第6話:3日目(3)
「薬飲まなきゃ」
彼女が俺の腕をはずして、カバンを置いている場所へ歩いた。俺もその場所へ足を向かわせた。
「あっ!」
前を歩いていた彼女は、足を砂浜に取られ体のバランスを崩し後ろ向きにひっくり返った。俺は彼女を支えようと駆け寄ったが、俺の足も砂浜に取られ、顔面から砂浜に突っ込んだ。そんな俺の上に彼女が倒れ込み、結果的には助けることができた。
「ご、ごめん」
「……いや、大丈夫?」
彼女はさっと起き上がり、俺に手を差し伸べた。
「梶山君は? 大丈夫?」
俺は彼女の手を取り立ち上がった。
「ドジっ子だな」
「ド、ドジっ子?」
「ほら、俺と教室で会ったとき、ドアにぶつかってたし、ラブレター間違えてるし」
「間違えたのは、頭がパニックになってて……」
「ぷっ。普通テストと手紙間違えるかよ」
俺はわしゃわしゃと彼女の頭を撫でた。みるみるうちに真っ赤になる彼女が可愛かった。
「く、薬飲まないと……」
彼女は慌ててカバンの中に手を突っ込んだ。あの巾着袋から数種類の薬を取り出した。
「ほら」
俺は自動販売機で買ってきたミネラルウォーターを手渡した。ありがと、と彼女は薬を飲んだ。
「はぁー」
「大丈夫か?」
「はい。ありがとうございます」
彼女はいつもの笑顔を俺に見せた。
「……そろそろ帰ろうか」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
俺たち、これからどうなるんだろう。
駅までの道を歩きながら考えていた。
俺はどうしたらいいんだろう。このまま何もしないで、彼女の病気が悪化していくのを、ただ見ていることしかできないのか?
「ごめんなさい」
「え?」
彼女が突然謝った。
「私があんなこと言って、梶山君に迷惑をかけてしまいました」
「迷惑だなんて、俺」
「よく考えてみれば、私たち恋人同士でもないんですよ? おかしいですよね、こんなこと」
彼女は俯いたまま立っている。海からの風が彼女の髪を乱した。
「梶山君、難しく考えないでください。私が勝手に言っただけなんですから」
「!」
彼女の言葉を聞いて俺の心がざわついた。何だ? イライラする。
「あのさっ! 俺の話聞いてくれる?」
俺の張った声に驚いた彼女。目が点になっている。
「俺ね、迷惑だって思ってないんだよね。それに、難しく考えてるのは、伊東のことを簡単に受け止めてるわけじゃなくて……」
「……」
あ、あれ? 俺何言ってんだよ。
「だ、だから、俺は」
あーっっ! 分からなくなってきた!
……それにしても、静かだな?
「おい?」
そう呼びかけると、ドサッと何かが落ちた音がした。
「! 伊東!」
彼女は前に倒れ込んでいたのだ。彼女を仰向けにすると、はぁはぁと、とても息苦しそうな声が聞こえた。
「大丈夫かよっ! きゅ、救急車!」
俺は慌てて携帯電話を掴んだ。
「わ、私……ごほっ、ケー、ケータイ」
彼女が手にしたケータイを受け取り、アドレス帳を開いた。そこには行きつけの病院の名前があった。
すーすー……。
殺風景な病院の個室に、彼女の寝息だけが聞こえてきた。静かに眠っている。
「はぁ……」
深い溜息が漏れた。やっぱり連れ出すんじゃなかったな……そんな後悔が俺を襲った。
俺が連れ出したからあんなことになって倒れてしまった。俺って本当にバカだ……。何の理由もなく彼女を連れ出してしまった。
「……何の理由もなく?」
本当にそうなのか? 何の理由もないのに、こんなことするのか?
突然、ドアが開く音がしたので椅子から立ち上がった。入ってきたのは40代後半の女性だった。
「小春……っ」
そう呼んだ女性は、彼女のベッドへと駆け寄った。
この人、母親だ!
「あぁ、だから言ったのに…」
伊東のおばさんはそっと彼女の頬を撫で、椅子に腰を下ろした。そしてちらっと俺の方を見た。
「……あなたが梶山君ね?」
「あ、はい!あの、す、すみません! 俺のせいで伊東……伊東さんが」
かたかたと俺の声が震えた。おばさんはふっと笑った。
「いいのよ、怒ってなんかいないから。さ、座って」
おばさんは、ベッドの下にしまっていた椅子を俺に渡した。
「……怒ってないんですか?」
「えぇ。小春が望んでいたのなら。本人もこうなることは分かっていたでしょう」
でもバカな子ね、とおばさんは苦笑いをした。
「……今日は海に行ったの?」
「え?」
「潮の香りがしたから」
「あ、はい。水族館に……」
「そう、水族館に」
おばさんはにこっと笑った。
「小春、驚いたでしょうね。大きな水槽を見て。水族館なんて行ったことなかったから」
すーすーと眠る彼女を、おばさんはとても暖かい目で見つめていた。
「小春ね、動物園にも行ったことがないのよ。……可哀相よね」
暖かい目だったおばさんが、だんだんと暗い顔に変わり、目には涙が光っていた。
「……」
「あぁ、ごめんなさい」
おばさんはそっと涙を拭いた。
「あなたに会うまでこの子は……何て言ったらいいのかしら。自分の運命を受け入れていたの。命が短いことを知っていたの」
「……っ」
俺はズキンッと心が痛んだ。
「私たちは諦めないでって言い続けてたんだけど、小春には届かなかった。でもね、あなたに会ってから変わったのよ」
おばさんは、ぱあっと表情が明るくなった。
「生まれ変わったように見違えたの。あんまり笑わなくなった子が、昔みたいに笑うようになって……。あなたのおかげよ」
「い、いや、俺は何もしてませんから」
「いいえ、あなたのおかげで小春は今まで生きてこられたのよ。だからお礼言わせて?ありがとう」
「礼なんて……だって俺、本当に何にもしてないし」
俯いて話す俺は、泣きたいのを我慢して話した。俺が泣くより、おばさんのほうがいっぱい泣きたいはずなんだ。俺がおばさんの前では泣いては駄目だ。
「俺、バ、バカだから。今日だって無理やり外に連れ出したし」
もうこれ以上話したくない。話せば話すほど、彼女の顔が頭に浮かび、泣きたい気持ちが強くなる。……泣きたい?どうして俺はこんなにも泣きたいんだ?
「そんなことしても、伊東の病気は治らないって本当は分かってたんだ。でも連れ出した」
「どうして?」
「こ、このままじゃ駄目だって思ったんだ。何か探さないと、探さないと伊東は……」
「あなた、小春のことが好きなのね」
おばさんの言葉が、すっと俺の体の中に溶け込んだ。
「俺……」
自分の気持ちに気づいた瞬間、俺の目からたくさんの涙がこぼれ落ちた。
そうか、そうなのか。何かしてあげたい気持ち。愛おしく思う気持ち。何も出来ない自分が歯がゆい気持ち。泣きたい気持ち……。これは彼女が好きだから思う気持ちなんだ。
「小春が目を覚ましたら伝えてあげて。きっと喜ぶから」
おばさんはすっと立ち上がった。
「さてと、しばらく入院することになったから、その準備してくるわ。梶山君、小春のそばにいてあげてね」
俺はこくんと頷いた。おばさんは彼女に似た笑顔を見せて病室を後にした。俺は目線を彼女に移した。彼女は何も知らない顔でスヤスヤと眠っている。
「何ぐっすり寝てんだよ。はやく起きろよ、ドジっ子」
俺はぐすっと鳴る鼻で呟いた。