか。仕方無いから許してあげよう」


「あうぅ……」


「よし、御褒美だ。後一つだけ僕に何か要求する権利を与えよう」


「ふぇあ!? えっと、えーっと……」


 御褒美という名の罠である。状況からしてシエルはランスリーにまだまだ多くを要求出来る筈なのだが、混乱の極みに達した彼女は一つ言うことを聞いてもらえるのだと錯覚してしまっていた。

 こうなってしまうと完全にランスリーのペースだ。テンパると可愛いなー、等と考えてニヤニヤと虐めっ子特徴の嫌らしい笑みを浮かべながら見守っていると、その視線に気付いてシエルも更に慌てふためく。

 正直なところ多くを求めていなかった彼女は、唐突に告げられた向こうからの申し出に答えられない。知恵を振り絞ってみるものの、出て来るのは乙女チックな口に出すのもはばかられるものばかり。

 遂には目を回して保留と呟き机に倒れ込んだ姿を見て、ランスリーはやり過ぎたかと少し反省しながらハーブティーをおかわりするのだった。



     ☆



 チュンチュンチュンと、囀ずる小鳥の鳴き声がランスリーの目覚まし音だ。自分の穏やかな日々は、この穏やかな音で始まってこそだと信じて疑っていない。

 シエルの夜襲を受けた翌日、ランスリーは例に漏れずまだ薄暗い早朝にむくりとベッドから身体を起こした。閉じようとする目を擦り開けて、ゴソゴソと緩慢な動きで寝間着を脱いで農作業衣に着替え、欠伸をしながら部屋から出て一階へ。

 まずは朝一で作物の状態を確かめ、一日の予定を簡単に決めてしまう。ランスリーの日常は大部分がパターン化されており、サーニャの手伝いが始まって自由性は高まっているものの、基本的な部分は何も変わっていなかった。

 それにしても昨日は最後までおかしな日だったと、階段を降りながら改めて思う。浮かんで来るのは、その原因となった女性に関して。

 彼自身、シエルを色々とマズい方向へと導いてしまった事に対しては多大な責任感を覚えていた。抱え込んでいた罪を流してもらったのは良いのだが、それによって彼女が良くも悪くも変わってしまったのには申し訳なさを禁じえない。

 シエル=フェルミールと言えば、どうからかってみても動じない冷静さを貫く性格だった筈だ。それが、たった五年間で昨日のような醜態を晒す程に変貌するとは誰が思うだろうか。


(何にせよ、上手く行ったのかな……?)


 ランスリーとしては、シエルに対しての贖罪の機会を与えてもらったと解釈している。流れ的に農園への出入りを許してしまったのはもう仕方がない、ならばそれはそれで良い付き合いをするだけの話。

 恐らくはこれからも、何故か自分を慕ってくれている彼女は時たまにここを訪れるのだろう。その時に暖かく出迎えるのが、贖罪になる。

 そう結論付けて階段を降り、とりあえず何か飲もうと台所を目指して、ランスリーは目を見張った。


「おや。ランスリーさん、おはようございます」


「いやいや。何してるのさ、君は」


「勿論、朝食を作っています」


 無垢な笑顔を振り撒いている人物、シエルは言いながらも台所でフライパンと格闘を続けていた。チラッと中に見えた黄色の物体からして、スクランブルエッグを作っているらしい。

 昨日はいやにあっさりと帰ったと思えば、今日は不法侵入の後に不法占領である。どうやら、本当に言葉の通りに朝食を作りに来ただけのようだ。


「いや、適当にパンでもかじるからさ……」


「駄目ですよ、身体は資本ですから。朝からキチンと食べないと力が出ません!」


 言いたい事は分かるが、問題はそこではないだろう。好意でやってくれている以上、無下にする訳にはいかない。だが、自分のためにシエルに時間を使わせてしまいたくもない。

 ここで断らなければ、彼女はまた頻繁に同じ事をしに来るに決まっている。どう断ったものかと思案していると、シエルはそんなランスリーの様子を察したのか、目を細めてまた小さく 笑った。


「私が好きでやっている事ですから、何も気にしないでください。人の好意は、黙って受け取っておくものですよ?」


「……はあ」


 昨日よりも少しだけ砕けた、ランスリーを貴族ではなく友人として扱っている言葉遣い。そんなものを見せられてしまえば、もう言い返すつもりは全て無くなった。


「……お願いします」


「はい!」


 この後、シエルは通い妻の如く毎日のように農園を出入りする事になるのだが、特に事件が起こりもしないのでランスリーが拍子抜けしたのは別の話だ。

 遅くなりました、これでとりあえずの人物紹介的な流れは終了です。

 ここからはほのぼの詐欺にならないよう、平和的にやっていければ……と思います。

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