プロローグ
ある日の昼下がり、突如として戦争が起こった。
一本の巨大な川を挟み存在する二つの国は元より仲が悪く、常に如何ともし難い緊張感に支配されており、正しくいつ均衡が破れてもおかしくはない状態だったのだ。
戦争の切っ掛けは定かではなく、歴史書にも明確な理由などが一切記されていない。どちらかが攻撃を仕掛けたのか、はたまた示し合わせたものなのか。
アッシュ公国ではブレーブスが先に攻撃をして来たとされ、ブレーブス公国ではアッシュが先だとされている。真相は未だに闇の中である。
とにかく、戦争は突如として勃発した。そして大規模になるだろうと思われたその戦争は、たったの三ヶ月で終わりを迎えた。
形としては痛み分けの後に不可侵を誓っての和平、しかし世論では勝ったのはブレーブスだと言われている。
一人の大魔導師の活躍によりアッシュは致命的なダメージを受け、そして和平とは名ばかりの降伏を宣言したのだ。
その大魔導師は圧倒的であった。ひとたび手にした剣を振るえば炎風が巻き起こり、虚空に手をかざせば巨大な雹が敵陣に降り注ぐ。
結局彼は一人でアッシュ公国を打ち倒し、戦争を瞬時に終息させた。
当然の如く、彼はブレーブスからしてみれば英雄。どれほど称賛しようとも足りないほどの功績を残し、史上最強と謳われる彼を国を総動員して讃える。
曰く、英雄と。曰く、至高と。曰く、守護神と。
そして彼は敗戦国であるアッシュ公国からこう揶揄された。
――史上最悪の、殺人鬼であると。
その殺人鬼という呼び名を聞いた時、英雄は悲しそうに笑ったとされている。
そして戦争を独力で終わらせた日、彼がブレーブスに戻って来ることは無かった。五年の月日が経過し、学校の教科書に名が乗って尚、彼はまだ国に帰ってきていない。
両国を徹して行われた大捜索を避け、戦場を最後に忽然と姿を消してしまったのだ。
役目を終えて隠居を選んだ、殺人鬼と呼ばれる自らに嫌気が差して身を捨てた。噂は絶えない、しかしこれだけは間違っていない。
彼は確かに戦争を終わらせ、英雄になった。そしてその勇姿は人々の眼と心に刻まれている。
☆
ブレーブス公国の首都であるクーリンガルの市場は今日も大きな賑わいを見せている。
戦争以前から商業大国と名高いブレーブスの市場は当然ながら巨大であり、例えば単に八百屋と言っても数十を越える店が存在しているのだ。
そんな八百屋の中でも小さな部類に入る個人経営の店、その前に一台の荷馬車が止まった。荷馬車には数種類の野菜と果物が積まれており、鮮やかな色が作るコントラストが行き交う人々の目を惹き付ける。
くたびれた老馬を操るのは、これといった特徴も無い初老の男性。中肉中背の平均的な体格に白髪混じりの短い髪、顔もどこにでもいそうな至って普通なものだ。
見た次の瞬間にはどのような人物だったかを忘れてしまう程に存在感が無い、しかし男は確かにそこにいた。
「おう、おっちゃん。二週間ぶりー」
「サーニャちゃん、お父さんは?」
「今はちょっと留守でねー、買い取りならあたしがやるよ」
「じゃあお願いしようかな。茄子と林檎、両方とも全部頼むよ」
「へいへーい。おほっ、こりゃまた美味そうな林檎だ!」
荷馬車が着くと同時に店から飛び出して来たのは、十代半ばであろうベリーショートに整えられた赤毛の少女だ。サーニャと呼ばれたその子が、返事も聴かぬ間に荷馬車から荷物を降ろし始める。
赤々と太陽の光を反射する林檎に眼を輝かせながら箱を運び出すと、男も馬を落ち着かせてからそれに習う。おいしょおいしょと二人して声を出しながら店の中に荷物を運び入れるその姿は、仲の良い親子が協力しているような微笑ましいものだ。
おっちゃんは相変わらず力持ちだなー。などと言うサーニャに対し、男はただ微笑み返して荷物を運ぶだけだった。
「この量だと、買値はこれぐらいかねー」
「うん? ちょっと多くないかい?」
「おまけおまけ、おっちゃんの作る野菜と果物は評判良いからさー。次からちょっと買値を上げようって父ちゃんと話してたんだよ」
「それはありがたい、なら遠慮せずに頂くとしようか」
手渡された金の入った袋を懐にしまい、男は背を伸ばしてから軒先に繋いでいた馬を解放する。そしてゆっくりと荷馬車に乗り込んだ。
「ありゃ、もう行っちゃうの? ゆっくりしてけばいいのに」
「まだ他も回らないといけないんだ、ちょっと草鞋を作りすぎてしまった。さっさと売らないと、帰るまでに日が暮れてしまう」
「そっかー、また今度話してくれよなー」
「また少ししたら来るよ」
別れを告げ、男は荷馬車を発進させた。老馬の歩みはとても遅く、人で賑わう市場の中をゆっくりゆっくりと進んで行く。
じゃあなー。という声に振り向き手を振ると、満足したのかサーニャは小走りに店へと戻って行った。
「全く本当に良い子だな」
終始笑顔のままだった男は、やはり笑ったままそう呟くのだった。
☆
時は流れて夕暮れ時。草鞋などの産物を全て売り尽くした男は、予想よりも潤った懐に満足しながら帰路に着き始めた。
クーリンガルの正門を抜け、やはりゆっくりとそれなりの舗装を施された道を行く。ごとりごとりと揺れる馬車に身を任せ、ここでようやく男の笑みはナリを潜める。
その顔は感情を全く表に出さない、文字通り無表情と呼ぶに相応しいもの。冷たさも温かさも、何も無い。
無を纏ったまま道なりに進むと、陽は完全に沈んで行き交う人の姿も消え去った。夜の野外は危険である、獣が闊歩する草原を行く者など普通はいる筈もないのだ。
しかし、男は敢えて危険な草原を進む。そして馬を停め、キョロキョロと辺りを見渡したところで大きく一息を吐く。
「……復元」
言葉は力に、力は言霊に宿る。魔法とは言葉を形にする技術、声に想いを込めて発せれば全ては叶い実現して然るべし。
呟くと同時に、男の全身をぼんやりとした淡い光が包み込む。神秘的な光は迷彩のようにその姿を包み隠し、魔法をありありと表し結果を出そうと輝く。
数秒間続いた光は唐突に輝きを収め、また直ぐに男の姿が露になった。しかし、そこについ今しがたまでいた筈の中年の姿は無い。
代わりにあるのは、若い男の顔だ。青い伸びきったボサボサの髪に黒い瞳、十人に聞けば半分はイケメンだと言うであろうそれなりに整った顔。
衣服も変わり、農村からそのまま出張して来ましたと言わんばかりの土が付着していたそれは、白を基調とした気品を感じさせる小綺麗な物になっている。
「あー、疲れた」
天を仰ぎ、中年……もとい青年はそれなりに大きな声で言う。影から聴いている誰かに言い聞かすように。
男の名は、ランスリー=ブレーブス。英雄と呼ばれて敬われる、ブレーブス公国の第三皇子である。
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶりです。
息抜きのつもりで久しぶりにオリジナル作品を投稿です、ドン亀更新ですがよろしくお願いします。