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ACT1.英雄は孤独を嫌う

 クーリンガルの住宅街の外れの一際寂れた場所に、一軒の私塾が居を構えていた。

 比較的新しく清潔そうな外見をしたその私塾の規模は小さく、生徒が二十人程度は入れそうな教室が一つしか存在していない。

 あるのは教室、そして生徒達が皆で遊べるであろう裏手に広がっている庭、後は小さな倉庫と炊事場。それ以外はこれといった特徴も無く、少々の寂しさすら感じる次第だ。


「それでは、この段落から順番に読んで行ってもらおう。左側の前から順番にどうぞ」


「えーっ、先生また俺が最初かよー」


「はっはっは、一番前だからね。さあ読んだ読んだ」


「ちぇー」


 時刻は昼飯時に近付いて来た頃、教壇に立つ白髪混じりの初老の男性が朗らかに笑いながら文句を垂れる生徒を宥めていた。

 教室に並べられた二十足らずの椅子と机。そこには一つの空きも無く、それぞれに十歳前後の子供達が着席に授業を受けている。

 教壇に立つ男性はこの私塾の塾長であり、唯一の教職員。名をカール=ベーカーと言い、孤児などを相手に無料で勉学を教えている人物だ。

 何時からここで私塾を開いているのか、以前はどのような職に付いていたのか。それを知る者は誰もいない。

 しかし、カール=ベーカーの評判はすこぶる良かった。温和な人柄であり、文字を学ぶことすらままならない子供達に見返りを求めることなく接する。

 故に彼を嫌う者は皆無で、今日も教室には子供達と笑顔が溢れている。


「はい、よく出来ました。では次に……っと、もうこんな時間か。楽しい時間が過ぎるのは本当に早いね。今日はここまでにしよう、皆お務めご苦労様でした」


 カールが首にかけた懐中時計を確認しながら宣言すると、教室を爆発するように喧騒が支配し始めた。

 即座にカールに挨拶を済ませながら教室を飛び出したり、教科書を広げたまま復習をしたり。一人一人の個性が垣間見えるこの瞬間の光景が、カールはたまらなく好きだった。

 授業内容に関して質問に来る子供達に丁寧な対応をしていると、次第に教室にはカールが残るのみとなる。時刻は昼、そろそろ腹が鳴る時間だ。

 当然のようにカールも空腹感を覚え、腹ごしらえをしようと教卓に座りながら何処からか取り出したるは用意しておいたサンドイッチ。

 自家製のパン、自家製の野菜、肉屋で買ったハム、全てを挟み込んだシンプルなそれをゆっくりと咀嚼し思案する。

 ハムとパンは美味いが、やはり組み合わせとして茄子はどうにも合わなかった。これは失敗と言わざるをえない。

 自分の農場で大量に作った茄子をどうにか食べきってしまうと考えたカールは、様々なレシピを編み出そうと努力をしている真っ最中なのだ。


 シチューは当然ながら良かった、家に眠っている漬物は出来上がるまでもう少し、普通に焼くのも良いが流石に飽きる。

 故に実験と称してパンに挟んだ結果、口内にはどうにも微妙な味わいが広がってしまった。それでも、カールは顔に渋みを帯びながらサンドイッチを飲み込む。

 自らの手で作った物を粗末にするわけにはいかない。責任と反省をひしひしと感じながら、時間をかけて全てを口に含み、此方も持参した麦茶を流し込んだ。


「失敗したな、これなら肉を外して野菜だけの方が良さそうだ……」


 嘆息と共にポツリと呟き、カールは立ち上がりせっせと教卓の掃除を始める。床は既に当番の生徒達が綺麗に磨きあげているため、彼が担当するのは自らの使う机のみだ。

 サンドイッチの包み紙を捨て、濡れ雑巾で丁寧に教卓全体を拭く。そして最後に別の雑巾で乾拭きをすると、教卓は生まれ変わったように光って見えた。


「ふむ、茄子だけにするならば味付けも工夫しないと。それなら……」


「甘辛く煮ればいいんだよ。そうすればパンに合うし、変なえぐみも出ないしなー」


「おおう!?」


「よっす、おっちゃん!」


 突如として独り言に対する返答が降って湧き、カールは慌てて声の方向へと振り返る。掃除用具を片付けていた彼の背後にある窓、そこから赤毛の少女が喜色満面の様子で中を覗き込んでいた。

 八百屋の娘、そろそろ十五歳になるサーニャの目は好奇心によって爛々と輝いている。何か面白いものを発見してしまったと、今にも駆け出しそうな雰囲気だ。

 片手をぶらぶらと振りながら窓を乗り越え、サーニャは颯爽と教室へと入り込んで来た。ご丁寧にも靴に付着した土を払っている辺り、しっかりとした教育を受けているらしい。

 彼女の服装は普段目にするような作業着ではない。下には青のジーンズを履き、上は白のカッターシャツに緑のパーカ、それなりの女の子らしさも感じられる案配だ。

 燃える赤髪に整った顔立ちは体裁さえ気にすれば男が幾らでも言い寄って来そうな、野に咲く向日葵の如き美しさを放つだろうが、悲しいかな本人にその気は無かった。


「いやー、まさかと思ったらやっぱりおっちゃんか。普段何してんのかって気になってたんだけど、こんなとこで先生やってたんだなー」


「寂しい独り身の道楽だよ、農作業ばかりではどうにも空虚で。それよりもサーニャちゃん、どうしてここに?」


「いんや、今日は父ちゃんが仕入れで店閉めててさ。暇だからブラブラしてたらおっちゃんの声が聴こえて来て」


「声って、本当に小さかった筈なんだけれども……」


「へへーん、昔っからあたしは地獄耳なのさ!」


 ふんっ、と大きく鼻息を吐きながら、サーニャは歳の割には豊満な胸を張る。謙虚な子ならばもっと聞き耳を立てて悪かった……等と言うかもしれないが、生憎とサーニャにそんな気配りは無い。

 それもこの子の持ち味なのだろう。特に不快には思わなかったカールはそう考え、木製の用具箱の戸を閉めてふらりと歩き出す。


「まあゆっくりとして行くと良いよ、お茶ぐらいは出そう」


「お構い無く! 代わりと言っちゃ何だけどさ」


「ん?」


「おっちゃんの畑、見せてくんないかなーって」


 教室の隣に設置された簡易の炊事場に向かおうとしたところで、カールはぴたりと足を止めた。畑というのは勿論、彼がサーニャの店に売りに行く野菜や果物を育てている場所のことだ。

 カールが彼女の店を訪れるようになって既に二年近くが経過しているが、確かにまだ畑自体を見せたことは一度も無かった。それどころか、カールは畑を自分以外の誰にも見せたことは無い。

 理由は複数ある。例えば畑をこさえた場所がクーリンガルの市街地からは遠いというのは対外的な理由だ、本来の大きなもう一つの理由は彼の心に隠されていた。

 ううむと唸り、カールは腕を組んで悩む。サーニャにはいつも贔屓にして貰っている恩もあり、しかも全く悪意の無い純粋な好奇心からの頼みなので断るにはどうしても良心が痛む。

 彼自身にも、五年の歳月を費やして拡大させて行った畑を見せて自慢したい欲求があるにはある。しかし、その畑を見せることによって色々と面倒な事が起こってしまう可能性が増えるのもまた事実だ。


「あっ、いや、駄目なら全然いいんだよ。ただおっちゃんの野菜って魔法も農薬も使ってないのに出来良いから、やっぱ気になってさー」


「ふむ」


 こうストレートに褒められれば、やはり悪い気はしない。サーニャがカールの仕入れ品を褒めるのはいつもの事だ、しかし当のカールは世辞で言っているとばかり思い込んでいた。

 間違っていたのだろう、そうカールは自らの認識を改める。よくよく考えてみればサーニャは世辞を言うような性格ではなく、本当にそう思っていたからこそ言葉に出していたのだ。それこそ、畑を見たいと思考が発展する程に。

 内心で溜め息を吐いてサーニャに詫びを入れ、カールは小さく頷いて閉じていた口をまた開いた。


「いいよ、見せてあげよう。ただし何も口外しないこと、それだけは約束してくれ」


「マジ!? やった、ありがとうおっちゃん!」


「おっと。全く、本当に分かってるのかい?」


「分かってる、分かってるって!」


 了承を返した瞬間に、サーニャは喜びを爆発させてカールに抱き着いていた。

 年頃の娘が……という思いも当然ながらあるが、カールに対してサーニャはいつもこのような態度を取っている。カールの外見年齢は五十歳程度なので、親戚のおじちゃんか何かのように思っているのかもしれない。

 内心複雑な感情を抱えながらもカールはぐしゃぐしゃとその頭を撫で、サーニャの手を優しく取って歩き出す。向かう場所は裏庭だ。


「そうと決まれば、早速行こうか」


「えっ、どこ行くのさ? そっちは逆じゃんかー」


「こっちで合ってるんだ、静かに見ていてね」


 疑問を感じたサーニャを尻目にカールは教室を出て廊下を渡り、勝手口から裏庭へと躍り出る。未だに手は繋いだままだ。

 それなりの広さを誇る中庭に置いてある物は少なく、小さな花壇や子供達がボール遊びでも出来そうなスペースが広がっていた。そしてその奥にポツンと、秋らしく葉を綺麗な赤に染め上げた十メートル程の大きさの樹が立っている。

 外見上は何の変哲も無い普通の樹だ。しかし、サーニャはそれに何か違和感を覚えたらしく、引っ張られながらも「あれー?」と小首を傾げて樹を見詰めていた。

 やがて樹の前に辿り着くと、カールはその幹を空いた左手でぺたぺたと触り、そのまま感触を確かめるように何度か平手で叩く。


「サーニャちゃん、この樹をどう思う?」


「えっ。うーん、詳しくは分かんないけど、何か変だぞ。目が離せないっていうか、見た目より大きく見えるっていうか。……何言ってんだろ、あたし」


 突然浴びせられた質問に、サーニャはしどろもどろになりながら必死に答える。そんな曖昧な言葉に満足したのか、カールは満足気に笑みを深くして続けた。


「それで良いんだよ、この樹は特別なんだ」


「特別?」


「うん。目を閉じないでね、しっかりと焼き付けるんだ。……発動!」


 カールが樹に向けて言った瞬間、サーニャには樹から光が放たれたかのように感じられた。それは錯覚だ、実際に樹には何の変化も起こっていない。

 それでも、樹の中に何かが膨れ上がっているのは確かだ。その何かが中から溢れ出してカールとサーニャを優しく包み、そっと抱き上げる。


 怖い、そう思った時には全てが変わっていた。

 サーニャの全身を熱い奔流が駆け抜けてチリチリと焦がし、それが全て頭へと届いて脳を焼く。奔流の正体が視覚から飛び込んで来た情報なのだとは気付けない。

 そんな些細な事は、目の前の風景によって全て吹き飛ばされてしまった。


「うわぁ……」


 そこにあったのは、絵画にでも出て来そうな風景だった。山の斜面に作られた段々畑のあちこちに同じ種類の葉が生い茂り、その葉に寄り添うように紫色のブドウの実が出来上がっている。

 少し離れた場所には林檎が実っているらしき樹の並びもあり、更に遠景には一件の小屋が立っていて、その回りを見渡してみれば他にも田畑が複数ある。

 ここは、山の一角を整えて作られたカールのプライベートエリアだった。具体的に言えばクーリンガルから馬車で片道三時間の距離にある小高い山で、未開とまでは言わなくとも人は寄り付かない場所だ。

 整然と並んだ田畑に実る自然の恵みに、サーニャは思わず感激しだらしの無い声を上げる。その反応に気を良くしたカールは少々キザったらしく、


「ようこそ、私の家に」


 と言い放った。



     ☆



「てんいまほー?」


「その通り」


 種明かしをすると単純な話だった。カール達が出た場所と裏庭に立っている樹は魔法の力によって繋がっていて、カールの声に反応し周囲のものを転移させるようにセッティングされている。

 サーニャが感じたあの違和感は魔力が樹の中に溜まっているから起きた事で、頭に走った熱は転移に慣れていない事から来る酔いのようなものらしい。次からは問題無くなるというカールの説明に、サーニャは心底から安心して溜め息を吐いた。


「それにしても、おっちゃんって魔法使いだったんだなー。全然分かんなかったや」


 小屋……と言うよりは郊外に立てられたカールの一軒家に案内されたサーニャは、彼が入れた紅茶を飲みながら目を輝かせてそう言った。

 転移による影響は既に無くなっていて、少し前まではあれは何だこれは何だとカールに聞きながら山を駆け回っていた程だ。一頻り回り終わった今は、家への招待に預かってリビングで休憩をしている。

 それにしても、山にあるとは思えない立派な家だった。玄関を通るとリビングがあり、その隣には台所も備えられている。更に二階立てで、部屋に繋がるらしき戸がサーニャが確認しただけでも四つはあった。

 本人曰く寝室に書斎、後の二部屋は客室。本当ならばどれだけの手間がかかっているのだろうかと思って想像してみたが、サーニャは頭が痛くなったところで思考を放棄していた。


「いや、私は魔法なんぞ使えないよ。知り合いに有力な魔導師がいてね、その人に頼んでやってもらったんだ」


「魔導師?」


「ある一定の実力を超えた魔法使いはそう呼ばれる。魔の力によって人を導く……その上に大魔導師なんていうのもあるけど、とにかく偉い人さ」


「へー、凄いんだ。あたしはあんまり魔法のことは分からないからなー」


 人が魔法を使えるか否かは、その生まれによって決まる場合がほとんどだ。魔の力は親から子へと受け継がれ、子の研鑽によって研ぎ澄まされた力がそのまた子へと流れて行く。

 親が魔力を備えていない子が魔法を使えるというのは本当に稀で、一説には十万人に一人が突然変異で力に目覚めると言われている。とにかく、珍しく貴重な存在だった。

 更に補足するならば魔力は地位にも多大な影響を与え、王宮で働いている者の九割方が魔力を持っている。残りの一割は学者や従者で、それでも王の側に仕える者は魔法使いだけだ。

 魔力を持たない者は、主に商売や農業に手を出す。これがブレーブス公国を商業大国せしめたる大きな理由となっている。


「あっ、でも大魔導師は分かるよ。行方不明になってるランスリー=ブレーブス様だよなー?」


「その通り。また彼に並ぶ者が出て来れば大魔導師になれるだろうけど、はてさてどうなることやら」


「ふーん。そんじゃあ、この畑も魔法で?」


「スペースの確保まではそうだね、ただそこからは私が全て手作業でやってるよ。不思議なもので、魔法を使うよりも人が自分の力で育てた方が作物も美味しく育つ」


「だよなー。巷に出回ってる野菜って魔法で成長早めたやつばっかでさ、違うんだよ。だからおっちゃんみたいなのは本当に貴重なんだ」


 昨今は農業に関する魔法の開発も進み、作物の品質を落とさずに成長を促進させる技術も広まっている。確かに味も悪くはなく、ただ食べるだけならば何も問題も無い。

 しかし、途中の行程を吹き飛ばしたその魔法は、販売する側からの大変な不評を頂いていた。サーニャが言うように、一から手作業で作る物と魔法を使う物ではやはり味に違いが出てしまう。

 それを分かっているからこそ、カールは魔法に頼らずに野菜を作る事にこだわっているのだ。コストも掛かる、手間も掛かる。それでも、ハンドメイドの野菜を絶やしてはいけない。

 カールとサーニャ、二人の心にあるのはそんな共通の使命感だった。


「おっちゃんはスゲーよなー、こんな広い畑を一人で切り盛りして先生までやってさ。お手伝いさんとか雇わないの?」


「考えてはみたけれど、やっぱり私だけでやるのが一番だと思ってね。それに最近は物騒だし、信頼出来る人じゃないと」


「あっ、じゃあさ……あたしに手伝わせてくんない? 今日みたいに暇な日って結構あるからさ、あたしもおっちゃんみたいに野菜育ててみたいんだ」


「君を?」


 ふむ、と一呼吸置いてカールはサーニャの顔を見返しながら考える。

 彼女の顔にはマジの二文字が張り付いており、本気でカールを手伝いたいのだという意気込みが伝わって来る。ここで断るのは簡単だ、しかし果たしてそれで良いのだろうか。

 無魔法無農薬栽培を推奨する者同士で、信頼に値するかは考えるまでもない。カールの事情を垣間見なければ是と即決するべき場面で、カール自身も手伝って貰いたいと心から思っている。

 それでも、自らの立場を考えると簡単に首を縦に振ることは出来ない。カールが実は魔法で中年の皮を被っていて、しかも中身が有名な人物だと知られればその情報は広まってしまうだろう。

 サーニャは言い含めれば黙ってくれるという確信がカールにはある。しかし、情報は本人が意識していてもポロッと漏れてしまうものだと彼は深く戒めてもいた。

 理性と欲求の戦いだ。冷静になればどちらを選ぶかなど、カールには分かりきっている。

 ただ、それでも、


「うーん、それじゃあお願いしようかな」


「やった!」


 彼はどうしても、頼みを断れなかった。



     ☆



「くっ、はあー……」


 リビングの机に一人で突っ伏しながら、カール=ベーカー……ではなく元の姿に戻ったランスリー=ブレーブスは大きな呻き声を上げ悶えている。

 あれからサーニャの質問に答えている内に気が付けば夕方になり、転移を使って私塾まで送り届けたのがつい先程の事。愛する我が家にまた帰って来たランスリーは、そのまま変装魔法を解除すると共に自らの行動を後悔していた。


「有り得ん、何で了承してしまったんだよ僕は……」


 サーニャが週二のペースで農業を手伝うことになり、確かに人手不足に喘ぐランスリーにとっては救いの手となってくれるだろう。しかし、カールがランスリー=ブレーブスであると発覚する危険性が同時に跳ね上がっている。

 ランスリーが十八歳にして公国の表舞台から去って五年が経つ。この間、彼は可能な限り他人と関わらないようにして日々を自由に送って来た。

 前々から興味を持っていた農業に手を出すために山の一角を魔法で整地し、それ以降は本当に全て手作業だった。地面を鍬で耕して種を蒔き、試行錯誤を重ねること三年。ここ二年で、努力はようやく報われ始めている。

 元から生活費に困りはしない。念のためにと逃亡時には懐を限界まで温め、その持ち出した資金は二十年は何もせずに生活出来る程度の額だ。それでも、今の彼は自分で稼いだ金にしか手を付けていない。

 自分で稼ぎ、自分のやりたい事をする。彼が渇望し追い求めていた生活は、ようやく手に届く所にまで来ている。だというのに、それを自分で破壊しかねない行動をしてしまった。


「でもやっぱり、寂しいんだよなぁ。分かってるんだけどさー……」


 結局のところはそこだ。人を遠ざけて五年を過ごす内に、ランスリーはとにかく人との関わりに飢えてしまっていた。

 私塾を開いたのもそれが理由で、授業だけの関係にしてしまえば正体もバレにくいだろうと考えた苦肉の策。予想の通りに教鞭を振るうのは楽しい、だが徐々にそれだけでは足りなくなってしまっている。

 親しい人と共に農業を楽しみたいという欲求が、彼の中では大きくなっていた。


「グダグダ悩んでても仕方ない、隠し通してみせる。それより……」


 懸念はもう一つある。それは他ならぬサーニャの事で、彼女と共に行動するならばどうしても決めなければいけない事だ。

 あの活発で素直な彼女には、十万人に一人と言われる魔力の才能があった。裏庭の樹に蓄積された魔力を感じていたので間違いは無い、魔力はそれを扱える者にしか認知出来ない物なのだから。

 問題は、これをサーニャに伝えるべきか否かだ。魔力無しの農作業に燃える今の彼女に伝えてしまえば、もしかしたら何か悪影響を及ぼしてしまうのではないか。

 そんな懸念がランスリーにはあり、それは自分の問題よりも彼にとっては大きな事だった。


 英雄と呼ばれる戦争の更に前、ランスリーが大魔導師に至る前後の頃、彼に付けられていた異名は『放蕩魔導師』。

 これは彼が公国の第三皇子でありながらその務めを全うしようとしなかったことから来る蔑称で、実際に彼は貴族らしく振る舞うのを今も昔も酷く嫌っている。大魔導師へと成り上がったので表面上の批判の声は無いが、同じ貴族から良く思われていないのは確かだ。

 未だに陰口として放蕩の言葉は使われ続け、最近では王宮内で『放蕩英雄』等と揶揄されているのはランスリー自身も知るところだが、それは本人が別段気にもしていないのでどうでもいい。

 それよりも、『放蕩英雄』の二次被害がサーニャに降りかかってしまわないかがランスリーは心配だった。


 魔法使いの中には「国に尽くすべし」といった風潮が蔓延しており、ランスリーのように国よりも自分を優先する者は異端として扱われている。そして当然ながら、扱いも極度に悪くなる。

 もしサーニャが魔法使いを志すのならば、彼女が自分と同じ道を歩むという確信がランスリーにはあった。そうなってしまえば、彼女は不幸に見舞われるだろう。

 そして最終的には、もしかしたら……


「あぁ糞、止めだ止めだ。僕と彼女は違う、心配するだけ腹が減る」


 顔をブンブンと横に振り、ランスリーは勢い良く立ち上がって厨房へと向かう。とにかく腹ごしらえをしなければ頭も働かない、難しい事を考えるのはその後だ。

 放蕩英雄は、今日もまた自らの意思で日々を生きてい る。




 ちなみに、この後ランスリーは台所に積まれた茄子の山によって絶望するのだが、それはまた別の話である。

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