ACT9.少年は自分を探す
将来的にどんな大人になりたいだとか、どういった道に進みたいだとかいう希望は全くと言っていい程に存在していなかった。いや、よくわからないと言った方が正しいだろうか。
生まれてから七年になった今現在も、城の外に出た事は一度も無い。出てみたいとは何度も思ったが、近くにいる大人達がそれを許してはくれないのだ。
天才だと常に言われ続けて来た。自分でもそうなのだろうとは思っている。城の中には同年代の子供は少ないが、それでも他に比べれば抜きん出て魔法が使えた。
子供心に少年は思っていた。このまま成長すれば、自分は国を背負った英雄のような存在になるのだろうと。
英雄という言葉に憧れはある。七歳という年齢ならば、ヒーローや英雄というものには憧れて当然ではないか。実際に見た事は無くとも、空想上の物語でそう呼ばれる者達が凄い存在であるとは知っていた。なれるものならば、なってみるのもいいかもしれない。ただ漠然とそんな考えがあるだけだ。
それでも、ふと気になった。もしかして、自分は周りから強制的に英雄になるように仕向けられているのではないかと。
考え出したら止まらなくなった。精神も年齢に比べて成長していた少年は、自分の立場を正確に見極められるだけの目を持っていたのだ。
なんとなく、深い意味も無く逆らってみたくなった。気が付けば少年は、暫くすると大嫌いな家庭教師が来るであろう自分の部屋の窓から逃げ出していた。
「何だ、こんなところでかくれんぼか?」
城の片隅で壁を背負って隠れていると、一人の男にあっさりと見付かってしまった。歳を取っているのか取っていないのか微妙な厳つい外見をした剣士らしい男は、訝し気に少年を見下ろしている。
少年の教育係であるパーパス=ウォルコットよりも、筋肉質で強そうな剣士だ。威圧感を有り余らせた外見に怯んだ少年は、委縮し声も出せないままにじっと男を見返していた。
「……そう怖がるな、別に取って食いはしない」
溜め息を吐くようにして、男は壁にすがりつくようにしていた少年の横に胡坐を掻いて座り込んだ。懐から紙巻きタバコとマッチをを取り出して火を点けようとするが、隣にいるのが子供だというのを思い出して取り止め、再度しまい直した。
誰か他の衛兵を呼ぶ様子も、少年を捕まえようとする素振りも無い。悪意の一切感じられない言動に警戒を少しだけ解き、彼もまた男から僅かな距離を取って腰を下ろす。
「で、どうした。お供の馬鹿共とはぐれたのか、皇子様」
ぶっきらぼうに、無表情に、興味が無さそうな態度で男は少年に質問した。とりあえず聞いてみよう、そんな考えが透けて見えるようだ。
どう答えたものかと考えてみるが、別にいいやと思考を放棄して少年も答える。
「よくわからないけど、我儘をしてみたくなったんだ」
「我儘?」
「うん。自分がどうしたいとか、将来がどうとか、そんなの考えないで皆の言う通りにしてきたから。ここで逆らってみたら、皆どうするんだろうなって思っちゃって」
「なるほど」
短く言い、会話は打ち切られた。無表情のままに暫く考えるような雰囲気を作り、男はまた口を開く。
「つまらなかったんだな」
「つまらない?」
「ああ。行先の決まった線路を進んでいるだけの人生なんざ、これ以上無くつまらなく退屈だ。俺もどちらかと言えば流れのまんまに生きてきた野郎だが、最近じゃあ後悔ばかりさ」
「人は、生き方に後悔をするものなの? 悔やんだってもう戻れないのに、昔の事に縛られる意味があるの?」
「おいおい、そんな事もわからないのか。王室ってのは、本当に糞みたいな教育をしているんだな。パーパスの野郎は何をやってるんだか。……人ってのは、後悔だけで生きてるようなもんだ。全員が全員そうだとは言わないがな、過去に縛られて生きるのは当たり前だ。だからこそ人間性ってのも生まれるし、性格ってやつも生まれる。俺だって同じさ」
男は苦笑する。言葉の意味を、少年は満足に理解出来なかった。それでも、今までの自分が知らなかった何かをこの男は語っているのだと、それだけはわかる。
人間性。一つの単語だけが頭を支配していく。
「僕は人に言われた事だけをしてるけど、今の僕は人間なのかな?」
少年の言葉に、男は目を見開いて絶句した。そしてううむと唸り、腕を組んで呟く。
「七歳、ねぇ……」
「おじさんも、そう言うんだ」
沈黙の後の第一声に、少年は嫌悪を露にして吐き捨てた。天才だの、精神が常軌を逸しているだのと、そんな言葉はもう幾度となく聞かされてきた。だから、もう聞きたくない。
少年の感情を理解したのだろうか、男は頭を下げて言う。
「悪い、つい驚いた。これじゃあ、俺も教育係の奴らと同じだな」
「いいよ、慣れてるから。でも、もう言わないでね。せっかく逃げたのに、そう言われっちゃったら意味無いよ」
「ははっ、そうだな。悪い悪い。だけどな、大丈夫だ。今のでわかったが、お前は立派な人間だ」
「そうなの?」
「人の言う事を聞くだけのお人形さんが、そうやって自分に言われた事を嫌がるもんか。それよりも、お前は嫌になって逃げ出したんだろ。その時点で自分の考えを持ってるようなもんだ」
「あっ、そうか」
「おいおい、本当に今気付いたのか」
噴き出して笑い、男は距離を詰めて少年の頭を乱暴に撫でまわした。少年はくすぐったそうにしながらも、皇子に対してとは思えない行為を甘んじて受け入れる。
何もかもが初めての体験だ。少年に対する畏まらず遠慮の無い言葉遣いや、ずばずばと心の中に食い込んでくるような取り繕わない意見。こうやって頭を撫でられるのも、本当に久しぶりだった。
少年は母を知らない。自分を生んだ時に運が悪く死んでしまったと聞かされて、それっきりだ。
皇帝である父は数多くの子供を持ち、政務も忙しくて彼一人に構っている時間も無い。たまに様子を見に顔を出して来はするものの、ほんの二、三言を交わしてそれで終わり。およそ、家族などとは呼べない関係だとは本人も思っている。
だから、嬉しかった。本当に人間に、子供に接するように、父よりも父らしく付き合ってくれるこの男の態度が。ただただ嬉しかった。
「それで、皇子様。お前、何かやりたい事はあるか。こうやって会ったのも何かの縁だ、我儘を通すのならとことん通してみろ。出来る限りは付き合ってやる」
「やりたい事……」
少年は即座には答えられなかった。今まで、自分の意見を出した記憶が無い。だから、こういう時には何を言ったらいいのかまるでわからなかったのだ。
むうっと唸りながら、男がやっていたのを真似して腕を組んで考えてみる。十秒程の思案の後に、少年はぱっと顔を上げて言った。
「じゃあ、時計塔の天辺に行きたい」
クーリンガル城の中心地には、巨大な塔がそびえ立っている。どんな建物よりも高く、城どころか城下町全体を一望出来るそれは、ブレーブス公国の象徴として扱われる程のものだ。
高さ、凡そ百五十メートル。魔法の力で動く世界最大と謳われる大きな時計が最上部に取り付けられている、日時計として使える事でも名高い塔の上から世界を見てみたいと、少年はふとそう思った。
一つ頷いて男はのっそりと立ち上がる。不意に、少年の全身が浮遊感に包まれた。所謂、お姫様抱っこの形になっていると気付いたのは数秒経ってからだった。
「舌を噛むなよ」
言葉と共に、男が走り出す。人間が出せるとは思えないような凄まじい速度で、視界は急激に変わって行く。
見知った自分の部屋がある横長の建物を通り過ぎ、遠くには父がいるであろう宮殿が見える。兵士が寝泊まりする棟の次には巨大な中庭があり、その先の訓練場も一瞬で見えなくなった。
肉体強化の魔法を使った、人の限界を超えた速さ。少年が使うそれよりも力強い、それどころか騎士団のパーパスすらも凌駕したレベルではないだろうか。
少年の目にはハッキリと、男の体に纏わり付くようにして流れている魔力の奔流が見える。
一切の淀みが無い、真っ直ぐな魔力だ。今までの短い人生の中で感じた中でも最も優しく強いものだと、彼は小さな体の全てで感じ取っていた。
「凄い、凄い!」
知らない世界が広がっていく、心の中に世界が染み渡っていく。背中に羽が生えた、後ろに目が付いた。今ならば何でも出来そうだと、少年は自分の頭に色が増えていく感触を確かに覚えていた。
もっと知りたい。そんな欲求が生まれ出て、着せ替え人形のようだった彼の顔には人間味が爆発している。
生まれて初めて、心から笑った。そんな事実には気付かなかった。
「おう、そうだ。そうやって笑ってろ、皇子様。子供ってのは笑ってるのが当たり前だ、笑ってりゃ幸せだ。自由に笑って、自由に泣いて、んでもって自由に生きる。やり過ぎたら、俺みたいに放蕩者だなんて言われるけどな」
「放蕩者?」
「やらなきゃいけない事を放り出して、好き勝手に生きてるやつの事さ。別に何も考えてないってわけじゃないけどな、周りからしたら馬鹿みたいに見えてるだろうさ。でも、楽しいぞ」
放蕩者とは、自由である。そんな図式が少年の中には出来上がっていた。
ならば、自分は放蕩者を目指してみよう。籠の中の鳥みたいにちやほやされて飼われているだけじゃなくて、考えた通りに、誰かに与えられるのではなくて。自分という人間になってみよう。
周囲から聴こえ始めた怒声のような何かは耳を通り抜け、少年は声高らかに宣言する。
「皇子様じゃなくて、ランスリー=ブレーブス!」
「そうか、皇子様。自分の力で何か出来るようになったら名前で呼んでやる。それよりも気を付けろ、怖かったら上を向いておけ」
男の言葉と共に、急激に視界が横を向いた。トン、トン、トンと、男が飛び跳ねるようにして赤い床を蹴り進む。
いや、床ではない。壁だ。赤いレンガ造りの時計塔の外壁を、男は体を地面に平行になる形にして駆け登っている。
少年は男の言葉を無視して下を向いた。
離れて行く地面と、下には複数の兵士らしき人々が見える。どんどんと地面は遠く、人は小さく。自分達は高みから見下ろしているのだと思うと、不思議な優越感すら生まれてしまう。
恐怖など、どこにも無い。あるのは一つ、楽しいという思いだけだ。
「おじさん、どうやってるの!?」
「魔法は想像力だ、自分で考えろ! それも自由の一つだ!」
突き放す言葉に、少年は大声で笑った。男も小さく含み笑いを返す内に、視界がまた九十度回って横へと戻る。
時計塔の最も高いところ、平坦になっている十メートル程度の正方形の空間に男は足を付け、そのまま少年をゆっくりと降ろした。
少年は弾かれたように足場の端へと駆け寄り、身を乗り出すようにして下に広がる景色を確認する。
広がっていたのは、夕焼けに赤く染まった円状に広がるクーリンガルの街並みだ。
地平線の向こうにまで続いているわけではない。百五十メートルの上空から見下ろしてみれば、国の首都といえどもこんなものかと、見る者が見ればがっかりしてしまうかもしれない。
しかし、少年はそうではなかった。それどころか、頭が壊れてしまいそうな程の感動にすら襲われている。
見ろ、この自分が認識出来る範囲をあまりにも大きく超えた景色を。部屋の窓から見える外はこんなにも大きかったか、世界はこんなにも色が付いて明るく美しいものだったか。
違いすぎる。今まで知っていた風景は豆粒みたいに小さくて、白と黒だけで描かれた紙みたいに薄っぺらなもので。こんなにも、分厚くなんてなかった。
少年は走った。下に落ちる事を怖がらずに、動ける範囲を目一杯に。それでも、どこを見ても同じだった。
遠くに山が見えて、その先にはもっと大きな何かが広がっているのだとは、つまらない勉強の中で聞かされている。近くを流れているのは、川というものだろうか。城の中にある小さなものとは違って、離れているここからでもさらさらとした音が耳を打ってきそうだ。
想像したら、止まらない。感情と欲求が爆発する。
「おじさん、連れて行って! あの山に、あの川に。その向こうまで!!」
感情のままに叫んでいた。微笑ましそうに胡坐を掻いて少年を見守っていた男は、薄く笑った表情を変えずに返す。
「断る。自分で行け。他の誰かに頼まないといけないのなら、それは本当の自由じゃない。自分の力で考えて道を切り開いてこそ、自由だ。それを突き詰めれば、放蕩だ。力を付けるために努力をして、その力を使うために努力する。放蕩って言うのは、努力の塊。行ってみたいなら、自分のために頑張ってみろ」
「自分のための、努力……」
少年にはわからなかった。
自分のためではないが、努力はしてきた。与えられた勉強も全てこなしてきたし、簡単すぎる魔法の課題もアレンジを加えるなどして必要以上に仕上げている。
だが、自分のための努力とは何なのだろうか。勉強や剣の稽古を頑張るのとは何が違うのだろうか。
「わからないなら、考えてみろ。外に出るためにはどうしたらいいのかとか、方法を思い付いたら何が必要なのか。考えてからやってみればいい。言われたくないかもしれないが、お前はまだ七歳の子供だ。なら、そうだな……さっき俺が壁を登る時に何を使ったのか考えてみろ。それで、次に会った時に答えを教えろ。俺からの宿題だ」
にやりと笑って見せた男に、少年は勢い良くぶつかって抱き付いた。
この男は違う。城の中で、皇子だからという理由で自分にへこへことしている人々の誰とも。年上としての意見を遠慮なく言い放ち、自分の事を考えて導こうとしてくれている。
ああ、そうか。これが父性だ。父であるとされている皇帝には無い、温かみが男にはあるのだ。
頭に置かれた手の感触を覚えた時、目からは涙が溢れ出ていた。何でなのかはわからない。もう頭がぐちゃぐちゃになって、少年は自分が何で泣いてしまっているのかも理解出来ない。
ただわかるのは、今、嬉しいのだという事だけだった。
「貴様、放蕩者! ランスリー様から離れんか!」
空気をつんざく嫌な声が響く。ばっと横を振り向いてみると、少年に見えたのは騎士団の正装に身を包んだ厳格そうな男だった。
怒り狂った表情だ。きっと、脱走に対して怒っているのだろう。
「よう、パーパス。こんな辺鄙なところまでご苦労さん。今日も怖い顔してるな、また白髪が増えるぞ。子供も生まれたんだ、もう少し笑ったらどうだ」
「馬鹿者め、貴様もすぐに子持ちになるだろうが。それよりも、ランスリー様を連れ出したな。……重罪になるぞ、私でも庇いきれんかもしれん」
「先生、これは違」
「ああ、そうだな。本人の意思がどうあれ、皇子を連れまわした時点でヤバい。妥当なところで騎士団追放か、全く。とんだガキを拾っちまった……っとな!」
「うわぁ!?」
薄ら笑いのままに、男はむんずと少年を掴み上げてパーパスへと投げ渡した。慌ててパーパスが少年を抱き留めたのを確認し、男は走り出す。
大声で笑い、何かから解放されたように。
「皇子様、覚えておけ。これが、騎士団の追放すらも怖がらない、俺の勇気と無謀こそが放蕩だ! 誰にも邪魔されず、自分の道を作る。心の片隅にでも置いておけ、若人!」
「────!!」
男が時計塔の向こうに飛び出し、落下と共に姿が見えなくなった。パーパスが何かを叫んだような気がした。何を言っているのかはわからない。頭の中が真っ白になり、考えられなくなる。
涙がまた溢れ出た。今度は、色々な感情が入り混じった、確かな悲しみの涙だ。
「ごめんなさい、おじさん。ごめんなさい!!」
自分のせいで、男が何かの罪を背負ったのかもしれない。そう考えてみると、悲しさと申し訳なさで胸が締め付けられる。
それから、少年は泣き続けた。気が付いた時には見知った部屋に戻されていて、いつもの生活に戻されてしまっていた。
だが、言葉だけは頭の中に残っている。
放蕩。
探してみよう、考えてみようと思った。あの男が言っていた事の意味を考えて、自分の生き方を探してみるという決意が生まれ、その想いはどんどんと大きくなっていった。
十六年の月日が経った今でも、あの騎士とは一度も会えていない。パーパスにも、どうなったのかとは聞かなかった。
幼い日の記憶は徐々に薄れ、男の顔や声も忘れた。ただ、答えだけは胸の中にしまっている。
放蕩英雄、ランスリー=ブレーブス。少年は今も、彼の放蕩を突き通し続けている。
☆
「おっちゃん、年末年始ってどうすんのー?」
「んー?」
朝の畑仕事を一通り終え、シエルが作り置きしていったシチューを食べていると、サーニャがそんな事を言い出した。
ブレーブス公国の年末年始といえば、御上も国民も身分を無視した休日であると長年の風習で定められている。行く年来る年、こんな時に働く者は商売魂に溢れる者か余程の馬鹿でしかない。だからこそ、ランスリーも大晦日と元旦ぐらいはきっと畑仕事や塾もそこそこに休息を取るのだろう。彼女がこの話題を切り出したのは、そんな予想があったからだ。
どこか上の空にスプーンを咥えながら考えに耽っていたランスリーは、シチューをもう一口食べ直してからゆっくりと口を開く。
「……いや、別に。何時通りに過ごすと思う。寺子屋も休みだし、ここに引きこもって雪かきでもしてるんじゃないかな」
「えー、街に来ないの?」
「買い物とかも済ませたから、行っても別にする事も無いし」
苦笑し、わざとらしく周囲を見渡した彼に釣られて、サーニャも首を横に向けてみた。
少し前からだが、この牧場の家は大胆な模様替えが行われたらしい。行ってしまえば地味の一言だった内装は落ち着きながらもカラフルな印象に変わっており、現在使っている食器等も新調されているようだ。
例えば、目の前にある机には純白のテーブルクロスが敷かれているが、以前まではこんな清潔感を出す物は存在していなかった。食事の際にはランチョンマットを置く程度だったのが、今では一介の富豪を彷彿とさせるような道具が揃っているではないか。スプーンも、どことなく質が上がったように思われる。
やらかしてるな、通い妻。
今は仕事で走り回っているであろう色ボケ女を脳裏に思い浮かべ、早く結婚すればいいのにと考えた彼女の思考はきっと正常なのである。
「じゃあさ、結構暇な感じ?」
「さあ、どうでしょう。実は裏で壮大な計画を企んで」
「暇なんだなー」
「あっははぁ」
実際にこいつが何かを企んでいたのならば、国が一つ転覆する。そんな可能性には気付かずに冗談を切り捨てて、サーニャはさっさと本題に移った。
「父ちゃんがウチで年越ししないかってさ。何時も世話になってるから、お礼がしたいって言ってたよ」
「ラウルさんが……世話になってるのはこっちもなんだし、家族でゆっくりすればいいのに。僕なんかが行っても、邪魔になるんじゃない?」
「いや、いや、いや。全然そんな事ないって! あたしもおっちゃんにお礼とか出来てないしさ、たまにはこっちにも来てみてよ。どうせ、特別な事とか何もしないんでしょ。だったら、ご飯ぐらい食べに来てよ。そんなに豪勢なのは出せないけど」
「カール=ベーカーとして、だよね?」
「そりゃそうだよ。父ちゃん、ベーカーさんを連れて来いって最近うるさかったし」
「うーん……ちょっと考えさせてもらっていいかな?」
「ほーい。出来るだけ早く返事ちょうだいね」
大晦日まではまだ二週間ある。安易に答えを返すべきではないと判断したランスリーは、とりあえず保留という形で難を逃れた。
暫くの雑談が続く。やれ、年末に近付くにつれてシエルが忙しそうにしているだの、やれ春に向けて何を栽培するかだの。キャベツを育てるのは確定しているが、他にはどうするべきかも話し合っていく。
サーニャは農園の作業手伝いだけではなく、経営にも口出しをするようになっていた。八百屋の娘の知識というのも案外と馬鹿に出来ないもので、的確な意見に驚かされる事も少なくない。本人の性格が真っ直ぐであり、面白い発想力もあるので、ランスリーの方から考えを聞くようになったのだ。
彼女もそれを察したのか、最近は何も聞かれずとも要望を口に出して来ている。農園に対する議論をするというのも、ランスリーにとっては新鮮で楽しいものだった。
「そういえばさー」
一通り農園の話題を出し尽くしたところで、サーニャが唐突に話題を切り替えた。
「姉ちゃんとは、最近どう?」
「どうって?」
「男と女としてどうなのかって話!」
「ノーコメント」
空になったシチューの皿を持ち、ランスリーが台所の流しへと逃げる。後を恋話大好きな少女が追いかける。
「でもさでもさ。好きなんでしょ、姉ちゃんのこと」
「……まあ、そうだけどさ」
水を流して一緒に洗い物をしながらの確信めいた質問に、ランスリーは重い口を開けて事実を言った。
前々から自覚していて、サーニャにはバレている事もわかっていたが、言葉にして出すのは初めてだ。
「なら何で進展しないのかなーって。姉ちゃんもおっちゃんの事好きだし、そろそろ結婚とかしないの?」
「色々あるんだよ、色々。十五歳の小娘にはわからない、大人の事情ってやつが」
「あっ、何それムカつく!」
ぽかぽかと両手を振り回して殴りつけてくるサーニャに苦笑し、ランスリーは考えを巡らせる。
ラウルに、シエル。二つの案件にはどう決着を付けるべきか。難しい問題だと、どこか他人事のように考えていた。
☆
徒歩でクーリンガルの街を歩くのは、本当に久しぶりなのかもしれない。
野菜を売ったり野暮用を済ませる時には馬車を使い、そもそも私塾は農園とそのまま繋がっているので歩く必要が無い。もしかしたら、城を飛び出す前にまで遡るのではないか。
カールはゆっくりと噛み締めるようにして、大晦日の街を歩いていた。
雪によって白く染まった地面は柔らかく、踏んでみると僅かに沈み込んで力を奪われる。この悪路では、馬車は使えない。荷物も手土産ぐらいしか持っていないので、そもそも馬車を使う必要すらもないのだ。
午後六時。ほぼ夕闇に染まりきった街は、それでも明るく燃えたぎっている。
年に一度の大晦日、出店は繁盛し人々は笑い楽しそうだ。普段ならば既に人通りが少なくなってきそうな時間に差し掛かっている繁華街も、今日ばかりは眠らない場所へと姿を変えてしまっているらしい。
きっと、日付が変わっても明るいままなのだろう。
ふと、カールは一つの店の前で足を止めた。
いつも見ているそれとは少し雰囲気が違うが、確かにラウルが経営している八百屋だ。店の扉は閉められ、所狭しと並べられているはずの果物や野菜は見当たらないが、家の中からは光が漏れている。
間違っていない事をもう一度確認して、カールは扉を数度叩いた。
「ウィークスさん、ベーカーです!」
名乗ると、すぐに中から元気な返事が聴こえた。暫くして開けられた扉の向こうに立っていたのは、当然ながらサーニャだ。
「おっちゃん! さっ、上がって上がって。もうすぐ料理も出来るから、ちょっとだけ父ちゃんと待っててよ」
「うん、ありがとう。お邪魔します」
招かれるままに家へと入り、後ろ手に扉を閉めた。
結局、カールは年越しをウィークス家で過ごすと決めてしまった。最初は断ろうとしたのだが、如何せんサーニャが強く押してくるので根負けをしてしまったのだ。
あまり人と関わらないでいようと考えていたのに、どうしてこうなったのか。溜め息を吐きながらも頭を抱えたカールだが、サーニャが喜ぶ姿を見ているとまあいいかと思ってしまう辺り、彼も甘かった。
質素で無骨な雰囲気を醸し出している家ではあるが、所々にカラフルな装飾が施されているのはサーニャの趣味なのだろう。
骨組みはラウルで、娘が完成させる。微笑ましさに思わず笑う。
後ろを着いて玄関から廊下を行くと、すぐに居間らしき場所に辿り着いた。中央に設置された机と、横には座りやすそうな椅子に腰を下ろしたラウル。
目がカールを見た。すぐに挨拶をしようとして、
「よう、皇子様。今日は特別な日だ、答えを聞かせてもらうぞ」
「………………はい?」
間抜けな声を出してしまった。