第7話:不安
彼女が入院することになって、俺は毎日彼女の元へ通うようになった。
「そう言えば、学校……」
見舞いに来て4日目。彼女が思い出したように呟いた。
「梶山君、学校ですよ! 補習が……」
「あ、大丈夫。ヤマ先生に了解取ってあるから」
俺はシャクシャクと自分で切った林檎を口に運んだ。彼女は心配そうな顔をしている。
「本当だよ。ヤマ先生から見舞いに行ってやってくれって、頼まれたぐらいだから」
まぁ、頼まれなくても勉強サボって行くけどね。
この間、自分の気持ちが分かって以来、何だか体が軽い。ふわふわと常に宙に浮いている感じだ。いつもと変わらない毎日のはずなのに、キラキラと輝いて見える。恋って素晴らしい……!
「でも勉強しないと……あ、いい考えがあります」
彼女はぱんっと両手を叩いた。そして、ベッドの隣に備え付けられている、棚の引き出しから教科書を引っ張り出した。
「ちょ、ちょっと」
「私がここで勉強をみます。これなら大丈夫ですよ」
彼女はにっこりと微笑んだ。しかし今の俺の顔を見て、だんだんと眉が下がり、目が垂れ目になっていった。
「……駄目ですか?」
「えっ、あ、駄目なわけじゃないけどさ」
俺は慌てて考えた。ここまで来て勉強だなんて冗談じゃない。こっちはやっと自分の気持ちに気が付いたんだ。しばらくはこの気持ちに酔っていたい!
「あ、伊東はまだ本調子じゃないだろ? 俺のことは心配しなくていいんだ。今は自分のことを考えてくれよ」
「それが、病院の先生にも伝えてるんですけど、私、本当に大丈夫なんです。入院なんて、こんな大袈裟な……」
「大袈裟なことじゃないよ。また何かあったら大変だろ」
俺は切った林檎を食べた。彼女は何か言いかけて、でも結局何も言わなかった。
「なに?」
「いえ、何でもないです」
彼女は布団を頭まですっぽり被せた。その口調、仕草から、俺に対して怒っているような感じがした。
「どうしたの?」
聞いてみても、彼女は深海の貝のように口を開かない。俺は、また海のときのように興奮させてはいけないと思い、それ以上は聞かなかった。
それからというもの、見舞いに行っても彼女の態度からは、俺に対して何かしらの怒りを感じるようになった。当然気になって仕方がなかったが、前のことが俺にとってとても深くのしかかり、踏み込んで聞くことが出来なかった。そんなある日、俺にとって嬉しいニュースが飛び込んできた。
「手術ですか?」
彼女のお母さんが嬉しそうに笑いながら教えてくれた。ちょうど、病院の自動販売機でコーヒーを買ったばかりだったので、その話を聞いたときは、コーヒーが手からひっくり返りそうになった。
「いつするんですか?」
俺とおばさんは病院の談話コーナーに移動した。ここは畳が敷かれていて、とても和めるスペースになっていた。
「実はね、日本で受けるんじゃなくて、アメリカ受けるのよ」
「ア、アメリカ!?」
海外遠征みたいなものか。……いや、ちょっと違うな。
「凄いですね。その手術を受けたら、病気は治るんですよね」
俺ははやる気持ちを抑えて聞いた。しかしおばさんからは、歯切れの悪い返事が返ってきた。
「えぇ、でもね……」
「どうしたんですか?」
「その手術の成功率が、30パーセントもないの」
30パーセントもない? それってつまり……。
「成功しない確率が高いってこと……」
おばさんは静かに頷いた。いつの間にか談話コーナーには、俺とおばさんだけになっていた。窓の外から蝉の鳴き声が聞こえた。
「そのことは本人には?」
「昨日伝えたの。そしたら小春、手術は受けないって」
「ど、どうして?」
俺の心臓は口から飛び出るくらい、大きな脈を打った。じわりと汗がにじみ出た。
「私にも分からないの。何度聞いても教えてくれない。私と主人は、例え成功率が低くても、治る可能性があるならって考えてるんだけど」
おばさんは、ふぅっと息を吐き、よいしょっと立ち上がった。
「もしかしたら、梶山君にだったら、理由を話してくれるんじゃないかなって思ったの」
「そうですか……。俺、その理由聞いてみます」
「ありがとう。私もね、頑張って説得するつもりよ。あの子にはまだまだ、知らないことがたくさんあるから。こんなところで躓いてほしくないからね」
私は今日は家に帰るから、梶山君はゆっくりしていってね、とおばさんは俺に会釈をしてその場を後にした。俺は持っていたコーヒーをぐいっと飲み干した。
「伊東?」
俺は静かに病室のドアを開けた。返事はなかった。彼女は上半身を起こし、窓の外を見ていた。
「起きてたなら返事しろよ」
「……ごめんなさい」
俺はベッドの隣に置いてあった椅子に座った。ふわっと窓のカーテンが風のせいで揺れた。涼しい風だった。
「もう夏も終わりですね」
彼女がじっと外を見ながら言った。日はもう傾いていて、赤とんぼが、あちらこちらに飛んでいた。俺は久しぶりに、彼女から話しかけてくれたので嬉しくなった。
「そうか? まだ暑くて嫌になるけどな」
「夜はもう涼しいですよ」
俺は壁に貼り付けてあるカレンダーを見た。今日は8月20日なので、夏休みはあと11日しかない。もうすぐ9月、新学期が始まる。
「夏休みが終わるな」
今年の夏を思い返してみた。全教科赤点を取ったせいで、夏休み中に学校で勉強をするハメに。嫌々行った学校で彼女に会い、俺は彼女に恋をした……。まさか自分がこうなるとは予想もつかなかったな。
「あ、そうだ」
俺はおばさんの手術の話を思い出した。
「手術……受けるだろ?」
ぴくっと彼女の手が反応した。そして顔を俺に向けた。どうして俺が、手術のことを知っているのか分からないみたいだ。
「おばさんに聞いたんだよ。伊東がアメリカで手術を受けることが出来るって」
「そうなんだ」
彼女の顔は、手術が受けられて嬉しい……というより、考えたくないことを、目の前に叩きつけられてしまったような、バツの悪い顔だった。
「何で受けないって言ったんだよ」
「何でって……当たり前です」
「当たり前?」
俺は少し声を強めて聞いた。
「その手術の成功率、聞きましたよね? 半分も無いじゃないですか。そんな不安な手術、簡単に受けたいなんて考えられません」
「……そりゃそうだけど」
成功率30パーセント未満。とても可能性が低い数字だ。でも俺は彼女を死なせたくない。このまま彼女を、病気との一生で終わらせたくない。
「数字は低いけどさ、今しかないんだぜ? 治る可能性がないわけじゃないだろ」
「……私の何が分かるんですか?」
今まで聞いたことがないような、彼女の冷たい声が俺の体を刺した。
「私の気持ちが分からないくせに、簡単にそんなこと言わないでください」
「い、伊東?」
予想外の彼女の反応に、俺は何を言ったらいいのか分からなくなった。ただただ、彼女を落ち着かせることだけを考えていた。
「興奮しちゃだめだよ。ほら……」
彼女をなだめようとしても、彼女が俺を受け入れなかった。
「触らないでっ!」
彼女はドンッと俺の体を押し返した。体全体で俺を拒絶していた。……それがスイッチとなってしまった。今まで積もりに積もった、彼女から感じていた、理由の分からない怒りを、俺はとうとう爆発させてしまった。
「何だよ」
俺の低い声に、彼女は我に返ったようだ。ご、ごめんなさいっ、と俺を押していた手を引っ込めた。けれどもう遅かった。俺の心の言葉は、とめどなくあふれ流れた。
「分かるわけねぇだろ!」
かっとなった俺は、彼女を見下ろす形になった。彼女は震える瞳で俺を見上げていた。
「ご、ごめ」
「お前が言わなきゃ何も分からないんだよ! 前に言ったよな、俺と一緒にいたい、生きていたいって! あれは嘘だったのかよ!?」
はぁはぁと、俺は肩で息をしていた。
「嘘なんかじゃないです。あれは本当に……」
一呼吸置いて、彼女は震える声で答えた。俺は収まらない熱にまかせた。
「だったら何で!」
「生きたい……生きたいけど、そんな可能性の低い手術に望みなんて持てない」
彼女は瞬きもせずに続けた。大粒の涙が布団のシーツに落ちて染みになった。
「もし手術に失敗してすぐ死んでしまうより、今生きてる、この瞬間を生きていたい。今を生きたいの」
「そんなの……」
俺は彼女の思いを聞き、あんなに熱かった心がだんだんと温度を下げていった。じわじわと涙がこみ上げてきた。
「そんなの寂しいじゃないか」
俺の言葉に、一瞬彼女の涙が流れるのが止まった。
「今を生きたいって、今を生きたって伊東の明日には繋がらないんだぜ?」
だってそうだろ?
お前は病気なんだ。いつ発作が起こるか分からない。もしかしたら、来年は死んでしまっているかもしれない。来月には、来週には、明日には……。毎日が病気と一緒なんだ。病気に怯えて生きていくんだ。そんな毎日、生きてるって言えないだろ?
そうじゃないだろ?
俺たちは、ただ今を生きてるんじゃない。
明日に繋がる今を生きてるんだろ?
「……俺、お前のことが好きなんだ」
鼻をずずっと鳴らして言った俺の告白に彼女は瞬きをした。
「だからお前には生きてほしいんだ。今だけじゃなくて、明日も来年も」
「梶山君……」
彼女の呟いた言葉に、無我夢中だった俺は我に返った。どうやらスイッチが切れたみたいだ。
「あっ、だ、だからさ」
俺は急に恥ずかしくなった。ここから逃げ出したくなった。
「とにかく、手術を受けろってこと! 可能性がなんだ、数字なんかに惑わされるな! あと、おばさんが心配してたからなっ」
早く去りたい気持ちが強くなり、そうだ、今日は用事があったんだ! と、大きな独り言を口にした。
「じゃ、じゃあまたな」
「はい、また」
いつの間にか、彼女はいつもの笑顔を見せていた。俺は手を振り、彼女の病室を後にした。
あぁ、なんて恥ずかしい台詞を言っちゃったんだろ。しかも告白しちゃったし。帰りの電車の中。俺は電車のドアに体を預けていた。ガタン、ゴトンとリズムのいい電車の振動が俺の体に伝わった。
恥ずかしい台詞だけど、本当にそう思ったんだ。俺は彼女と一緒にいたい、生きていたいんだ。
「手術、受けてくれるかな……」
俺が人生初めて告白をした日から翌日。俺は、恥ずかしくて顔を合わせたくない気持ちと、手術のことが気になる気持ちがごちゃ混ぜになっていた。しかし、ふんっと自分に気合いを入れて、病室のドアを開けた。そこには元気な様子の彼女がいた。笑顔で出迎えてくれた彼女は開口一番、こう言った。
「私、手術を受けることにしたんです。また梶山君に、いろんなものをもらっちゃいましたね」