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返り咲き、枝垂桜

作者: 朗悠




   第一章 




 見渡す限り、群青色。


 今井は、その中でただただ沈黙しているだけだった。

 上を見ると、屈折した太陽の光が射している。


 居太刀橋は、今だ現存の川の橋において、素晴らしい眺めを誇っていた。

 江戸時代に建てられた代物であり、二つに分かれていた街で、二人の腕利きの侍が対岸で四年の間睨み合い、橋が出来た末に決闘を済ませたという云われがあった。

  その際に勝った方の侍は、負けた方の侍の刀と自分の刀の柄を紐で結び、川の底に投げた。

 「居太刀」の名前は、そこから来ていると言われている。


 前から泡が吹き出している。

 女だ。

 綺麗だが、顔を苦痛に歪ませている。

 しかしそこも、どこかまた、綺麗なのだ。


 今井は近付いて、女を抱きかかえ、陽の射す方を目指した。



 群青色が日の光に照らされてグラデーションがかかったように薄くなり、水色へと変わる。


 光が急に眩しくなる。

 浮上した所為だろう。


 今井は女を抱えたまま河川敷へたどり着き、その帰りを待ち続けた中年の男達に女を預けた。

 恐らく、仕事仲間なのだろう。


 水に濡れた体が風に触れて震える。

 河川敷の坂の茂みに仰向けに倒れた。


 暖かい。冬が明けたばかりだから、川の中は少し冷たかった。

「お仕事、お疲れさん」

「本職はこんなのじゃない」


 戸川だ。

 こちらを覗き込みながら、缶コーヒーを二本、手にしている。


「やめろ、潜水上がりで飲む代物じゃない」

「わかってら。お前さんの相棒に、だよ」

 柴犬が俺の体の上に乗ってきて、顔を舐める。

「こいつが泳げてたら、俺は飛び込んでいったりしなかった」

 名前はチビ助だった。


 戸川がコーヒーを開けて、地面に置く。

「お前がいなけりゃ溺死だぜ、あのお嬢さん」

「橋の上で見るより浅かった。俺じゃなくても助けられた」

「野暮な事言うもんじゃねぇよ」

 チビ助が戸川の置いたコーヒーに口をつけて、舌を出して舐め出した。

「まだ、助かったわけでもない」

「落ち着いてる場合かよ、これからマスコミの質問責めに遭って、あのむさ苦しい男どもに菓子折り押し付けられることになる」

 それだけはごめんだ、と、今井はチビ助の缶コーヒーを取り上げ、立ち上がる。

「カフェインの取りすぎは寿命に関わるからな」

 家に着くと足早に、チビ助が犬小屋の前で嬉しそうに周り始める。

「また家の壁に小便をかけたら、犬小屋の場所を変えるぞ。あの河川敷辺りにな」

 チビ助はその場で伏せた。

 戸川は缶コーヒーをまだ開けていなかったが、まだ右手にそれを持っている。

「飲まないのか」

「長生きしてえからな」

「口実だ。さっさと飲んじまってくれ」

 自分が風呂に入った後では飲みたくなってしまう。


 今井はタオルで頭を拭きながら、着ていた服を脱いで風呂に向かう。

 風呂場に入りながら、さっきの事を考えていた。

 今井はライフセーバーの訓練をやっているので、割と多忙である。

 その日は少ししかない休暇な為、陽が昇り始めた早朝、犬の散歩に出ていた。

 居太刀橋に差し掛かった今井は、前の方に、身なりの綺麗な女が橋の下を眺めているのを見た。

 今井はその時、“何か”嫌な感じがした。

 普通、“眺める”とは、川の向こうを見渡すものだが、川の下を見るのはどうだろうか。

 よく見ると、女は靴を自分の横に靴を置いていた。丁寧に揃え、自分が向いている方向とは逆の方向に。

 そして、体中が凍りつくような悪寒と、背筋が冷たくなっていくのを感じた。


 今井はその時、もう女の真後ろを通り過ぎかかっていたが、既に女はいなかった。


 その次の瞬間、今井は群青色の世界を垣間見る。




 雨が止んだ。

 いや、いつから降っていたんだろうか。

 今井は考え事を終えた時、既に風呂から出て、着替え終わっていた。

 通り雨だったのだろう。


 

「俺はたまたま通りかかったんだよ、そしたら、柴犬連れた男が川に飛び込んだとか何とか言われてよ」

 今井は椅子に腰掛ける。

 戸川は机の向こうの椅子で、今井と対していた。

「それはどうした」

 戸川はコーヒーの空き缶を持って、それを見つめた。

「お前の事だからまた景気付けに泳いでるんじゃねぇかと思ってな。暇潰しさ」

「チビ助がせがんだのか?」

「馬鹿言うなよ。びっくりしたんだぜ、お前が女抱えて出てきた時はよぉ」

 戸川が持っていた缶を真横にあったごみ箱に落とす。




 からん。

「勘のいい音がしたな」

「缶だからな」

 からん からん からん。回っているのだろう。

 からん からん からん からん からん からん からん からん。こん。



 煙草を取り出す。半ば辺りで少し折れていた。

「あのお嬢さん、助かったかねぇ」

 今井は黙って、火を点けた。


 別に、助かろうが助けられまいが、関係のない事だった。


 ではなぜ俺はあの時飛び込んだのか。

 煙を吐きながら、今井は少しの間、苦悶した。

 そして、煙草の先に燃える火を見つめながら、沈黙し続けた。




 群青色。

 この前までは、二度と見ることは無いと思っていた。

 しかし、最も馴染みのある色だった。

 上を見る。しかし、光が見えない。

 そう思った瞬間、息が苦しくなった。

 もがき苦しむ。だが、抜け出る事はできない。

 ここはどこだ?どこが出口だ?

 なぜ俺は、こんなところにいるんだ?


 愛犬の舌の温もりを感じて目が覚める。

「お前が、助けてくれたのか」

 上半身を起こして、自分の下半身の上に乗っているチビ助を撫でた。

 チビ助は、まだ心配そうな唸り声をあげている。

 いや、腹が減っているだけか。


「食べ過ぎるなよ」

 そう今井が言うと、チビ助は青いプラスチックの容器の上に用意されたドッグフードにかぶりついた。


 チビ助の犬小屋、奥の壁と家の壁は繋がっている。

 今井がやったわけではなかった。

 ある日、今井が餌をあげようとした時、チビ助が一度だけ脱走しようとしたことがあった。

 その時は鎖でつないでいたわけではなく、適当なパンツの紐を使ったために、チビ助に力尽くで引きちぎられてしまった。

 チビ助は家を抜け出しかけたが、家の目の前に廃品回収車が偶然通った為に、危うくチビ助は轢かれそうになった。

 恐怖のあまり犬小屋に逃げたチビ助は、チビった。

 犬小屋は、木製だった。

 チビ助は決まったところでしか小便をしないため、それ以来はチビ助のトイレは自分の寝床になってしまった。

 チビ助は掘るのも好きだった。

 小便でふやけた犬小屋の壁をチビ助は掘った。力技と爪により、いつしか奥の壁は開いていた。

 ただしチビ助が家の壁を壊したわけではなかった。

 犬小屋が日に日に黄土色に変色していくのと、壁がそのうち染みだらけになるのが嫌だったために、今井は家の壁に穴を開け、家の中にチビ助のトイレを作り、そこでチビ助に再びチビらせた。そこを定位置としてチビ助は使うようになった。

 家の中と外を一日中歩き回る必要があるため、事実上警備員のようなものだった。

 しかし臆病なので役に立ったことはない。少なくともこれまでは。


 満腹になったのか、チビ助はその場にうずくまって寝だした。


 寒気がする。

 まだ明け方なのか、窓の外は青かった。


 今井は自分が仕事に出かける時間なのを確認すると、タンスの方に歩きながら、服を脱ぎだした。

 仕事着であるジャージに着替え、家の鍵を持つ。

「行ってくるからな」

 チビ助の背中にそう語りかけると、チビ助は右耳のみを動かして相槌をうった。

 今井の仕事場はそう遠くはない。歩いて五分程度の場所にあった。

 専用のプールのようなものだった。

 一応、スイミングスクールを兼用していたこともあった。

 時間や施設の都合で、ライフセーバー訓練所としてのみ機能するようになったまでだ。

 家を出た時、ある事に気付く。

 仕事場までには居太刀橋を通らなければならない。

 今あそこに近付くのは避けたい。

 遠回りするか。

 そうなると、到着には十五分程度かかる。準備が間に合わなくなる。

 速めに来た訓練生にも手伝ってもらおう。

 遠回りするルートでは、居太刀橋とは兄弟のような関係にあたる橋を通ることになる。

 その橋は渡桜橋という名前をしている。

 こちらも曰く付きだった。居太刀橋の話と同じ時期、片方の町にしかなかった桜が、もう片方の町に植えられた場所だった。


 今井は、渡桜橋の目前まで来た。

 渡桜橋の近くでは、アイスキャンディーを売っている店が景気よく呼び込みをしている。

 早朝だとしても、夜更けだとしてもだ。町を活気付ける余興かもしれない。


 橋の手すりの始点にある名前の書かれた石のプレートを見る。

「わたしざくら橋」

 桜は、橋のすぐ左側に綺麗に咲いていた。枝垂れ桜だ。季節が季節だけに、見事に花咲いている。

 元々はこちら側のみにしかなかったと云われる。向こう側の橋の右側にも、同じ枝垂桜がある。

 橋が作られたのは居太刀橋より若干後とされる。

 こちらの桜の苗が向こうにも運ばれ、植えられたことから名前が付いたといわれる。

 橋の所々に、双方の桜の花びらが大量に落ちている。

 今井が上を、正確には桜を見続けながら橋を渡り切ると、前の、少し先の角から女が現れた。

 あの時助けた女だった。

 今井は他人の振りをして通り過ぎようとする。

 幸いにも、女はあの時自分の顔を見ていなかったのだろう。女は今井のことを気にも留めずすれ違う。

 今井はすれ違ったとき、何かを思い出して後ろを振り返った。女は橋に向かって歩いていた。


 まずい。またあの悪寒だ。

 今井は自分の中で、体中が凍りつくのを感じた。

 また、飛び降りようというのか。

 今井はその場に立ち止まって女をしばらく見続けた。いつ飛び込んでも助けられるように。

 いや、実際はこの悪寒のせいで、体が動かないのかもしれない。

 女は橋を渡り切り、商店街の方へ去った。

だが、今井はその後もしばらく立ち止まって橋を見続けていた。

 枝垂桜が、花びらを散らせた。

 花びらは儚く、川へと落ち、流されていった。





  第二章




 つくね焼き。

「にいちゃん。食ってかないか」

「俺は、もうそんな歳でもないですよ、ご主人」

「そんな事言わんで、食っていきなよ。うめえよ」

 職人の具合が垣間見える手が、今井に伸びていた。

「いくらですか」

 財布を取り出す。

 爺さんがつくね焼きを手にとって吟味する。

 その日の気分と、つくねの焦げ具合で値段を付けるのがここのやり方だった。

「一本百円、だな」

 顔を上げて、笑顔を取り戻すとそう言った。顔全体にまた、しわが入る。

「また、安くなりましたか」

「ここんとこはよく買ってくれるお客さんがいるんでね」

 ここの商店街は割に活気付いている。東京とかだと、閑散としているというのをよく聞く。

 景気がいいのが、つくねの爺さんは好きらしい。

「また市がきたら、買い溜めに来るんだろ?たんと用意しとくからな」

 爺さんは袖を捲り上げると、笑顔を見せた。何十年も焼くことを続けている職人だから、表情から色々な事が伺える。

 今井はというと、顔で感情を悟られることはあまりない。代わりに口に出ている。困ったことだが、戸川辺りにはすぐ見破られる。


 店の奥に、つくねと闘っている青年がいる。焼き加減を見ているのだろう。

跡継ぎだ。最近、成人したばかりだと聞く。

「お孫さんですか」

 おうよ、と爺さんが答えると、ちょうど焼き上がったようで、青年は手際よく台に乗せて店先まで持ってきた。

「どうも」

 目が合ったからなのか、無愛想ながらも挨拶してきた。こちらも少し頭を下げる。

 爺さんの横の、出来立てのつくねが並べてある場所に並べると、またすぐ奥へと戻っていった。

「腕は、どうですか」

「まだ甘ぇな。じっくり扱くつもりだが」

 今井は百円玉を手渡し、つくね焼きを受け取った。


 ライフセーバーの訓練は長く、忙しく、また、辛い。忍耐と器量が必要とされる。あくまで、そう言われているだけだが。今井は、特に何も感じない。ただ、淡々と仕事をやっているだけだ。

 今井は時々、訓練所に泊り込む事だってある。今日がその時だった。

 自分から泳ぐ事は、しばらくない。

 いや、一回はあったか。


 空は一日経って昼の曇り空。昨日の通り雨からしても、天気はしばらく不安定かもしれない。

 仕事帰りで、また商店街方面を通って帰る必要は無かった。

あの事は、ニュースではやってはいなかった。居太刀橋の騒ぎはそれほど大きくはならないだろう。飛び込みなんて、よくある話だ。

 マスコミにとって最も味のある話は、悲劇的か感動的な話だ。シナリオが用意されたものではないだろう。やり方。周りの連中。雰囲気。



 今日は、なんだか腹が減っただけだった。



 そういえばあの女は、助かったのか。

 別に他人の命が救われようと嬉しくもない。責任も義理もなかった。

 実際に自殺の現場に出くわしたのは初めてだった。泳ぎはやっていたが、人を助けた事など、ほとんど無かった。

 つくね焼きをかじりつつ、商店街を歩いた。

 今井の目に、劇場がうつる。

 この商店街の名物ともされている。有名な劇場だ。芝居は見ないが、そこの劇団は評判が良かった。そもそも今井には、見に行く暇も無かった。明日の朝には、また仕事だ。


 今週は日曜日が休みだが、一人で見に行っても、味気がない。戸川は既に見に行ったことがあった。その時は戸川も評価していたが、どんな劇だったのかはよく聞かなかった。 興味は無い。あまり無い。


 家のドアを開ける。チビ助は既に行儀良く座って待っていた。

 珍しいな、寂しかったのか。

 いや、俺の持っているつくねの匂いを嗅ぎ付けてきたのだろう。

 つくね焼きは、もう少ししか残っていなかった。

「あくび」

 チビ助が顎を目一杯開く。だらしない性格をしている割には、鋭い牙を持っている。

 そこら辺は、少し俺と似ている。かもしれない。

 いや、骨の噛みすぎか。

 俺がつくね焼きを横にして、チビ助の開いた口の中ほどまで身を移動させる。

「目を覚ませ」

 チビ助が口を閉じる。

「右に雌のゴールデンレトリバーがいるぞ」

 チビ助が肉を抜き取る。食べ終わると、今度こそ本当にあくびをして、その場でマフラーのように丸まって寝た。


 今井は自室に戻り、やっと一息吐く。凡そ、あの群青色の日から、心臓が重い。薄々とだが、そう感じる。


 チビ助はなまじ普通の犬ほどの芸をやる事が無かった。人間より人間臭いかもしれない。最もたる証拠として、お座りや伏せなんかは、チビ助が他の犬を見て覚えた。

 今井が暇潰しに教えようとしたが覚えられなかった。その後で、散歩に連れて行こうとしたところを、機嫌が悪かったのか、命令無しにしかめ面で伏せてみせた。

 しかしどうという事でも無かった。今井は、普通の犬とは違うチビ助が、育て方を間違えた、などと思った事は一度もない。

 ただ、人の前でこれをやると、これもまたしかめ面で対応される。

 チビ助もそれだけは解っているのか、人前でそれをやる事はない。犬の前でもだ。

 夕立だ。陽が、窓の向こう、塀の向こうから、半分のみ覗き、今井と、その周囲を、橙色の光で照らし出している。




 チビ助が普通ではない犬に成長したのは、チビ助がまだ若い頃に遭ったある事故に由来していると、そう今井は考えていた。

その日、今井は家を空けていた。家から帰ると、チビ助はいなかった。

 探した。チビ助はどこにもいなかった。

 約一週間程になる。その間、今井は家を独りで過ごし、毎日、寂しい朝と、夕暮れを迎えていて、毎日、チビ助を探した。

 今井にとっては内心、諦めたものだった。もう帰って来ないだろうと、本音を言えば、胸を覆う鈍よりとした雲が、今井の足を自然とおぼつか無いものにさせた。

 チビ助は帰ってきた。泥だらけになりつつ、数十匹の子犬を連れて帰ってきた。

 日曜日の、深夜二時、雨の時の事。

 今井は起きる。

 犬の声がする。しかも、子犬の声も混じっている気がする。今井は悪寒しか感じられなかった。

 今井がドアを開けると、そこには右の横腹と尻が泥だらけで、まぶた上に軽い生傷、背中に大きい歯型と切り傷、全身に大量の痣を負い、チビ助が立っていた。

 後ろには同じく全身が泥だらけになった大量の子犬が今井に向かって素朴にも吠えていた。

 今井はすぐ傘を取り出し玄関を飛び出した。チビ助の上を雨から庇いながら、門を開けて大量の子犬とチビ助を迎え入れた。

 子犬は野生のものだと思っていた。好きなところで小便をして、飼い主がわからない。しつけもまるでされていなかった。後にチビ助に連れていかれた場所に、子犬の捨てられたものと思われるダンボールがあった事から、今井の予想は確信になった。

 子犬は家中を走り回ったので、数え切れなかった。チビ助にどうするつもりだと問いただしたが、チビ助は堂々と構えているのみだった。今井は全ての子犬を綺麗にふき取り、餌を使い切って、たらふく食わせ、一夜明けるまで、数十匹の子犬を世話した。今井の家ではここまで騒がしかったのは初めてだった。もちろん全ては飼えない。その後子犬は全て、ペットショップに預けた。

 商店街の肉屋から肉を奪い取ったのかもしれない。後日、出勤中に寄ったら、「在庫薄」のため、一時休業していた。シャッターの前に、フンがいくつか置かれていた。置き土産か。不良のスプレーでの悪戯に繋がるところがある。

 チビ助がけがをしていたのは実は子犬の世話の過程でついたものかもしれない。散歩でよく通るから、肉屋はチビ助を知っているし、チビ助も肉屋の場所を知っていた。肉屋がわざわざ毎日チビ助に肉を無償で提供して、あげたのかもしれない。実は案外、今井に飼われている時より楽で贅沢な一週間を過ごしたのかもしれない。

 どちらにせよ、チビ助はこれを期に違った成長をした事を、今井は色濃く記憶に残している。

 自由な犬になった。犬にしては珍しく、どんなことも、命令をしなくてもやるようになった。

 普通の犬が命令無しに覚えられない事を覚え、普通の犬が命令無しでも覚えられる事を覚えられないように育った。

 現在では今井と同じく、余裕と冷静さを備え、冷たく構えた中年になった。

 いや、眠たがっているだけか。




 そうだ。

 今井は腹が減っていた。陽はまだ沈みきらず、恨めしそうにこちらを覗き見ている。

 外食にでも行くか。

 商店街にまで足を運ぶ気は、もう失せていた。商店街には行かないとしたら、行く宛はない。

 少し考えた後、椅子に腰を落とした。別にいい。空腹はもう感じない。

 


 机の上、灰皿に、ぼろぼろに崩れた灰と、中折れした煙草があった。中途半端に吸い残していたものだった。

 今井は右のポケットを探る。そういえば、今日の勤務では煙草を吸うのを忘れていた。

 座っても尚、日差しと睨み合っていた体を机に向け、引き出しを開ける。

 箱が一つ。中を覗く。一本も入っていない。買い忘れた。

 今井は少し固まる。仕事中は極力煙草を吸わないが、合間の休憩時間には吸いに行く。安いものだったが、疲れていた時にはよく効いた。今回の勤務中はずっと忘れていた。それを思い出した途端、急に吸いたくなる。

 今井は引き出しを閉め、少し固まってから、だめになっているであろう中折れの一本を手に取って、左のポケットを探る。

 ない。ライターがない。今井は自分が着ているジャージの中のどこにもライターが入っていないことを知っていながら、もう一度右のポケットに手を差し込む。やはり無い。

 思い返す。家を出る前にライターを触った覚えがない。朝の考え事のせいで、記憶が曖昧だった。

 もう一度、引き出しを開ける。無いよな。当たり前だ。

 煙草とライターはいつも、使うことのない引き出しの中に居候させていた。もし持っていないなら引き出しの中、そこにないなら…

 落としたか、訓練生に盗られでもしたか。明日、受付に届けられてないか聞こう。

 今井は中折れの煙草を咥えて、ライターを点けるまねをする。思わず苦笑する。俺は馬鹿か。今井はそれを咥えたまま、立ち上がってまた陽の方を見る。

 まだ陽は落ちていなかった。その日差しを対して受け、点くはずもない中折れの煙草を咥えたまま吸ったり吐いたりしている。味はない。虚しい気分に襲われるだけだった。今井はまた苦笑する。俺は馬鹿だな。

 馬鹿だと知っていながら、その馬鹿を繰り返してしまった。

 その日は、夕陽が塀の向こうへと沈んでいくのを待ちながら、今井は点かない煙草を咥えて、ただ、立ち尽くしているのみだった。




 どんよりとした黒い鉛を食らった気分だった。

 どうしようもない気だるさと、胸の辺りに未だ残る何かしらの残留感が、今井の機嫌を、悪くさせた。

 今井は目覚める。まだ頭がぼんやりとしている。体が起き上がろうとしない。いや、動こうともしない。今井は自分の頭の中でただ鳴り続ける目覚まし時計の音がドームの中で反響し続けるような音が流れ続けるまどろみの中で、少しずつ落ちていく眠りに抗えなかった。


 驚いた方が先だった。今井は驚いてから起き上がった。時間はあまり経っていない。一時間程度だった。遅れた事に変わりはない。今井は少しずつ危機感を取り戻して、冷静に急ごう、と自分を宥めつつ、急いで支度をしてドアを開ける。鍵はいい。チビ助がいる。

「行ってくるからな」

 犬小屋で伏せて寝ていたチビ助がまた、右耳のみを動かして相槌を打った。


 今井は気付くことはなかった。また、煙草を忘れていることを。




  第三章




 河内に会いに行ったのは、その二日後、日曜日の夜だった。

 始まりは、河内からの電話だった。

「日曜日に会いたい。久々だしな」

 日曜日。滅多にない休日だ。とはいえ、河内と会うのはもちろん、話すのも久々だった。はっきりとした声は、まったく変わっていなかった。

 当日の夜、チビ助に家を任せて、今井は家を出た。

 待ち合わせは、駅に対面したファミレスだった。間には、渡桜橋の枝垂桜とは違い、山桜が立つ。

 山桜を囲むように円状に店が立ち並び、駅にも近いため、よく好まれる。

 今井は時計を見る。十時。駅までは歩いて五分というところか。

 駅前に到着する。山桜の木が、周囲の店から漏れる光に照らされ、輝いている。花びらが散っていき、ひらひらと舞いながら落ちていく。

 今井はファミレスの方向へと向かった。

 入り口には既に人が立っている。戸川と同じく、高校生の頃からの親友だ。昔は、よく三人で馬鹿話をしたものだが、就職の時期には俺も戸川も上京し、河内は一人田舎で残った。あの日、俺と戸川は駅の改札口でそれぞれ別の電車に乗り、河内はその二つの車両を二つ見られる歩道橋で手を振った。その後、最後に出会ったのは、三十の時、同窓会で戻った時くらいだったか。

 河内といざ近寄って顔を合わせると、目頭が熱くなった。言いようのしれない、不安や喜びがないまぜになるが、今井はこれまでと同じように接しようとした。

 河内は俺と同じく四十路にしては、白髪も少なく、健康的でがっしりとした顔立ちをしていた。一方として、今の河内には、俺はどう見えているのだろうか。白髪は増えてきたし、やせ細ってやつれた、人生に疲れた男に見えるかもしれない。今井は自分が思っている疑念を、自分自身を鏡で見て評価しているのだと気付き、目を伏せた。

 数秒ほど立っただろうか。高校生の頃は、顔を合わせた瞬間に笑顔で挨拶したはずだが、今では挨拶を交わすのにもこんなに時間がかかる。

 不思議なものだ。一年がこんなに速く感じられるというのに、ただの数秒が今井にとっては、とてつもなく長かった。

「何、黙ってるんだよ」

 河内が沈黙を破って、今井に笑いかけてきた。

 今井は目頭が熱くなった。十年ぶりの再会や、錆びて見える思い出も、河内の朗らかな笑みに全て溶かされた。

 馬鹿らしい。

 今井は自虐の意味を込めて、心の中でそう重苦しく、つぶやいた。

 そして、その後余計な事を考えないように、あの時と同じように、口を開いた。

「悪いな。何を話していいかわからなかった」

「俺だってそうさ」

 肩の力が抜けた。重苦しいのは一緒だった。

 河内と一緒に入店すると、店員が窓側に案内してくれた。三組ほどしかいない。この時間でも日曜日ならもう少しはありそうだったが、他の店に流れているのだろう。座ると同時に、店員に二人分のドリンクを注文した。

 河内は窓を見ると、口を開いた。

「都会は綺麗だな」

 ずっと田舎で人生を過ごしてきたとはいえ、訛りがない、滑舌のよい、はっきりとした声だった。

「そうでもない」

 河内が苦笑した。

「お前は、変わっていないな」

「それはこっちの台詞だ」

 変わっていない。か。

 今井にしてみれば、自分のどこが変わってどこが変わっていないのかは、自分ではもはや判断のしようがなかった。

「ここは、冷たい場所だ。それに汚い。あっちの方が綺麗だ。」

 今井は、駄々をこねる子供のような言葉を、吐き出した。

 河内は、この言葉が、今井が上京を始めてからずっと思っていたことなのだと、知っていた。

「田舎だって何もないぜ」

 同窓会の日に今井は何度も愚痴にこぼした。戸川といえば、酒を飲みすぎて若い女の店員にちょっかいを出していた。

「木がある、田がある、山がある。自然が常にお祭り騒ぎ。」

 河内はそれを聞くと、腹を抱えて笑った。戸川が高校生の時、考え出した言葉だった。語呂が気に入ったらしく、よく口に出していた。

「よく覚えてるな」

「俺もそれを考えていた」

 戸川は上京してからのその後、その言葉を使わなくなった。何よりも、誰よりも、あの場所、あの時が好きだったからだ。

 単に忘れただけかと思っていたが、戸川は思い出を大切にするからこそ押入にしまい、今を生きる人間だ。最も長く近くにいるから、それぐらいの事はわかる。しかしそれぐらい一緒にいても、あいつの行動には理解しかねる部分が多い。

「戸川はどうしているんだ」

「職業がころころ変わる。だが、上京してからずっと働いてた鉄工所はまだ続いてる」

「あいつらしいな」

 河内は過去を懐かしむように微笑む。戸川と河内も、俺と同じく十年、顔を合わせていない。

「戸川も誘えばよかったんじゃないのか」

「いや、今回の事は俺とお前で話したかった」

 何が言いたいんだ。今井はそう言うかのように目を細めるが、黙って続きを聞いた。

「居太刀橋で身投げがあったそうじゃないか。あれ、お前が助けたんだろう」

 今井は自分でも、その話を出されたのに驚いたのがわかった。もう縁が無いだろうと思っていたし、 むしろ今井は、これ以上関わり合いになりたくなかった。

「どうしてお前が知ってるんだ?」

「俺は、あの事件の少し前からここに来ていたんだよ。お前らとは連絡がつかなかったし、探しようがなかったんだ」

「どうしてここに来たんだ」

「もちろん、久々に会うためさ」

 今井は判りかねた。河内が俺達に会いに来るためにここに来たのなら、わざわざその話をするために、俺とこんな夜にファミレスで待ち合わせなど、しなくてもいいはずだからだ。

「よっぽど、大事な話なんだな」

「お前が助けた娘、櫻座の花形だよ」

 今井は顔をしかめた。劇団の名前など知らないからだ。

「知らないのか?この町に評判のいい劇場があるだろ」

「芝居は、上京する前もした後も見てない」

「櫻座は宝塚の中でも有名な劇団だぞ。この町の観光名所らしい」

 なるほど。このご時世に商店街が今だ衰えずに健在な理由がわかった。

「お前は、その舞台演劇のトップスターの命を救ったのさ」

 河内に面と向かって言われても、まるで実感が湧かなかった。

 疑問もなだれ込んできた。河内はどう見ても、おかしい。ただの世間話とか武勇伝の話し方ではなかった。まるで俺に深く関わっているかのような話し方だ。それとも、宝塚のファンで、俺を讃えようとして話しているのか?

 しかしそれよりもっと深く胸の中に、ある思いがねちっこく巣くった。

 十年ぶりの再会だ。高校生の頃からずっと続いていた仲だ。かれこれ三十年以上の付き合いになる。そんな河内が、突然、俺を見て真剣そうに話すことが、これか。これなのか?

 今井は、若干湧き出た失望の念を押さえ込みながら、話題を変えようとした。

「今度は、戸川も誘ってほしい。きっと喜ぶ」

「そうだな。いつかまたな」

 今井は、その後も河内と十年分の「積もる話」をした。しかしそんな話をしている中でも、今井の中にしつこく巣くう重苦しい気持ちは、今井の心の奥底で渦巻いていた。




「河内と会ったのか?」

 戸川が怪訝そうな顔をして、俺の方向を向いた。五百mlのパックの牛乳を飲んでいた。何時の間にか冷蔵庫からくすねたらしい。あれからさらに一週間が経った。河内からの連絡は来ていなかったので、戸川を家に呼んでいた。

「ああ。元気そうだった」

「そりゃあ、よかった。俺にも会わせてくれよ」

「聞きたいことがある」

 自分の言葉を返されずに話を逸らされたことに、戸川は若干何かに勘付いたようだった。こいつはこういうところだけは、昔からびっくりするぐらい鋭い。

「櫻座…と言ったか。お前、あれを見に行ったんだったな」

「おう。二年前に一度だけな、それがどうしたって?」

 戸川はそう言って牛乳をまた飲み始める。一気飲みしようとしているらしい。

「俺が助けた、身投げの女。あれは、櫻座の花形らしい」

 戸川は驚いて噴出し、牛乳を半分ほどこぼした。チビ助が逃げる。

「拭いておけよ」

 今井は雑巾を戸川に投げつけた。戸川は下半身を牛乳まみれにしながらも、驚いた顔をしていた。

「花形だって?櫻座の花形っつったら、宝塚のトップスターも同然じゃねえか」

 戸川が口を拭きながら椅子を引き、しゃがんだ。この分じゃ床も牛乳まみれだろう。

「お前も知らないのか?」

「さあね。俺が見た舞台では、彼女は見なかった。そもそも、トップってほどでかい劇でもなかったぜ、ありゃあ」

 戸川は愚痴をこぼすように拭いている。

「宝塚っていうのは、たった二年でトップに成れるものなのか?」

「櫻座ほどの劇団なら、全国を周ったりする事も有り得るし、たまたま俺の見たのがしょぼかっただけってのも有り得る」

 今井は正直に言えば、これ以上この事に関わりたくなかった。あの身投げ事件に関連するものは、全て、虫の居所が悪いものだった。

「なるほど、始めは充実した顔に見えたが、その話を聞いてるようじゃ、何だか複雑なもん腹に抱えてやがるな」

 大体予想はついていた。戸川に何一つ隠し通せた事はない。逆にこいつは、嘘をつくのはとても得意だ。特に、女相手には。昔から悪がきで、今はまるで雲のような、掴み所のない男になった。詐欺師に向いているんじゃないだろうか。

「それで、河内と会うのは考えたいって話か」

「さすがだな」

 戸川が何かの紙を取り出した。就職用の履歴書だ。戸川がそれを俺に見せて、経歴のある部分を指差す。

“詐欺師 二年半 諸事情により引退”

「実歴ありってか」

「洒落にならん」

 戸川はそれを聞くと笑った。

「お前はその紙でよく受かるな」

「そうじゃねえよ、質より量を求めれば、質は勝手についてくる」

 なるほど、実際は受かる数より落ちた数の方が雲泥の差ほどあるという事だ。この男を雇う会社は、きっと余程の大物か、馬鹿だからだ。

「就活の頃、山に修行しに行くとか言いだして行方不明になったお前がいざ面接で一発で雇われるのが、不思議で仕方がなかった」

 戸川は実際に面接の一週間前に書置きを残していなくなった。町中の人が探したが行方不明だったが、面接二日前に帰り、平然と面接に行って受かった。そこがここだ。駅まで徒歩五分の好立地、徒歩十秒の所に六畳のアパート、妻子に恵まれ、今では鉄工所長に4LDK。戸川の人生は謎に満ちている。




  第四章





 暗く、深い。

 暗く暗く。深く深く。大きな鐘が、重苦しい暗闇の床で、重苦しい音を虚しく響かせる。

 音は響く。暗く深いその、謎の暗闇を照らしていく。

 暗闇の中で、何かが動いている。音はまだ響く。音は次第に大きくなっていく。音はまだ響く。

 鐘はしばらくして、急に音を止めた。その重苦しい暗闇に飲み込まれるように、鐘も消えていく。遠くに消えていく。


 今井は起き上がった。

 まだ朝にはなってはいない。


 なんだ、この感覚は。


 その不可思議さが、今井の体を硬直させ、全身に寒気と、何かを感じさせていた。

 今井は恐怖を覚える。


 そうだ。


 この恐怖は、以前にもあった。

 今井が、泳げなくなった理由。今井が、ライフセーバーをやめた理由。上京してからの、今井の四十代までの、人生。


 ダメだ。


 恐怖で泳げなくなったとかいうのは、違う。そんなんだったらまだいいのだ。

 なら、それなら、まだ、まだよかった。どれほど、よかったか。


 今井は、胸にこみ上げてくる記憶を、まるで傍観者のように冷たく、見つめていた。





 重く、暗い。鐘が鳴っている。響いている。響き続けている。

 今井は、群青色の中で、水上の船より垂らされるロープを掴んで、ただ沈黙するばかりだった。

 仲間が一人、いない。探さなければ。

 他の仲間の姿も見つからない。

 浮上したのか?いや、全員集合の後、浮上のはずだ。

 集合地点に遅れてきたが、仲間がいないのは明らかに、おかしい。

 今井は下を覗いた。下には、グラデーションをかけて、深くなっていく群青が広がるだけだ。

 ここに来て、何故水を怖がる。

 今井は仲間が、この暗く重い海に、全て飲まれたかのような錯覚を覚えた。

 戻るか?いや、入れ違いになったらさらに危険だ。

 ガスボンベの酸素量を覗く。下に戻ってから集合地点に戻り、浮上するだけの酸素量はある。いける。

 だが、恐怖は、その、酸素の余裕や今井の実力を飲み込むほど巨大に膨れ上がっている。

 未知は恐怖だ。

 恐怖こそが、未知だ。故に恐怖である。

 ここに来て、親父の、言葉を思い出すとは。

 おれが上京する前に、親父が言ってくれた言葉だ。

 親父はこう続けた。

「海も未知のイコールみたいなもんだ。だから海も恐怖だ。お前は、これから、恐怖に包まれて生きることになる。その恐怖の中で、もがき苦しみ、いずれは死ぬことになる。そうやって生きたいなら、自分の生きたいように生きろ。」

 どこまでも、不思議な親父だった。

 田舎育ちだったが、人の心は読み物だの、空を見て歩けだの、掴みどころのない雲のような親父だった。

「お前には、俺が人生で学んだ全てのことを教えてやる。俺が生まれてから、16年の間のことは特に深く、教えてやる」

 親父。俺は今、恐怖に包まれてるよ。これから、もがくとこだ。



 親父の死は速かった。

 遺言は「線香花火より打ち上げ花火」。

 長く生きながらえるより、一瞬だとしても、派手にぶっ放したい。親父は多くは語らない男だった。あんたには敵わんよ。

 今井は自分の掴むロープを放した。

 親父。掴んでてくれよ。俺の仲間の分も。

 下まで戻るにしても、全ての味方の場所はわからない。

 それでも、少なくとも二人一斑の行動だ。

 俺の仲間は一人だ。助けなきゃいけない。

もし負傷しているなら、連れてロープまで戻るのには、酸素量が足りなくなる。速めに助けに行こう。

 足が縛られるように硬い。なんだ。潜るのが速いのか。

 水深は千を数えるばかりである。なんだ?この程度の水深を楽に泳げるようになるための訓練を山ほど積んでいるだぞ。

 さっきはもっと深い所も探索していた。

 足が痺れてきた。速すぎる。なんだ?急いで泳ぎすぎたか。

 泳ぐ場合、足を使って泳いでいくのは、水の抵抗の負担が大きいので、全速力で陸上を走るのより足の疲労がさらに辛くなっていく。

 速く泳ぐのなら尚更、足が辛くなるのは速い。

 だが、速すぎる。

 今井は、祈った。下で何かが起こっていないことを。

 水深計の進みが遅くなる。今井はスピードを落としていない。

 下で何かあったのだ。今井は焦り始める。

 パートナーの織島は、今井より多く探索をするので、今井がこのスピードで疲労するのなら、さらに速い速度で疲労しているに違いない。

 あまり負荷が大きいと、足が壊れることもある。最も、そういう事にならないように鍛えてここまで来たのだが。

 今井達のチームは墜落した飛行機の探索を命じられていた。

 生存者はいなさそうなものだが、遺族のために、確認はしなければいけない。今井は、強い使命感を持って、今回の探索に望んでいた。

 何しろ、織島はそれ以上に今回のことに対して真剣だった。同期で信頼も強いが、何より織島には高い才能もある。強い人情もだ。

 水深計は千二百。海底は近い。

 今井の足はさらに疲労を続けていたが、このくらいの疲労はどうという事はない。上に上がるのは辛そうだが、織島が泳げることを祈りたい。

 そうだ。あいつが海底の、あのふわりとした砂の上で尻餅でもついていたら、一発殴ってやろう。浮上したあともう一発。

 水深計の深度はさらに深くなっていく。右翼と、半身が折れた飛行機の残骸が、見えてきた。辺りには部品や、人の死体も浮いている。

 俺達はこの死体の内から、判別のできる人間を探し出して、死亡確認と、遺品の回収を行う。

 今井と織島は終わってロープへ上がっていったはずだが、今井は、織島がついてきていなかったのに、気付いていなかった。

 途中まではついてきていたはずだ。いきなり折り返したんだろう。

 今井は、折れた機体の半身の、1mほどの割れ目から、最後に探索を終えた機体後部の座席のところへ泳いでいった。

 辺りには、死体や物が大量に浮いている。半開きのドアを開いて奥へと進む。ここが最後尾のはずだ。


 いない。

 

 どこだ。織島。遺品や死人のデータは、全てお前が握っているんだぞ。潜る前に言ったはずだ。必ず遺族に届けなければいけないと。

 今井は割れ目まで戻り、そこから出た。機体を見渡す。巨大だが、中にいないのであれば、外にいるはずだ。

 今井は折れた右翼の、沈黙したジャイロの向こうに、人影を見た。

 いたか。一発、殴ってやるぞ。

 今井は疲労がかなり進んでいる足を動かし、人影を目指す。

 そして、ジャイロへと着いた。


 織島は、ジャイロへともたれかかっていた。

 潜行用のガスボンベも口から外し、眠るように沈黙している。

 右手に、子供が抱きかかえられている。

 子供にはボンベが咥えられているが、既に死んでいる。


 織島。

 お前は、何がしたかったんだ?


 今井は、ロープへと戻った。そして浮上した。


 足の異常な疲労の原因は、旅客機が沈没した後の、大きな潮の変わりによるものだった。他の仲間もそれに気付き、速めに浮上していたのだ。

「織島は、おれが殺しました」

 仲間達に殴られ、艦長の罵声は、受けるがまま受けた。

 俺は見せしめに辞めさせられ、その後、経験を活かして、ようやっと、ライフセーバーの訓練官になることはできた。


 動かない織島を見た時の、心にあまりに重苦しい鐘が響いたような感覚は、今井の心を叩きのめした。

 暗い。深い。心の、とても深いところに、鐘が鳴り響く。鈍く、重い音が、鳴り響いて、今井の心が、耳を、つんざくような悲鳴をたてて、軋む。


 恐怖なんかじゃ、ない。

 おれが泳げなくなったのは、織島。お前のせいだ。


 時計の針は午前四時、二十六分を指す。


 なんだ。

 今井の心の中に波紋が広がる。それは何かの波紋で、今井の心の中に、素早く、大きく根を生やした。

 今までは、この音が嫌いだった。心の中で響き続けて止まない、この鐘の音が。

 だが何故だろう、今は、そうも感じない。

 心の中で、自分の人生はドラマチックだとでも感じているのか。吐き気がする。

 だが、今井の心は、今までとは別段、晴れやかに、変わった。



 仕事に出かける時間になっても、今井の心から、未だに、鐘の音が鳴り響く。

 不思議と、心地よく感じるようになってきた。おかしい。明らかに、おかしいのだ。

 織島の死に対面したときの、あれが、そのまま鐘の音なのに。おかしい。おれは、少しおかしいんだ。

 今井はジャージに着替える。

 チビ助は、珍しく起きてこない。どうしたんだか。


 今日で今週の勤務は終わりだ。明日には散歩に行けるぞ。チビ助。

 青い餌用の皿にドッグフードを盛り付けて、ドアを開ける。チビ助は犬小屋の中で寝ているままだ。

 空が青い。今井の心の中には、これまでの灰色の、色の無い世界を見るかのような、傍観者としてではなく、群青を色として、受け止める心が根付いていた。

 激しく脈打つ。実際の心臓の鼓動は、いつも通りのはずなのに。俺の心は。燃えている。激しく、燃え上がっている。


 今井は今日だけは、空を見ながら歩いた。

 親父。あんたにもこういう時があったのか。生きていたなら、教えてほしかったな。これがなんなのか。この胸の高ぶりは、一体なんなんだろうな。親父。


 夜に、なった。

 風は、枝垂桜の花びらを運び、その桜色の匂いを運んで、今井を通り抜ける。

 今井は、商店街の門をくぐり、真ん中の道を歩く。

 腕時計を見た。針が刺すのは、午後、十一時、三十九分。

 人は歩いていない。今井以外には。

 店がちょうど閉まる時間なのだ。つくね屋が開いていたら、買っていきたかった。

 つくねは、最近安い。

 以前は、時々、主人の機嫌が悪い時は上がるのだが、ここ2ヶ月、身投げを助けた時からは、ずっと安い。景気がいいのだろう。

 ふと、宝塚の劇場が目に映った。

 桜座か。身投げの女の。

 カーテンのかかった、入り口のすぐ右に、受付がある。

 今井は近付いて、受付の前へ立った。

 若い娘だった。少し眠そうだったが、金を渡すと、すぐに券を渡した。今日最後の公演のようで、物珍しそうな目でちらりとこちらを見る。機械のように動き、奇怪と言いたげな目で見る。

 今井はカーテンをくぐり、劇場の奥へと入っていく。

 すぐ突き当たりで、左と右に分かれている。二つ劇場があるらしい。券を見ると、右側の劇場でやっているとのことだ。

 劇の名前は「人魚の沈黙」。

 少し進むと、開けたところに出た。暗いが、ここが劇場らしい。誰もいない。受付嬢の対応の意味がわかった。商店街の中にある店にしては、でかい。それでも、宝塚では小さい方なのかもしれない。でかいところは、映画館よりでかいと聞いた。

 今井は、適当な席を探し、その席へと座る。

 やがて、司会が出てきた。

 劇が始まる。





 今井は劇場を出た。車酔いした気分だった。劇はあまり見た事はないが、なかなか良かった。

 問題は、内容だった。

 一人の美しい人魚が、人間の王子に恋をするが、敵わない恋に苦悩し、紆余曲折を得て、王子の前で命を絶つというものだった。


 今井は劇場に一人だった。そのことが、余計に彼の心の奥深くで鳴り響く鐘の音を大きくした。

 よりによって、主演の人魚は俺が助けた身投げ女だ。南無阿弥陀仏。

 花形というだけある。美しかったし、引き込まれるような演技も上手かった。

 だが、物語は、今井の心に巣くう、鐘を、大きく鳴り響かせただけだった。

 くそ。見るんじゃなかったな。


 しかし、今井はそれほど苦には感じていなかった。

 辛かったのは、遠い昔。十年か十五年以上前の、記憶が、まるで今井への当て付けのように、膨れ上がっただけだった。

 朝の鐘の夢より来るビートは、俺の心の中でまだテンポを刻み続けている。リズムが、俺の体に完全に生きている。

 戸川のように表すなら、こうだろうか。ほう。悪くないな。

 今井は笑った。深夜の商店街の街道のど真ん中を、歩きながら、懐から、中折れの煙草を取り出した。あれから、ずっと持ち歩いている。持ち歩いているだけだが。

 煙草は、ずっとやっていないな。

 煙草を吸う真似だけ、やってみる。

 意味が無いが、火もつかないのに、これをやっていると、心が落ち着く。

 この落ちこぼれの煙草には、ニコチンも何も入ってないんだぞ。今井の心の中では、未だに正体のわからない鐘が、心の底辺の方で、音を鳴らし続ける。


 おれは、変わった。

 心の中で、音を立てて、何かが拉げる。歪んでいく。形を変えていく。

 どこが変わったのかはわからないが、俺は、この状況を、楽しんでいる。

 突然、泳がなくなった理由になる記憶を思い出したからではない。いやな記憶を当て馬に心を攻撃されたことではない。

 おれは、生きる事に喜びを感じているのかもしれない。

 

 何故だろうか。織島のことがあっても、今のおれは、何故、こんなにも、楽しむ事ができるんだろうか。

 今井は決めた。河内にまた会うことを。


 桜は舞っている。今井が歩く先も、歩いた先も。たくさんの花びらを散らしている。道を彩っていく。今井の道を彩っていく。




  第五章





 土曜日。

 普段なら、チビ助と散歩に出る時間だったが、今井は戸川に電話をかけた。

「何の用だよ」

 今まで、眠っていたんだろう。前の散歩の時は、割と早めに顔を出していたが、それは、あの日はたまたま戸川と話す約束をしたからだ。

「河内と会う。お前も来い」

 戸川が黙ったが、数秒の後、再び重苦しく口を開いて言葉を吐いた。

「何を急に言い出してんだ、おまえ。この前は会いたくないとか言ってたじゃねえか」

 今井はそれを聞いて本当に驚いた。そうだ。俺は会いたくないと思っていた。

 その後、少し間をおいて、鐘の夢を見た事を話した。

 戸川も、今井が現在に至るまでのことは知っていた。河内も聞いているはずだ。

「何かと思えば、同期の亡霊に耳打ちされたのか。らしくねえな」

「おまえは、最近至極まともな事を言う」

「おまえが、最近ちょっとおかしいだけさ」

「おかしいんじゃない。これまでが、冷めすぎていただけだ」

 戸川が受話器の向こうで溜息を吐いた。

「だとしても、河内に会いたいだなんて、急すぎるぜ」

「お前が空いた時でいい」

「ちょっと待て。お前にも仕事があるだろうが」

「必要なら休暇も取る」

 その言葉が届いた瞬間、受話器から叫びにも近い怒号が飛んできた。

「ふざけんなくそったれ。河内に会いに行くために仕事休むのか?河内に会いに行ったところで、おまえの今の生活の、一体全体何が変わるってんだ」

 戸川の言う事はもっともだった。四十年付き合っていればわかることだが、実際、こいつが実は一番まともな人間だ。普段から、少しおかしくなろうとしているだけだ。

「俺が空きゃいいんだな?仕方ねえ、行ってやるよ」

 今井が黙っていると、戸川は少し苛立った口調で再び、口を開いた。

「最近は、お前に手助けされてばかりだ」

「助けた覚えはねえよ」

「実際に、助かっている」

 戸川がまた溜息を吐いた。

「最近のおまえ、本当変だぜ」


 今井は受話器を置き、電話を切った。


 変、か。

 今井の心の中では、未だに鐘が脈打っている。


 今井は、あの仕事をしている間は、今ほど冷めた、大人ではなかった。

 俺が変わったのは、織島が死んだ時だった。

 あの鐘が打つ感覚。あれが、俺の心を閉ざした。深く、暗いところに。

 俺は、海底千二百メートル近く、織島の所に、心を落としていってしまったのかもしれない。


 織島。返しに来てくれたのか?俺の心を。織島。

 俺は、変われるか?


 河内に電話をかけ、集合は前に深夜に河内と待ち合わせをしたファミレスの前にした。

 戸川も行くと言うと、嬉しそうだったが、今井の心の中には、まだ河内に対する違和感だけは色濃く残っている。




 駅前の桜の木は、朗らかな空によく映えている。

 昼間、今井は戸川と予め速く会う約束をした。

「早春、眺めは晴れ渡る青空に美しき桜色の花びら舞い落ちる。桜の木は数あれど、甲乙付け難し」

 戸川が突然口を開いた。詩、か。

「らしくないな」

 その言葉が耳に入ったのが意外だったのか、素っ頓狂な顔でこちらを見てきた。

「俺って素質あるよな」

「お前らしい」


 戸川は聳え立つ桜の木を見上げると、絶えない微笑を顔に浮かばせて、河内の姿を探した。

「そんなに、楽しみか」

「どうあろうが、親友は親友だ」

「そうか」


 今井は、駅の改札口から河内が出てくるのを見かけて、戸川に教えた。河内も気付いたようで、こちらに手を振ってくる。

「おまえは、いつも通りでいろ」

 河内のこと、身投げのこと、織島のこと。それらに対する気持ちで、締め上げられるように硬くなった喉から、今井は声を絞り出した。

 戸川がこちらを見た。今井がそれを言った後も、戸川は、静かな顔でただ黙っていた。


 今井の隣に戸川、対して河内という配置で、席に座った。三人とも、飲み物を頼んだだけだ。

「久しぶりだな、戸川」

「おお、お前もよ。二十を跨いでも、笑顔が絶えないねえ。おれは、こいつといて、感覚がマヒしちまったよ」

 河内が笑った。

「三人でこうやって会うのは、本当に二十年ぶりになるな」

「おうよ。これで、田んぼの中だったら、どれほどよかったかな」

 また、河内が笑った。俺も、少し笑みがこぼれた。

 三人で遊び回って、間違えて田んぼの中の苗を、戸川が踏み潰して、そこの主の人に怒られて、クワを振り回して追い掛け回された。罰として、全員で農業の手伝いをやらされた。

 日差しが暑くて、麦藁帽もタオルも無いし、ただ私服の、シャツとズボンの、裾をまくっただけの軽装で、苗を植えた。

 終わった後は泥んこで道に寝転がった。自転車で五分ぐらいの、林の中の川で、水浴びして、何時間も水をかけあってはしゃいだ。


 今井は、それを思い出すと、尚更この違和感を拭わずにはいられなかった。

 そして、最近のこの違和感から来る、謎を振り払うように、今井は口を開いた。

「河内。桜座を、見に行ったよ」

 河内の表情が一変したのが見て取れた。戸川も、若干驚いていた。

「そうか。どんな劇だった?」

「人魚の沈黙、というお題目だった」

 河内が、急に黙る。


「俺が助けた、女。花形だったよな。そいつが主演していた」

 河内は、驚いた顔をして、すぐ、沈むように俯いた。

「知っているんだな」

「ああ。俺が始めて見た、桜座の劇だ。一番有名な劇で、あの花形の、十八番さ」

「どうも、この前ここで会ったときは、少し変だと思っていた」

 俺は、続けて話した。

「河内。おまえは何を思って、あんな話をした?」

 河内は、俯いたまま、沈黙していた。俺が見た、劇の終盤の、自ら命を絶って、沈黙する、あの人魚のように。


「今井。使い古した表現を借りるなら、これは、運命の悪戯、かな。」

 なんだ?何を言っているんだ。


「お前が助けた、桜座、花形の名前は、織島一恵だ」


 鐘が、鳴り響いた。

 その鈍く重苦しい音が、一層巨大な音となって、今井の胸の中に、大きく響いた。


 そんな、馬鹿な。


「お前の同期の、織島康生の娘らしい」


 織島。

 おまえは、おれを、助けてくれるのか?




 河内と別れた後でも、今井の心の中では、未だかつて感じたことのない緊張感が心を叩き続けていた。心臓の鼓動が、自然に、重く、速く、脈を打ち続けている。胸が熱い。焼け落ちるように熱い。

「なぁ。その織島一恵ってのに、会ってみないか?」

 戸川が、空を見てそう言った。日は、まだ落ちてない。

 怖い、という気持ちがある。いざ会ってみて、何を話していいかわからないんだ。

 俺が織島の同期だということを知っていたら、あの時の、浮上した後の時のように、殴られ、散々の罵声をぶつけられる事になるかもしれない。

 今井は、自分にとってはそれでも構わなかった。心の中のこの暗雲を払えるだろうからだ。ただ、織島の死亡動機は、未だに誰も知らない。彼女がそれを知ろうと知りまいと、俺は、彼女の気持ちには応えられない。

 俺自身、織島にあの時何があったのか、全くと言っていいほど知らないからだ。

 知っているのは、織島があの場所で、あの状況で、死んでいたという事だけ。

「会えば、何かわかるんじゃないのか?」

「全く、わからん」

 どうすればいいのか、わからない。

「今井。織島って奴がどうあろうと、そいつが死んだことには変わりないし、変わるとすれば、それはその娘さんに会うことだろ」

 戸川は最近、まともなことを言い過ぎる。

「お前には、感謝してもしきれない」

 俺は、織島一恵に会う。人生に、決着をつける。




  第六章





 煙草の煙が、五月蝿いことこの上ない。

 最近になって、急にそう思うようになった。煙草はストレス解消のための趣味だったはずだが。いつもはマイルドセブンだったが、今は嫌いになった。

 煙草を嫌いになるとは、近頃の俺は…色々と、変すぎる。

 駄目だ。いつもの俺じゃなくなってきている。

 だが、ライターと、中折れの駄目になった煙草はまだ持っている。何故だろうか。

 煙草は、咥えるだけじゃ何の面白みもない、酒からアルコールを消したようなもんだ。つまらん。

 だが、最近の俺は、気付いたらこの中折れの煙草を咥えている。

 早朝の、誰もいない、真っ暗な、仕事場の更衣室に着くと、このライターを点けている。点火する、火打石のような弾けた音と共に、ゆらりと、一筋の炎が現れるのが、今井の心をくすぐるのだ。


 今日も、仕事帰りに、つくね屋に寄った。

 主人は、煙草を吸っていた。機嫌は、悪いようだった。珍しい。ここ最近は、主人の機嫌も良かった。

「あれ、もう吸わないんですかい」

 右手でペンを持つような仕草をして、主人がそういった。左手はズボンのポケットの中だ。

「やめました」

「そいつは本当ですかい?おおっと」

 こいつはいけない、と、主人はそんな顔をして、煙草を落として踏みにじった。煙が少し残る。

「気を、使わないでください」

「そんなわけにはいかねぇ。常連さんだしなぁ」

 機嫌が悪いといっても、少し苛立っているだけだと、そう今井は感じ取った。少なくとも、主人の顔は、苦かった。

「どうか、されたんですか」

「ちょっと、跡取り息子のことで、一悶着あって。ね」

 主人が、途切れ途切れに、大切に言葉を選びながら、目で語りかけてきた。

「縁談、ですか」

「さすが今井さん。鋭いね。その通り」

「縁談で、一悶着」

「んー、どうも、向こうの方は、乗り気じゃないみたいでな」

 主人はなるべく穏便に、言葉を選んでいるが、若干、怒りが、顔中から滲み出ている。

「まあ、表向きにはできねぇことでよ。すまんな」

 縁談が破棄されそうなのか。向こうが渋っているわけだ。政略結婚だろうか。相手の地位が上で、相手がそれを拒めば、色々と困った事になるのも頷ける。

「今日は、いくらですか」

「二百!」

 一悶着で済みそうもなさそうだ。


 家につくと、ビニール袋に、5つのパックで詰めて、持ってきたつくね焼きの匂いを嗅ぎ付け、チビ助がまた飛んできた。

 こいつは、食べ物が絡むと、素早い。おまけに、強い。張り倒されたこともある。

 適当な一本をチビ助に放り投げると、チビ助は即座にその一本を追いかけて、今井の部屋の奥まで飛び込んでいった。さあ、今のうちだぞ。あいつが食べ終わる前に、この大量のつくねを何とかしよう。

 今井は、チビ助にあげる一本として抜いた、残りの三本が入ったパックを一つ手に持って、あとの袋溜めのつくね焼きを、まとめて冷蔵庫に突っ込んだ。

 椅子を引き、腰をかける。卓上につくねのパックを置いて、中折れの煙草を一服。ふう。この時間が至高の一時だ。

 パックから一本のつくねを取り出し、食べ始める。

 今日は、少し焦げている。


 あの店は地位も、それなりに大きい。商店街の中で政略結婚。相手方は乗り気じゃない。その中で上に入るとすれば…

 待て。表向きにできないこととは、なんだ?

 今井の頭の中で、暗雲が立ち込め始める。

 予想で終われば、それで済む。


 だがやはり今回のことは、一悶着ではすまない。


 今井の一週間は、虫の居所が悪いまま、終わった。あくまで、変わらない毎日である。変わるとすれば、頻繁に毎日、河内と電話をしていた。織島一恵に会いに行く事でだ。

 

 土曜日。仕事が休みの日。今日はチビ助の散歩をする。時間は、あり余っている。考える時間も、十分にある。

 つくね焼きを一本、口に咥えながら、白いシャツに皮のジャケットを羽織る。家を出る。

 いつも通り、居太刀橋を通り、商店街を巡り、駅前を通り。この町を、一通り周る。散歩コースの桜は、全てが、上々だった。今井は、桜が、割と好きである。

 チビ助は久々の散歩だからなのか、嬉しそうに、胸を張って歩く。

 ああ、雌犬が多いからか。

 どうせ、この前、行けなかったときは、勝手に抜け出して一人で散歩していたんだろうな。

 時々、こいつの中には親父が入っているんじゃないかと思うほど、親父らしい人間臭さが、チビ助の性格を際立たせていた。

 家に帰り、玄関に入ると、チビ助が勝手に家の中に入って即座に冷蔵庫の前までいく。

 目ざといやつだ。少し憎たらしい上に、やりにくくて敵わん。そう、この感じが正に親父に似ているのだ。

 冷蔵庫から、つくねのパックを取り出し、開けて、地面に置いた。チビ助はすぐに食べ始める。馬鹿め。それは一番焦げたやつだ。

 しかし、チビ助はあっという間に、美味そうに、平らげてしまった。

「お前には、敵わん」

 チビ助が、すまし顔で、左耳をぴくりと、動かした。




 今井は腕時計を見た。時計の針が指すのは、八時、四十七分。

 そろそろ、か。

 櫻座の公演は速く、長い。やはり数をこなすので、主演は時間ごとに変わる。

 今井は、その空いた時間を狙うのだ。

 織島、一恵。

 今井は、ここに来て、使命感のようなものを感じ、胸が高揚していた。最も、外観は、どこも変わっていないように見えるのである。

 しかし、彼女に会った、とはいえ、今井を救うか、叩き落とすかは、彼女次第。だが、そうだとしても、今井は心の中で、長年自分が背負ってきた重い荷物が、やっと置いていけると、張り詰めていた心の中が、これから、安堵感に包まれることに気付いていた。


 九時になるまで待ち、今井は家を出た。

 商店街の櫻座の公演開始は、九時ちょうどだ。彼女が主演のものは、最初の公演の次にやる。河内との電話で、そういう類のことはわかった。

 桜座の裏口から周り、織島一恵に会いに行く。止められたら、その時はその時だ。実力行使か、俺が、織島の同期である事を教えるしかない。どちらにしても形勢は不利になるばかりだ。ばれないように、忍び込むしかない。

 商店街の櫻座を目の前にして、今井は、これまでの自分の人生を変える、ここが分岐点であると、そう悟った。だが、この分岐が、どれだけ多くの枝に分かれ、どれだけ多く、今井の人生を変えることになるかは、今井自身にもわからない。わかることがあるとすれば、それは、今井の人生が変わること。それだけなのだ。

 受付には、たくさんの人が並んでいた。散歩で通ったときも、それなりにはいたが、やはり人気があるという事だけは、その長蛇の行列から見てわかった。数十分の間に、これだけの人を集めるのは、並大抵の宝塚、ましてや、商店街では、ありはしない。

 店と店の間には、人が通れるほどの、細く暗い道がある。受付嬢が忙しい今しか、通る機会は無いだろう。もっとも、ここを無事に通った後も、彼女に何事もなく会えるとは、限らないのだ。

 今井は、その細道を歩きながら、中折れの煙草を、咥えた。そして、その通路を抜けた時、中に入る、櫻座の正規の入り口とは違う、裏口の両開き扉が見えた。

 当たり前のことだが、扉には、「関係者以外立ち入り禁止」という文字のシールが貼られている。

 今井は、扉を開けて中に入ると、全速力で、走り出した。




 関係者しか立ち入ってくることができないはずの化粧室に、その男は突然入ってきた。

 ファンにしては、熱烈すぎるし、歳も、そう若くないように見える。

 私は、突然入ってきた、その男の、親の仇でも見つけたような、そんな目に自然に惹きつけられ、マニキュアを持っていた手を完全に硬直させてしまった。

「織島、一恵だな」

 男は、野太く、ぶっきらぼうな声を、ようやっと出した。男は、今井雅史と言った。その名前を聞いたとき、私の心の中で、何か、鋭いものが、ひっかかった感じがした。

「織島康生という、海上救助隊の一人だった男の、相棒だった男だ」

 父の名前を出された時、私は、泣きそうになって、少し俯いてしまった。


 どれほど、待っただろうか。こんな日が来るのを。

 父のことは、誰も教えてくれなかった。ただ、父の死に際と、父と一緒に潜っていた人間が、今井とかいう人だというのは、よく、母から聞いた。

「教えてほしい、事がある」

「今井、さん。私にも、教えて欲しい事があります」

「今井でいい。俺から、聞こう。君の父は、破壊された飛行機の、ジャイロの部分で、子供の遺体を抱えて、ガスボンベを子供に吸わせて、死んでいた。何故だ?何故、織島は、死んだんだ」

 今井、という男は、言葉をゆっくり吐き出しながら、それまでの、冷静な一面を疑うほど、熱のこもった声で、私に質問を投げかけてきた。しかもそれは、私の聞きたい事を、掻い摘んで話したものだった。

 焦りを見せているところを見ると、男は、あまり時間が無いらしい。当然だ。ここは一般人立ち入り禁止のところだ。

 私は、重い心を、必死で、縄をくくりつけて引き上げた。これまでの、冷め切って、閉ざした心を、少しでも晴れ渡らせる可能性が、今、こうしてやっと、私の前に立ってくれている。この人も、様々な思いを抱えて、ここまで歩を進めてきたのだろう。私に直接会いに来たという事実が、それを物語っている。

「織島康生には、娘という存在がいました。そして、織島康生は、その場で見た、子供の遺体を見ていられなくなり、自分も死ぬことを選んだ、と、そうしか聞いていません」

 今井という男は、それを聞いて、しかめっ面をしたが、その後、下を向いて考え出した。


 海流は飛行機の大破で大きく流れが変わる。エンジンは少しの間生きていたので、沈むまでに、少しの間に起きたジェット噴射が、海流をしばらく、大きく変えさせたのだろう。流れは地面にぶつかり海面の方向まで盛り返す。上昇の時の疲れはあまり無かったのはそのせいだ。逆に、下るときの疲れは、大きい。

 織島は、別段、疲れた様子もなかった。だが、俺が、生きている織島を最後に見たのは、機体の上で、帰還しようとした時だ。

 あの時、ジェット機の上部、集合地点に戻ろうとしたとき、織島は子供の遺体を見たのではないだろうか。途中までついてきていたという事は、やはり気になって戻った。生きているはずも無いのに、だ。一回の往復ならまだしも、俺が織島を探しに戻った時は結構な疲れがあった。織島の探索は、仲間が速くにいなくなっていた事から、かなり大目に動いていた。ならば、子供の遺体の部分まで行って、上へ上がる力も、無くなってしまったのではないだろうか。そして、俺が織島の不在に気付いて戻っても、その疲労で二人分を抱えて泳ぐのは、無理だろう。実際、俺は船に帰還して引き上げられた直後、倒れて、しばらく動けなかったのだから。それほど、ジャンボジェット機の噴射による海流の変化は、巨大だったのだ。

「だから、織島は、子供へのせめてもの弔いとして、ガスボンベを口に入れてやり、死ぬことを選んだ。自分が死んだ後も、俺が遺体を見つけて、今こうやって君に話しているように、自分の想いを理解してくれる日が来るだろうと」


 今井という人は、そういう事を、ゆっくりと、私に話してくれた。

 私は泣いてしまった。

 なんだ。誰のせいでもなかったんじゃないか。

 みんな、誰かを責めていた。今井さんのこと、母のこと、館長のこと、仲間のこと、私のこと。

 でも、実際は違う。父さんは、その時の成り行きで、たまたま死んだだけだったんだ。

 私の心が、晴れ渡った。澄み渡る水色が。おおらかで、優しい、青空のように、大きく、晴れ渡った。


 長い間、止めていたマニキュアから、一滴の、水色の塗料が地面に落ちる。

 それは、水溜りのように丸く、空のように、広がっていった。

 二つの、織島の残した、託した“想い”の間に、それは広がっていく。





  終章




 チビ助は、つくね焼きの串だけを残して、その場に伏せていたが、今井が帰ったのを知った後、すぐに立ち上がって、またつくね焼きを出せとせびる。

「もう食っただろう」

 そう、一蹴された後、チビ助は寂しそうに、床に伏せた。


 今井と、織島一恵の中にあった、重いものは数十年の時を経て、今ようやく解かれたが、今井の中には、未だ冷めやらぬ疑問が、暗雲として、頭の中で渦を巻いていた。

 つくね焼きを作るあの店と、櫻座の花形が、縁談をしているかもしれない。

 確かに、最近は主人も支店を出したと言っていた。息子はそこにやったが、孫はまだ修行の身との事だ。

 そのお孫さんと、織島一恵の縁談。

 なるほど、どうして、悪い話ではない。あの主人の孫なら、政略結婚という汚れ役だとしても、悪い相手でも無いだろう。何故、彼女は嫌がるのだろうか。

 そのことは、まだ聞くべきではないと、今井はそう感じた。まだ、彼女の心が晴れたように見えた。それだけで十分だ。少なくとも今は。


 途端に、玄関からチャイムの音がする。戸川だ。様子を見に来たんだろう。俺が不在だったら、間違いなくチビ助が鍵を渡して、二人で冷蔵庫のつくね焼きを全て食いちぎったに違いない。

 ドアを開けると、見たのは戸川の顔だけではなかった。河内もいた。

「おまえも、来たのか」

「どうしても気になったんだ」

 二人に、櫻座に侵入し、彼女に会えたこと、彼女に話をして、二人とも疑問が晴れたことを話した。

「ほお、そりゃよかったが、結局、織島一恵は身投げの女だ。それで、縁談もあるって聞いた。まだまだ、一悶着ありそうだがな」

 やはり、縁談の相手は、彼女だ。

「今井。やあっと彼女の肩の荷も降りた。きっと、縁談は成功するんじゃないか」

 河内の言う事も確かに的を射ている。しかし、今井にとってはまだ、気になった。

 たかが政略結婚を避けるだけで、自殺?それが、その肩の荷が原因なら、彼女はとっくの昔に、自殺しているんじゃないのか。

「まだ、何かあるらしいな」

 戸川が、つくねを食べ終わったらしい。それを言ってから、小皿の上に串を置いた。河内も、食べ終わったらしい。

「ああ」

 俺も、あと一口。




 二人が帰った後、今井は、暮れ方になってから、再び、商店街に足を運ぼうと、玄関で靴を履いた。しかし、靴の底を踏む足に違和感がある。

 今井は、靴を脱いで、足を見てみた。

 靴擦れが起きている。

 縁起でもない。泳ぐのと一緒で、随分走る事をやめていたせいもあるが、これは、なまりすぎである。年齢とは怖いものだ。

 なるべくこすらないように、靴を履きなおして、家を出る。行き先は、つくね屋。


 つくね屋につくと、店先に出ていたのは、主人ではなく跡取りのお孫さんの方だった。

「主人は、どうされたんですか」

 そう聞くと、つくねを並べていた青年が顔を上げた。

「今井さん。今は、奥で休みです。店先くらいなら、任せても大丈夫だって」

 どうやら、腕を認められてきたようだ。

「お孫さん。聞きたい事があるんだが」

 俺が彼を連れて少し店先から離れ、店の脇の小道に入ると、彼もついてきた。

「苗字は岸田…と言ったか。確か、縁談を受けていなかったか」

「ええ。相手は、一向に心を開いてくれませんが」

 やはりだ。彼女は、俺に少し、似ている。心を閉ざし、深入りするのを嫌う。

「身投げしたんだったな」

「彼女は、そんなにおれが気に入らないんでしょうか」

「なにか、動機のようなものはわからないか」

「今回のことは、彼女の母が、強制的に組んだ縁談のようです」

 そんな馬鹿な。櫻座の方が地位も人気も知名度も上だろう。わざわざ、ここのつくね屋を選ばなくとも、宝塚のトップスターなら、相手はいくらでもいる。

 俺がしかめっ面のままなのが少し気に入らないのか、岸田は、続けてこう言った。

「おばさんは、こう言いました。町の知名度を上げたいと」

「そんな、理由で」

「そのようです。すいません。これぐらいしか、おれにはわかりません」

 そう言って、最敬礼をして、彼は店先に戻っていった。やっぱり、主人の孫だけはある。

 今井はしばらくその場に立ち尽くし、考えた。

 どう考えても、彼女や、その母の選択や行動には不可解なところが多い。

 今井はひたすら、考えたが、この一日の間に、あまりにも、多くのことが起きすぎた。今は、それを整理するのでいっぱいいっぱいだ。

 頭の中だけ頭打ちに燃え上がって、今井は家の前に着く。

 ポストの中に、何か入っている。

 取り出すと、差出人は「織島 衿子」。織島一恵の、母。

 手紙には、「最近、執拗に近付いているようですが、娘をたぶらかさないでください。そういう事をされると、こちらも法的手段に出ざるを得ないので。」

 おっと、冗談じゃない。そっちの行動で困っているのはこっちだ。

 この手紙を見て、今井は悟った。「町の知名度を上げたい」というのは、あくまで口上に過ぎないと思っていたが、櫻座は全国を周るツアーが多いらしい。彼女にいずれ男ができれば、その男の所に根を下ろすかもしれない。それは危険だと思ったのか。彼女に夫の意を伝えられる可能性は、夫と以前住んでいたこの町にいたから、初めてあったものではないか。恐らく、妻である織島衿子にも、夫が何を考えていたのかはわかっていなかったんだろう。そして今もわからないまま。

 恐らく、彼女の性格、行動、選択は全て、母が原因だろう。夫の死により過剰なヒステリックに襲われる母を見れば、あんな冷めた娘に育つのも、無理はないというものだ。ヒステリックに陥れば、夫の友人の名前だって忘れるときもある。身投げも、縁談を渋ることも、恐らくは母の行き過ぎた過保護が原因かもしれない。

 手紙が送られるのには一日以上は確実にかかる。俺が彼女に近付いたのは、今日の午前のこと。恐らく、直筆の手紙という事を見れば、直々のお届けかもしれない。どこで住所を知ったのかは…つくね屋の主人か。

 という事は、娘がこの事を知れば、もう一悶着だとか二悶着だとかいう話ではなくなってくる。


 今井は記憶を手繰り寄せて、これ以上ないほど思考をめぐらせた。

 彼女がまた行動を起こすとすれば、居太刀橋しかない。

 今井は、家に入り、チビ助を連れて、居太刀橋を目指して走った。靴擦れを起こして痛い足の裏にも構わない。チビ助の方が走るのは速いが、チビ助だけではもうどうにもならない。


 居太刀橋だ。今井は商店街側とは対岸の、橋の差し掛かるところで立ち止まった。息が、荒れる。五分程度走っただけなのに。足はまだ痛い。今井は彼女の姿を探す。



 いた。

 居太刀橋とほぼ直面する商店街の門から、化粧と、演技の衣装をした姿でやってくる。よりにもよって「人魚の沈黙」の人魚の姿だ。

 当然だ。まだ今日の公演は終わってない。

 

 今井は悪寒しかしていなかった。あの、全ての始まりの日。彼女を自殺から助ける直前、橋から川に飛び込んだ直前まで、自分が感じていた確実な悪寒が、今度は明らかな恐怖として今井の心を襲う。


 ふざけるんじゃねえ。親子二代に渡って同じ運命を辿らせてたまるか。あれを止める為に、俺は織島に託され、ここまで生きてきたんだ。


 死なせん。


 今井は叫んだ。大丈夫。深さはそれほどではないはず。


 川の下を見る。おかしい。この前は上がれる土手の斜面があったが、今日に限っては上がれないように、高い壁が川の横を阻んでいる。しかも水位が、高い。

 満潮だ。壁は、それの対策。夕方だからか。温度も下がる。あの衣装で一度深いところに戻っては、重さで泳いで上がれない。これでは、飛び込んだ後では助からないだろう。


 今井は走った。

 止めろ。止めろ。止めろ。

 彼女が、手すりに足をかけ、手すりの上に立った。


 もう、駄目だ。



 織島。俺は、人生に決着をつけるぞ。


 見渡す限りの、群青色。

 今井は、その中でただただ沈黙しているだけだった。

 上は、グラデーションがかかったように、明るい青で彩られていく。

 しかし、それは、あの時ほど、明るい青ではなかった。しかしそこも、どこかまた、綺麗なのだ。

 今井は下を見る。

 上を見るのとは逆に、今度は、暗くグラデーションがかかっていく。



 織島。今、行く。




 手すりの上に立って、落ちかかった人間は、自分が代わりに落ちる以外に、助ける方法は有り得ない。

 今井雅史は、私、織島一恵より先に飛び込み、私が落ちる前に突き飛ばし、橋に押し戻した。彼は、それで川に落ちた。

 そして、一匹の柴犬が、彼の名を叫びながら、助けようと川に飛び込もうとする私を押さえつけた。

 後に、今井の親友と名乗る人物が二人、すぐに駆けつけた。居太刀橋にいる人間のほとんどが、今井さんを助けようとしたが、満潮になった川の水深は、私が前回身投げを行ったときより、三メートルも深くなっていたらしく、引き上げられた時には、冷たくなっていた。


 今井さんは父と同じように、また何も、言わないで逝ってしまったが、私が母さんにその事を話すと、昔の、優しい笑顔の母に戻って、私に優しく教えてくれた。今井さんは、“私達”を助けようとしたのだと。

 縁談は破棄することになった。私は、あのつくね屋に嫁がなくても、ここに根を下ろすつもりだからだ。父と今井さんが私を生かしてくれた、この町に。


 まだ「沈黙の人魚」は公演している。あの事件の後、商店街の主催で、大きな祭りがある。櫻座は、「沈黙の人魚」を、橋の上で、やる事になった。主演は、私。


 今井さん。お父さんは、笑っていましたか?




北方謙三氏より「そして彼が死んだ」という作品に強く影響を受けて書いたのがこの作品です。同氏には心より尊敬の念を申し上げます。

執筆期間は約5ヶ月程度になります。

ハードボイルド小説というのでしょうか。この作品がその部類に当て嵌まるかどうかは言及し難いですが。

何分始めてなものですので、今回はキーワードを「人生」としてここに投稿させていただきます。

理詰めも甘く、甚だ未熟者ですが、よろしくお願いいたします。

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[良い点] 展開のテンポが良い。 チビ助に父親の面影を重ねる描写は上手かった。 [気になる点] ・主観による書き口と、客観による書き口が混在しているのが気になりました。  例えば、それまで「今井」と…
2010/06/10 16:15 退会済み
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