第9話 初めての買い出しデート
『食堂 陽だまり亭』の朝は早い。
けれど、今日の私は開店前から頭を抱えていた。
「……ない。全然ない」
厨房の貯蔵庫を開け放ち、私は呆然と立ち尽くす。
昨日、クラウス様が持ち込んだバイソン肉はまだある。けれど、付け合わせの野菜、パンを焼くための小麦粉、そしてスープ用の調味料が文字通り空っぽだったのだ。
原因は明らかだ。
ここ数日、騎士団の皆様がイナゴの大群のごとく押し寄せたからである。
「あの方たち、どれだけ食べるのよ……」
嬉しい悲鳴だけれど、これではランチ営業ができない。
私は急いで身支度を整え、大きな買い物カゴを手に取った。開店時間まであと二時間。急いで市場へ行けば間に合うはずだ。
ガチャリ、と裏口の鍵を開け、外に出ようとしたその時。
「……どこへ行く」
「ひゃっ!?」
心臓が止まるかと思った。
扉を開けた目の前に、黒い壁――もとい、クラウス様が立っていたのだ。
まだ朝靄が残る早朝だというのに、彼はすでに漆黒の騎士服を完璧に着こなし、腕を組んで仁王立ちしている。
「ク、クラウス様? どうされたんですか、こんな朝早くに」
「……散歩だ」
嘘だ。あなたの騎士団の寮、ここから反対方向ですよね?
明らかに開店待ちをしていただろう彼に、私は苦笑しつつ事情を説明した。
「実は食材が底をついてしまって。これから市場へ買い出しに行くところなんです」
「一人でか?」
「ええ、まあ」
彼の眉間の皺が深くなった。
アイスブルーの瞳が、私の華奢な腕と大きな買い物カゴを行き来する。
「……待て。俺が行く」
「えっ? いえいえ、騎士団長様に荷物持ちなんてさせられませんよ!」
「ノースガルドの市場は朝が一番混雑する。スリも多いし、足場も悪い。お前のような……小さくて脆そうな女が一人で行けば押し潰されるぞ」
「誰が脆いですか、誰が」
失礼なことをサラリと言う。
でも、彼は私の反論を聞かずにカゴをひょいと奪い取ってしまった。
「護衛だ。……それに俺の昼飯の材料がかかっているからな」
彼はそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまった。あの背中、相変わらず「拒否権なし」と語っている。
私はため息をつきつつ、慌てて彼の隣に並んだ。
***
市場はクラウス様の言葉通り凄まじい熱気に包まれていた。
所狭しと並ぶ露店、呼び込みの声、焚き火の匂い。
「安いよ安いよ! 今朝あがったばかりの氷河魚だよ!」
「こっちの根菜は甘いぞー!」
活気があるのは良いことだけど、小柄な私は確かに埋もれてしまいそうだ。
けれど――。
「……あ、おい見ろ。あれ、『氷の騎士団長』だ」
「ヒェッ……こっちに来るぞ。目を合わせるなよ」
「なんて冷たい目だ。斬り殺されそうだ……」
私たちの進行方向だけ、海が割れるように人が避けていく。
賑やかだった周囲の声も、クラウス様が通るとスッと波が引くように静まり返るのだ。人々は怯え、遠巻きに彼を見つめている。
(……そうか。彼は、恐れられているんだった)
私の店では、ただの「不器用な食いしん坊」だけれど、世間一般では「冷酷無比な北の魔王」なのだ。
隣を歩くクラウス様を見上げる。
彼は周囲の怯える視線に気づいているはずなのに、表情一つ変えず、前だけを見据えていた。
その横顔が、なぜだかとても寂しげに見えて、胸がチクリと痛んだ。
「……クラウス様」
「ん?」
「あの、手。繋いでもいいですか?」
「はっ!?」
彼は立ち止まり、目を見開いて私を見た。
氷のような瞳が大きく揺れている。
「な、何を……」
「だって、はぐれちゃいそうですから。人混み、すごいですし」
私は努めて明るく言い、返事を待たずに彼の空いている左手の袖口をキュッと掴んだ。
分厚い革手袋越しの感触。
彼は一瞬、ビクリと体を強張らせたけれど、振り払うことはしなかった。それどころか、少し躊躇った後、不器用な手つきで私の手をしっかりと握り返してくれたのだ。
「……離れるなよ」
ボソリと呟く声は低いけれど、もう冷たくはなかった。革手袋越しに伝わってくる彼の体温が、想像以上に温かい。
(なんだ。全然『氷』なんかじゃないじゃない)
その時、ふと彼が足を止めた。
視線の先には、小さな装飾品の露店があった。
「……これを」
彼が指差したのは、雪の結晶を模した小さな銀の髪飾りだった。安価なものだけれど、繊細な細工が施されていて美しい。
「これ、どうしたんですか?」
「……代金の代わりだ。昨日のステーキの」
彼は店主に硬貨を投げ渡し、その髪飾りを私の手に強引に握らせた。
「お前の髪に……似合うと思ったんだ。……いや、なんでもない。行くぞ」
彼は早口でまくし立てると、耳まで真っ赤にして顔を背けてしまった。繋いだ手からは、彼の動揺が脈打つように伝わってくる。
私の胸の奥で、カアッ、と熱いものが込み上げてきた。
なにこれ。
ただの買い出しなのに。
周囲から恐れられる彼が、こんなに不器用で、可愛くて、温かいなんて。
(……ずるいなあ)
私は握られた手に力を込めた。
手の中にある銀の髪飾りが市場のどんな宝石よりも輝いて見えた。
「ありがとうございます、クラウス様。……毎日、つけますね」
私が小声で伝えると、彼は何も答えなかったけれど、繋いだ手をさらに強く握りしめてくれた。
市場の喧騒の中、私たち二人だけの世界がそこにあった。




