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ACT4.英雄は少年に誓う

 地の文では基本的に、その時の姿によってランスリーとカールの呼称を変えています。

 呼称がカールになっている場合は姿を変えている、そう受け取っていただければと思います。

 ブレーブス公国の王都であるクーリンガル、その門を潜るとまず出迎えてくれるのは活気に満ちた商業区画だ。

 クーリンガルの街の形は綺麗な正方形。四方を堅牢な石造りの城壁によって囲まれ、門はそれぞれの方向に一ヶ所ずつ設置されて合計で四つ。当然のように衛兵が全ての門に配置され、厳重な警備によって不審者は誰一人として通さない。

 内部は最奥の中央に王宮が置かれ、そこから外側に行くにつれ円状に様々な区画が設定されている。内から順に王宮、上層階級用の公共施設、上層階級用の住宅地、一般用の公共施設、一般用の住宅地、そして市場。

 明確に場所によって土地の利用法を変えているのは、身分の差によるトラブルを可能な限り防ぐという配慮の現れだ。一般用の公共施設も決して質が低いわけではなく、割と高水準に纏まっている。勿論それは上層階級のものには及ばないが、不満が出てくる程ではなかった。

 市場が大外に構えられているのは、ブレーブス公国が商業大国だという事の表れだ。他国や地方からも商人や業者が訪れるのに配慮し、市場は外に置く。これは最早、鉄則と言ってしまっても過言ではない。

 活気に溢れるのは国において最大のメリットだ、これを前面に押し出す政策は行なって当然。住人に対する配慮もバランス良く行なっているので、王都としては今のところ成功と言えるだろう。


「とにかく、これからは迂闊に見せびらかさないこと。特に魔法使い以上にはだ、いいね?」


「はーい……」


 そんなクーリンガルの一般住宅地、その一角にカールの私塾は居を構えていた。中ではカールとサーニャが教室で生徒用の椅子に座り、先程起こったハプニングの反省会中だ。

 シエルに首飾りを渡した事は紛れもないサーニャの不注意だが、カールにも責任の一端があるにはある。正体を明かした後も魔法についての説明をし忘れていて、魔力から魔導師に気付かれるとサーニャは知らなかった。教えていれば、軽率な行動は取らなかっただろう。

 だからこそ、カールは強く言いはしない。軽く注意するぐらいに留めておいたつもりだが、それでもサーニャは落ち込んでしまったようだった。


「大丈夫、怒ってないからさ。ほら、元気出して」


「うう、ごめんよー……」


「気にしない気にしない」


 サーニャはうつ向いて落ち込み、カールはその頭をポンポンと叩く。場所が場所という事もあって、その様子はまるで教師と生徒だ。もしくは外見的に親と子だろうか。

 ちなみに姿はカールだが、サーニャの前でランスリーは喋り方を素に戻すことにしている。元の本人が大雑把でさっぱりとした性格なので、カールのゆったりとした物言いは長く続けると疲れてしまうのだ。

 キャラ設定を安易に考えた本人はこれをとても後悔しているが、後の祭りだった。


「そうだ、後は王宮の中に知り合いはいないかな? もしいるなら、教えておいてもらいたいんだけど」


 サーニャが回復したところで、カールはそう切り出した。シエルと付き合いがあるのならば、もう少し他の面子との関わりがあったとしてもおかしくない。

 そして案の定、彼女は首を縦に振って言う。


「うん、一人だけ父ちゃんと仲良い人がいるよ」


「ラウルさんに……それは?」


「ウォルコット様」


「よりにもよってあいつか!?」


 ウォルコット様と呼ばれた人物に、カールは聞き覚えどこか見覚えが多々あった。王宮内の騎士団の中でも最上位に位置する、王族を守護するべき指名を背負った近衛騎士団、その団長を十年以上に渡って務め続けているのがパーパス=ウォルコットだ。

 名実共にブレーブス公国の最強騎士として名高い彼は、王族の剣術指南役も同時に担っている。そしてランスリーも指導を受けた者の一人で、その厳格でスパルタな指導には常々辟易していた過去を持つ。

 恐らくはランスリーが王宮内で唯一苦手にしている人物、それがパーパスだった。よりにもよって、という言葉には最大限の苦々しさが込められている。

 どういうわけだかは知らないが、ラウルとパーパスは友人関係にあるらしい。確かに年齢は近かった筈だが、それでも繋がりが生まれるようには思えない。たかが八百屋と最上位の騎士、釣り合いは……とまで考えたところでカールは横に首を振った。


「いいや、聞かないさ。パーパスなら問題無いかな、どうせ滅多に街になんて降りて来ないだろうし」


「ウォルコット様は全然来ないけど、ルークはよく来るよ?」


「ああ……ルーク、ルークね。懐かしい名前だ」


 流れのままに出て来たパーパスの息子の名前に、カールは懐かしさを覚えて目を細めた。付き合いがあった五年前のルークは、まだ十一歳だった筈だ。という事は、今はもう十六にまで成長している計算になる。

 とにかく冷静で、夢見がちな少年だった。本当の弟のように可愛がっていた少年は、どのような男に育っているのだろうか。

 一目見てみたいとは思う、しかしそういうわけにもいかないだろう。既に道を違えてしまった身なのだから、未練がましい事を言う資格は無い。


「おっちゃん?」


「なーんでもないさ」


 首を傾げるサーニャの声で我に返り、カールは感傷を振り払いながら笑った。



     ☆



 それは漠然とした、特に理由も無いふと湧いて出た衝動だ。何時からだったかは覚えていない、それでも少年は大きな憧れを抱いていた。

 昼は青く澄み渡り、夜は黒く宝石を散りばめる空に。少年は行ってみたいとずっと願い続けていた。


「見たいなら連れて行ってもいいよ? どこまで行けるかは知らないけどさ」


「やだよ、自分で行かなきゃ意味無いし」


「そーかい、ならまずは魔法学校に行ってからだな」


 少年がいつものように屋敷の屋根に寝転がって空を見上げていると、その隣によく知っている人物が座り込んで来た。少年が兄と呼んで慕う、生まれた当初から付き合いのある青年だ。

 真っ昼間の今頃にこんな場所にいていい立場の人ではない筈なのだが、どうしてこうやって自分と話しているのだろうか。まぁ、この人だから仕方がないと幼いながらも聡明な頭で少年は納得しておいた。


「来年、入学するんだ」


「おっ? そうか、もう十二だっけ。六年間、牢獄で頑張りなさいな」


「学校を牢獄って言うのは、王宮で兄さんだけだと思う」


「内心思ってる人は多いさ、僕は行った事無いから知らないけど」


「何それ」


 胡座を掻いて両腕を広げ、青年は壮大さを醸し出そうとしながら適当な言葉を吐く。仏頂面だった少年も、思わず苦笑してしまっていた。

 兄さんと呼ばれた青年、ランスリー=ブレーブスの物言いはいつもこんな感じだ。毒を吐くような、芝居がかったような、およそ正統な王族の一人で第三皇子だとは思えない。

 しかも、これがブレーブス公国の最強魔導師だというから驚きだ。そうでもなければ既に勘当されているだろう、秩序を乱す者は王宮内に必要ではないのだから。

 そう、ランスリーは自由奔放で放蕩を極めている。彼には国のためだの、誰かのためだのというのは似合わない。だからこそ、少年には次のランスリーの言葉が信じられなかった。


「明日から、戦争に行って来る」


「えっ?」


 呟かれた声に驚き、上体を跳ね起こして隣のランスリーに目をやる。そこいたのは、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべる放蕩魔導師だ。しかし、眼は決して笑っていない。

 くだらない嘘を吐かれた事もあった、お前には色恋沙汰の気配が無いと自分に返るブーメランを投げ付けられた事もあった。それでも、こんな質の悪い冗談をランスリーが言った覚えは無い。

 何よりも眼が、迷いを孕んだ眼が真実なのだと告げている。


「……そうなんだ」


「うん」


「なら、直ぐに終わるかな」


「終わらせるさ」


 似合わない、それでもランスリーはやるだろうと少年は思った。軽薄な男だがやる時はやる、何だかんだと言っても大魔導師なのだから。

 隣国であるアッシュとの戦争が始まって二ヶ月、戦局は徐々にブレーブス側の不利へと傾いて来ている。商業大国のブレーブスに対しアッシュは魔法大国だ、戦争でどちらが強いかなど子供にも分かる。

 そして同時にもう一つ、ブレーブスの切り札と言えるランスリーの投入は確実に戦況を動かす。これは誰もが考えている事だった。


「でも兄さん、何でまた急に?」


「活躍すればポイント稼げるかなと思ってさ、うるさくグチグチ言われるのもうんざしだし」


「……それは兄さんが悪いと思う」


「分かってますよー、ははは」


 あまりにも馬鹿らしいが、ランスリーらしい理由だ。他に構わず自分のやりたいままに自由に生きる、それが彼のやり方なのだから戦争すらも利用するぐらいしてみせるだろう。

 少年にはそれが当然の事に思える。自分が兄と慕うランスリーは、そうでなくてはならないという考えすら彼にはあった。

 そう、利用ぐらいは間違い無くする。しかし、今のランスリーが考えているのはただそれだけなのだろうか。


「兄さん、怖いの?」


「ん? あー……まあ、そうなるか」


「珍しいね」


「そりゃそうさ。戦争に行ったら、僕も人を殺す事になる」


 笑ってはいるが、ランスリーはどこか辛そうに少年には見えた。

 放蕩魔導師はとにかく飄々としているように見えるだろう、だがその根底にはまず優しさがある。悪戯も本当に人が嫌がるようにはせず、少年を含む仲の良い者には常に自ら進んで手助けをしようとしている。

 そんな彼が、人殺しなど出来るのだろうか。少年にはただそれが心配でならない、戦争に出てしまえばランスリーがランスリーでなくなってしまう予感すらする。

 行ってもらいたくはない、それでも止められない。放蕩者は、自分の意思を貫いてこそなのだから。


「なら兄さん、一つ約束して」


「ん?」


「帰って来てから、俺が十二になったら弟子にして」


「弟子、弟子か……」


 大魔導師の肩書きは持っているが、まだ若干十八歳のランスリーに弟子はいない。単純に面倒だという理由で作っていないそれに、少年は名乗りを上げた。

 少年にとってランスリーは兄である以上に憧れの存在だ、なので弟子入りに関しては前々から考えていた。この機に乗じて頼むのは卑怯かとも思ったが、それでも少年は約束を押しつける。

 きっと、約束がランスリーの支えになってくれると信じて。


「……分かった、約束だ。帰ったら君を弟子にしよう」


「うん。絶対に死なないでね」


「僕は大魔導師ランスリー=ブレーブス、死ぬわけがないさ。大人しく待ってなよ、ルーク」


 ぐしゃぐしゃと頭を撫で回す暖かい手を感じながら、ルーク=ウォルコットははにかみ頷いた。



     ☆



「ちっ、今更な夢を……」


 上層階級の住宅地の一角にある立派な屋敷、その屋上から舌打ちが響く。発端となった男は仰向けの状態から身体を起こし、目を擦りながらキョロキョロと辺りを見渡した。

 昼寝を開始した時には太陽はまだ真上にあり、今は斜め六十度といった辺りだ。つまり、秋の深まった時季で考えると三から四時間は寝ていたことになる。

 少し寝すぎてしまったか。そう考えながらも男は両腕を上に掲げて身体をグイッと伸ばし、襲って来る眠気を吹き飛ばそうと簡単なストレッチをし始めた。


 対面から見て、左側半分の髪は長くヘアピンで横に分けられ、右半分は目にかからない程度に短く真っ直ぐに垂らされている。髪色は金、眼は青でツリ目気味。童顔だが、絶世の美男子と言うべきだろうか。

 父親であるパーパスの血が本当に流れているのかと疑う程に奇跡的な成長を遂げたルークは、今年で魔法学校の五回生になった。次年度での卒業を控え、卒業後は騎士としての推薦がほぼ確定している。

 剣の腕は父親に鍛えられていた事もあって学内第一、魔法に関しても才能はある。が、才能があるのと実力があるのとはまた別問題だ。


「またサボっていたんですか?」


「……そっちもだろ、シエルの姉さん。真面目な騎士様だとか、聞いて呆れるな」


「失礼な、見回りのついでにお買い物をしていただけです。ちゃんと皆にも渡しました」


「あぁ、そうですか……」


 風と共に屋根へと現れたシエルは、相変わらずどこか抜けているようだった。

 ルークにとって、魔法学校はとにかくくだらない場所だ。攻撃手段は剣があればいい。魔法で覚えるべきは肉体強化と剣への補助、後は個人的な趣味で結界や風関係だけ。それだけを極めてしまえば剣士としては完成だろう。これ以上を学ぶつもりはルークには無い。

 だから学校への出席は落第しないギリギリにまで留め、魔法の練習や剣の鍛錬は自分で行う。魔導師以上を目指すつもりなど、今の彼には更々無かった。


「で、どうしたんだ。まさか今更、説教なんざしに来たわけじゃないだろ?」


「少し、聞きたい事があります」


「重要案件か?」


「はい」


「……」


 ふう、と溜め息を吐いてルークはめんどくさそうに立ち上がりながら指をパチリと鳴らす。すると、周囲に二人を覆い隠すようにして濃密な魔力を伴った不可視の障壁が展開した。

 視覚と聴覚に対して障害をもたらす結界だ。咄嗟に作ったので魔力消費は激しいが、こうする事によって外からは二人が見えもしないし声を聴こえなくなる。


「相変わらず、見事な構築術ですね」


「世辞はいらないから、さっさと本題に入ってくれ」


 感心しながら言うシエルに、ルークは態度を変えずつっけんどんに返した。

 視覚だけならばまだしも、複数の効果を持った結界を即席で構築するのはかなり疲れる。彼としては、無駄話をする暇があるならばさっさと終わらせたいというのが本音だった。しかし、シエルはなかなか声を出そうとはしない。

 また一つわざとらしく溜め息を吐いて、ルークは仏頂面のまま自分から口を開く。


「姉さんが泣く程だからな、かなりヤバい内容なんだろ?」


「えっ!? わ、分かりますか?」


「そんなに目を腫らしておいて、何を言ってるんだか。……ってことは、兄さん絡みだな?」


「はい。本当に偶然ですが、見付けました」


「……そうか」


 ルークの短い言葉には、様々な感情が込められていた。安心、困惑、怒り。彼の境遇からしてみれば複雑なのだ、それを見て取ったシエルは更に続けて、


「これは、まだ君にしか伝えていません。そして他の誰にも言うつもりはありません」


「兄さんの意思を尊重するってことか、なら何で俺に?」


「黙っていてくれますよね?」


「……まあ、な」


 もし王宮の誰かに漏らしたのなら、ランスリーを捕まえようと即座に軍が動き出すだろう。シエルとしてもルークとしてもそれは本意ではなく、無理矢理連れ戻すなどもっての他。

 それに、捕まえようとしても無駄だ。相手は大魔導師の称号を持つランスリー=ブレーブス、幾ら戦力を投入しようとも捕縛など出来る筈がない。


「で、あえて漏らした理由は?」


「……ルークは、ランスリー様に逢いたいですか?」


「何?」


「私は逢いたいです、だから会いに行ってみようと思います。貴方はどうですか?」


「……」


 投げ掛けられた問いに、ルークは直ぐには答えられなかった。

 逢いたいかどうかと聞かれれば、逢ってみたいというのが本音だ。自分を置いて行ったあの無責任な男を、彼はどうしては嫌いになれていない。いや、今も好きであり続けている。

 今もまだ呼び名を『兄さん』から変えていないのは、昔と心が変わっていない証拠だ。本当の兄のような人に、五年越しに会ってみたい。

 そうは思うが、ルークは首を横に振った。


「俺は行かない、行くなら一人で行ってくれ」


「……そうですか、理由を聞いても?」


「約束、それだけだ。会えたなら兄さんに伝言を頼む。絶対に俺からは行ってやらない、来るならそっちから来いと」


 これはもう、意地だ。帰ったら弟子にするという約束は、今もまだルークの中で生き続けている。だから、ルークはランスリーが帰って来るのをいつまでも待ち続けるだろう。


「君が学校をサボる理由、ただ面倒や必要無いなんて理由じゃありませんよね。ただ、君が魔法を習いたいのは……」


「余計な事は言わなくていいから、行くなら早く行けよ。陽が暮れるぞ」


 左の腰に帯びた剣の鞘と鍔を打ち付けて音を出し、それ以上言うと叩き切ると言わんばかりにルークは睨みを利かせた。対し、シエルは降参とばかりに両手を上に掲げて苦笑する。

 舌打ちと共にまた指を鳴らすと、今度は結界が消滅。ひりつくような魔力の流れは消えて無くなり、新鮮な空気が空間に割って入りめっきり冷たくなってきた風が流れた。

 作業工程を終えたルークはそのまま屋根にどかりと座り込み、右手を振ってシエルを追い払う。それに従ってシエルは屋根から飛び降りる素振りを見せながら、


「そういえばランスリー様の仮初めの姿は、八百屋のサーニャも知っているようです」


「なっ!?」


「もしかしたら、あの子絡みで会うことになるかもしれませんね」


 それだけを言うと、シエルはひらりと身を翻して屋根から降りて行った。一瞬だけ呆けてしまったルークは直ぐ様に苦虫を噛み潰したかのように表情を歪め、ガリガリと頭を掻く。

 彼がサーニャの店に通っているのは誰にも漏らしていない秘密の筈だ、なのにどうしてそれをシエルが知っているのか見当が付かない。どこかで見られていたのだろう、そう考えたルークはまた仰向けに寝転がりながら、


「そっちも、兄さんにベタ惚れのくせに」


 誰にも聴こえないようにそう呟いた。



     ☆



 コロコロコロと、スズムシの鳴く音が薄暗い寝室に木霊している。サーニャと別れて家へと戻って来たランスリーは林檎を売った分の儲けを家計簿に記帳し、損益を計算している最中だった。


(ようやく、軌道に乗って来たか)


 実質の準備に三年間、この農業生活を本格的に始める事が出来たのは二年前だ。少しずつ工夫をしながら作物の栽培を赤字ながらも続け、ようやく今回の取り引きで黒字にまで取り付けた。

 まず、達成感がある。自分も農業で利益を得て生活しているのだと、これでそう思えるようになっている。家計簿を見ているとついニヤついてしまうのも仕方がない事だろう。

 しかし、ここで満足するわけにはいかない。別に農業で名を上げるなどと大それた事を考えているわけではないが、それでもまだ利益は上げて行ける筈だ。今はまだ、黒字と言っても僅かなものなのだから。

 とりあえずは生活費を含めての収益を黒にする、それから貯まった分の利益で農園を広げて行く。悠々自適な生活を送れるだけの収益があれば、それだけでいい。


(冬に入ったら、収入もその分だけ下がるか。ラウルさんとサーニャちゃんには、感謝だな)


 明らかに相場よりも高い値で作物を買ってくれているウィークス家に、ランスリーは頭が上がらない。今の生活があるのはラウルが贔屓にしてくれているからだ。

 そう付き合いが長いわけでもないカール=ベーカーの品を彼らが買ってくれるからこそ、ランスリーは真の意味で農業生活を送る事が出来ている。更にはサーニャの件もある、ウィークス家には一生を掛けて恩を返す事になるだろう。


(まずは、ほうれん草の出来次第か。上手く行くといいけど……)


 家計簿を閉じて戸棚にしまい、部屋を出て一階へ続く階段を降りながらランスリーは考える。

 ラウルを経由してほうれん草の種は入手した、栽培のノウハウに関してもとりあえずの部分は教えて貰った。十日前に石灰を撒いた畑はそろそろ良い案配だ、サーニャが来る明後日にでも種蒔きに移れるだろう。

 冬はこのほうれん草が主役になるので、大事に育てなければいけない。もし失敗してしまえば、その時点で収入の大幅減は確実だ。封印した金に手を付けなければ年を越せなくなってしまう。

 それはプライドが許さない、これからはずっと自分で稼いだ金だけで生活すると決意したのだから。有言実行、不言でも実行、この辺りはもうランスリーの意地だった。


 一階に降りてリビングに入ると、机の上に食材の入った袋や無造作に折り畳まれた違う種類の新聞が三部程置いてあるのが目に入って来た。

 新聞は貴重な情報元だ、隠遁しているとどうしても世情に疎くなってしまう。収入と出費を家計簿に書き込み、気分で夕食を作って食べ、その後は静かに新聞を読み漁る。これがランスリーの日課だ。

 時間はかかるが、やらないといけない。人の噂話などを中々聞けない身としては、少しでも多くの情報を取り入れなければ世に置いていかれてしまうのだから。一往は、ランスリーもまだブレーブスの国民に違いは無い。

 今日は色々とあって疲れているので面倒だ、と思いつつ袋を手に取って台所へと移動。まずはキャベツでも刻もうかとしたところで、ランスリーはふと違和感を覚えた。


(侵入者?)


 農園の周囲に張り巡らされた結界には、人の気配の察知と侵入を抑制する効果がある。魔力消費を大樹に集められたもので補っているので、かなり強力は効果を持っている筈だ。それこそ、ランスリーのクラスの実力者以外には破れない程に。

 ならば、結界を突き破って来たわけではない。相手は大樹のゲートを使って侵入した。


(一人、サーニャ……じゃない。魔力の気配、誰だ?)


 覚えのある魔力だ、だが具体的に誰のものかは分からない。今のところは攻撃に転じる様子も無い、ゆっくりと家に近付いて来ているようだ。

 此方から仕掛けるよりも、まずは普通に客人として迎え入れるべきだろう。その場合、ランスリーとカールのどちらの姿でいるべきか。相手の目的によって正解が違ってくる。

 一瞬、判断に迷う。それでも、ランスリーは身体を光らせたかと思うとカールへと姿を変えていた。やはりランスリーで出るには危険性が高すぎる。

 カールの姿では魔法を使えないが、非常時には変装を解除すればいいだけの話だ。タイムラグはほんの数秒だけ、数秒待てば簡単に迎撃出来るようになるだろう。


「ふう……」


 カールにとって、こんな緊張感は本当に久しぶりだ。あわよくば二度と味わいたくないと思っていた戦争に行く前に近い雰囲気、それがまさか農園の中で展開されてしまうとは。

 今日は本当におかしな日になった、そう思いながらもカールは包丁を置いてまたリビングへと戻る。トントン、と玄関のドアが叩かれたのはそれと同時だった。


(さて……何が出てくるかな)


 はい、と返事をしながら玄関へと向かい、ドアの前で立ち止まる。ここから先は一切の油断も許されない勝負の世界だ、可能な限りの演技をしなければならない。

 小さく息一つ、覚悟を決めてゆっくりとドアを開く。


「はいはい、どちら様ですか……おや?」


「夜分遅くに申し訳ありません、ベーカーさん」


 外に立っていたのは、数時間前と変わらない格好をしたシエルだった。薄暗闇の中で顔はよく見えないが、どうにもただ事ではない雰囲気だ。

 やはり、あの時に気付かれていたのかもしれない。どう対応するべきかと思案する間も無く、シエルは更に続けて言う。


「少し、お話したい事があります。お時間よろしいでしょうか?」


「私は構いませんが……どうしてここを?」


「サーニャに頼みました。あの子を怒らないであげてください、私が無理を言ってしまったんです」


 そう言いながらシエルが見せて来たのは、サーニャが持っている筈のあの首飾りだった。これで全ての辻褄が合う。どういうわけかサーニャはシエルに協力して首飾りを預け、ゲートを使わせたらしい。

 そしてその協力を取り付けた理由は、一つしか思い当たらない。もう、シエルは全てを知ってしまっているという事だ。

 深く溜め息を吐いてからカールはやれやれと首を振り、シエルと向き合う。彼女の目は、カールではなくその中にある誰かを見ているようだった。


「話、私に関してですね。その首飾りが切っ掛けですか」


「はい。どうするべきかと悩みましたが、私はどうしても貴方とまた話しをさせて頂きたかったんです。……ランスリー様」


「……そう、か」


 カールはただ小さく頷いた。

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