第12話 深淵の“奈落”とダンジョンの意思
——俺は、"佐藤カイ"という名前を知っている。
それは、小説の中で読んだ物語の主人公の名前だった。
……いや、本当に"小説"だったのか?
幼い頃、俺は"ある物語"を知っていた。
それは、一人の少年が"神託ダンジョン"と呼ばれる異世界の迷宮で12000年間修行し、成長し仲間を得て、やがて世界の真理にたどり着く——そんな壮大な物語だった。
その記憶は、まるで誰かが俺に語って聞かせたかのように鮮明だった。
登場人物の名前も、物語の展開も、すべてが詳細に思い出せる。
そういえば、このメイという美女も、あの物語に出てきた主要人物だ。
——けれど、その物語をもう一度読もうとしても、見つけることができなかった。
ネットで検索しても、書店を探し回っても、どこにも"そんな本"は存在しなかった。
有名なラノベかと思ったが、どんなに調べてもそれらしい作品はない。
じゃあ、この記憶はいったい何なのか?
俺は本当に、小説として"読んだ"のか?まさか、夢で見た、ただの妄想だったのか——?
そんなはずはない、まるで見てきたかのように鮮明に記憶しているのはおかしい。
そんな疑問を抱えたまま、時は流れた。やがて俺はこの"妄想英雄"としての力を得た。
……そして今、目の前にいる男が、その"佐藤カイ"を名乗った。
まるで、俺の記憶の中から現実に飛び出してきたかのように——
一瞬、自分の中の世界が、ぐらりと揺れた気がした。
彼こそは、俺を”妄想ぼっち”に仕上げた主因……一体何者なんだ?
(いま答えを聞くべきか……いや、もう少し様子を見てからにしよう)
俺はカイの顔を見つめながら、内心の混乱を抑えることができなかった。
——けれど、この違和感の正体を知るのは、まだ先の話になる。
考えがまとまらないまま、俺たちがダンジョンの深淵へと向かおうとしたその時だった。
「深淵へ向かうのは——シン、君だけだよ」
カイの静かな声が、広間に響いた。
「は?」
思わず俺は聞き返した。
「いやいや待てよ、白石だけ置いていくわけにはいかないだろ」
「シン。これは"君自身の力"に関わる問題だからね」
カイは落ち着いた口調で続ける。
「深淵はただのダンジョンの最深部じゃない。そこには、この世界の存在にも関わる"真理"が眠っている」
「……世界の真理?」
「そう。でも、同行者の意識が混乱した場合……ダンジョンの意識に”干渉”が発生する可能性があるんだ」
「意識が……干渉するだって?」
「わかりやすく言えば、"余計なノイズ"みたいなものさ。理解の許容範囲を超えた時、人は”混乱”するものだからね」
「それって……つまり、白石には理解出来ないかもってことか?」
「可能性の話だよ。リスクは少ない方が良いからね」
カイは微笑むが、表情はどこか"試している"ようにも見えた。
その時——
「待ってくれ」
白石が一歩前に出た。
「私も、どうしても行きたい」
その言葉に、カイが目を細める。
「……なぜ?」
「私は人類の知識を、一歩先へ進ませたい」
白石は、微かな真剣な表情を浮かべながら言った。
「私は"知りたい"んだ。支配者が何者なのか。シンの力の正体が何なのか。そして……"この世界"の真の姿を」
「世界の真の姿、ね……」
カイは軽く肩をすくめると、何か考えるように目を閉じた。
数秒の沈黙の後——彼は再び白石を見つめ、問いかける。
「じゃあ、質問に答えてほしい」
「もちろん」
白石は自信満々に頷く。
「君は、この世界……いや、この宇宙を創造したのは誰だと思う?」
俺は思わず「うわ、また哲学かよ」と心の中でツッコミを入れる。
白石がこんな問いにどう答えるのか、少し興味が湧いた。
白石は、ゆっくりと目を閉じ、数秒間、思考を巡らせる。
やがて——
「誰かが創造したのではなく、私たちがそう意識しているんだと思う」
「……どういうこと?」
俺が反射的に聞き返すと、白石は淡々と説明を続けた。
「私たちの知る宇宙、世界は私たちが"ある"と観測・認識するから"ある"。
時間が"流れている"と観測してるから、時間と意識している。
つまり世界は、観測する側の意識によって形作られる——」
「——なるほど」
カイは微かに微笑みながら、興味深そうに白石を見つめる。
「君も一緒に来ていいよ」
白石は満足げに頷く。
一方の俺は、"白石がカイの問いに正解した"というよりも、"カイの望む意識に達している"と判断したのではないかと感じていた。
(……白石、やっぱすげえな)
こうして、俺と白石は、カイに導かれ"深淵"へと向かうことになった——
導かれた場所は、地下迷宮という雰囲気ではなかった。
暗闇の向こうに、一筋の光が揺らめいている。
それは扉のようにも、裂け目のようにも見えた。
——いや、"境界"そのものなのかもしれない。
カイは何の躊躇もなく、その光の裂け目へと足を踏み入れた。
俺たちも後に続く。
——その瞬間。
「……っ!」
世界が"反転"した。
重力が消え、身体の輪郭が溶けるような感覚に襲われる。
視界が暗転し、意識が弾かれる。
脳が環境の変化についていけず、思考が一瞬、途切れそうになる。
——そして。
「……ここは……!?」
俺は息を呑んだ。
眼前に広がっていたのは、"闇"そのものだった。
どこまでも続く漆黒と静寂。でも無音ではない。意識の奥底で、何かが囁いているような……不思議な感覚がある。
それでいて、空間には無数の光の粒が漂い、星々のようにきらめいている。
だが、違和感がある。
それらの光は、まるで意思を持つかのように動いていた。
俺が視線を向けるたび、光の粒はゆっくりと軌道を変える。
まるで、俺の"意識"に応じて配置が変わるかのように——
「……無重力?宇宙に移動したのか?」
ぼそりと呟くと、すかさず白石が指摘した。
「シン、宇宙ステーションのことを言ってるんだろうけど、それは無重力じゃなくて"落下"だよ」
「落下?」
「そう。宇宙飛行士が浮いて見えるのは、重力がないからじゃない。"地球の重力と均衡する、ものすごい速度で落ち続けている"からなんだ」
俺は一瞬、思考が追いつかなくなる。
(……落ちてるのに浮いてるって、どういうことだ?)
すると、カイが微笑みながら口を開いた。
「観測点によって、状態が違って見える——感じるってことだね」
「……つまり?」
「ここは"奈落"とも呼ばれる、ダンジョンの最深部であると同時に、始点でもあるんだ」
カイがふわりと宙に浮かびながら語る。
「つまり深淵は、この世界の"底"ではないんだよ……むしろ中心とも言える」
その言葉の意味を理解する間もなく、俺は足元を確認しようとした。
しかし——"足元"が存在しない。
(これは……感覚が狂うな)
「ここには”上”も”下”もない。“方向”という概念すら存在しないんだ」
カイが静かに呟いた。
俺は思わず、自分の足元を確認しようとした——が、そもそも”足元”という概念すら曖昧になっていることに気づく。
「……本当に、ここがどこなのかも分からねえ……生きてるのか、死んでるのかすら……」
思わず零れた言葉に、白石が自分の手を握ったり開いたりしながら呟いた。
「……寒くも暑くもない。肌に感じる温度すら、意識次第で変わるような……不思議な感覚だな」
それはまるで、“現実”という枠組みから解放された空間——この深淵が、意識そのものを試しているかのような錯覚だった。
「そう感じるのは当然さ」
カイが手を伸ばすと、周囲に漂っていた光の粒が彼の周囲に集まってくる。
まるで、彼の手のひらに引き寄せられるかのように。
「この"光"は、すべての"世界"の情報だよ」
「世界の……情報。つまり科学の世界でいう”素粒子”?」
白石が興味深げに問い返す。
「うん、並行世界……"多次元の世界"は、この深淵を通じて、すべて繋がっているんだ」
俺は驚いた表情を浮かべる。
「じゃあ、ダンジョンって……別世界への通路なの?」
「そう、ダンジョンとは"並行世界の意識”を繋ぐ回路と言えるね」
「……!!」
思わず息を呑んだ。
(ダンジョンが並行世界と繋がっている……? じゃあ、こことは違う世界が無数にあるってことか?)
カイは静かに微笑んだ。
「さらに言えば——"並行世界の意識"が干渉することで生まれるのがダンジョン”なんだ」
「じゃあダンジョンの中に異世界があるんじゃなくて、回路を通じて違う世界と意識で交流してるってこと?」
戸惑いながら問い返すと、カイは落ち着いた声で続ける。
「そう、世界にも"意識"があるんだよ。記憶があり、感情があり、時には"夢"を見ることもある。それを”ダンジョンの意思”って呼ぶ人もいる」
すると、白石が持論を展開する。
「つまり、支配者は、異星人ではなく、ダンジョンを通ってやってきた異世界人ってことか……」
「君、ものすごく思考が柔軟だね」
カイは目を細める。
(白石……お前、いったいどこまで理解してるんだ?)
俺がその支配者に関する疑問を口にしようとしたその時——
「さあ——そろそろ見せようか。彼らが何者で、何をしようとしているのか……その答えを」
カイが深淵の闇の中で、ゆっくりと両手を広げる。
その瞬間——
無数の光の粒が弾けるように散り、狂ったように軌道を変えながら集まり始めた。
まるで意思を持っているかのように、ひとつの"形"を作ろうとしている。
「……これは……!?」
俺は思わず息を呑む。
光が絡まり、捻れ、交差し——やがて、それは"像"を結び始めた。
空中に浮かび上がる、無数の"影"。
それは人型にも見えたが、どこか異様で——何か……"人ならざるもの"のようにも思えた。
カイはその光景を見つめながら、静かに呟く。
「……これは"記録"だ。深淵が見てきたもの」
光の映像が、さらに明瞭に形を変えていく。
何かが始まる——そう確信した。
ここから——俺の進むべき未来が、動き出した。