焦る彼らの旅路2
「毬夜。さっそくだが、すぐに帝国へ帰還したい。兵の指揮を頼む」
「その事ですが、もうしばらくの間このカナーン公国に滞在していただけないでしょうか?」
毬夜の言葉に一同の空気が緊張する。今まで散々待たされて、この上なぜまだ待たなければいけないのか。誰もがそう思っていたはずだ。
「どうしてなのだ?」
「櫂柚の残した血判状を元に反対派を一掃したのですが、担当した武官が暴走して、反対派の一族路頭や召使いまで殺してしまったのです。あまりに過酷な仕打ちに中立を保っていた人々まで反対派に同情し、エドガー殿下への風当たりが厳しくなってしましました。今殿下が帝国に帰れば彼らを刺激し、また第2の反対派を作りかねません」
エドは苦痛の表情を浮かべていた。エドは何も悪い事はしていないのに、不幸のしわ寄せが全部エドに向かっていく。私も悔しくて仕方がない。
「また帝国のお家騒動か! これ以上俺たちを巻き込むな」
アルは苛立たしげにそう叫んだかと思うと、部屋を出て行ってしまった。残された部屋の中でそれまで空気のように存在感を殺していたジルがぽつりと呟いた。
「まるで私達が帝国に行く事を、神が阻んでおられるようですね」
神というなら、今ここにいる私だってこの世界の神だ。でももしかしたら私達の運命を弄ぶ神が他にいるのかもしれない。そう思い始めていた。
結局その日は出立できず、夜の晩餐になった。カナーン公国の王は帝国に友好的で、いくらでも滞在してかまわないと実に太っ腹だった。
まだ30そこそこの若い王様だから腹は出てないけどね。
「ジル! お話し聞かせて〜」
「はい、殿下」
ジルに可愛く声をかけてきたのは、王の長子、王太子殿下だ。まだ9才の愛らしい少年は将来が楽しみな美貌だった。話し上手なジルになついていて、世界中の色んな話を聞きたがるのだ。
カナーン国王は本気でジルにこの国にとどまらないかと、打診した事もあったがジルは断った。時期王候補の王太子のお気に入りなら、相当好条件だと思うんだけどね。
「帝国とカナーン公国の未来に乾杯だ」
カナーン国王は上機嫌に何度目かわからない乾杯を始める。エドが愛想笑いを浮かべながら、カナーン国王の杯に自分の杯をぶつけた時だった。
杯が重力の法則にしたがって床に転がり落ちた。カナーン国王が酔って取り落としたわけではない。国王自身が突然消えていなくなったのだ。
一瞬部屋中が静まりかえる。事情がわからぬ王太子が王のいた場所を凝視したまま呟いた。
「ちちうえ……」
その小さな呟きから堰を切ったように、カナーン公国人たちが国王の名を叫び混乱し始めた。私達も青ざめて空の玉座を眺める事しかできなかった。
カナーン国王は消えたのだ。大災害の被害にあって。
一国の王が消失するという事は大災害の被害でも今まで例の無い出来事だった。余波は多岐にわたる。王の決済した書類の消失による政治的混乱、混乱した国を纏める指導者の不在。そして一番の問題は後継者争いだった。
本来であれば王位継承権1番は王太子だが、9才の子供にこの混乱した事態を収める能力はない。王弟や王の伯父達が見苦しく骨肉の争いを始めた。王太子が成人するまでの暫定的な王なのか、それとも王権が王太子の手に渡ることなく変わってしまうのか。
臣下も誰が王になるべきか、どう対処するべきか、意見が分かれて争いあっていた。
もはや彼らに私達の面倒を見ている余裕はなかった。
「毬夜。もはやこの国にこれ以上留まり続ける事は出来ないだろう。それにこのような被害を食い止めるためにも、早く大災害を解決しなければいけない」
エドのその言葉に今度こそ毬夜は反対しなかった。カナーン公国におこった出来事は他人事では済ませられない大問題だった。
1国を揺るがすような消失。帝国に友好的だった国王がいなく立った事で、帝国との外交問題は大きく後退するかもしれない。
1国の問題が周辺諸国に与える影響は表現するのも難しいほど大きなものだった。
出立の時は静かな物だった。カナーン公国の人々は見送りをする余裕もなく、帝国兵達は感謝の言葉さえ述べる事もできずに静かに出立の準備を進めていた。
そこへただ一人やってきた小さなカナーン人がいた。
「ジル!」
「王太子様」
泣きそうな顔でジルにしがみつくとジルの顔を見上げながら、言葉を続けた。
「また会える?」
幼い子供の悲壮な願いにジルは苦しげに首を横に振った。ジルが帝国に行ったら、二度と国外に出られなくなる。そういう条件なのだ。王太子が帝国内に入る事も難しいだろう。
父親を急に失って、心細い想いをしている少年を残していくのは、心苦しい思いだったに違いない。それでもジルは帝国行きを止めなかった。
「私にはやらなければいけない事があります。王太子様は王太子様が出来る事をなさってください。きっと味方はいるはずです」
幼い子供には少々難しい問いかけを残して、ジルは馬車へと乗り込んだ。馬車の窓から名残惜しげにカナーン公国を見続けながら、ジルはいつもの余裕のある笑顔ではなく、憂い顔をしていた。