星の器
その茶碗は、星空を内に注ぎ込んだかのようだった。黒い器で内側に星のような斑点が散らばっている。斑点のまわりは、ぼおっと発光するかような青色になっていて、見る角度を変えると玉虫色に輝くのだった。幻想的な異世界が器の底にむかって流れ収斂していく、そんな不思議な茶器がある。
曜変天目。その特異な模様の器は、世に三つしかない。つくり方が伝わっておらず、いまだに再現できた者はいない。昔、中国で作られていたというが、三つともすべて日本にある。なぜ中国に残されていないかは定かではない。
その中の一つは、三菱財閥の三代目総帥、岩崎弥三郎が所有している。自慢の茶器であるけれども、一度としてそれを茶室で使ったことはない。それはかつて徳川が所蔵していたもので、弥三郎は畏れ多いといって決して使おうとはしない。彼の次男博弥はそれが不服であった。
博弥は、小さい頃からその茶碗にひどく魅せられていた。その模様はいくら見ていても飽きなかった。だが弥三郎はその茶器を厳重な金庫に入れていて、割られてはこまると博弥に容易には見せなかった。父が客人にそれを披露する時は、家政婦から奪ったお茶なぞをうやうやしく持って行っては、父の背中ごしに盗み見るのが常だった。
『あの器でお茶を飲んだらどんな味がするだろうか』
その願望は、博弥の心に深く根ざして離れなかった。
博弥は事業の方には興味がもてなかった。自分が次男坊であることに甘えて、油絵ばかり描いていた。彼が絵を描くのは、その鋭い感受性のためばかりではなかった。目標は、やはりあの茶碗だった。曜変天目の美しさをキャンバスの上に再現すること、それが博弥の目標だった。いや、呪いといったほうが適当かもしれない。
帝大を卒業すると、彼は洋行に出された。
「絵を描くのもいいが、しっかりと勉強してこい」
弥三郎は何度も念を押した。しかし、博弥は向こうでもキャンバスにむかってばかりいた。文化人や芸術家が集まるサロンに入り浸ってばかりいた。
博弥は、留学仲間の八木と肩を組んで、洋風の洒落た形の街灯を浴びながら、よろよろと千鳥足で歩いている。夕暮れ時に降ったとおり雨がまだ乾いておらず、石畳はつややかに濡れていた。道の両側に居並ぶ西洋建築が、酔った二人を静かに見下ろしている。
「まったく、日本って国はまだまだだなぁ。全然、西洋の足元にも、およびやしねぇや」
八木は顔を真っ赤にさせて、言った。
「これからさ。これから、俺たちが発展させるのさ」
「そうか、そりゃいいや」
二人は、陽気にバカ笑いをした。そばで寝ていた浮浪者が、二人を睨んで、「黙れ猿ども」と罵った。
「夜空と街灯の光がきれいだなぁ。前にみた、ヴァン・ゴー(ゴッホ)の絵を思い出すなぁ」
八木が目を細めて言った。
「たしかに、あの絵はきれいだった」
「あのぐるぐるした糸杉の絵は、貴様の家の、あの器に似てるんじゃないか?」
「うむ、感じは似ているかもしれん」
「俺も、その茶碗をぜひ見てみたいな。ヴァン・ゴーとその茶碗、どっちの方がきれいだね?」
「あの器に決まってるだろ。曜変天目をその目で見たら、お前はきっと腰抜かすぞ」
「へへっ、ずいぶんじゃないか。天下の岩崎家ご自慢のお宝だからといって、そんなに言って大丈夫かい」
「あの器より、美しいものはない。僕は断言しよう。たしかに、ここでは優れたものがたくさんある。先進国バンザイだ。でもな、八木、日本には、日本の優れたものもあるってことを忘れちゃいけないぜ。もちろん、ここで僕たちは、おおいに勉強しよう。おおいに学ぼう。だが、僕たちは、どこまでいっても日本人だ。わかったか、この西洋かぶれめ」
「うるせぇや」
二人は笑いながら下宿に帰っていった。
下宿のアトリエで、博弥はパレットの絵の具を混ぜていた。青色の絵の具を調合してみたが、思い通りの色には、なかなかならなかった。彼の頭の中には、曜変天目の星模様が、激しく煌めきながら流れている。違う、この色ではない。
窓から差し込む午後の日が、イーゼルの木目をやさしく浮き上がらせていた。家主が飼っている長毛の猫が、部屋の隅で丸まっている。
身の回りの世話をしてくれているユダヤ人の老婆が、紅茶とともに博弥宛ての手紙をもってきた。それを読んで、博弥は呆然とした。
兄の弥太彦が腸チフスで死んだ。
博弥は、船に飛び乗った。船底の三等室しかとれなかったから、彼は長い間をデッキの上で過ごした。鞄に放り込んできた本を手に取っても、文字は頭に入らず潮風に吹かれた。ほとんどの時間を海を眺めてすごしたが、瞳の焦点はあっていなかった。美しいと名高い紅海を通っても、博弥の心は動かなかった。
船の中央にそそり立つワインレッドの煙突はとめどなく煙を吐いて、遠くかすかに見える陸地はゆっくりと後ろにひかれていった。海は、博弥に素知らぬ顔で穏やかだった。
博弥は、呑気に道楽ばかりをしていられなくなった。彼は、今や、三菱財閥の次期総帥なのだ。生活は、会談やら視察やらの堅苦しい仕事が津波のように押し寄せて、のまれてしまった。おのずと、芸術からは遠のいた。
数年後、博弥は総帥の地位を継いだ。そのころには、博弥の鼻の下に立派な髭が生えていた。
父は隠居生活に入ったが、曜変天目の金庫の鍵は、博弥に渡さなかった。年甲斐もなく執着させる魅力が、その茶器にはある。
二年後、先代岩崎弥三郎は、脳溢血のために死んだ。
彼の死は新聞の一面を飾り、葬式には経済人やら政治家やら相当な顔ぶれが揃った。幾多の企業の社長が集まり、焼香の列は長々とのびた。
博弥は喪主として祭壇の横に座して、参列者たちに頭を下げた。父の衰えは目に見えて殊更だったので、彼の心に動揺はあまりなかった。苦しまずに逝けてよかったな、と思った。
盛大な葬式を終えて、棺の前でぼんやりと立ち尽くしていると、母親が話しかけてきた。
「お父様からお預かりしていたのですよ」
そう言って、母は金庫の鍵を博弥に手渡した。
「せっかく、こうして家族が集まっていることだから、弔いに、あの器でお茶を飲み交わしましょうよ」
彼は鍵を握りしめて、頷いた。
翌々日、岩崎一族は所有の日本庭園に集まった。
優雅に配置された草木はきれいに刈られて、庭園は完璧と思えるほどの調和に満ちていた。都心とは思われぬほど静かで、岩石や築山はかしこまって岩崎の者たちを出迎えた。池では、鴨たちが深緑の羽毛をふるわせて、気ままに戯れていた。中の島の松の上で屹立している白鷺は、じっと動かずに、まるで作り物のようだ。
博弥は、器の入った桐箱を抱えていた。金庫の中から出したまま、まだ中は見ていない。久しぶりに拝む、その姿はどんなものだろうか。彼の心拍は、少しはやい。
彼らは庭の奥に構える庵に入って、畳の上に円をえがいて座した。
上座に座る博弥は、桐箱の蓋をそっと持ち上げた。器は紫色の布に包まれている。慎重に取り上げる。手にするのは、はじめてかもしれない。
畳の上において、包む布をといていく。紫の布は花のようにひらいて、博弥のまえに、小さな宇宙があらわれた。
たちまち、その美しさは器の底から激流のように溢れ出して、博弥をすっぽり飲み込んでしまった。彼はその美の奔流に漂いながら、安堵した。この器の美しさは、決して衰えてはいなかった。記憶のなかで、過大に膨らましてはいなかった。いや、それ以上だった!
書類の山と、かしこまった男たちの黒い背広、沈んだ色あいの退屈なビルディング。ひさしく、博弥を取り囲んでいたのはそれだった。
そうだ、これが美なのだ。これこそが美なのだ!
一族の者、全員がその美しさに嘆息した。博弥の子供たちは見るのが生まれてはじめてで、興味深そうに覗き込んだ。
博弥は器を母に手渡した。
シャッシャッと、こぎみよく湯をかく茶筅の音が、部屋じゅうを響いた。みなが静かに、茶をたてる先代夫人の姿を見守っている。
夫人は、博弥の前に茶碗をそっとおいた。豊かな抹茶のかおりが、彼の鼻腔をくすぐった。両手で器を持ち上げる。その手はかすかに震えて、博弥は恐る恐る器に口をつけた。




