第3話:2日目
彼女に会って、俺は本当に変わった。
休みの日は、絶対昼過ぎに目が覚めるのに、今日は学校へ行く日と同じ時間に起きた。朝食もちゃんと取り、何もかもが夏休みが始まる前の生活だ。
「行ってきまーす」
俺の行動に母親は目を丸くさせ、少し遅れて、行ってらっしゃい……と軽く手を振った。
7時30分か。ちょーっと早く着きすぎたかな。
いつもは学生がたくさんいる駅前は、夏休みということで、サラリーマンの姿しか見当たらない。俺は駅前のコンビニでパンを買い、ちょっとした広場のベンチに座った。
「こっから歩いても学校まで30分もかからない。うー、勉強する時間が増えるなぁ」
買ったパンを口に運んだ。
「梶山君?」
突然名前を呼ばれたので、口の中のパンが喉につまった。とっさに胸のあたりを叩いた。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫?」
声の主は彼女、伊東小春だった。おろおろとしている。
「大丈夫だよ。ちょっと、つまっただけだから」
俺はゴホンと大きな咳をした。だいぶ苦しさがなくなっていった。
「それにしても……早いですね」
彼女はストンと俺の隣に座った。
「それなら伊東だって早いじゃん」
「あ、私はいつもこの時間なんです」
「えっ! 毎日?」
そう言って俺は後悔した。彼女の顔が一瞬曇ったのだ。
「毎日ってほど通ってないんですけどね」
そうだった。彼女は学校をよく休むんだった。理由は知らないけど、昨日の話とヤマ先生の態度からみて、体が弱いみたいだ。
「……そろそろ行こうか」
「はい!」
「あ、敬語はやめよって言ったよな?」
「! そうでした……って、あれ?」
彼女ははっとして口を抑えた。何だか癖みたいです……と、申し訳なさそうに言った。
「でも、敬語ですけど、別に梶山君のことを友達じゃないって思っているわけじゃないんです!それどころか私はっ……!」
そう言いかけて彼女は黙ってしまった。俺も体が硬直した。心臓だけが元気よく動いていた。しばらくの間、2人の間に妙な空気が流れた。
「い、行こうか」
耐えられなくなった俺は、すたすたと歩き出した。彼女はひょこひょこと俺の後に続いた。2人とも顔を下に向けて、耳まで真っ赤にして。
「おー、来たな」
職員室前に着くとヤマ先生が出迎えてくれた。俺にとっては、いらない出迎えだけど。
「伊東も一緒か。まぁ入れ、入れ」
「失礼しまーす」
職員室に入ると、クーラーからでる風が俺たちを包んだ。
「うお〜、涼しぃ」
「今日は視聴覚室で勉強してくれ。ほれ、鍵」
俺はヤマ先生から鍵を受け取った。
「ラッキー。視聴覚室ってクーラーあるんだよね。もちろん付けていいっすよね?」
「あぁ、構わん。で、これが今日の勉強な」
ヤマ先生は、何枚ものプリントをステープラで止めた冊子を渡した。ペラペラとめくると国語、数学、英語の問題が詰まっていた。枚数にして1教科20枚近くはある。
「……なんすか、これ」
「各先生方に協力してもらったんだよ。数学はわしが作ったからな。この期間中に全部終わらせて、最終日はテストするからな」
「!!! そんなの聞いてないっすよ!」
俺の悲痛な声にヤマ先生は容赦しなかった。
「そりゃそうだ。言ってないからな」
ヤマ先生はガッハッハと大きく笑った。ひそかに彼女も笑っていた。
「伊東が笑わなくてもいいじゃーん」
「何言ってる。はるかにお前より、伊東のほうが点数いいんだからな。はやく取りかからんと終わらんぞ〜」
「失礼しましたッ」
俺はもらったプリントを握りしめて職員室を出た。ぺこりと彼女はヤマ先生に頭を下げた。
「あー……涼しぃ」
ピッとボタンを入れて出てきたのは、冷たい風だった。この広い視聴覚室を冷やすには数十分はかかりそうだ。
「こっちこっち」
彼女がクーラーの風が届かない場所に立っていたので、特等席に座らせた。特等席……風がガンガンに届く場所だ。
「遠くにいたら暑いだけだよ」
俺も特等席に座った。視聴覚室の椅子と机は、横につながっている。なので自然と俺と彼女は、仕切りなしの隣同士に座った。
「じゃ、勉強しよーかな……そう言えば伊東は何するの?」
「あ、私は本読んだり、先生の雑用したり……」
「えっ! そのためだけに来たの? それぐらいなら、わざわざ来なくても」
「学校、好きなんです」
そう言った彼女は笑顔を見せた。しかし、好きと言っているのに、顔は寂しそうだった。彼女はカバンから1冊の本を出した。
俺、また聞いちゃいけないこと聞いたみたいだな。うーん……。
「そうだ! 俺の先生になってよ」
「え?」
突然のお願いに、彼女は手に持っていた本をストンと落とした。何落としてんだよ、と俺はそれを拾い上げた。
「数学、得意なんだろ?他の教科も得意そうだし。あ、でもずっと学校出てないから無理かな」
「ううん、今までなら勉強してたから大丈夫です。やらせてください」
彼女の目がランランと輝いた。俺は嬉しくなった。やっぱり彼女は笑った方が可愛い。
「じゃ、今日から今週、よろしくお願いします」
「はい! こちらこそお願いします」
こうして俺は彼女に勉強を教えてもらうことになった。
「ここのxをこっちに持ってきて……」
「あ、そっかそっか」
勉強を始めて数時間。彼女の教え方は、ヤマ先生よりも分かりやすかった。スラスラとプリントに答えが埋まっていく。
「教え方上手いね」
「そんなことないです! 梶山君の飲み込みが早いから」
「いやいや、そんなことは」
「いえいえ、そんなことあります」
と、俺たちはお互いに謙遜した。途中で彼女がクスクスと笑った。
「俺たち、さっきから何言ってんだろーね」
「本当。でも楽しいですから」
突然、ピリリッと携帯電話が鳴った。聞いたことがない音だったので、俺の呼び出しではなかった。
「ケータイ、呼んでるよ?」
「え、あっ!」
彼女はゴソゴソと携帯電話を取り出した。彼女らしい、薄いピンクの折りたたみ式だった。それによく見ると、どこかで見たことあるようなタイプだ。
「あ、俺と一緒じゃん」ほらっ、とズボンのポケットから銀色の携帯電話を出して見せた。
「わっ、本当だ」
彼女は自分の携帯電話と俺の携帯電話を見比べた。
「これ結構、前の機種だからさ。同じのを持ってる人、初めて見たよ」
彼女はパコッと携帯電話を開き、ピッとボタンを押した。
「そうですね。もうみんな新しいものですよね」
そう言いながら、彼女はまたカバンをあさった。中から小さな巾着袋を出し、そこからパラパラと錠剤を出した。
「薬?」
「あ、はい。さっきの音はタイマーなんです。もうお昼だから薬を飲む時間なんです」
俺は自分の携帯電話の画面を見た。もう昼の1時を過ぎていた。気づけば腹が減っている。それに気づかないほど、俺は集中していたのだ。
「なんか食べよーか。コンビニ行くけど伊東は?」
「あ、私持ってきてるんです」
彼女は小さな弁当を見せた。それはとてもとても、とっても小さい弁当だった。これ弁当じゃねーよ、タッパーだよ。
「そんなんで腹一杯になんの?」
「なりますよ。これでも多いほう」
「これで多い!? 信じられん」
「ふふっ。あ、はやく行かないとコンビニいっぱいになりますよ」
「お、おー」
俺は財布と携帯電話を持って学校近くのコンビニに向かった。
「いらっしゃいませー」
コンビニの中はクーラーが効きすぎていて寒かった。外との温度差のせいで、ますます寒い。
「よぉ、ユウジ」
「おっ! 雪人じゃん……って、どうして制服?」
親友のユウジは、このコンビニでバイトをしている。長いこと働いているのでベテランだ。
「学校で勉強してんだよ。……何食べよっかな」
「勉強!? お前が?」
ユウジが大きな声で叫んだ。店にいた客がジロリと俺たちを睨んだ。
「俺が勉強しちゃあ悪いっての?」
俺は少しむっとした。ユウジが珍しいものを見る目で俺を見た。
「だってお前、全教科赤点なんだろ?」
「そのせいで夏休みに勉強することになったんだよ。……この弁当と……」
「はぁー、ご苦労様」
ユウジはレジに戻り、並んだ客の相手をした。俺は飲み物を探した。
でも、ユウジが思ってるほど、苦労とは思っていない。
確かに勉強は嫌いだけど、貴重な夏休みが無くなるのは嫌だけど、学校へ行くのは楽しみなのだ。
「ユウジ、伊東小春って知ってる?」
「イトウコハル?誰だそれ」
ユウジは俺の弁当を電子レンジに入れた。そして慣れた手つきでレジを操作し、お釣りを渡してくれた。
「同じクラスの奴なんだけど」
「そんな奴いたか?」
ユウジが首を傾げる。まぁ無理もない。俺だって知らなかったんだから。
「知らないならいいんだ。バイト頑張れよ」
ユウジに挨拶をして暑い外へと出た。
「はーっ! 終わったーっ!」
俺はうんっと伸びをした。久しぶりに真剣に勉強をしたような感じがした。
「お疲れ様です」
彼女がぺこっと頭を下げた。
「本っ当ありがと。マジ伊東のおかげ」
彼女は顔を真っ赤にさせ、
「そんなことないです。私も復習になったから良かったです」
と、照れ隠しをした。ちょうどいいタイミングでチャイムが鳴った。時計は午後5時を指していた。
「もう5時か。昨日のところまで送るよ」
「い、いえ。今日は寄るところがあるので……」
「あ、そうなんだ」
「はい。ごめんなさい、せっかく声かけてもらって」
「いいのいいの。別に約束してたわけじゃないしね。気にしないで」
俺と彼女は視聴覚室を出て、職員室へ鍵を返した。ヤマ先生に一言あいさつをしようと思ったが、クラブで忙しいらしく姿が見えなかった。
「そう言えば大会が近いって言ってました」
ヤマ先生は数学教師でありながらバスケット部の顧問をしている。何でも大学時代のとき、バスケット大会で何度も優勝したことがあるそうだ。
「ま、いいや。帰ろ」
俺たちは職員室を出て靴箱へと向かった。
「じゃ、また明日な。今日と同じ時間でいい?」
「あ、私はいいですけど、梶山君はいいんですか?」
「あーうん、平気。早起きもいいもんだよ」
「だったら……また明日」
彼女はぺこっと頭を下げて学校を出ていった。俺はその姿を見送った。
「あらぁ、あの子はどなたなのぉ?」
「!!!」
急にネチネチした声が聞こえ、俺は振り向いた。声の主はユウジだった。
「なんだ、その声。気持ち悪い」
「あらっあらあら。親友のことを待っていたのに、なんてヒドイお言葉」
ユウジは泣き真似をした。いつものことなので俺は無視した。
「無視しないでくれよ、マジ寂しい感じするし」
「だったら、変な言葉使いはやめるんだな。で? 何で待ってたんだよ?」
「うん。まあ立ち話もなんだから、いつものとこ行こうぜ」
いつものところ。そこは駅前にあるファーストフード店だ。よく俺たちはここに集まって話をする。いわゆる、溜まり場ってやつだ。
「で? なんだよ?」
「急いじゃイヤン」
「だーかーらー!」
「先にさっきの子、誰なんだよ?」
ユウジがずずっとジュースを飲んだ。ユウジはオレンジジュースが大好きな少年だ。
「あの子は……」
「彼女?」
ユウジの言葉に、口に含んでいたジュースが吹き出てしまった。
「うわっ! きたねぇ」
「お、お前が変なこと言うからだろ!」
紙の布巾を多めにとって汚れた場所を丁寧に拭いた。
「だって端から見たら、完璧に彼氏彼女に見えたよ。ん? もしかして、ユキトくんの片思い?」
「ばっ!ちげーよっ」
「あら。だったら女の子の片思いかな? でも俺には両思いに見えたけど?」
ニヤニヤしながらユウジはポテトを食べた。完全に遊ばれてる。なんとか話題を変えなくては。
「もういいだろ。そっちの番!」
「えー、もう少し聞きたいなぁ」
俺はキッとユウジを睨んだ。お〜怖っ、とユウジは首を引っ込めた。
「えっと今日の昼間の話なんだけど。伊東小春だったっけ。俺さ、知らないって言ったけど、なーんか気になって。バイト終わってクラスの奴に聞いたんだよ。そしたらそいつ、家が近いからよく知っててさ。あ、本当に同じクラスなんだな、その子」
俺はドキドキしながらユウジの話を聞いた。やっぱり覚えてるやつはいるんだ。ユウジはパクパクと数本のポテトを口に運んだ。
「その子、小さい頃から心臓が弱くて、入退院を繰り返してたんだって」
「心臓が……」
俺はびくっと体を震わせた。ヤマ先生が言ってた『事情』はこのことだったのだ。
「でも小学校、中学校は何とか学校に行けて、成績も優秀で無事卒業出来たんだと」
ユウジはまた、ずずっと音を立ててジュースを飲んだ。
「俺らの高校にも受かって、順調にいってたんだけど……。去年の春ぐらいからおかしくなったんだって」
「おかしく?」
「発作はよく出てたらしいんだけど、その頃から発作が激しくて、入院する期間が増えたんだと。そしたらさ、学校に行けなくなるじゃん?なんとか2年までは、出席数ギリギリだったみたいだけど……」
ユウジが少し声のトーンを落とした。
「3年は今の時点で出席数が足らないんだって」
「足らない?ってことは……」
「卒業出来ない。留年ってこと」
留年……。俺は愕然とした。あんなに頭が良くて優しい子が留年なんて。信じられない。
「俺、雪人が言わなかったらその子の存在、知らないままだったよ。なんか、あれだよな。同じクラスなのにさ。きっと知ってる奴なんていないと思う」
ユウジが寂しそうな顔をした。
俺はユウジの話を聞いて、彼女のことを思い出していた。
学校が好きだと言った彼女。
寂しそうな顔をする彼女。
薬をたくさん、何種類も飲む彼女。
そして……笑った彼女。
たった2日しか会っていないというのに、随分と前から友達だったような感覚だ。それぐらい、彼女との2日間は大切な時間だったんだ。
「それにしても雪人、よく知ってたな?」
「……あの子なんだ。伊東小春って」
「あの子って、今日お前と一緒にいた?」
俺はこくんと頷いた。
「……そっか」
ユウジはそれ以上何も話さなかった。俺も何も話さなかった。
……いや、話せなかったのだ。頭が混乱し、何も考えられない。
何も考えられない。
足下から、確かにそこにあった幸せが、音を立てて崩れていった。