表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/45

第9話 初めての買い出しデート

『食堂 陽だまり亭』の朝は早い。

 けれど、今日の私は開店前から頭を抱えていた。


「……ない。全然ない」


 厨房の貯蔵庫を開け放ち、私は呆然と立ち尽くす。

 昨日、クラウス様が持ち込んだバイソン肉はまだある。けれど、付け合わせの野菜、パンを焼くための小麦粉、そしてスープ用の調味料が文字通り空っぽだったのだ。


 原因は明らかだ。

 ここ数日、騎士団の皆様がイナゴの大群のごとく押し寄せたからである。


「あの方たち、どれだけ食べるのよ……」


 嬉しい悲鳴だけれど、これではランチ営業ができない。

 私は急いで身支度を整え、大きな買い物カゴを手に取った。開店時間まであと二時間。急いで市場へ行けば間に合うはずだ。


 ガチャリ、と裏口の鍵を開け、外に出ようとしたその時。


「……どこへ行く」


「ひゃっ!?」


 心臓が止まるかと思った。

 扉を開けた目の前に、黒い壁――もとい、クラウス様が立っていたのだ。

 まだ朝靄が残る早朝だというのに、彼はすでに漆黒の騎士服を完璧に着こなし、腕を組んで仁王立ちしている。


「ク、クラウス様? どうされたんですか、こんな朝早くに」


「……散歩だ」


 嘘だ。あなたの騎士団の寮、ここから反対方向ですよね?


 明らかに開店待ちをしていただろう彼に、私は苦笑しつつ事情を説明した。


「実は食材が底をついてしまって。これから市場へ買い出しに行くところなんです」


「一人でか?」


「ええ、まあ」


 彼の眉間の皺が深くなった。

 アイスブルーの瞳が、私の華奢な腕と大きな買い物カゴを行き来する。


「……待て。俺が行く」


「えっ? いえいえ、騎士団長様に荷物持ちなんてさせられませんよ!」


「ノースガルドの市場は朝が一番混雑する。スリも多いし、足場も悪い。お前のような……小さくて脆そうな女が一人で行けば押し潰されるぞ」


「誰が脆いですか、誰が」


 失礼なことをサラリと言う。


 でも、彼は私の反論を聞かずにカゴをひょいと奪い取ってしまった。


「護衛だ。……それに俺の昼飯の材料がかかっているからな」


 彼はそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまった。あの背中、相変わらず「拒否権なし」と語っている。


 私はため息をつきつつ、慌てて彼の隣に並んだ。


 ***


 市場はクラウス様の言葉通り凄まじい熱気に包まれていた。

 所狭しと並ぶ露店、呼び込みの声、焚き火の匂い。


「安いよ安いよ! 今朝あがったばかりの氷河魚だよ!」


「こっちの根菜は甘いぞー!」


 活気があるのは良いことだけど、小柄な私は確かに埋もれてしまいそうだ。


 けれど――。


「……あ、おい見ろ。あれ、『氷の騎士団長』だ」


「ヒェッ……こっちに来るぞ。目を合わせるなよ」


「なんて冷たい目だ。斬り殺されそうだ……」


 私たちの進行方向だけ、海が割れるように人が避けていく。

 賑やかだった周囲の声も、クラウス様が通るとスッと波が引くように静まり返るのだ。人々は怯え、遠巻きに彼を見つめている。


(……そうか。彼は、恐れられているんだった)


 私の店では、ただの「不器用な食いしん坊」だけれど、世間一般では「冷酷無比な北の魔王」なのだ。


 隣を歩くクラウス様を見上げる。

 彼は周囲の怯える視線に気づいているはずなのに、表情一つ変えず、前だけを見据えていた。

 その横顔が、なぜだかとても寂しげに見えて、胸がチクリと痛んだ。


「……クラウス様」


「ん?」


「あの、手。繋いでもいいですか?」


「はっ!?」


 彼は立ち止まり、目を見開いて私を見た。

 氷のような瞳が大きく揺れている。


「な、何を……」


「だって、はぐれちゃいそうですから。人混み、すごいですし」


 私は努めて明るく言い、返事を待たずに彼の空いている左手の袖口をキュッと掴んだ。

 分厚い革手袋越しの感触。

 彼は一瞬、ビクリと体を強張らせたけれど、振り払うことはしなかった。それどころか、少し躊躇った後、不器用な手つきで私の手をしっかりと握り返してくれたのだ。


「……離れるなよ」


 ボソリと呟く声は低いけれど、もう冷たくはなかった。革手袋越しに伝わってくる彼の体温が、想像以上に温かい。


(なんだ。全然『氷』なんかじゃないじゃない)


 その時、ふと彼が足を止めた。

 視線の先には、小さな装飾品の露店があった。


「……これを」


 彼が指差したのは、雪の結晶を模した小さな銀の髪飾りだった。安価なものだけれど、繊細な細工が施されていて美しい。


「これ、どうしたんですか?」


「……代金の代わりだ。昨日のステーキの」


 彼は店主に硬貨を投げ渡し、その髪飾りを私の手に強引に握らせた。


「お前の髪に……似合うと思ったんだ。……いや、なんでもない。行くぞ」


 彼は早口でまくし立てると、耳まで真っ赤にして顔を背けてしまった。繋いだ手からは、彼の動揺が脈打つように伝わってくる。


 私の胸の奥で、カアッ、と熱いものが込み上げてきた。


 なにこれ。

 ただの買い出しなのに。

 周囲から恐れられる彼が、こんなに不器用で、可愛くて、温かいなんて。


(……ずるいなあ)


 私は握られた手に力を込めた。

 手の中にある銀の髪飾りが市場のどんな宝石よりも輝いて見えた。


「ありがとうございます、クラウス様。……毎日、つけますね」


 私が小声で伝えると、彼は何も答えなかったけれど、繋いだ手をさらに強く握りしめてくれた。

 市場の喧騒の中、私たち二人だけの世界がそこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ