第8話:出発前夜
彼女の『手術を受けます』宣言から1週間が経った。
季節は夏から秋へと、8月から9月へと変わっていた。夏休みは終わり、学校が始まったのだ。
「雪人、小春ちゃんとはどうなった?」
今日は始業式だ。久しぶりに見るクラスメイトたちは、それぞれの夏の出来事を報告しあっていた。ユウジが少し遠慮がちに聞いてきた。
「あぁ、手術を受けることになったんだ」
「え! やったじゃん」
ユウジは自分のことのように喜んだ。
「良かったな。これで安心だな」
「……それが、そうでもないんだな」
俺の情けない声に、ユウジはさっきまでの笑顔から、きょとんとした表情に変わった。俺は彼女の手術について話した。
「30パーセント未満……それは難しいな」
「だろ? でも、受けるって言ってくれただけで嬉しいんだ。後は応援するだけ」
「雪人……お前、何だか変わったな。カッコいいよ」
「サンキュ」
俺はふっと空を見上げた。この空を彼女も見ているだろうか。病気が治ったら、いろんな場所へ彼女を連れて行こう。そして、彼女と一緒に生きていくんだ。
「何だって?」
俺の頭のてっぺんから、足のつま先まで衝撃が走った。今聞いた言葉が信じられない。目からキラキラ星が飛び出た。
ここは彼女の病室。学校が始まり、2、3日が経った今日、俺は学校の帰りにお菓子を買い込んで見舞いに来ていた。
「ごめん、もう一度いいかな?」
「ですから、明日アメリカに行くんです」
彼女はクスクス笑って、さっき聞いた言葉と同じ言葉を口にした。
「明日行って、しばらくしてから手術するんです」
明日……。突然の話に俺は目の前が真っ暗になった。行くのは良いことなのだが、いざこういう場面に遭遇すると堪えてしまう。
「あれ? 行くの反対ですか?」
彼女がイタズラに笑い、俺の顔をのぞき込んだ。俺は慌てて平静を取り戻した。
「バ、バカ。そんなわけないだろ」
そう言って、ガサッと買い込んだお菓子を広げた。彼女が、わぁっと声を上げた。
「どれでも食べろよ」
「いいんですか? この板チョコ、好きなんです」
彼女は嬉しそうに板チョコを手にした。そして、ピリリッと包み紙を破った。俺も、自分の好物のお菓子袋を開けて食べた。
時間が経つのは早い。もう外が夜になろうとしていた。空には1番星が顔を出していた。
「……そろそろ帰るよ」
俺は広げたお菓子を片付けた。彼女が寂しそうな顔で俺を見た。
そ、そんな顔で見るんじゃねぇよ。俺だって、もう少し側にいたい。しばらくは会えないんだから。……でも駄目だ。明日は彼女の大切な日。今日は早く寝て、明日に備えてもらうんだ。
「梶山君」
彼女が可愛い声で呼んだ。びくっと俺の体が反応した。
「梶山君、お願いがあるんです」
「お願い……?」
「なぁ、ヤバイって」
「何言ってるんですか、ここまで来て。私はこの日のために、いい子で通したんですよ」
彼女は久しぶりの制服に身を包んでいた。
ところで今俺たちは、薄暗い病院の中をさまよっている。
彼女のお願い、それは……学校に連れて行ってくれ、ということだった。彼女の熱意に押され、また自分の一緒にいたい願望が手伝って、彼女の願いを叶えてあげることにしたのだ。
「しっかし、夜の病院はマジで怖いな」
俺は彼女を後ろに従えて、あたりを見渡していた。
「梶山君、ユーレイとか苦手なんですか?」
彼女は俺の後ろで、次にどこへ行けばいいのか、指示をしていた。彼女が言うには、病院の地図はすべて頭に入っている、ということだ。
「バ、バカ! そ、そんなことないしっ」
図星だ。俺はこういう場所、そういう類の話は、大の苦手なのだ。一方、彼女は平気そうだ。怖がるというより、むしろ、この状況を楽しんでいるみたいだ。
「ここを抜ければ外に出られます」
「よ、よしっ」
俺はぐっと手に力を入れ、彼女の手を引いて走った。
「あー、久しぶりの学校です!」
無事、誰にも見つからずに病院を抜け出し、学校に着いた。
あれ? ひょっとして俺、またイケナイことしてないか?
学校に着いて後悔する、俺。
「ユウジ、ごめんよ。俺やっぱり何も変わってないみたいだわ」
「何言ってるんですか。さ、中に入りましょ」
「あぁ。……って、中だって!?」
俺は度肝を抜かれた。中に入るなんて、それはさすがにヤバイだろ。こいつ、さらっと言いやがって。
「ここまでだ。だいたい中に入る方法はないんだぜ? 正門も裏門も閉じてるし……」
「早く入ってきてくださーい!」
「……え?」
俺はきょろきょろと彼女を探した。さっきまで、俺の目の前にいたのに、姿がない。ぐるっと視界を1周してみると、なんと学校の敷地内に彼女が立っていた。
「どこから侵入したんだよ」
「あそこのフェンスに、大きな穴が開いてるんです」
管理、甘っ。フェンスの意味ナシ。大丈夫かよ、この学校。
「先に行ってますね〜」
「あ、おい、ちょっと」
彼女はぶんぶんと手を振り、校舎の中へ入っていった。
「梶山君、こっちですよ」
彼女はわくわくしながら、俺たちの教室に入った。俺もその後に続いた。彼女は俺の席に座った。
「あ、そう言えば、初めて伊東と話したときも、ここに座ってたよな?」
俺は自分の席の隣の椅子に座った。
「それは、前はここが私の席だったんです。私が入院して、席替えをしちゃったみたいですね」
俺は、そうだったんだと、彼女と話をしたときを思い出した。今思い出しても、あの見事なドアの直撃は笑ってしまう。
「な、何笑ってるんですか!」
「いや、別に……おっかし」
「や、やっぱり笑ってるじゃないですか!」
彼女は顔を赤くし、口をへの字に曲げた。
「だってさ、ラブレターとテスト用紙を間違えてんだぜ? そして見事なぶつかり」
「だから、それはっ」
彼女はふんっとへそを曲げてしまった。ごめんごめん、イジメすぎたな、と俺は笑いながら謝った。
「そうだ、アメリカに行っちゃう前に、聞きたかったことがあるんだ」
すっかり夜の教室に慣れた俺は伸び伸びとしていた。
「手術受けることにした理由って、聞いてもいい?」
彼女は少し、はにかみ頷いた。
「梶山君の言葉を聞いて、もう一度考えてみたんです」
彼女は遠い目をして話し始めた。
「私の生きたい『今』は、どんな『今』なんだろうって。そして想像したんです、私の未来を」
彼女は静かに目を閉じた。月の光が窓から差し込み、彼女の横顔がきらきら光って見えた。
「手術を受けない『今』を生きた私は、いろんな楽しいことを想像しても、やっぱり最後は、梶山君と離れてしまうんです。次は、梶山君の言う『明日に繋がる今』を想像したんです」
目を閉じていた彼女は、静かに目を開けた。そして俺に向かって、とびっきりの笑顔をくれたのだ。
「明日に繋げるために手術した私は、見事に成功して梶山君と歩いてるんです。いろんな場所……私がまだ行ったことのない場所を。すごく楽しくて、すごく幸せだった……」
見事に成功って、確証もないんですけどね、と彼女は舌を出して笑った。
「明日に繋がるって考えれば、手術は絶対成功するよ」
俺は少し鼻声になって答えた。彼女がびっくりした顔で、
「だ、大丈夫ですか?」
と、俺を心配してくれた。俺は大丈夫だから、と彼女を安心させた。
「それに生きて、もっと梶山君の言葉を聞いてみたいなって思いました。梶山君の素敵な言葉……」
「す、素敵って、お前よく恥ずかしい言葉を……」
俺はドキドキドキ……と、いつもより早めの脈を打つ心臓を抑えた。彼女はニヤッと笑い、
「あら? 恥ずかしい言葉なら、梶山君のほうが言ってる気がしますけど?」
と、挑戦的な態度に出た。
「あ、お前、まさかっ」
はっと気が付いた俺は、みるみるうちに全身が茹で蛸のように真っ赤になった。彼女が言おうとしていること。恐らくそれは……。
「『俺はお前が好きなんだ』……でしたっけ?」
カーッと、俺の全身の毛穴から湯気が噴き出した。沸騰したやかんの蓋のように、心臓が蒸気によってカタカタと上下に揺れた。有り得ない心臓の動きだ。もしかしたら、俺もアメリカで手術を受けたほうがいいかもしれない。
「人をからかうなよっ」
「あはは、ごめんなさい……ごめん、なさい」
急に彼女の声が静かになった。俺は彼女の変化に気が付いた。泣いていたのだ。
「どうした?」
俺は優しく聞いた。彼女はポロポロと涙を流した。
「あの時は、ごめんなさい。毎日、お見舞いに来てくれたのに、私冷たい態度で……」
「もう大丈夫だよ。何か理由があったんだろ?」
彼女は小さな子供のように肩を震わせていた。俺はそっと肩を自分のほうへ引き寄せた。彼女の柔らかな髪が、俺の頬をかすめた。
「あの時……梶山君が、病院で勉強をすることを断ったとき。私は勝手に、梶山君ならこんな狭い病室から、私を助けてくれる、水族館のときみたいに、私を連れ出してくれるって思ってたんです」
彼女はゆっくり、ゆっくりと話してくれた。
「でもそうじゃなかった。裏切られたような気がして、勝手に怒ってたんです。だから……ごめんなさい」
「いいんだよ。実はさ俺、その時自分のことばかり考えてた。伊東が好きだって気付いて、この初めての気持ちに酔ってたんだ。だから俺もごめん」
俺は彼女の頭を、ぽんって叩いた。静かに泣いていた彼女は、今度は鼻を鳴らして泣き出した。
「うわ、ごめんって。悪かったよ」
俺は焦って彼女から手を離した。彼女は違うんです、と首を横に振った。
「怖いんです」
「怖い?」
「手術……」
俺は少し彼女を見つめ、また彼女を自分のほうへ引き寄せた。
「本当は怖いんです。生きたいってどんなに願っても、もし失敗したら? 失敗したら今日が、本当の最後になってしまう」
彼女の悲痛な心の叫びだった。
手術をすると口にした、彼女の心の奥深くでは、こんな叫び声をあげていたんだろう。俺は全く気が付かずにいた。
「大丈夫、大丈夫だ。伊東は失敗なんかしない。俺がついてるから」
ぎゅっと彼女の手を握った。すると彼女のほうからも、ぎゅっと握り返された。
「大丈夫、大丈夫……」
子供を寝かしつけるように優しく語りかけた。俺は彼女の髪に軽く口づけをした。それに気付いたのか、彼女はそっと顔を上げ、今度は彼女の唇にキスをした。
「大丈夫、大丈夫……」
子守歌のように囁いた。いつの間にか、俺の目にも涙が溢れていた。
大丈夫、大丈夫……。
そしてとうとう翌日。彼女は元気良く日本を出発した。