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第11話 王太子殿下、北の「王」を知る

「ええい、何をしている! さっさとこの無礼な女を捕らえろと言っているのだ!」


 アレクセイ様のヒステリックな怒号が店内に響き渡った。

 顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら喚く姿は、一国の王太子としての品位など微塵も感じられない。


 私はカウンターの中で震える膝を必死に抑えながら、それでも毅然と彼を見据えていた。


(負けない。ここには私の料理を楽しみに待ってくれているお客さんがいるんだから)


 しかし、暴力という理不尽な力が迫る。

 アレクセイ様の命令を受け、背後に控えていた四人の近衛騎士たちが、ガチャリと剣の柄に手をかけた――はずだった。


「……あ、あ……」


 騎士の一人が奇妙な声を漏らした。

 抜剣しようとした手がカタカタと小刻みに震えている。

 いや、彼だけではない。四人全員が、まるで石化魔法でもかけられたかのように直立不動で硬直し、その顔からは血の気が完全に引いていた。彼らの視線は、私ではなく、その斜め後ろに向けられている。


「おい、どうした! 私の命令が聞こえないのか!」


 アレクセイ様が苛立ちを露わにして振り返る。

 その瞬間、店内の空気が「パキン」と音を立てて凍りついた。


 比喩ではない。


 窓ガラスに美しい氷の結晶が走り、テーブルの上にあったコップの水が一瞬で氷柱へと変わる。吐く息が真っ白になり、真冬の屋外のような寒気が肌を刺した。

 その発生源は、ゆらりと立ち上がった一人の男。


「……私の領地で、私の許可なく剣を抜くか」


 低く静かな声だった。けれどその声には、どんな大声よりも重い「絶対的な威圧感」が込められていた。

 漆黒の騎士服に、氷雪のごとき銀髪。

 アイスブルーの瞳は、命あるものをすべて凍てつかせるほどの冷気を放ち、アレクセイ様たちを見下ろしている。


「き、貴様……何者だ。その無礼な態度は――」


「殿下!! お、おやめください!!」


 近衛騎士の隊長らしき男が悲鳴のような声を上げてその場に膝を突いた。


「あ、あの方は……『白銀の悪魔』……いえ、北の守護者! クラウス・フォン・ヴィンターヴァルト辺境伯閣下であらせられます!!」


「……は?」


 アレクセイ様の口が半開きになった。


 ヴィンターヴァルト辺境伯。

 この国の北半分を実質的に支配し、最強と謳われる「白銀騎士団」を率いる武門の頂点。

 王家でさえも、その強大な軍事力と経済力には一目置かざるを得ない、いわば「北の王」とも呼べる存在。


(えええええっ!? ク、クラウス様が辺境伯様!?)


 私も思わず心の中で絶叫した。

 ただの騎士団長だと思っていた。いや、それにしては威厳がありすぎるし、お金払いも良すぎるし、騎士たちが崇拝していたけれど……まさか、この土地の最高権力者だったなんて!


 クラウス様は、呆然とする王太子に一瞥もくれず冷徹に言い放った。


「アレクセイ殿下。このノースガルドは私の管轄下にあります。たとえ王族といえど、我が領民を不当に害し、ましてや営業妨害を行うのであれば、相応の『外交問題』として処理させていただきますが……よろしいか?」


 腰の剣がジャラリと音を立てる。

 それは明確な警告だった。「これ以上やるなら、戦争だ」と言わんばかりの。


「ひっ、ひいっ……!」


 アレクセイ様は腰を抜かしそうになりながら後ずさった。

 温室育ちの王太子が、魔物の群れを単騎で殲滅すると噂される「本物の英雄」の殺気に耐えられるはずもない。


「お、覚えていろ……! このような辺境の地、誰がいるものか! 行くぞミリア!」


「ちょ、ちょっとぉ! 足が震えて動けないんですけどぉ!」


 二人は逃げるように、近衛兵に抱えられるようにして店を飛び出していった。


 後には、シーンとした静寂だけが残る。


 そして次の瞬間、ドッと沸き上がるような歓声が爆発した。


「さっすが団長!! いや、閣下!」


「見たかよ、あの王太子のビビり顔!」


「ざまぁみろってんだ!」


 騎士たちが大盛り上がりする中、クラウス様だけが気まずそうに私の方を振り返った。

 先ほどの「北の王」の顔は消え、そこにはいつもの少し不器用な常連客の顔があった。


「……すまない、エリーナ。驚かせたな」


 彼はシュンと眉を下げ、私の反応を窺うように見つめてくる。


「身分を隠すつもりはなかったんだが……言い出すタイミングを逃してしまって。その、辺境伯だと知ったら、お前が畏縮して、いつものように接してくれなくなるのではないかと……」


 ああ、この人は。

 あんなに強いのに、どうしてこんなに可愛いのだろう。


 私はエプロンで手を拭き、彼の前でニッコリと笑った。


「畏縮なんてしませんよ。だってクラウス様は、私の料理を一番美味しそうに食べてくれる、大切なお客様ですから」


「……そうか」


 彼はその言葉を聞くと、ホッとしたように口元を緩めた。その耳がほんのりと赤くなっているのを私は見逃さなかった。

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