第2話:1日目
「伊東小春?お前クラスメイトの名前も覚えてないのか」
ヤマ先生が呆れた顔で言った。
今夏休み真っ最中。なのに俺は真面目に学校に来ている。今日から1週間、みっちり勉強をするためだ。本当はサボりたくて仕方がなかったけれど、朝から母親の猛攻撃に遭い、しぶしぶ学校に来た。そして今、教室でヤマ先生に勉強を教えてもらっているのだ。
「いくら俺だってクラスの奴らは覚えてますって」
俺はむっとして答えた。
ヤマ先生はガハハと豪快に笑った。俺は昨日、机に入っていたテストの答案用紙をヤマ先生に見せた。ピンクの封筒に入っていたのは秘密にした。ヤマ先生の性格からして、面白がって俺で遊ぶだろう。それに伊東って子の立場を考えても、打ち明けないほうがいいと思った。ヤマ先生には、間違えて入っていたと伝えた。
「そうだな、伊東は滅多に学校に来ないからな」
「え、じゃあ本当に同じクラスの?」
「そうだ。お前達のクラスメイトだ。ちょっとした事情があって、学校を休みがちなんだがな。そうだな、このクラスになって始めの頃は来ていたんだがな」
「そうなんですか……」
俺は初日のころを思い出してみた。けれど伊東小春……なんて子は、やっぱり分からなかった。かわりに頭に浮かんだのは、親友ユウジの寒いギャグだった。
確かあいつ、自己紹介で寒いギャグを連発してたんだよな。「あ、そういえば今日から伊東が登校してくるんだ」
「え? 登校?」
思い出から急に現実に戻った。
「なんで? 今夏休み……あ!」
ピーンッと俺の頭が閃いた。今日の俺は冴えてるぞ!
「あれでしょ? 俺のお仲間なんですよね? 学校休んでんだもん、テストは赤点で間違いないっす!」
「ばーか、お前と一緒にするな。だいたいこのテスト見たら分かるだろ」
ヤマ先生はひらひらと俺の目の前に、伊東小春のテストをちらつかせた。ま、まぁ確かに、数学98点を取るやつは赤点なんてないんだろう。じゃあ、どうして学校に?
「ま、お前は自分のことだけ考えろ。このプリントが出来たら持って来いよ」
ヤマ先生はびっしりと問題が詰まっているプリントを俺に渡した。白い紙のはずなのに、なんだか黒い紙に見える。
「これが終わったら帰っていいっすか?」
「何言ってる。終わったら休憩だ。まだまだあるんだからな」
ぐへっ。鬼だ、鬼。ヤマ先生はニヤリと笑い教室を出て行った。
「きっと雑用とかもやることになるんだろーな……」
今日職員室に行ったとき、ヤマ先生の机の上には、大量のプリントがあった。何気なくプリントのことを聞くと、
「これは後で整理させるもんなんだ」
とヤマ先生は答えた。『させるもん』……俺にやらせるつもりなんだ。
「ちっくしょー、ヤマ先生め……」
そう呟いたとき、教室のドアが開いた。俺はヤマ先生が入ってきたと思い、
「ご、ごめんなさい!」
と頭を下げた。
「え、えっと……」
「???」
頭を上げると教室に入ってきたのは、なんと昨日教室にいた女の子だった。彼女は困ったような顔をしていた。
「ごめんなさい……? それって……」
「あ、い、いや」
「わ、分かりました。そうですよね、断って当たり前ですよね」
「は?」
何を言っているんだ、この子。まるで話が見えない。俺は彼女を落ち着かせようとした。
「あのね、俺先生と君を間違えて」
「いいえ、いいんです。分かってたことなんです。私がフラれることは……」
彼女はますます分からない話をしている。フラれる? 断って?……ぐるぐると頭の中に、つながらない言葉が回った。
「ま、まって! フラれるって君、フラれたの? 誰に?」
「!!……何言ってるんですか? 今さっき私にごめんなさいって言ったじゃないですか!」
「今のごめんは、君とヤマ先生を間違えたんだよ。てっきりヤマ先生だと思ってたから」
「あ、そ、そうなんですか」
彼女は顔を真っ赤にして俯いた。サラッと肩までの髪の毛が、彼女の顔を隠した。
「……あ、えっと君は?」
彼女ははっとして顔を上げた。頬が林檎のように赤かった。
「わ、私、伊東小春です。……知らないかもしれないんですけど、同じクラスなんですよ」
「あっ……!」
伊東小春。君がそうだったのか。俺はヤマ先生の話を思い出した。ー事情で学校を休みがちなクラスメイト……。そうか、君が……。
「そう言えば、昨日教室にいたよね? 何してたの?」
「えっ! えっと、手紙……」
「手紙?」
「はい。手紙、読んでないですか?」
手紙? そんなもの……あ。
「もしかして、これ?」
俺は昨日の答案用紙を渡した。受け取った彼女の顔が、だんだんと青ざめていった。
「手紙はなかったけど、封筒に入ってたよ?」
「あ、あ……」
「えーっと、大丈夫?」
「……」
彼女は言葉が出ないらしく急に話さなくなった。相当落ち込んでいるみたいだ。
「ま、まぁ間違えることはよくあるよ、うん」
「……」
「俺だって違う教科書を広げたりするし」
「……」
……俺、何必死でフォローしてんだ?しかもフォローになってないような?だ、大丈夫かな、この子。
「伊東さん?」
俺が彼女の名前を呼ぶと、それを合図に彼女の体がふっと後ろに倒れてしまった。ガタガタッと机がぶつかり合い、床をこする音も響いた。
「伊東さん!?」
びっくりした俺は、彼女を抱えて、勢いよく教室を飛び出した。
スースー……。
彼女の寝息が聞こえる。
ここは保健室。夏休みなので保健の先生はいなかったが、他の先生に事情を話し、保健室を開けてもらった。
「えっと山口先生の生徒さんね?山口先生に伝えておくから」
「あ、お願いしまーす」
俺はぺこりと頭を下げた。そして寝ている彼女の側にあるイスに座った。
「……やっぱりドジっ子なんだ」
昨日のドアといい、今日の倒れ方といい、漫画に出てきそうなくらい見事なものだった。
「頭打ってないといいけど」
「……ん」
彼女がゆっくりと目を開けた。ドジっ子のお目覚めだ。
「ここは?」
「ここは保健室だよ」
「!! か、梶山君!? どうしてここに」
「伊東さん、急に倒れちゃってさ。保健室に運んだんだよ。覚えてない?」
彼女はしばらく考え、あっ!と、小さく呟いた。そして深々と頭を下げた。
「本っ当にごめんなさい! 私って小さいころから人に迷惑かけてばっかりで……。本当にごめんなさい」
「い、いや、そんなに謝ることないよ。びっくりはしたけど」
「……ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで嬉しいです」
彼女はニコリと笑った。口元には小さなえくぼが見えた。自然と、あの可愛い唇に目がいった。
「いやいやいや。俺何見て……」
「どうかしたんですか?」
きょとんとした彼女。俺は何でもない、と頭を振った。ちょっとクラクラした。
「あ、あの」
「え、何?」
彼女が言いづらそうな顔をしていた。掛け布団をぎゅっと握りしめている。
「あのテストのことなんですけど」
「あ、あぁ」
「私本当はテストじゃなくて、私の気持ちを渡したかったんです」
元々、小柄な彼女がますます小さく見えた。肩がかすかに震え、瞳にはうるうると涙が溜まっていた。
今さら言わなくても、俺には彼女が何を伝えたいのか、それぐらい簡単に分かっていた。しかし俺は黙って彼女の言葉を待った。彼女の口から直接聞きたかった。何故なら俺は、今まで『愛の告白』を受けたことがなかったのだ。
「わ、私……」
彼女の言葉に反応して、ごくんと唾を飲み込んだ。手に汗が流れた。喉がカラカラで、体温がどんどん上がっていく。心臓が壊れそうなくらい、鼓動を打っている……。俺は、今まさに、初体験をしているのだ。
「私、梶山君のことっ!!」
きたーっっ!!
俺の体温が限界点を突破したとき、保健室のドアが急に開いた。続いて、どたどたと騒がしい足音が入ってきた。
「伊東! 大丈夫かっ!?」
振り返るとヤマ先生が汗びっしょりの顔で立っていた。俺と彼女は目を丸くしてヤマ先生を見た。
「せ、先生……」
「今日は特に暑いからな。やっぱり無理させるんじゃなかったな……ってあれ、梶山? 何でこんなとこに?」
ヤマ先生は、ぶすっとした顔の俺を見つけた。何で? 俺が運んだんでしょーが!!……そう言おうとしたとき、彼女が説明をしてくれた。
「先生、梶山君がここまで運んでくれたんです」
「そうなのか、そりゃ悪かった。ありがとな」
「いえ、別に」
「なーに、ふくれてんだ? あ?」
「何でもないっす」
俺とヤマ先生の会話に、彼女がクスクスと笑った。
「あ、伊東さん、後ろ頭大丈夫? 強くは打ってないから、大丈夫だと思うけど……」
彼女は自分の後ろ頭をさすった。ヤマ先生が心配そうな顔をした。
「ちょっとたんこぶが出来てるかも」
と、彼女は小さく笑った。
「伊東、もう帰れ。体調が良くなってから来ればいいから」
「あ、私はもう大丈夫です。別に発作で倒れたわけじゃないんです。明日から学校行きます」
「そうか? まぁ無理だけはするなよ?」
こくんと彼女は頷いた。ヤマ先生は、よしっ……と両手をパチンと叩いた。
「梶山、お前はもういいから伊東を送ってくれ。また倒れたら大変だ」
「えっ。じゃあプリントは……」
「明日にまわす。明日やれ」
はぁ……そう上手くいかないですね。俺は肩をがっくりと落とした。彼女はまたクスクスと笑った。ヤマ先生は、これから会議が始まるようで、俺によろしくな、と一言だけ残して出ていった。
「……さてと、どうしようか。すぐ帰る? それともまだ休む?」
「今日は……帰ります」
彼女はにこっと笑って掛け布団から体を出した。俺はさっきの告白を期待していたので、ちょっと残念だった。
ま、空気も途切れちゃったし無理ないな。……でも俺、何て答えるつもりだったんだ?
「分からん」
「え?」
「あ、いや独り言。えっと、カバンは教室?」
「あ、はい。多分倒れたときに落としたと思うので」
「俺取ってくるから、靴箱で待ってて」
軽く彼女に手を振って保健室を出た。
「これだよね?」
俺は彼女にカバンを渡した。
「ありがとうございます」
と、彼女は会釈した。
「どうやって帰るの?」
「駅前からバスに乗るんです」
「あ、俺も駅前からバスに乗るよ。じゃ駅までな」
俺たちは2人並んで学校を後にした。
2人で歩き出して数十分が経った。会話が弾まず、俺は1人パニックになっていた。よく考えたら俺ってば、女の子と2人っきりは生まれて初めてだった。
「ご、ごめんな」
謝った俺に彼女はびっくりした顔をした。
「俺何もしゃべれなくて。いつもは違うんだ。ユウジ達といるときはしゃべれるんだけど。何だか緊張しちゃって」
「わ、私もなんです。私も緊張して……。男の人と一緒って初めてだから」
「そ、そっか」
俺はちょっぴり嬉しくなった。彼女も自分と同じことを思っていたことに。そうと分かると、今までカチカチだった心と体が解けだし、ぺらぺらと話が出来るようになった。彼女はうんうんと頷き、笑ってくれた。いつの間にか、彼女が笑ってくれることに嬉しさを感じるようになった。
「あ、俺5番乗り場」
あっという間に駅に着いた。
「私は10番なんで。じゃ、ここで」
彼女がぺこっと頭を下げ、バス停へ歩き出した。
「あ、あのさ!」
俺は彼女を呼び止めた。
「あの、気になってたんだけど敬語やめない? 俺ら同級生だしさ」
「あ……うん」
彼女は頷き、また頬を赤く染めた。
「じゃ、じゃあまた明日な」
「うん、また明日!」
彼女はバス停のほうへ走っていった。途中、何もないところで躓いた。俺はひやっとして、彼女のもとへ駆け寄ろとした。しかし彼女は、バランスを取り、こけることはなかった。俺のほうへ振り返って、手を振った。自分は大丈夫だ……と伝えているのだろう。
「ドジっ子……」
俺はぷっと笑った。そして手を振りかえし、5番乗り場に向かった。
また明日……か。
俺は揺らぐバスの中で考えていた。あんなに学校に行くのが憂鬱だったのに、伊東小春が現れてすっかり変わってしまった。
「伊東……小春」
俺はゆっくりと目を閉じ、明日を夢見るため眠りについた。