第10話 招かれざる客、絶対零度の騎士様
その日の『陽だまり亭』は、いつにも増して温かな空気に包まれていた。
「おーい、姉ちゃん! こっちも追加だ!」
「はいはい、ただいま!」
ランチタイムの店内は、白銀騎士団の団員たちで満席だ。
私は厨房とホールを行き来しながら、忙しくも充実した時間を過ごしていた。髪には、今朝クラウス様からもらった「雪の結晶の髪飾り」が留められている。
動くたびに銀の鎖がチリチリと微かな音を立てるのが嬉しくて、つい足取りが軽くなってしまう。
ふとカウンターを見ると、クラウス様がいつもの席で、私が作った『ごろごろ野菜のクリームシチュー』を静かに口に運んでいた。
視線が合う。
彼は私の髪飾りを見て、ほんのりと頬を赤らめ、それからまた慌ててシチューに視線を落とした。
(……可愛い)
あの恐ろしい「氷の騎士団長」が、今や私にとっての癒やしだ。
平和だ。幸せだ。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。
――そう思った、その時だった。
バァァァンッ!!
平和なランチタイムを切り裂くように、店の扉が乱暴に開け放たれた。
あまりの音に、賑やかだった騎士たちが一斉に動きを止め、入り口を振り返る。
「……なんだぁ? 随分と汚らしい店だな」
聞き覚えのある神経に障る声。
入ってきたのは、派手な装飾のマントを羽織った金髪の男と腕にへばりつくピンク髪の少女だった。
後ろには護衛の近衛兵も連れている。
(……嘘でしょ)
私は持っていたお盆を取り落としそうになった。見間違えるはずもない。
私をこの国から追い出した張本人――王太子アレクセイと聖女ミリアだ。
「うわぁ、くっさーい! 油の匂いが服についちゃうよぉ、アレクセイ様ぁ」
「我慢してくれ、ミリア。この辺境の街でまともな宿を探すには、下民共に聞くのが早かろう」
二人は店内の客を「下民」呼ばわりしながら、ハンカチで鼻を覆って店の中へと入ってきた。
どうやら「視察」か何かで北の辺境に来たらしい。
最悪だ。よりによって私の店に来るなんて。
私は深呼吸をし、努めて冷静に声をかけようとした。
けれど、その前にミリアが私に気づいた。
「あれぇ? その地味な顔……もしかしてぇ?」
ミリアが目を丸くし、それからニタニタと意地悪く笑った。
「やっぱり! エリーナちゃんじゃない! 生きてたんだぁ!」
「……エリーナだと?」
アレクセイ様が私を見て、あからさまに眉をひそめた。まるで汚物を見るような目だ。
「チッ、どこに消えたかと思えば、こんな辺鄙な場所で給仕の真似事か。聖女の地位を追放されて、随分と落ちぶれたものだな」
「ぷぷっ! 似合ってるよぉ! 油まみれのエプロン、すっごくお似合い!」
二人の嘲笑が店内に響く。
騎士団員たちが一斉に立ち上がろうと腰を浮かせたのが見えた。彼らの顔には怒りの色が浮かんでいる。
でも、私は手でそれを制した。
(大丈夫。これくらい、なんてことないわ)
王城にいた頃なら傷ついて泣いていたかもしれない。でも今の私には、自分の城がある。私の料理を愛してくれる人たちがいる。
こんな言葉、痛くも痒くもない。
「いらっしゃいませ、お客様。ですが申し訳ありません」
私はニッコリと営業スマイルを浮かべた。
「当店は現在、満席となっております。それに――」
私は彼らの足元、泥だらけのブーツを指差した。
「土足厳禁なんです。床、今朝磨き上げたばかりなので」
「はあ!?」
アレクセイ様の顔が真っ赤になった。
「き、貴様……! 誰に向かって口を聞いている! 私は王太子だぞ!? たかが平民の店風情が、私を拒むというのか!」
「王太子殿下であらせられても、店には店のルールがございます」
「黙れ無能女が! その減らず口、二度と聞けないように店ごと潰してくれるわ!」
アレクセイ様が激昂し、近くにあった空席の椅子を蹴り飛ばそうとした。
――その瞬間。
ピキ、ピキキキッ……。
店内の温度が急激に下がった。
いや、気のせいではない。
窓ガラスに霜が走り、アレクセイ様の吐く息が白く変わる。
「……ひっ、さむっ!?」
ミリアが悲鳴を上げて身を縮こまらせた。
この現象の発生源は、一つしかない。
カウンターの隅。今まで背を向けて黙々とシチューを食べていた黒い背中だ。
「……おい」
地獄の底から響くような声とともに、クラウス様がゆっくりと振り返った。そのアイスブルーの瞳は、これ以上ないほど冷たく、鋭く、そして――激しい怒りに燃えていた。
「私の食事を、邪魔するな」
「な、なんだ貴様は! 不敬だぞ!」
アレクセイ様が喚くが、クラウス様は椅子から立ち上がった。その巨体が立ち上がると、アレクセイ様が見上げる形になる。
圧倒的な体格差。そして、騎士団長として数々の死線をくぐり抜けてきた「本物」の殺気。
クラウス様は一歩、また一歩と王太子に歩み寄る。
床が凍りつき、歩くたびに氷の華が咲く。
「店を潰す、と言ったか?」
「ひッ……!?」
「この店は、私の……俺の大事な居場所だ。そこを汚すと言うなら――」
クラウス様の手が腰の剣の柄にかかった。
「たとえ王族だろうと、斬る」
空気が凍りつく。
王都の温室育ちの王太子に、北の最前線を守る「氷の騎士」の殺気が耐えられるはずもなかった。
アレクセイ様の顔から血の気が引き、足がガクガクと震え出した。
(あ、あれ? これって私が守られちゃってる……?)
髪飾りがチリリと鳴る。
私の胸の奥が熱さで満たされていった。




