第4話:3日目(1)
「梶山君、大丈夫?」
「え?」
彼女の声で俺ははっとした。
「えっと……?」
「今朝から何だかおかしいですよ?体調が悪いんですか?」
彼女が俺の顔をのぞき込んだ。俺は目の前にある彼女と目があった。しかしぱっと視線をはずした。
「きっと慣れないことしてるから、ちょっと疲れたのかも」
「じゃ、休憩しましょ。私もちょっと疲れちゃいましたから」
彼女は小さく笑って言った。
昨日のユウジの話のせいで、まともに彼女の顔が見れなかった。どうやって彼女に接したらいいのか分からなくなってしまった。今までどうやってきたんだろう、思い出せない。
すると突然、昨日も聞いた携帯電話の音が鳴った。彼女の薬の時間だ。
「あ、もうお昼なんですね。今日もコンビニですか?」
彼女はカバンの中から、小さな弁当と巾着袋を机の上に置いた。あの巾着袋には、幾つもの薬が入っているのだ。それを見た瞬間、俺は急に立ち上がり、机の上のものを片づけた。彼女が不思議そうな顔で俺を見た。
「今日は昼までですか?」
「伊東も片付けて」
「え?」
「課外授業するんだよ」
夏休みの街中は、平日とはいえ人が多かった。お昼時なのでサラリーマンたちが飲食店に列を作っていた。時々、学生らしき若い人たちも歩いている。
「ど、どこに行くんですか?」
彼女は俺に手を引かれている。俺は構わず、ずんずんと人波をかき分けて進む。そしてある喫茶店に入った。
「アイスコーヒーと……伊東は?」
「え? ええーと、レモンティ」
「それください」
俺は財布を出してお金を払った。そして彼女に席を取って待つように言った。彼女は戸惑いながらも俺の言うとおりにした。
2階席のフロアに行くと彼女が手を振った。客は少なく、スーツ姿のサラリーマンと、若いカップルがいた。
「ど、どうしちゃったんですか?」
彼女はぎこちない話し方だった。俺はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「言ったろ? 課外授業だって。行きたいとこあったら言って?」
「行きたいとこ、ですか? で、でも突然……」
「伊東には昨日先生になってもらったから、今日は俺が先生。ただそれだけ」
……実は俺自身、どうしてこんなことをしたのか分からない。教室で薬を見たとき、昨日の話とあの巾着袋が、ぐるぐると頭の中で回っていた。そして気づいたら、彼女の手を引いて街中まで来てしまったのだ。
うわぁ……。俺、とんでもないことしちゃったのか?
「……あそこに行きたいです」
「え? どこ?」
「新しくできた水族館です」
街からいつもの駅前に行き、そこから電車に乗った。新しくできた水族館は4つ目の駅で降りる。
「うわぁ、着いてしまいました」
水族館の入り口ゲートが俺たちを出迎えた。イルカ2頭が向かい合って入り口を作っていた。彼女は目をキラキラさせて水族館の中へと入っていく。俺はチケット売り場で入場券を買った。
「あ、お金払います」
「いいんだって」
俺は入場ゲートの係員にチケットを見せた。
「どうぞお楽しみくださーい」
係員の言葉を背中に受けて、俺は彼女の手を引いた。初めは遠慮していた彼女も、だんだんと雰囲気に馴染み、笑顔を見せるようになった。
「梶山君、イルカショーってありますよ」
チケットと一緒に渡された館内のマップには、午後から始まるイルカショーのタイムスケジュールが書いてあった。するとタイミングよく館内放送が流れた。
『本日午後4時から南の大プールにて、イルカショーを行います』
「4時から……あと30分後ですね」
彼女が携帯電話の時計をみた。
「行く?」
「え、いいんですか?」
「まぁ、水族館に来たら普通は、ショーを見ると思うけど」
「えっ! そうなんですか!」
驚いた彼女はぽつりと、そうなんだ……と感心しているようだった。
俺は、もしかしたら彼女は、今まで水族館に来たことがないのかも……と考えていた。
入っていきなり、大きな水槽に歓喜をあげて、額をぴったりとくっつけて見入っていたし。サメが近づくと驚いて俺の後ろに隠れたし。ガラス張りのトンネルに入れば、
「すごいです!私海の中を歩いてますよ!」
と、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
「もしかしてさ、水族館……初めて?」
南の大プールに着いて聞いてみた。
彼女は、えーと……と口を濁した。
「実はそうなんです。生まれて初めて、なんです」
「生まれて?! へぇ、今どき珍しいね」
「……出かけるなんて、学校と病院しかなかったですから……」
そう言って彼女は肩を落とした。なんとなく重たい空気になってしまった。
あぁ!!俺またやってしまった。本っ当、進歩がねぇんだよな。本当に俺ってバカだ……。
「あ、始まるみたいです!」
会場に音楽が流れ、イルカたちが一斉にプールから飛び跳ねた。観客席からは拍手と黄色い歓声があがった。彼女も一緒になって手を叩いている。とても楽しそうだ。
うん、後悔しても仕方ないよな。次はやらかさないように……。
「す、すごいです!イルカって頭がいいんですねーっ!」
「そうだな。伊東とどっちがいいのかな」
「それは……イルカさんですよ!」
彼女は俺のほうを見てにこっと笑い、またプールのほうへ向いた。
今、彼女は元気に笑っている。
目の前にいる子が心臓の病気だって? そうとはとても思えない。こんなに体全部を動かして喜んでいる。
……もしかしてユウジの奴、俺をからかっただけなのかもしれない。病気なのは確かだけど、そんなに重たいものじゃないのかもしれない。実際、薬は飲むけど、急に倒れたり、苦しそうな態度は全然ないじゃないか。そうだ、気にすることはない。普通でいいんだ……。
そんな言葉が俺をいっぱいにし、俺も彼女と一緒にショーを楽しんだ。そんなイルカショーは、大きな拍手を受けて幕を閉じた。