Ⅴ フール・オン・ザ・ヒル
Ⅴ フール・オン・ザ・ヒル
モンパルナスの「KAGUYA」の事務所ではあき
子と紗矢がコンピューターのモニターを前にして頭を抱
えていた。あき子は井坂にすぐ連絡を取って啓とレナの
二人を守ってもらう段取りを済ませて東京に発つ準備を
していたのだが、東京を発とうというその日、紗矢がコ
ンピューターを前にして悲鳴を上げてあき子を呼んだの
だ。紗矢もシュトゥットガルトにまさに帰ろうとしてい
た日だった。バブシからもらった妖精ワクチンプログラ
ムもむなしく、事務所内十台すべてのコンピューターの
画面が以前と同じアナグラムの文字を出すだけになって
しまったのだ。ただ今回は以前と違って文字が小さく一
文字一文字カラーで表示されていた。まるで美しい虹の
ようにも見えた。
「どういうことなの紗矢。なんとかならないの?」
あき子はあきれかえった表情だ。
「全くお手上げなのよ。バブシからもらったワクチンも、
いくつか試してみたプログラミングも全然効かないのよ。
もしかしたら今度はデータもすべてやられるかも」
東京、広尾の事務所からの電話が鳴った。高瀬専務か
らだった。東京のコンピューターも同じくハッキングさ
れているらしく、そればかりか全国にある工場からも同
様の電話があり、工場は稼働すらできないとのことだっ
た。
「東京も工場も? 分かったわ。奴らは再び全面攻撃を
してきたってわけね。高瀬、これは戦争よ。とにかくセ
キュリティ会社にも応援を頼んで対処してちょうだい。
こっちもこれから臨戦態勢を敷くわ」
ちょっと大げさなあき子がそう言って電話を切った直
後だった。目の前のコンピューターのモニターだけが一
人の人物を写し出した。阿川だ。
モニターは語り出した。スタッフたちも固唾をのんだ。
「やあ、お元気ですかな? 小倉小路屋の諸君。社員の
皆様方はちゃんと働いていますかな? いや、こういう
状態であればそれは無理ですかな。ヒャハハハ」
あき子は驚愕しモニターに向かって叫んだ。こんな下
品な笑いの阿川は初めて見る。
「お前、何をやってるの、気でも狂ったの!」
隣の紗矢はこの状況の録音録画をスマートフォンとボ
イスレコーダーで冷静に始めた。
「お前達のような無能な奴らといつまでも一緒に仕事を
しているのが馬鹿らしくなってな、ちょいとお遊びをし
ているまでの事よ。そうそう、あき子お嬢様。いや、有
能な副社長さんよ。この書類がなんだかわかりますかな?
もうちょっと金庫を頑丈にしておくべきでしたな。簡単
に開きましたよ。もっともこれは俺の力だけではありま
せんが」
モニターの中の阿川はそう言うと株式会社小倉小路屋
の権利書と株券を画面に見せた。そして、もう一枚の書
類は小倉小路屋の全権利を阿川に譲渡するという書類だ
った。
あき子はモニターに向かって叫んだ。
「阿川、何なのよそれは! 株券まで持ち出して何を企
んでるの!」
「この書類を覚えていますかな。モンパルナスの事務所
でサインしてもらった書類ですよ。有能な副社長さんは
ちゃんと見ませんでしたね。あれは会社の譲渡と株券の
譲渡を私に全権委託することを承諾する文書だったんで
すよ。ほれ、ここに副社長のサインと印があります。し
かもこれは社長の代理として認めるというものですよ。
合法的にこの会社は私に譲渡されたということです。あ
なたの優秀さに敬服いたしますよ。ヒャハッ」
「阿川! 先代の社長からの恩義を忘れたの! 自分が
何をしているか分かってるの!」
「うるせえ! 恩着せがましく言うな。高瀬ばかりを可
愛がって、俺を見下していたのはお前らだろう。この会
社は俺様がいただくのが一番なんだよ。もっとビッグに
発展させてやるから大人しくお前らは蚊帳の外で見てや
がれってんだ」
阿川はあき子をののしるようにあざ笑った。冷静にこ
の状況を録画しながら見ていた紗矢は小さな声であき子
にささやいた。
「あきねえ、株券って言うけれど広尾の事務所に本当に
株券を保管していたの? 今は電子化されていて株券を
個人や会社で所持しているところなんかほとんどないは
ずよ。権利書までなんて、そんな大事なものを会社の小
さな金庫にお父さんが入れておくかしら」
「そういえばそうよね。お父さんもそんなこと言ってた
わ。株券のことはお父さんが管理しているからよく分か
らないけど、紗矢いいことを教えてくれたわ」
「何を小さい声でぶつくさ言ってるんだ。言っておくが
このモニターは録画も録音もできんぞ。スマホがちらち
ら見えるぞ、何の証拠にもならんぞ。ヒャハッ、残念だ
ったな!」
「ちょっと見て紗矢。阿川の後ろの景色に見覚えない?」
モニターに映る阿川の背景は小布施の工場の宿泊室だ
った。あき子は何回か行ったことがあるのでよく覚えて
いた。阿川は工場長をしていた時期があった。
「おい、聞こえているのか! どのみちコンピューター
の復元と工場の再始動は俺様しかできないのだ。それが
分かったらとっととそこから退け! 会社のデータもす
べて手の中にあるのだからな。来週から俺が社長になる
からそれまでに消え失せろ!」
阿川の犯罪証拠物件はこのモニターの録画だけでも充
分だったのだが、本当に録画されていないのかと不安な
気持ちもよぎった。ぷつんと突然、映像は切れてモニタ
ーはまた虹のような文字の羅列に戻った。阿川の声も聞
こえない。今の所なすすべは無かった。
強烈な睡魔から覚醒しきれない太郎丸は目の前の石で
できた丸い煙突屋根造りの家や洋館風の洒落た家や銀色
の金属が鈍く光る三角屋根の家が点々とあるのをぼんや
りと見ていた。しかし、はっきりと覚えていた。シュヴ
ァルツヴァルトの黒い森で捕らわれてその後夢の中で見
ていたのと同じ光景だったのだ。どの家にもやはりガレ
ージがあった。一瞬デジャブではないかと思えた。夢の
中でまた同じ夢を見ているという感覚だ。どうやら自分
は黄龍の背に乗っていて地上をスクリーンのように見て
いるようだ。少女の声が聞こえてくる。それが母の子守
歌に合わせて聞こえてくるような様子も同じだった。
「バルセス、バルセス、出てらっしゃい。いるのは分か
っているのよ、どこ? もう悪さをするのもいい加減に
しなさい。あの女の子達と石を返しなさい。さもないと」
遠くにきらきら光る山々が見える。廃車でできた山々
で前に見たのと全く同じだ。
金属片の固まりのようにも見えたが、美しい天空に連
なる神々しい山々だった。
この日の空も美しく澄んだ紫色だ。空を飛ぶ白いオー
スチンのオープンカーに乗ってダークブラウンのポニー
テールをなびかせる少女の姿が見える。あれがカグなん
だろうとぼやけた眠たい意識の中で確信していた。
しかしカグにしては言葉遣いがきれいだ。
「ふん、さもないとどうするのさ。いくら王女様だって、
脅かしても駄目だよ」
ふいに幼い子供の声が聞こえてくる。現れた姿はバル
セスと同じだったが幼い声だ。バルセスを見つけたカグ
は車をそばに下ろして諭すように言った。
「あなたはあの子達を梟にしようと思ったんでしょうけ
れど、まだ修行不足で魔法がちゃんとかけられないから
オカメインコになったんでしょう。私にはお見通しよ。
そもそも少女に魔法をかけるなんて、あなたには百五十
年早いわ。分かってるの! この事を法務省の私のおば
さま達が知ったらどうなるか」
「だって、石が欲しかったんだよ。この赤い石は龍の赤
玉だよ。僕、黄色い石と黒い石と白い石も青い石も二人
の人間からさっきもらったんだよ! すごいでしょ、黄
色い石だけでも車妖精の瓦礫や多くの車妖精達の体が元
の妖精体に戻ると言われてるのに! これで僕はヒーロ
ーになれるのさ!」
そう言うとバルセスは石を五つカグに見せた。カグは
じっとその石を見ると笑った。
「確かにあの少女から奪った赤い石は本物みたいだけれ
ど、その他の石は違うわ。その四つは人間界のトンボ玉
よ」
「えっ? 何を言ってるのさ。これが欲しいからって嘘
を言うなよな」
「嘘なんかじゃないわ。現にあなたがその石を持ってい
て何か変わった事でもあったというの? みんな前のま
まじゃない」
バルセスは悲しそうな顔をしてカグを見た。バルセス
は人間界にいる時の様子とまるで違っていた。妖精界で
は車妖精はまだまだ若い妖精達なのだ。妖精界に戻ると
子供になってしまうのだった。
「確かに何も起こってないな。おかしいなとは思ってい
たんだ。そうしたら、これを持ってきたあの人間達が僕
を騙したって事だな。もう人間界に戻しちゃったよ、で
もまあしょうがないか。僕が気がつかなかったんだから。
しかもたくさん褒美まであげちゃったよ。僕のお気に入
りの鉄くずなのに。お金だと言って喜んでたけど違うの
に。へへへ」
「いいことを教えてあげましょう。それはスコットラン
ドエルフ王家の神器の一つの五玉の中の赤玉よ。火之神
の神器よ。伝説の龍神の五玉の一つじゃないのよ。車妖
精界の復活には貢献しないわ。そもそも龍神の五玉が車
妖精界の復活に役立つなんて誰から聞いたの? ただの
うわさ話じゃないの!?」
「えっ? この赤いのがスコットランドエルフ王家の神
器の一つ! 何で分かるのさ」
「だってあなたの気持ちに復讐心がないでしょう。あの
二人の人間を許しているわ。その赤玉は妖精界ではそれ
を持っている者とそばにいる者の復讐心を消す石なのよ。
五つの石にはそれぞれの力があるのよ。あなたが彼から
奪おうとしていた黄玉は愛の石よ。今は赤玉だけが力を
出しているからその石だけが本物よ。何より、それを持
ち出したのは私だから間違いないわ。石の中心を見てご
覧なさい。中心に小さく妖精にだけ見える王家の紋章が
浮き出るはずよ」
バルセスが見てみると確かに浮き上がるように中心に
美しい紋章が小さく見えた。その紋章はスコットランド
王家の紋章に似ていた。二頭の白馬が中心にいるレッド
ドラゴンを讃えるように立ち、オークとオリーブの葉で
飾られていて立体的に廻っている。
「持ち出したって!?」
「そうよ、だからあなたが持っていたらどんなことにな
るか想像がつくでしょ。捕まって千年凍結罪よ。すぐに
あの少女に返しなさい」
「うわっ、大変だ。ごめんなさい! これがあのうわさ
の石なんですか!? オートモに預けたって本当の話だ
ったんですね」
「そうよ。五玉は女王になるための五種神器の内の一つ
よ。婚姻の石なのよ。御行様からもらった龍の五玉と交
換して預かってもらっていた物よ」
「すぐ返します。でもなんで王女様にではなくあの女の
子に返すんですか」
「それは預けた人から返してもらわなければならないか
らよ。五つの玉の交換でないと駄目なのよ。私は五年前
に大伴御行さんに預けたのだけれど、でも分かるでしょ。
人間界では千二百五十年経ってた。その子孫が五つをど
うやらばらばらに持ってたのよ」
「分かりました。あの少女に返します。王女様はあの少
年から石を返してもらいにきたんですね。残りの四つの
石もぜーんぶ。でも無理矢理取り返せばいいじゃないで
すか」
「初めはそうしようと思いましたが、あの少年の行動を
見ているうちにもしかして本当に御行さまの生まれ変わ
りなのかと思うようになりできませんでした。お話しし
てちゃんと交換してもらおうと思ったのです。それに四
つの石の行方もすぐに分からなかったので」
「王女様、もしかして私が言っていたことが本当に?
あの少年に恋心を?」
その時、ブシッという音と共にバブシがバルセスの脇
に姿を現した。
「バルセスっ、それ以上は言うなです! カグさんのご
心中を察するですし!」
「いいのよバブシ。御行さまはもういないのですから。
あの少年が生まれ変わりなんて私の思い過ごしです。そ
れに王様も無理な結婚はしなくていいと許してくれたの
ですから。とても大事にしているあの人達から今すぐ返
してもらうのも心苦しいことです。あの石はもう少し人
間に預けたままにしておきましょう。自然と返してもら
える日が来るまで」
「それでは王様にまた怒られるです。それに九月の第三
日曜日の百年に一度の天赦日に合わせて神器の玉を取り
返しに来たのですし、五玉が一日だけ一つになる日に」
「大丈夫です。私からもう一度しばらく待ってもらうよ
う頼んでみます。ではバルセス、女の子達を人間界に返
しなさい。女の子達はどこにいるのですか?」
「本当は梟にして友達のハラグロサイラにあげようとし
ました。でもオカメインコを見るとこんなのいらないと
突き返されて、どうしようかと思っていて家でまだピー
ピー鳴いています。言われてみればこの赤い石のせいか
もしれませんが、かわいそうだからそろそろ人間界に返
そうと思っていました。嘘じゃなく本当です。ごめんな
さい王女様!」
そう言うとバルセスの姿は逃げるように遠のいた。カ
グの声は追いかける。
「ありがとうバルセス。今度また悪さをしようとしたら
本当に許しませんよ。それから、本当に車妖精界の復活
を考えているのなら人間が車をもっと大事にするように、
機械を大切にするようにあなた達が人間を導いていきな
さい。きっとその方法はあるはずよ。分かったわねバル
セス!」
バルセスはその言葉を頷きながら聞いて飛び去る。カ
グは女の子達の心からも復讐心がすでに消えていること
を知っているかのように安心した表情でバルセスの消え
ゆく姿を見届けるとバブシと共にオースチンに乗りどこ
へともなく飛び去っていった。
太郎丸は茫漠とした意識の中でこれは夢だ夢だと呟い
た。しかし龍の肌の感触といいさっきまでの会話といい
どうも夢ではない。何より聞いてはいけない話を聞いて
しまったと思った。
とにかく助けようと思っていた史瑠紅たちは助かるよ
うだ。その安堵感は確かだった。
バルセスはカグのことを王女と言っていた。あの乱暴
な口をきいていたカグと同一人物だということが信じら
れなかった。同一人物だとしたら俺の前ではなぜいつも
あんな振る舞いをしていたのだろう。考えても分からな
いことだった。だが太郎丸の持っていた黄玉は妖精界に
はなかったことは分かった。そのことと史瑠紅たちが助
かることが分かれば今のところは良かった。人間界にあ
れば必ず元の場所に戻るものと信じていたから。
太郎丸は再び深い眠りに落ちた。そして、不思議な夢
をまた見た。カグが平安朝の着物を着て平安貴族の屋敷
内に座って老夫婦と会話していたり、五人の貴族のよう
な男と求婚話をしていたり、これはかぐや姫の話じゃな
いかと夢の中で思っている。いや間違いなくかぐや姫の
話だ。そして、今度はカグが十二単に身を包み、さっき
の五人の内の一人と部屋の中で会話をしている。男は貴
族姿であるが武士にも見える。この間、飛行機の中で見
た夢物語と同じ世界だった。そして二人の会話をはっき
りと聞き取った。
カグはその男に向かい最後にこう言った。
『私は御行さまを心より愛しています。いつの日か一緒
になれる日が来るまでその石を預かっていてください。
たとえ何年先であろうと』
確かにそう聞こえたが、眠りはさらに深くなっていっ
た。
史瑠紅と里美は気がつくと小布施の宿のベッドの上で
二人仲良く寝ていた。姿はオカメインコではない。二人
とも何のためにこの小布施の宿に泊まっているのかは想
い出そうとしてもうまく想い出せなかった。ただ、小布
施で大学の後輩達の合宿があってその応援に来ているの
だなと漠然と眠たい頭の中で想い出していた。二人の頭
の中に明に対する復讐心は全くなかった。
明はそもそも合宿には来なかった。宮木のおばさんが
言っていた遅れてくる二人の男女の学生というのは、一
年生の双子の部員で家の事情で一日遅れで合宿に来た。
明が何かを恐れて合宿に来なかったかどうかは、なぜ
自分の名前で緑明館を予約したのかも不明だった。二人
はたくさんの差し入れを持っていき、部長の藤柴みなみ
が笑う顔と後輩達の歓喜の声を聞いてただ喜んだ。史瑠
紅のそのしっとりと輝く髪の毛には赤玉のついたバレッ
タがしっかりと飾られていた。その笑顔は空の青と緑風
に映えてどこまでも爽やかだった。史瑠紅の中の太郎丸
に対するわだかまりの心が消えていた。自分を助けに来
てくれた感覚がかすかに残っていたのだ。
太郎丸は黄龍が現れた森の前でオープンにしたロード
スターのシートの中にいて目覚めた。見上げるとただ紺
碧の小布施の空に白い雲がぷかぷかと浮かんでいる。ト
ンビの鳴く声がのどかに聞こえてくる。史瑠紅と里美が
元気にテニスコートで後輩達と騒いでいる姿を見ると安
心して車を上信越自動車道へとすべらせた。パリのあき
子からすぐに東京の事務所に戻ってという電話を受けた
からだ。コンピューターがまたハッキングされたことも
知らされた。そして阿川が広尾の事務所に現れるかも知
れないからと言うのだ。
緑明館に帰ると宮木のおばさんがコンピューターを使
えることを自慢して見せてくれた。太郎丸と一緒に撮っ
た写真を印刷してプレゼントしてくれた。東京に帰ると
言ったら、涙ぐみながら手を大きく振って「お元気でっ!」
と叫んで太郎丸を見送った。
上信越自動車道が碓井軽井沢にさしかかった時だ。鮮
やかな雲一つ無いライトブルーの空に妙義山がそびえて
いて、太郎丸は山に向かって心の中で『おーいカグ!』
と叫んだ。この山には山人や天狗が住むという伝説を知
っていたから、繋がっているかも知れないと思ったから
だ。しかし、何も返事はない。妙義山はその岩肌を荘厳
にただそびえさせる。
車は軽快にカーブを切ってゆく。声は突然サイドシー
トから聞こえた。
「ブシっ、またまたお久しぶりです。黄龍の乗り心地最
高だったですか? ブシっ!」
突然サイドシートに現れたバブシを見て太郎丸はあま
り驚かなかった。慣れてきたのかも知れない。今日は変
な外国語を使わないだけましだった。ちょこんと座って
いる。
「本当にお前は肝心な時にはちょっとだけしか現れてく
れなくて何なんだよ。でもまあいいや。今日は本当に助
けてもらいたいんだ。うちの会社のコンピューターがま
たやられたみたいなんだ!」
「しょうがないですし。この黄龍フラッシュメモリをパ
リの紗矢さんに渡してくださいです。パリのCPを直せ
ばすべて回復するです。それから太郎丸さんはすでに解
答を手に入れているです。それは・・・・・・あっ、妙義山が
過ぎるですし。さよならですし!」
そのままバブシは消えてしまった。
バブシの言うとおり妙義山は後ろに行き過ぎる。効果
が消えたのかも知れない。
『バブシ! 解答って何のことだよ!』
サイドシートを見ると小さな龍神の形をした黄色のフ
ラッシュメモリのようなものがあった。バブシの言った
言葉を心の中で反芻した。
『解答を手に入れている』って何なのだろう。目の前の
なだらかなカーブから長い長いトンネルを抜けて車は風
を切っていった。
東京広尾の小倉小路屋のスタッフ達はコンピューター
の前で様々なことを試したが何の効果も出ていなかった。
全国にある工場は稼働していないので実質、百近くある
販売店の商品と冷凍倉庫にわずかに残る商品だけなので、
これ以上コンピューターが稼働しない日が続くことは店
舗の休業を意味した。このまま続けば商品を出せないわ
けだから商売は成り立たなくなって倒産ということにも
なりかねない。事態は切迫していた。
太郎丸は広尾の事務所に夕方近くに着いた。着いてい
きなり修羅場を見た。事務所はコンピューター対策どこ
ろではなく、阿川がスタッフ達に怒鳴り散らしていて事
務所から追い出している最中だった。阿川には屈強な黒
服の男が数人取り巻いていて、そいつらに高瀬専務が怒
鳴っていた。
「何なんだお前らは! 何の権限があってスタッフを追
い出しているんだ!」
「権限だあ? 高瀬、残念だったな。今日から俺が社長
になったんだよ。あの優秀な副社長のあき子様が俺に会
社の権限を一切譲ってくれたんだよ。あのあき子様は優
秀であられるからこの俺様を認めてくれたのよ。残念無
念だな高瀬専務、いや高瀬っ! お前は今日で首だ!
それからさっきからそこで、ぎゃーぎゃーわめいている
スタッフどもも首だ。明日から俺様の選んだ新社員が続
々と来るから安心したまえ。ヒャハッ」
阿川は実にこれ以上嬉しいことはないという高笑いを
する。太郎丸はそのやりとりを事務所の入り口近くで見
ていたが、はらわたが煮えくりかえる思いだった。こう
いう男も世の中には存在することを若くして目の当たり
に知った。時には自分に従順で優しかったこともある身
近な一人の大人がこんなことを思い、考え、そして実行
するのだと驚愕した。
それは信じることが愚かだと思える自分が見た妖精よ
りも信じられないものだった。
突然、数人の男達が事務所になだれこんできた。男達
は警官だった。警官達は阿川と黒服の男達を取り囲むと
睨みをきかせた。その中の一人の鋭い目つきの小男の刑
事が阿川に面と向かった。
「阿川友二だな。ちょっと事情を聞きたいことがあるか
ら署まできていただきたい」
その後、刑事は書類を読み上げ、連行時の事務的な言
葉をすらすらと言った。
「何だ、何だってんだ。何の証拠があって俺をしょっ引
くんだ!」
小男の刑事はポケットからボイスレコーダーを取り出
して音を出した。
『・・・もうちょっと金庫を頑丈にしておくべきでしたな。
簡単に開きましたよ・・・』
紛れもなく阿川の声だった。紗矢の録音は録音も録画
もすべて生きていた。警官達の到着はすぐに紗矢が警視
庁にデータを送った結果だった。それだけではなかった。
小男の刑事はすごんだ。
「それから阿川、フランスのインターポールから警視庁
に盗難車の輸入や拳銃の密売の件やら手広くやっている
らしい情報も入っているのだ。とにかく来いっ!」
阿川は警官達に抵抗しながらも、呆然とそれを見る太
郎丸の前を去っていった。阿川は罵詈雑言を皆に浴びせ
ていたがすべてむなしく聞こえた。パトカーのサイレン
が響いた。
「おぼっちゃん、お早いお着きで」
高瀬専務は居住まいを正して太郎丸に駆け寄って安堵
の笑顔を見せた。
「ごめん、すぐにパリに行ってコンピューターを早く直
さなきゃ。紗矢っぺえにワクチンソフトを渡さなきゃい
けないんだ」
「そうだろうと思いまして、チケットの手配はしてあり
ます。すぐにパリに飛べます」
「えっ? なんで知ってたの。ワクチンのことは誰にも
言ってないよ」
太郎丸は不思議な顔つきで聞いた。ここまで必死で運
転していただけだったからだ。
「いえ、おぼっちゃんの友人という人から電話がありま
して。すぐにパリに行ける支度をしておいてくれという
伝言が。あと・・・・・・電話を受けたスタッフの話ですと」
「何?」と太郎丸は高瀬専務に聞いた。
「そのおぼっちゃんの友人という電話の声は、言葉に
『ですし』とか『ぶし』と付けて話すのでスタッフの女
の子が電話を受けながら笑いそうだったらしく」
「分かったよ専務。間違いなく僕の友人だよ。それも大
親友さ、ありがとう」
にこりと笑って太郎丸は高瀬専務からチケットを受け
取るとすばやく立ち去った。
残された高瀬専務は怪訝そうな顔で、それでも嬉しい
ため息を一息ついて見送った。
モンパルナスの「KAGUYA」の事務所では東京か
らの連絡を受けていたあき子と紗矢が太郎丸の到着を今
や遅しと待っていた。初夏の陽光を受けた事務所前のト
ネリコの葉たちはそうとも知らずただ優雅に風にささや
き返している。太郎丸はそんなトネリコの葉を優しい眼
差しで確かめると脇道に入り事務所の従業員用の扉を押
し開いた。ここに住んでいた時に家族で玄関代わりに使
っていた懐かしい扉だ。
「マルちゃん大変だったわね! 高瀬から電話で聞いた
わ、阿川が逮捕されたって」
あき子は声を上げてソファーから飛び上がって迎えた。
太郎丸は片手を上げて微笑んだ。それから、ソファーに
深く座って日本に帰ってからのことを手短ではあったが
二人の姉に説明した。話がややこしくなるので妖精界に
行ったことは話さない。
「そう言えば、高瀬専務が盗まれた株券のこと心配して
いたけど」
太郎丸が不安げに聞いた。
「それも解決済みよ。南フランスの例のぼろ別荘で休ん
でるお父さんと、念のために奈良の本家の一蔵おじいち
ゃんにも確認したんだけどそれは大昔の株券で、本物は
ちゃんと電子化しているし、重要書類や株券自体も安心
できるところに保管してあるって」
そばにいた紗矢は厳しい眼差しで聞いた。
「それで、早速で悪いんだけれど例のワクチンは?
バブシくんからもらったという」
「これなんだけど」と言って、黄色の龍神の形をしたフ
ラッシュメモリをバッグから出した。そのずしりとした
重さと神々しい輝きに紗矢は少々驚き気味に答えた。
「前の巻き貝みたいなフラッシュメモリと違って随分豪
勢な作りね。じゃやってみるわ」
そう言うと紗矢はコンピューターの前に座りフラッシ
ュメモリを差し込んで作業をし出した。虹色の文字の画
面しか出ていなかったモニターに羽の生えたフェアリー
の姿が現れてこんな文字を出している。
『このコンピューターにはアクセスできませんでした。
アクセスできるコンピューターを探してください。ウイ
ルスを除去します』
モンパルナスの事務所のコンピューターはすべての小
倉小路屋のコンピューターと繋がっているのでそのアイ
コンが数百個出た。その一つ一つにアクセスすればいい
のかも知れないが、やっかいなことにハッキング防止の
ためにダミーのコンピューターアイコンがいくつもある。
しかも前回のウイルスのせいなのかコンピューターの数
を示す数値は増えていた。表示は千を超えていた。東京
からスタッフを呼んだとしても何ヶ月もいやそれ以上か
かる作業だ。パスワードの割り出しは手間はかかるが現
地スタッフに聞いていけば何とかなったが、もしかした
ら、それでもアクセスできない可能性もあるかも知れな
いと紗矢は思った。会社存続の危機がかかっているから、
一刻も早く復旧をしなくてはならない。
「どうなの紗矢。なんとかなりそうなの?」
あき子が心配そうな顔つきで前のめりになってモニタ
ーを見ながら紗矢に聞いた。
「うん、正直つらいわ。とても厳しい状態よ。このモニ
ターを見れば分かるでしょ。この中からどうやってアク
セスできるコンピューターを選べばいいか」
あき子がじれったい様子で少女のように足踏みをして
太郎丸を見てどやした。
「ちょっとマルっ! 何か聞いてないのバブシくんから、
もらった時に何か!」
「えー? な、何かたって」
しどろもどろになりながら太郎丸は必死にあの時のこ
とを思い出そうとした。確かにバブシは最後に何か言っ
た。そうだった。
「そうだ。そういえば、すでに解答は手に入れているっ
て言ってたよ。何なんだろう」
「何なんだろうじゃないわよ。すでに解答は手に入れて
るってどういうことよ?」
「マルちゃん、バブシに会う前に、その・・・・・・何かおや
っと思った出来事はないの? ちょっと冷静に思い出し
てごらんなさい。時間がかかってもいいから」
紗矢が冷静に少し語気を強めて言った。
「おやっと思ったこと・・・・・・小布施の空はいつもよりき
れいだったよ。あと、そうだな史瑠紅たちが元気になっ
て良かったこと。ジェラートのお店のミルク味は絶品だ
ったし」
「はあっ!?」あき子がジェラートに反応し、すごんだ。
「あ、ごめんごめんジェラートは関係なかったです。そ
うだなあ、他には・・・・・・宮木のおばさんが年なのに相変
わらず元気だった」
「良かった。おばさん元気なんだね。でもそんな事じゃ
ないと思うんだけど。他には?」
あき子は冷静に戻り宮木のおばさんのことはうれしく
思い笑顔を見せた。
「そうだ。その宮木のおばさんがコンピューターを使っ
て写真を印刷したんだよ。宮木のおばさんはすごいよ。
緑明館の経理から何からすべてコンピューターでやって
るんだぜ」
紗矢が冷静さを打ち破って、突拍子もない声を上げた。
「そ、それよ! それを早く言いなさい。それだわ」
「えっ、どういこと紗矢?」あき子は何が何だかよく分
からなかったが、紗矢を見た。
「緑明館のコンピューターが生きてるってことよ。生き
てるのよ! じゃなかったら、おばさんが使えないでし
ょ。アクセス先は緑明館のコンピューターなのよ。これ
で何とかなるわ! やったわマルちゃん。解答ってそれ
なのよ!」
「生きてるって? そうかそういうことか。バルセスの
データ解析の中には会社ではなく保養所としての緑明館
が反映されていなかったってことか。だから生きてる」
太郎丸が言い終わる前に、紗矢は素早くキーボードを
打ってアクセスしながら言った。
「そう、だからハッキング対象に上がっていなかったの
よ。だからハッキングされなかった。ウイルスにも感染
していなかった。小倉小路屋のコンピューターの休憩所
ね」
あき子はすべてを理解はしていなかったが、二人を見
て笑った。
「だから普段から言ってるでしょ。何事にもお休みと遊
びは大事だって」
けだし名言ではあったが、二人はあき子を見て吹き出
してしまった。窓の外のトネリコの木がそっと微笑むよ
うに風になびいて三人を包んだ。
それから数日後、太郎丸は日本に戻って大学の前期試
験に挑んでいた。当たり前のことだが勉強もほとんどで
きない状態だったので結果は散々だった。そして、何よ
りも奪われた黄玉のこととカグが言っていた返して欲し
いという五玉のことが気がかりだった。返すにしても自
分の分はないし、またカグに会えるかも分からない。会
いたいという気持ちは強くあったが忘れようともした。
しかし、あの口の悪さと愛くるしさだけは残像となりな
かなか消えない。
まあどうにかなるさと思っていた。
夏休みに入って間もなくあの史瑠紅がマンションを引
き払って太郎丸の住むこの実家に帰ってきた。態度は以
前と変わらなかったが、たまにご飯を作って「食べなさ
い」と言って太郎丸の前に出したりした。二人の間にも
うわだかまりの空気はなかった。
熱い夏の午後、パリのあき子から電話があった。啓ね
えさんとあの美人のレナが九月の第三日曜日に二人が旅
をして思い入れのあるというブルターニュの教会で内輪
だけの結婚式をあげることになったから来なさいという
知らせだった。それよりも何よりもよくあの父の蔵太郎
が許したものだと感心した。
「親父がよく許したね」
あき子は高らかに笑った。
「許すも何も、最初は仏頂面していたんだけど、『分か
った。おめでとう!』とあっさり言ったのよ。こっちも
持久戦覚悟だったから面食らったわ!」
「へー、あの親父がね」
「それがね、私たちも知らなかったんだけどお父さんね、
フランスでの同性愛結婚を認める会の委員の一人だった
らしいのよ。ぶったまげたのは私たちよ。でもね、さす
がに自分の娘がそうだと知って、ちょっと一瞬止まった
んだけどすぐ理解したのね」
太郎丸は電話口でなぜだか可笑しいのに目頭が熱くな
るのだった。
「そうかあ、そういうことか」
「それはそうと、マルちゃん。お父さんあなたに怒って
いたわよ。なんで俺のポルシェを許可無く持ち出したん
だって! シュトゥットガルトまで取りに行ったのよ」
「えっ、だってシートかぶってるのヨーロッパの俺用だ
って言ってたじゃないか」
「シートかぶってるのは、ガレージの端っこにあったホ
ンダの50ccのバイクだってことらしいわよ。まあ謝
るのね。フフ」
太郎丸は父親に久しぶりに会うことと、しかも謝らな
ければならないというやっかいな気持ちと、それでもみ
んなが一堂に集まるという嬉しさの入り交じった複雑な
心持ちで九月の第二金曜日にパリへと飛んだ。
飛び立つ数日前にカグの玉の話が気になっていて太郎
丸はある決心をした。元々あの五玉は亡くなった母が五
つ一緒に持っていたものに違いなかった。母はもしかし
たらこの玉がどんなにばらばらに離れようといつかは五
つが会って一つになることを知っていたのかも知れない
と太郎丸は思ったのだ。だから将来離ればなれになって
しまうかも知れない五人の姉弟に一つずつ託したのだと。
離れても心が一つであれという母の願いだったのかも知
れないと東京に戻って一人になりそう確信したのだった。
五玉はやはり一緒にあるべきものなのだと太郎丸は結婚
式に集まる姉たちに向けてその日にそれぞれの石を持っ
てくるようにとメールで頼んでおいた。その先のことは
その時考えようと。
九月の第三日曜日、ブルターニュ、レンヌの街中にあ
る洒落た小さな教会で啓とレナは家族と少数の友人達に
見守られながら結婚式を挙げた。二人はおとぎ話の絵本
に出てくる素敵なカップルみたいに美しかったし、神に
祝福された笑みを浮かべていた。
レナの両親は高齢ではあったが、穏やかなフランス人
で紳士淑女然としていた。年をとってから授かった一人
娘が素敵な日本人女性と結ばれることを心から祝福して
いる様子が見て取れて周りの者も自然と心が暖かくなる
ような二人だった。
新婦の父、蔵太郎は初めて娘が嫁ぐ喜びを噛みしめつ
つ、小さな涙を瞳に浮かぶことを家族に見られないよう
にしていたが、あき子はじめ家族は皆、瞳に光る粒を教
会の明るいステンドグラスから差し込む光だとは思って
いなかった。奈良から来た祖父母の一蔵とキヨはこれで
もかというぐらい大きな声で賛美歌を歌って周囲に笑み
をもたらした。
そのころには蔵太郎は涙でぐちゃぐちゃになっていて、
あき子はそんな父親の顔を見て本気で笑いながら、それ
でも祖父母に負けないようにと賛美歌を歌っていた。紗
矢はその様子を横目で見ながら静かに微笑んでいた。友
人達もこの家族の暖かさに包まれるようににこやかに祝
福の賛美歌を歌った。
太郎丸はその様子を終始なごやかな気持ちと眼差しで
見ていた。そして今、母がここでこの様子を笑いながら、
そして心の底から祝福しているような気がしてならなか
った。いや、それは実感として確かにあるようにさえ感
じた。そして、一人一人の心の中に家族としての暖かな
場所が今ここにあって、それはこれからもずっと続いて
いくように感じられたのだ。
父が涙で放心状態になっているタイミングで車の事を
詫びたり、放浪をやめて大学に行ってる事やらを話した
が、ただ「ああ、ああ、よかった。よかった」と言うだ
けで、それしか言わない父に少し老いを感じてしまうの
だった。
式が終わって家族と友人達でささやかなパーティーを
近くのレストランを借り切って行った。パーティー会場
では四人の姉たちが太郎丸にメールで頼まれたようにそ
れぞれ持ってきた石を預けた。あき子はいろいろ聞いて
きたが紗矢がこの石は長男である太郎丸がまとめて持っ
ているのが一番いいのではないかというのでそれ以上は
あき子も聞かなかった。太郎丸はそれらの石を用意して
いた革袋に入れた。しかし、自分の黄玉だけは依然とし
てない。
パーティーもたけなわの頃、道に迷って式に間に合わ
なかったという叔父の次郎から太郎丸のスマートフォン
に電話があった。近くまで来た次郎は太郎丸に外に出て
きてくれと言うのだ。気が合わない蔵太郎に会うことに
臆して、わざと遅れてそうしたのかも知れないと太郎丸
は思った。しかし、ちゃんと啓にご祝儀だけは渡しに来
たかったのだろう。分厚いご祝儀袋を太郎丸に託したの
だ。
太郎丸は考えていたことを次郎に言った。バブシのあ
の『九月の第三日曜日の百年に一度の天赦日に合わせて
神器の玉を取り返しに来たのですし、五玉が一日だけ一
つになる日に』という言葉を忘れていなかったのだ。
「おじさん、この近くにすごくお世話になった人の家が
あってさ、そこまで連れて行ってもらいたいんだ」
もしかしてカグに会えるかも知れないと思っていたの
だ。レンタカーを借りて行こうと思っていて、式でも酒
を口にしていなかったが次郎なら頼める。
次郎はきょとんとした顔で太郎丸を見た。
「今からかい。だって今おめえさん、啓の結婚パーティ
ーやないんかい」
と言って次郎は笑って、そうだ、こいつにはこういう
時、何を言っても聞かないのだとその真剣な眼差しを見
てすぐに答えた。
「ええよ乗れや。案内せえ」
次郎はポルシェ・ボクスターのドアを軽快に開くと親
指を立てて笑った。独特なポルシェのドアの閉まる音を
噛みしめて太郎丸は次郎に道案内を始めた。オープンに
したシートから見上げるとブルターニュの青空がどこま
でも自分を歓迎しているかのように思えて、体の内から
楽しい気持ちになる。そう、この気分が大事なんだと。
レンヌ郊外へ向かい、あの日、黒い車に追いかけられ
た道筋をたどっていく。なだらかな丘へと続く道に出た。
丘の上に出ると森の中に佇む門構えがあって次郎にそこ
で止まってもらって、ひとり車を降りて歩き始めた。
門をくぐり抜けて敷地に入って太郎丸は愕然とした。
あの日に見た美しい城のようなかえでさんの家はなかっ
た。いや、建物はあるにはあるのだがそれは朽ち果てた
瓦礫のような廃墟でしかなかった。おびただしく蔦が絡
まり所々建物は壊れていた。オースチンが止めてあった
洒落たガレージのあたりには朽ち果てた馬房がある。
素敵だった庭も雑草が生えていて森と無造作に連なって
いる。太郎丸は夢を見ているのかとさえ思った。たった
数週間前、あんなに素敵だった家が、まるで数百年経っ
た遺跡のようになるのかと。どう考えても説明がつかな
い。納得がいかないので数十メートル下がった所にある
あの日助けを求めて断られた家に向かった。ちょうど、
家人が庭の手入れをしていたので尋ねた。
「あのすみません。この上にある家は引っ越したか、
それとも何かあったのですか?」
庭木の手入れを鼻歌交じりでしていたその年老いた
婦人はぶっきらぼうにこう答えた。
「上の家? あんた何言ってんだい。あの敷地はもう二
百年近く前から貴族の城跡だかで遺跡として残ってるだ
けの土地だよ。もっとも有名じゃないから誰も来ないよ。
妖精が出るっていう噂があるけどなんだかねえ、迷惑な
話だよ」
「えっ? 遺跡なんですか、そんなわけないですよ。数
週間前に来た時はちゃんと」
そう言いかけたが、その婦人はなんだこの人はという
顔で家に消えてしまった。妖精はいるんだよと思いつつ、
太郎丸はもう一度坂を上がり、カグと出会ったであろう
小川のほとりの馬房に来た。小川の流れも水量が少なく
心もとない。そうだあのオリーブの木があるかも知れな
いと思いあたりを探した。確かに幹のがっしりとした古
い大木のオリーブはあったが葉が無い。その先の竹林は
変わらずあって、その前に立つとただただ郷愁と安堵感
に似た感情に包まれた。
『カグ、バブシ、聞こえるかい? 石を、玉を返しに来
たよ。四つしかないんだけど』
心の中でそう言ったけれども何も返事はない。ただ青
い空だけが見つめている。その時すべてがそうであった
ことが彼には誰にも教わらないで分かった。
カグとバブシが、かえでさんとエリックだったんだと。
愚かなのは自分だ。あの日も助けてくれていたのだ。
車に戻ろうと振り返ると少し先に次郎が微笑んで佇ん
でいた。二人で車に向かって歩きながら話した。優しい
丘の風とまばゆい太陽光が二人を包む。
「そうやった。おまえさんに大事なものを渡さんと、ほ
らこれや」
次郎は小切手を手渡した。預けていた一千万ともう一
枚は二億円超えの小切手だった。
「えっ、何これ。一千万はあの時勝ったやつだけど、こ
の二億は、えっ?」
「そうなんや。あの後またバーデンバーデンに遊びに行
ったんやけど、またいたんや、ほらあの紫の君が。あの
女この間勝った六千万近い額を二倍配当の赤に連続二回
一点賭けしてたんや。信じられんけど。そして勝ったん
や。それでな、小切手に換えてな、わいのとこに来てな、
これをおめえさんに渡せってしつこいんや。見かけによ
らず男みたいな口調でな。まあ、けったいな話やけど、
そういうことなんや。信じられんけど。こんな大金、
わいは持てませんわ。会社ぼろぼろなんやろ、全額それ
に使えや。スーパーカー買ったらあかんよ。血迷って二
億のブガッティとか買ったらあかんよ。ハハハ」
次郎はちょっと二億が惜しそうな様子でわざと豪快に
笑った。
太郎丸は何がなんだか分からないという顔をして小切
手を見た。次郎は話を続ける。
「それから、もっと大切なもんを返すわ。ほれっ、おま
えさんのペンダントや!」
と言って、次郎はライダージャケットの内ポケットか
らそれを取り出すと投げてよこした。あっけにとられて
受け取り、握って見てみると紛れもなく太郎丸の黄玉だ。
「おじさん」太郎丸は言葉に詰まった。
「あのバーデンバーデンでおまえさんのロッカーが荒ら
されてたやないか。あん時、『盗まれなくて良かった』
と小さい声で言わへんかったか? その時このペンダン
トを握ってたやろ。それでな、ぴんときたんや。思い出
したんや。お前さんの母親、そうつまり、わいの姉貴の
言葉や。その玉がもしも万が一誰かに狙われるようなこ
とがあった時はこのレプリカのペンダントに取り替えて
欲しいってな。そん時はしばらく預かることになってた
んや。悪いけどあの日の夜、おまえさんが酔っぱらって
寝ていた時に交換したんや」
次郎はそう言うとシートに座った。いつになく神妙な
顔つきで帽子をかぶった。
「そういえばペンダントしてないやんか。なぜ今日はし
とらんのや。まさかレプリカだと分かったわけでもある
めえ。後でまた返してくれや。なんかあればまた交換す
るさかい」
そう言って笑う次郎を見て、まさかその交換されてい
たペンダントはバルセス達に奪われたとも言えず太郎丸
は口をつぐんだ。
「あ、そうや。それと一蔵のおやじから、パーティーの
時なんかもらわなへんかったか。前にお前が変なこと聞
いたやろ。小倉小路の名が大伴がどうとか。おやじに電
話で調べるよう頼んどいたんやけど」
さっき一蔵とキヨは疲れたのか、パーティーを途中離
席しホテルに戻った。去り際、酔った一蔵がぶつぶつ言
いながら太郎丸に封筒を渡してきた。てっきり小遣いだ
と思い、礼を言って受け取った封筒のことだ。
「さっきの小遣いの封筒のこと?」バッグから封筒を取
り出し中を見た。
それは古い系図のコピーだった。小倉小路家のものだ
が、初期の部分だった。奈良時代初期から数代すべて大
伴姓になっている。しかし、平安前期あたりから小倉小
路に変わっていた。その中で大伴御行の名を奈良時代後
期に見つけた。太郎丸は目を疑った。
「大伴太郎丸御行」とあった。「丸」の横に「麻呂」の
字が小さくあった。その意味は分からなかった。
『俺と同じ名前じゃないか! じいちゃん、ここから採
ったんだ』
「小倉小路」がかつて「大伴」だったということでこの
間のカグたちの会話の意味が分かったのだ。やはり自分
は大伴御行という人間の子孫だということが今、確信に
変わった。
本当に五つの玉は一カ所にそろった。石を革袋に収め
て『そうかこの黄玉を持ってあそこに戻れば』と思った
太郎丸は車を降り、
「おじさん、ごめんちょっと待ってて。すぐもどるから!」
と叫んで城跡に走った。
『そうか、そうだったんだ。あの夢の中のような世界が
妖精界だとしたらそれ以外では、この黄玉を持っている
時しかカグと会えてはいなかったんだ』青空は優しく彼
を包んだ。
『返さなくちゃ』心で叫ぶ。門をくぐり抜けると目の前
の景色がみるみるうちにまるで壊れたブロックおもちゃ
が直っていくように変化していった。廃墟だった城跡は
あのかえでさんの素敵な城造りの家となっていく。雑草
だらけの広い庭はよく刈り込まれた芝生とハーブや花や
香りの良い庭木となっていく。朽ち果てた馬房は洒落た
ガレージとなり中には真っ白なオースチンが現れた。小
川の水の量も増えてせせらぎが聞こえてくる。あのオリ
ーブの木も嬉しそうに緑の葉を蓄え始めている。
もう完璧なまでにあの日と同じだ。
すると玄関から一人の女性が出てきて太郎丸に近づい
てくる。
かえでさんだった。
「太郎丸さん来てくれたのですね。私たちの話を聞いて
しまったのね」
穏やかに微笑みながらそう言って歩いてくるのだが太
郎丸はなぜだか一歩も足を踏み出せない。やがてかえで
さんの姿は蜃気楼の霞の残像になったかと思うと、あの
カジノの紫の君の姿になった。彼女もそうだった。
そして、またその姿は蜃気楼の霞の残像となり、今度
はカグの姿に変わり、なおもこちらにゆっくりと歩いて
くる。
「かぐ!」
思わず太郎丸は大きく叫んだ。
真っ赤なワンピースを着てダークブラウンのポニーテ
ールを微かに風に揺らしてかえでさんがしたような穏や
かな笑みを浮かべている。愛くるしさと可憐さは、やは
りこの世の物ではない。しかし、カグは口を開かない。
「これ、返しに来たよ。大事な物なんだろ」
「相変わらず、おまえは遅えな。ま、いっか、よく持っ
てきたな。ちゃんと五つあるんだろな。五つないと話に
なんないからな。ありがとよ」
太郎丸はまたかという感じでカグの毒舌を聞き流した。
それでいいんだ。カグはきっとわざとこんな口調なんだ
と。あの異界の中でのカグのことを知ってしまったから。
ちょっと可笑しくさえある。
カグは太郎丸が差し出した神器の五玉が入った革袋を
受け取ると五つの玉を取り出して手のひらに乗せて空に
かかげた。
そして百年に一度の天赦日の呪文を小さく唱える。
「カゾクヨヒトツニ
トワニヒトツニ
アイノモトニアレ」
すると五つの玉はそれぞれの光を放ち一つの玉になり
神々しい五色の光を放った。
カグも太郎丸もその様子をただ黙って見ていた。
カグは龍神の五玉が入った浅黄色の革袋を太郎丸に差
し出した。
千二百五十年ぶりの交換だった。
「これが代わりのもんだ。これは返すよ。大伴御行様が
龍からもらった伝説の龍神の五玉だ。これを持ってる限
り御行様の結婚を受け入れたことになるからな。受け取
ってくれ。お前と結婚できないし・・・・・・でも、今日この
日を忘れずに来てくれたことは、それからこの神器の五
玉を返してくれたことはずっと忘れないぜ」
「この石が龍神の五玉?」
「そうだ。千二百五十年前にお前のご先祖の御行様があ
たいにくれたもんだよ。これはお前が持ってるべきもん
だ」
「分かったよ。大事にするよ」
「じゃあな元気でいろよ。またどこか遠いところで会う
かも知れないからその時までよ」
そう言うとカグは後ろを振り返りオースチンのあるガ
レージの方に向かっていった。助手席にはエリックが座
っていて笑顔を見せると姿がバブシに変わった。
カグが運転席に座りエンジンの轟音が響く。太郎丸は
やっと足が踏み出せる感触になり走って車に駆け寄った。
オースチンが空中に高く浮かび上がると太郎丸は見上げ
て叫んだ。下を見てカグが、
「何だよ、今何て言ったんだ」と叫んだ。
「何で俺と話す時いつもそんな可愛げないんだよ!」
と太郎丸はもう一度叫んだ。
「だってお前、御行様にそっくりなんだよ。またお互い
恋し合ったらまずいだろ! そんなこと乙女に言わせん
なよ!」
そう確かに聞こえたが、遙か彼方の白雲の中に消えて
いった車の影のようにはかなく、その姿も見えなくなっ
た。
太郎丸は自分のこころがはち切れそうになり大声で無
我夢中で叫んだ。
「かぐー!」
だけれどもう、眼の前に広がる森の上の紺碧の高い空
に白い大きな綿菓子雲が浮かんでいるだけでだった。
それはいつかの懐かしい空と同じだった。
※
「おじいちゃん、面白かったね。おじいちゃんが作った
お話なんだよね。パパに教えてもらったもん。瑠璃夏、
また見たいなあ。今度はおばあちゃんも一緒にね」
「そうだね、また来ようね。それにはいつもいい子にし
ていないと駄目だよ」
新しい形のストレートプレイを楽しむ観客達は拍手を
惜しまない。昔のアクター達がそうしたように皆一列に
手をつないで並んで恭しくお辞儀をしたあと舞台の下に
去っていく。
家族型の特別カプセルシートに拍手する白髪の老紳士
とその幼い孫娘、そして、その父親と母親の笑顔がある。
老紳士はやや感慨深げな表情だ。
再び、孫娘が元気に言う。
「このお話はほんとにあったお話なの?」
老紳士はあご髭を触りながら小さな声で答える。
「ああ、ずっと昔にあった本当の話だよ。おじいちゃん
が若かった頃の話だよ。この後の話の方がずっとずっと
長くなるけれどね・・・・・・」
「じゃあ、ほんとに妖精っているの?」
孫娘は瞳を輝かせながら、小躍りしそうに聞いた。
老紳士は孫娘の髪を優しく撫でながらこう言った。
「ああ、そうだね。信じる人の心の中には、きっとね」
N5D画像(新型ファイブD画像)を駆使した新帝国
劇場の幕が霞がかったように中央に降りても、円形の平
たいホールの中央舞台に響き渡るほどの拍手をなおも送
り続け、アクター達の再登場を促した。
すると幕が再び上がり、音楽に乗って脇役から順々に
アクター達が舞台に再登場し、古典的な劇場の幕の終わ
り方のように観客席に向かって手を振ったりお辞儀をす
る。拍手は鳴りやまない。
劇場レーザーが高純度の照明をN5D画像と共に主演
の太郎丸役のアクターに浴びせると拍手は最高潮に達し
た。背景はブルターニュの丘だった。観客もその風景の
中で丘の上に座っている感覚でアクターに拍手して、そ
の上に見える青空に包まれた。
「あれ? そう言えば劇に出てきたカグって、おばあち
ゃんの名前とおんなじだね」
老紳士は、それには孫娘の愛らしい瞳を見つめながら
曖昧にうなずくだけだった。
両親は微笑みながら帰り支度をはじめて娘を促した。
老紳士と家族はフライトカーで夜の銀座を後にした。
今夜はこの劇の初日だった。
夜の銀座に祝福の清かな風が吹いた。
窓の下には銀座の街が見える。
フライトカーの光の道が建物のネオンと重なって、
芸術的な夜景を作っている。
突然、
後部座席に座っている孫娘が窓の横を見て叫ぶ。
「あっ、おばあちゃんだ! 迎えに来たんだ!」
窓の横の車は白いオースチンヒーレーで、
オープンにして飛んでいた。
そのドライバーズシートには、
バイオレットアイの老女性が、
ダークブラウンの髪の毛を夜風になびかせて、
優しく微笑んでいた。
了