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Ⅳ 小布施の白雲

Ⅳ 小布施の白雲


「意外と簡単だったわよ。一種のアナグラムよ。という

かアナグラムとも言えないわね、単なる言葉のパズルみ

たいなものよ。よく見てみなさい。FとUが多いでしょ、

しかもFとUは規則正しく出ているわ。そう、一個置き

よ。FとUだけ読んでご覧なさい」

 午後の暖かい日差しが差し込むモンパルナスの「KA

GUYA」の事務所のコンピューターを前にして紗矢は

あき子と太郎丸に説明しだした。念のため社員には席を

外してもらっている。太郎丸はスマートフォンの画像を

印刷したものを飛行機の中で紗矢に渡していたが、この

謎解きはまだ何も聞いていなかった。紗矢が険しい顔で

集中力全開モードに入ると何も質問できない雰囲気にい

つもなるのだ。紗矢には『すべて分かったら、モンパル

ナスであきねえと一緒にいる所で説明するからマルちゃ

んは寝てなさい』と言われる始末だった。印刷された画

像を見るとものの数分で紗矢はうなずき、その後は外国

語で書かれた本をまた険しい顔で読み始めたので飛行機

の中では太郎丸はずっと映画を見ていた。 

「エフ、ユー、エフ、ユー、エフ、ユー」

 あき子が小学生が英語を読むようなイントネーション

で読んだ。フランス語は得意なのになぜか英語の発音は

うまくない。

「あきねえ、何読んでるんだよ。それは違うでしょ、さ

すがに」

 太郎丸があきれながら言った。

「あきねえ、これは『フフフフフフ・・・・・・』よ。笑って

いるんだと思うわ。コンピューターウィルスによくある

相手を嘲るパターンね」紗矢が微笑みながらあき子を見

た。

「ああ、なるほどね。えっ、ていうことはローマ字読み、

しかも日本語ってこと?」

「そうみたいね。ただね、このFとUを抜かしたアルフ

ァベットをメモしてみたのがこれなんだけれど、この意

味がちょっとよく分からないのよ」

 紗矢はそう言いながらそのメモをあき子と太郎丸に見

せた。FとUを抜いたアルファベットの羅列はこうだっ

た。

(YAABARUSESUDAYAABARUSESU

DAYAABARUSE・・・・・・)

「何これ、ほんとにローマ字読みなの、それとも英語? 

読めないわね」

 あき子が腕組みをした。

「これをよく見ると最初のYから十三番目のYまで同じ

順番で同じアルファベットが並んでいるのに気づくはず

よ。その次のYもそこから十三番目のYまで同じなのよ」

「よく分かるわね。それで?」

「つまり十三文字の同じアルファベット配列のものが何

セットもあるのよ。見づらいと思うからセット毎に書き

直したものがこれよ」

 紗矢はそう言うとA4用紙に書いたもう一枚のメモを

二人に見せた。

(YAABARUSESUDA YAABARUSES

UDA YAABARU・・・・・・)

「こんな英語のスペルは無いわ。そこでさっきと同じよ

うにローマ字読みすると」

「ヤ・ア・バ・ル・セ・ス・ダ、 ヤアバルセスダ、 

ヤアバルセスダ・・・」

 あき子がゆっくりとローマ字読みした。

「そうなの(ヤアバルセスダ)と読むんだけれど、この

意味が分からないのよ。フフフ、ヤアバルセスダって、

どういう意味かしら、ヤアバル・セスダっていう名前か

しら」

「違う! バルセスだ! 確かバルセスって名乗ってた

ぞ! 思い出したよ。そうか、奴らの仕業だ。しつこい

奴らだぜ」

「何よそれ!?」あき子が叫んだ。

「『やあ、バルセスだ』って奴が名乗ってたんだよ。あ

のシュヴァルツヴァルトの黒い森で入ったお店の最後の

部屋から出てきた化け物さ。もう一人の方はハラグロな

んとかって言ったっけなあ、ヘリウム野郎なんだ」

「何言ってるの? わけが分からないわ。ちゃんと説明

してちょうだい」

 紗矢が太郎丸をいぶかしげに見た。あき子が腕組みを

ほどいて「そうか!」という表情で太郎丸を指さした。

「マルちゃんが見たっていう例のロボットみたいな妖精

のことね」

「ロボット? 妖精? 何を非科学的なことを言ってい

るのあなたたちは。妖精なんているわけないでしょ。一

体どういうこと?」

 紗矢がソファーに腰掛け、メガネに指をあてて太郎丸

の話に耳を貸す。

「バルセスというのはロボットみたいな妖精の名前なん

だよ。実はシュヴァルツヴァルトの森沿いの店に入って

俺とあきねえはそいつらに襲われたんだよ。あきねえは

眠らされていてそいつらを見てはいないんだ・・・・・・と言

ってもすぐには信じてもらえないと思うけど、そいつら

にお袋からもらった大事な黄色い石を奪われたんだよ」

「黄色い石?」紗矢は何がなんだか分からないという顔

をしている。

 あき子は私は既に知ってるわと、ふむふむうなずいて

いる。

「そう、黄玉だよ。お袋が亡くなる前にくれたものでい

つも大切に身につけていたんだ」

 太郎丸は車で襲われたこと、かえでさんの家の庭での

ことなど今までの経緯を話した。

「私も見たのよ」

 紗矢にとっては太郎丸とあき子の話はさっぱり分から

ないものだったが、真剣な眼差しで話している様子を見

て二人が嘘をついているとも思えなかった。第一こんな

局面でこんなふざけた嘘をついて何になるというのだと

冷静に紗矢は分析した。

「分かったわ。にわかには信じられないけれど、ちょっ

と気になることが今の話にあったわね。そのお母さんに

もらったっていう宝石のことだけれど、実は私ももらっ

たのよ」

「えっ、紗矢っぺえも? あきねえももらったって黒い

石を」

 太郎丸はバブシの言った五つの龍玉伝説を思い出した。

これで玉は三つだ。

 あき子が紗矢を見ていつになく真剣な眼差しで聞いた。

「紗矢もお母さんが亡くなる前にもらったの?」

「ええ、マルちゃんの言うように亡くなるちょっと前だ

ったわ。私のは白い丸い石よ。ブローチで。大きめの真

珠かと思って聞いたら、『それは玉って言うのよ』って、

お母さんが言ってたわ。それで私、なんで今頃これをく

れるのって聞いたら、『自分の命の長さくらい分かって

いるわ。もう長くはないんでしょう? また病院に戻っ

たら、いつこの石を紗矢に渡せるか分からないから今渡

しておくわ。この石を私だと思って大切にするのよ』っ

て言って、くれようとするのよ。私はなんだかその石を

もらったらお母さんが本当に早く死んでしまうように思

ったから、それが嫌でいらないわって言ったのよ。そん

な真珠でもない白い石いらないって。お母さんがそのま

ま大切に持っていればいいわって。いつまでも生きて大

切に自分で持っていてよって。私いつの間にか泣きなが

らそう頼んで言ってたのよ。そうしたらお母さんが『あ

なたは優しい子ね。分かったわ。この石はあなたに貸す

ことにするわ。私が返してって言ったらすぐに返してね、

それならいいでしょう?』って言って、お母さんが私の

手を包むようにして白い石を私に握らせたのよ」

 紗矢は説明しながらその時の光景を思い出してつい涙

ぐんでしまった。太郎丸もあき子も口をつぐんでしまっ

た。あき子はふと、窓の外の木に目をやる。

 通りに面した事務所の大きな窓の外にはトネリコの木

が五本並んで植わっていて、その枝葉がさやかに波打っ

ている。このトネリコは一家がモンパルナスに来た時に

母が植えたものだった。あき子は大学院に入る年で、紗

矢が大学に入る年、啓は中学二年生、史瑠紅は小学校四

年生、太郎丸が小学校三年生になる年だった。母はみん

なが元気にこのフランスで育つようにと小さいトネリコ

をどこからか買ってきて、父とあき子と紗矢で植えたの

だった。太郎丸はもちろんそんなことは知らないが、ふ

と紗矢の話を聞いてあき子はそんなことを思い出してい

た。

 木を植える母の楽しげな笑顔がよぎった。

 紗矢は気を取り直したのか、ソファーから立ち上がり、

「それより、このコンピューターをなんとかしなきゃ。

本当にそのバルセスとかいう妖精の仕業だとしたら復旧

は難しいかも知れないわ。ただのウィルスならまだいい

けれど。たちの悪いハッキングで会社のファイルサーバ

内のハードディスクがやられてなければいいけれど。最

悪なのは顧客情報とか会社の機密情報が盗まれたり、世

の中に流出している場合よ。あきねえ、普段データのバ

ックアップはどんな形でしているの?」

 と、早口でまくしたてながらコンピューターの前に再

び座った。

「えっとさっき情報管理の担当スタッフから聞いたこの

メモによると、『データのバックアップは普段から違う

媒体で取ってある。社内のファイルサーバにもある。こ

まめに外部媒体にバックアップはしていない。共有フォ

ルダとしてファイルサーバに新しいデータは常にいって

る』って書いてあるわ・・・・・・それと、東京のコンピュー

ターもやられているらしいのよ。ここはまだ『KAGU

YA』のデータだけだけど、あっちは小倉小路屋すべて

のデータがあるのよ。どうしましょう。情報が流出して

いたら――」

 あき子はあまりコンピューターには詳しくはないが、

情報管理は専門のスタッフを置いていて最低限の会社運

営上のコンピューター管理はしているつもりだった。

「まあ、普通のことはしていたのね。当然ウィルス対策

やセキュリティ管理も。ファイルサーバとインターネッ

トは分離していて大丈夫みたいだし。この状態でゲート

ウェイを破って入ってくるということは、やはり何か新

手の脅威のウィルスかハッキングね。これはそのバルセ

スとかいう妖精との戦いかもしれないわ」

「うーん、途中から何言ってるんだかよく分かんなくな

ったけど、とにかく紗矢に任せたわ。お願いね」

あき子はそう言うと手を合わせて紗矢を拝むような姿

勢をとる。 

紗矢はそれを見る様子もなく目を輝かせながらコンピ

ューターのキーを高速で打ち始めた。そして、社内のフ

ァイルサーバ、外付けの集中ハードディスクにも向かい、

持ってきたノートパソコンと繋げながらキーを叩く。

その集中力はすさまじく、二人とも話しかけられずソ

ファーに座りただその紗矢の仕事を眺めているしかなか

った。旅の疲れからか、いつのまにか二人はうたた寝し

てしまった。

「ブシッ! アンニョンハセヨ、カムサハムニダ、トレ

ビアーン、シェーネフラウ、ダンケシェーン、ケセラセ

ラ!」

 眠い意識の中でその声は唐突に聞こえた。バブシの声

だと太郎丸はすぐに分かった。バブシは羽ばたいていて、

まさに今、床に舞い降りる寸前に見えた。夢の中の残像

のようだ。何時間経ったのだろうか。窓の外はシャッタ

ーが閉められていて見えなかった。事務所のスタッフが

閉めたのであろう。時計は夜中の時刻を指していた。室

内には静けさが漂っていた。前を見るとあき子がソファ

ーに横になっていびきをかいて寝ている。紗矢もパソコ

ンの机に伏して寝ているようだった。無理もない。急に

大学を休むため前の晩はほぼ徹夜で準備をしていた。飛

行機の中でもコンピューターウィルス対策の最新研究書

を読んでいたのだ。

「久しぶりだな。お前が現れないから、あれから大変だ

ったんだぞ。バルセスに襲われて石を取られるし。なん

で来てくれなかったんだ」

 バブシは首を少し横に傾けながらパソコンの机で寝て

いる紗矢の横に立って太郎丸の方を見ていた。羽は見え

なかった。

「ごめんです。あの時はぎりぎり間に合わなかったです。

今、カグさんが妖精界で必死になってバルセスの行方を

探してるです。バルセスとハラグロサイラ、あいつらは

許せないですし! 」

「石を持ったまま、やつらは逃げているのかい?」

「それもよく分からないです。でも、妖精界で何か強い

変化が現れていないので今のところバルセスはあの黄玉

で悪さはしていないみたいです。噂ではあいつが魔王と

なって妖精界を牛耳ると言っているフェアリーもいるら

しいです。でも、何も起きていないです。奴の狙いは前

にも言ったですが、自分たち車妖精界の汚染からの復活

ですし」

「そういえば、そんなこと言ってたな。それもあの石で

できていないのかい?」

「廃棄車のスクラップ山脈はまだそのままですし!」

「そうなんだ・・・・・・ところで、なんで石を奪ったのにう

ちの会社のコンピューターをハッキングなんかするんだ

ろ? わけ分かんないよ。困ってるんだけど。姉さん達

は会社の危機だって言ってるぜ」

 バブシはその質問を無視するかのように言った。

「画面を見てください! 太郎丸さんのお姉さんが第一

段階のハッキングを解除したんです! そして、たぶん

力尽きて寝てしまったんですし」

 「KAGUYA」のコンピューター十台すべての画面

にはローマ字でこう出ていた。

「『黄色い石と 黒い石 白い石は手に入れた あと二

つの石をよこせ さもないと 二人に 危険が フフフ

フフフフフ やあ バルセスだ』だと、ふざけるな!」

 太郎丸はバブシを見たが、バブシはコンピューターの

画面をじっと見ている。そして、腰にぶら下げていた赤

皮の巾着から小さなものを取り出して太郎丸に渡した。

「このフラッシュメモリをお姉さんに渡してください。

このハッキングをすべて解除してウィルスも駆除する

「復活の妖精ワクチンプログラム ルナ・エディション

3」です。これでたぶん大丈夫です。もし駄目だったら

このプログラムを元にして、あとはこのお姉さんの人間

離れしたスキルでなんとかなるですし」

 それから、バブシは考え込むような表情をした。その

表情は愛くるしかった。一人のかわいらしい外人の子供

にしか見えない。

「太郎丸さん、質問です。黒い石と白い石って書いてあ

りますが、何か心当たりはあるですし?」

「あ、そうかおふくろからもらった石のことだ。黒い石

はあきねえが、白い石は紗矢っぺえがもらったって言っ

てたよ」

「もしかしたら、二つの石はすでに無いかもです。大変

ですし、あと二つは」

「そうか、あと二つは啓ねえさんとシルッペに違いない

よ。ママは五人に一つずつの石をきっと与えたんだ。そ

うだこの間言ってた伝説の龍神の五玉って何なんだい?」

「かぐや姫の伝説ですし。かぐや姫さんがオートモさん

からもらったという五つの龍玉のことです。ほんとはも

らったですし」

「ちょっと待って。かぐや姫の話の五人の貴公子の持っ

てきた財宝は知ってるけど、もらったってどういうこと?」

「言えないです。怒られるですし」

「ふーん、そうか。ところでバブシ君これ知ってる? 

甘くて美味しいよー」

 太郎丸はチュッパチャプスをポケットから取り出して

見せた。

「あ、何ですし。ちょうだい、ちょうだい」

 太郎丸はにこっとして渡した。

「で、どういうこと?」

「カグさんは王様の決めた結婚をしたくなくて五種の神

器の内の五玉を隠して罰を受けてしばらく人間界に送ら

れたのですし。で、オートモさんと恋に落ちて。人間界

では千二百五十年前の事で、僕らの世界では五年前の事

ですし。それがかぐや姫伝説の真実ですし」

 千二百五十という数には太郎丸は驚きを隠せなかった

が、今一よく理解できない。

「何だかよく分からないな。とにかく俺たちが持ってる

五つの石は元々はカグの持ってた石だってことだね」

「そうですし。それよりシルッペって何です? 美味し

そうなジュースですし?」

「あ、シルッペっていうのは一個上の気の強い四番目の

俺の姉貴で史瑠紅っていうのさ。史瑠紅だからシルッペ

なんだよ。そんなことより残りの二つの石がほんとにあ

るなら」

「その二人に危険が迫るかも知れないです。バルセスは

直接手は下せなくても、二人から玉を取るために何をす

るか分からないです。二人のお姉さんみたいに身につけ

ていなければただ盗られるだけかも知れないですが、身

につけていたら危ないですし」

 ふと、太郎丸は視線を感じた。バブシの真後ろで起き

上がって目をまん丸くした紗矢と目が合った。太郎丸は

バブシに気を取られていてよく分からなかったが、紗矢

は伏せながらも途中で目を覚まし、話を聞きながらチラ

チラとこちらを見ていたのだった。

「どうやら、妖精の話はほんとだったのね! マルちゃ

んそのフラッシュメモリを貸して! さあ駆除するわよ!」

紗矢は立ち上がって太郎丸を見てそう言った。

「シェーネフラウ!」とバブシは叫び、紗矢に姿を見ら

れて驚いたのか、背中の羽を開いてあっという間に消え

てしまった。

 太郎丸はあき子を揺すって起こし、今あったことを説

明した。

 コンピューターの復旧は簡単だった。淡いピンク色を

した一見すると細長い貝の一種のようにも見えるそのフ

ラッシュメモリをコンピューターに差し込むとにっこり

微笑んだ天使の絵のファイル解凍画面が出た。 作業は

画面に指示される通りに進むだけだった。数分で事務所

の十台すべてのコンピューターが復旧しウエルカム画面

になった。

「やったわ! 紗矢すごい、バブシ偉い! 私もバブシ

くんまた見たかったなぁ」

 あき子はそう言うと紗矢の背中に抱きついて喜んだ。

紗矢は冷静な顔で言った。

「問題はデータが盗まれたかどうかよね。どこまでハッ

キングが進んでいたか、残念だけれどこのままじゃまだ

分からないわ。それと東京のも早く治さないとハッキン

グが進んでいるかもしれないし、アクセスもできない状

態だし」

「それと啓ねえさんとシルッペが危ないよ。誰かが守ら

なきゃ!」

 太郎丸の眼はいつになく険しく鋭い目付きになってい

た。

「とりあえず、マルちゃんは東京にすぐ戻ってちょうだ

い! このフラッシュメモリを持っていって東京のコン

ピューターを復旧させるのよ。ほんとは紗矢に東京に行

ってもらいたいところだけど大学があるから無理よね。

それから、史瑠紅を守ってあげてちょうだい。

いいわね! 私は啓にすぐに連絡を取って会いに行くわ。

スタッフの若手を連れていった方がいいかしら。あ、そ

うだ! 井坂さんそろそろパリに戻っているわよね。そ

うだ井坂さんに頼もう。紗矢は悪いけどもう少しここで

コンピューターを見てちょうだい。それと、連絡、情報

の収集をここでお願いするわ。それから、マルちゃんに

メモリの操作方法も教えてあげてね。そうそう、東京へ

連絡して史瑠紅もとりあえずマルちゃんが行くまではス

タッフに守ってもらわなきゃ、そうだ高瀬専務にすぐ連

絡しなきゃ。ほら、何つっ立ってんのよ、マルちゃん。

早く仕度しなさい。仕度したら寝るのよ。朝一で出発よ! 

バルルだかバルゾウだか、なんだか知らないけど負けて

らんないからね!」

 と、あき子はソファーの前のテーブル上の昼食と夕食

の食べ散らかした食器と残り物を片付けながら、紗矢と

太郎丸に早口でまくし立てると二人がうなづくのを確認

して社長室へ向かっていった。二人はあっけにとられな

がらも、それが最善の道だろうと仕方なく納得して顔を

見合わせた。ただ、太郎丸は帰国して以来、史瑠紅が一

方的に自分を避けるようにしていたのを知っているので

何だか気が重くなってしまうのだった。

 翌朝、朝一の便で太郎丸は成田へと飛んだ。

 飛行機の中で変な夢を見た。

 あの姫がまた出てきたのだ。例によってまた平安朝だ

が、いつものシチュエーションと違った。よく姫の顔を

見るとカグだった。

 ひとつの物語のような夢。

・・・・・・太郎丸は落ちかける夕陽を背に欄干にもたれて

いた。あたりは次第に黄昏れていく。洛中の往来を行く

人の影も家路を急ぐ。太郎丸の出で立ちはいつもの夢に

見る貴族の出で立ちではなくこざっぱりした町人姿であ

る。しばらくすると一人の町娘が近寄ってくる。それは

カグだった。カグは羽振りの良い商家の娘の出で立ちで

赤の文様の入った小袖を着ていた。町ゆく人に貴族の娘

とばれないようにしているようだ。顔は見えないように

笠をかぶっている。 

カグは太郎丸が歩き始めるとあとについていった。貴

族の屋敷の離れへ誘われるように。カグは五つの玉が入

った浅黄色の革袋を手に持っていた。

屋敷の離れの中の一室で太郎丸はカグに語りかける。

「なぜ私とこの都で一緒になれぬのですか。私はもうあ

なたなしでは生きられぬ。あなたがこの人間界の者でな

いことが何の問題になるというのでしょう。どうしても

とおっしゃるならばそのわけをお聞かせください」 

 その言葉を聞くとカグは黙って革袋から五つの玉を出

して太郎丸に見せた。その瞳にはうっすらと涙があった。

 その玉を見て太郎丸は思わず声をあげる。

「それは私が取ってきた龍の玉ではないですか、あなた

に愛の誓いとして差し上げた物です」

カグはその五つの玉を革袋に収めるとそっと太郎丸の

手をとって渡し、語り始めた。

 カグの言葉は悲しみに震えていた。添い遂げることの

できぬ理由を太郎丸に教えた。

カグはその住む世界で時期女王になる人であった。

しかし、引退をする王である父の厳命でしきたりとし

て王の決めた男と結婚せねばならなかった。そこでカグ

は女王になるために必要な五種の神器の内、結婚の証と

なるべき五つの玉を王の間から勝手に持ち出す。 

そして配下の者を使い人間界に捨てさせにいかせた。

それを知った父は激怒してカグを人間界に行かせ探して

くるよう命じた。配下の者が捨てに行ったのは日の本と

いう国の都であるという伝えを頼りに行き、竹林の中で

それを見つける。しかし、人間の翁にその五つの玉は拾

われ家に持ち帰られてしまう。困ったカグは翌日竹の中

に身を小さくして入り翁に気づかれるよう待った。翁の

家で養われ、五玉を探しだして持ち帰るために。

カグは涙をぬぐい言葉を絞り出す。

「私は知ってのとおり、あのお二人にこの上もなくかわ

いがられ育てられました。成長するふりをすることはつ

らいものでした。翁の持ち帰った神器の五玉は見つかり

ましたが貴公子の方たちの求婚のこともあり、帰る機会

を失っているところにあなたとこうして」

「では私が差し上げたこの龍神の五玉をお返しになり私

と別れるということなのですね。これはあなたの課した

結婚の証の五玉ですよ」

「いいえ違うのです。この五玉こそが私の世界から持ち

出した五種の神器の内、結婚の証となるべき五玉なので

す。よく似ていますが違う物なのです。あなたからいた

だいた龍神の五玉は私が大事にしまってあります」

「どういうことです」

「この神器の方の五玉を預かっていてもらいたいのです。

私はもうすぐ私の世界に帰らなければなりません。この

石を私の世界に持ち帰れば私は父の言うとおりに結婚し

たくない方と一緒になり女王にならなければなりません。

そうなりたくないのです」

「では龍神の五玉を持ち帰るということですか」

「そうです。神器ではないので結婚できませんから、そ

のうち分かってしまうかも知れませんが今はそうして時

間を稼いで父に再度考え直してもらおうと思っています。

そんなことよりも、私はあなたを心より愛しています。

いつの日か一緒になれる日が来るまでそれを預かってい

てください。たとえ何年先であろうとも」

太郎丸は耐えていた涙を流した。

「分かりました。その時が来るまできっと」

二人は堅く抱き合った。

そして夢から覚めた。

窓の外には成田空港の景色が広がっていた。


 その頃阿川は、信州湯田中の渋温泉の露天風呂で鼻の

下まで湯につかりながら、ぼーっと夜空に浮かぶ上弦の

月を眺めていた。ここは長野から電車で一時間の名温泉

地である。

 月はしっとりと闇夜を照らし、そばにいる金星はミュ

ーズの灯りを夜空に咲かせている。都会では感じられな

かったいい夜だ。だが傍らには例のあの二人もいた。

「旦那、言われた通りに太郎丸の野郎を追っかけて来や

したが、なんで広尾じゃなく、こんな信州の山ん中に呼

び出されなくちゃならねえんですか?」

 円田が恐る恐る続けた。

「黄色い石は奪ったんです。それでもってあのバルセス

さんに渡しました。大変だったんです。なにせあの野郎

から黄色い石を奪うのは奇跡に近い所行で。白井がいろ

いろ機転を利かせて最後の最後に絶妙なタイミングで奪

った次第で。それにちゃんとバルセスさんに黄色い石も

渡しました。実は黄色い石だけでなく龍の五色の石すべ

てについてもあいつらから奪えと言われまして、そいで

偽物の黒い石と白い石をとりあえず嘘ついてバルセスさ

んに渡しときました」

 馬鹿野郎余計なことを言うなというふうに白井が円田

を後ろからつつく。

「ところで旦那は私たち二人をなんで日本に呼んだんで

すか?」

 白井が聞いた。

「まあ、それだ。バルセスは東京の事務所の金庫の中を

開けてくれて権利書や株券なんかの重要書類は手に入っ

た。今時この会社は株券の電子化もしてねえみてえだ。

今やろうとしているのはその次の小倉小路屋の全国に数

十ある工場のすべての乗っ取り準備だ。その中で一番警

備が手薄な工場がこの近くの町の小布施にあるんだよ。

そこに行って、まあ、顔の割れていないおまえらにちょ

っとやってもらいたいことがあって呼んだってわけよ。

なあに、たいした仕事じゃねえ。実はな今、小倉小路屋

の東京とパリの事務所のコンピューターにバルセスはハ

ッキングしてやがる。会社の中枢部を混乱させてデータ

も盗んでしまえば、乗っ取るには一番手っ取り早いと言

うのよ。しかし工場のコンピューターにうまくハッキン

グできねえんだとよ。工場と事務所は一部繋がっている

らしいということだ。分かるな言っていることが、その

工場の方をおまえらにやってもらいたい」

 白井はそんな工場の乗っ取りなどどうでもいいと一方

では思いながら聞いていた。阿川と円田のことは裏切ろ

うと考えているからだった。小倉小路屋という会社など

にも興味がない。そんなものはこの目の前の阿川にとっ

とと乗っ取らせて、早く残りの二つの石をバルセスに渡

す取引のテーブルに付いて、もっと莫大な褒美をバルセ

スからいただきたかった。場合によっては石のパワーを

使って阿川を裏切り、その会長の席とやらを奪ってもい

い。その途中でこの横にいるデブでアホな役に立たない

兄貴分の円田がもし邪魔になれば捨ててしまうことも白

井は考えていた。なにせ、本物の黄玉はとりあえず今、

自分が持っているのだ。

「工場内に侵入したらアラームにひっかかってすぐに御

用ですよ」

円田がおびえて言う。

「バルセスがこれを使えとよ。アラームにひっかからな

いようにする機械らしい。ほら持って行け」

 阿川は小さなアンテナがある銀色のトランシーバーの

ようなものを円田に渡した。

「工場ごとき、コンピューターを乗っ取らなくても簡単

にできるんじゃないんですか?」 

白井は少しいらつく口調で阿川に言った。

「うるせえ、バルセスの言う通りにこのフラッシュメモ

リを工場のコンピューターにどれでもいいから差し込ん

でこい。差し込んだら画面の指示通りやりゃあいいらし

いからよ。いいか、あの妖精野郎の言う通りにすりゃ間

違いねえ。御託はその後だ白井!」

 ビニール袋に入ったフラッシュメモリとはとても思え

ないような、いかついアルミ弁当の箱のような物体を阿

川はバッグの中から取りだして二人に見せた。

「わ、分かりました。それを工場のコンピューターに差

し込んでくればいいんですね」

「ああ、そうだ。それが済めばもっと大きなもう一つの

仕事が始まるのだ」

「もう一つとは、なんです旦那?」

 口を閉ざしていた円田が聞いた。白井だけに手柄を渡

したくないと思ったのだろう。

「ふん、この俺が小倉小路屋の乗っ取りだけで満足する

と思うか。小倉小路屋の和菓子シェアと財力はでかい。

俺はゆくゆくは日本中の大手の和菓子屋を乗っ取って一

本化しようと思っているのだ。そのトップの席に着くの

は俺だ。俺は日本の和菓子王になるのだ」

「す、すげえです」

円田はぐいっと体を阿川の前に乗り出して酒の瓶を持

って阿川のグラスに酒をついだ。白井は『何が和菓子王

だ、やっぱりこいつはアホだ』と阿川の酔った顔を見た。

阿川はつがれた酒を一気にあおると、円田を半笑いで睨

み付けてこう言った。

「おう、気が利くな円田、おめえも飲むか」

 阿川は持っていたグラスを円田に渡すと酒を強引につ

いだ。

「あ、ありがとうございます」

そう言いながら円田はつがれた酒をぐいぐいと飲んだ。

 酒にめっぽう弱い円田はそのグラスを笑いながら阿川

に渡して酒をつぎ返した。そして、また阿川につがれる。

その繰り返しだ。

「旦那どんどんやっちくだらい。もう一本長野駅で買っ

てきたのもありまちゅんで」

 滑舌が悪くなっている。円田の限界はすでにとっくに

過ぎていた。円田はいきなり踊り出した。踊りはオース

トラリア原住民マウイ族の踊りのようにも見えた。

「ぶはははははははははは」

 円田はトドが雄叫びを上げるように後ろにのけぞり、

阿川の腕を引っ張ってどばんと湯船に倒れ込んだ。二

人は湯船にのたうつ。

「こ、この野郎!」

阿川は怒鳴って円田を突き飛ばす。そこへ宿の従業員

四、五人が吹っ飛んでくる。同じ湯に入っていた他の客

が呼びに行ったのであった。

「お、お客さーん! やめてくださーい!」

 信州湯田中、渋温泉の静謐な夜が始まろうとしていた。 


 太郎丸は成田に着いてから何度も史瑠紅に電話をした

が繋がらなかった。自宅のマンションや青山の家にも電

話したが出なかった。 

広尾の事務所に着いて、バブシからもらった妖精フラ

ッシュメモリを紗矢から教わったとおりに使うと、時間

はかかったもののすべてのコンピューターは復旧した。

スタッフたちはハッキングの被害を確認し始めた。高

瀬専務は復旧したコンピューターを見るとソファーに腰

を下ろしていたが、不安そうな顔で太郎丸に話しかけて

きた。

史瑠紅が電話をしてきたという。小布施に行くと言っ

ていたというのだ。

「高瀬さん、シルッペが電話してきたのっていつですか?」

「スタッフの話では昨夜遅い時間です。スタッフ達は夜

遅くまでコンピューターに対処していたので誰からの電

話だろうかと驚いたそうです。しかもそれが史瑠紅お嬢

様だったもので」

 狙われている史瑠紅が一人で遠い所へ行くのは危険だ。

「シルッペは何て言ってたんですか。何で小布施に行く

って?」

「おぼっちゃんもご存じだとは思いますが、小布施には

我が社の工場の一つがあります。あそこの栗は天下一品

で、我が社の代表和菓子の一つとしてはかかせないもの

です」

「それは知っています。でも、それとシルッペとどんな

関係があるんですか?」

「小布施の工場施設の隣には社員の保養施設もあります。

それはご存じですか? のどかな山あいのちょっと開け

た場所に温泉付きの宿泊施設、体育館、それにテニスコ

ートも五面あります。緑明館と言います。社員のみなら

ず、一般の方々もご利用できます」

「へぇー、それは知らなかったです。すごいや」

「おぼっちゃんが、ヨーロッパを放浪している時期に作

ったもので最近できた施設ですから、ご存じないはずで

す。お嬢様のテニスサークルが、夏にそこで二回ほど合

宿をするようになったのです。一回目の七月初旬の合宿

はテスト前の勉強会も兼ねているらしいです。お嬢様は

今年は四年生で引退ですから合宿には行かないはずなの

ですが、先ほどのお電話というのはスタッフにその施設

の今現在の予約確認を聞いていらっしゃったようで」

「どういうことですか?」

「その中にお嬢様の大学のテニスサークルがあったので

す。予約者の名前をスタッフが言いますとお嬢様は電話

口でいきなりお切れになられたようでして・・・・・」

「おきれ? 何、おきれって?」

「あ、怒りを露わに電話口で怒鳴られていたようで」

「ああ、切れたのね。えっ、切れたんですか? シルッ

ペが」

「なんでも、『やっぱり、明そっちに行ってたんだ。復

讐してやる!』と、怒鳴られていたそうです。スタッフ

もいきなりのことで言葉を返せないでいると、一方的に

電話は切られたそうです。当然、私はお嬢様のスマート

フォンにすぐに電話しましたが、留守番電話になるだけ

なのです。「復讐」という言葉がとても気がかりです。

何があったかは分かりませんが、ああ見えてお嬢様は気

が短いですから、とても心配です。それから実は」

 いつも冷静な高瀬専務であったが、疲れているのか言

葉に覇気がない。

「まだ何かあったんですか?」

「実はスタッフの話ですとその数時間前に小布施の保養

施設のことについて同様の質問の電話があったらしいで

す。スタッフはやはり同じように答えると『明の野郎! 

許さないわ! 復讐してやる!』と言ってその電話は切

れたそうです」

「それは誰からの電話だったんですか?」

「お嬢様の友人、千葉坂里美さんからでした。以前、事

務所にご予約でお電話されていたので着歴にお名前が表

示されたのです」

 明とは何者なのだろう。女二人から、復讐という言葉

を浴びせられるのだからどうせ女たらしのろくでもない

野郎なのだろう。そんな奴のために史瑠紅が復習して、

何か犯罪めいたことにでもなったとしたら馬鹿馬鹿しい。

史瑠紅が損をするだけだ。早く止めなければと、いても

たってもいられない気がするのだった。何より史瑠紅の

玉も狙われているから早く行かねばならない。

「俺、これから小布施に行きます。何があったか、よく

は分からないけど、とにかく小布施のその緑明館に行っ

てシルッペに会ってきます。それから、小布施の工場の

コンピューターも心配ですからそれも見てきます。あき

ねえにも伝えてください」

 そう言葉を残して、今はそのままこの上信越自動車道

にいるのだった。 

 事務所にあった父親の古いマツダロードスターは緩や

かなカーブの中、夕陽に向かい夏の始まりの風に乗って

走っていた。彼は振り返った。

この心地よい夕空とは対照的に彼の心の中には微かな

暗雲が流れる。

その雲はこんがらがった糸のようでもあった。それを

ほどこうとした。

 こんなに短い日々の間に、風が木々の間を縫うように

どこを吹きすぎてきたのだろう。

 何人の人と人の間を通り抜けてきたのだろう。

 そして、そこには妖精というおよそ信じられないもの

も吹きすぎてきた。しかも、まだまだ自分の中では全く

完結していない問題ばかりが、目の前を楽しんでくれと

ばかりに塞いできてほくそ笑んでいる。

 俺の、あの母からもらった黄色い石は今どこにあるの

だろう。ほんとうに取り返せるのだろうか。

 そうだ、カグが取り返してくれるだろう。

 そう信じた。

 すると糸は、まるで目の前の夕陽にとけ込むように少

しずつほどけはじめた。

『ちきしょう、なんだってんだ。なんだってんだ。

とにかくやってやるぜ!』

 そう、心の中で叫んだ。心の中の暗雲のような糸は、

完全にほどけていた。

 道はもうすぐ長野だった。いくつものトンネルを抜け

た後、あたりはすっかり暗くなり、道は遠く重厚な管弦

楽の音色の山々に取り囲まれてどこまでも続いているよ

うに感じられた。

 太郎丸は何か自分でも不思議なくらいに心のうちに力

が湧いてくるのだった。


 小布施の夜の街は静かに志賀の山々に包まれながら心

地よい風を受けていた。この地は長野県の北東に位置し、

北信濃の観光地で栗、リンゴの名産地でもある。江戸時

代を偲ばせるような空が木漏れ日の中から遙か高く見え

る街だ。

 千葉坂里美は佐原明に復讐するために小布施の古い町

並みの一角にある外観が土蔵でできているお洒落な小さ

な宿の角部屋で作戦を練っていた。里美は仲間には黙っ

ていたが実は史瑠紅よりも長い間、高校の終わり頃から

明とつきあっていたので、あの広尾の夜にみんなが明に

騙されていたと言っても、自分以上の屈辱ではないだろ

うと思っていた。

 三年生になればみな夏の合宿には来ない。四年生にも

なってなぜ合宿に来るのか、それは女がらみに違いない

ことは間違いない。きっといい顔しながら後輩の女子を

合宿で食い物にするか、今現在食い物にしようとしてい

る後輩に言い寄るために合宿に来ているに違いないこと

は明白だった。そのにやけた顔を想像するだけで今は虫

ずが走るのだった。

 里美は思わず「ちきしょう!」と声を上げてベッドの

横の壁を平手で叩いた。叩いた勢いでベッドの横のテー

ブルに置いてあるワインボトルが倒れそうになり、それ

をつかまえようとして思い切り壁に足蹴りを食らわして

しまった。ドドンという音がして、里美は全く何やって

るんだ私はと思いつつ、つかみ取ったワインボトルをラ

ッパ飲みした。

『くっそー! それにしても、あの男がそんなげす野郎

だったなんて』

と心の内で似合わない下卑た言葉を発しながら、今度

は拳の腹で壁を叩いた。かなり痛かった。

 こうなると普段大人しい里美は一気に不埒な女と化す。

今度は厚めの雑誌を壁に投げつけた。雑誌の堅い背が丁

度壁に当たりゴツッという鈍い音が響いた。隣の部屋の

室内には三発目までの鈍い音は当然すべて響き、この四

発目の攻撃は隣り部屋の客の心の臨界点に達するに充分

すぎた。その客はただでさえ尋常な心持ちではいなかっ

たからだ。

 あろうことかその客は里美よりほんの少し前に小布施

に到着し、やはり明日どうやってあの色男に復讐してや

ろうかとワインを飲みながら作戦を立てていた史瑠紅だ

った。史瑠紅は音のする部屋の壁に向かって蹴りを一発

入れると怒鳴った。

「うるさいわね! 表に出やがれっ!」

 史瑠紅もしたたかに酔っていたが、里美と同じように

明に対するふつふつとした怒りの力が手伝ってそんな言

葉を思わず口走った。勢いもあってそのまま部屋を飛び

出て隣部屋のドアを叩いた。

 里美は隣には客はいないとなぜか勝手な思い込みをし

ていたので、壁を叩き返してきたうえにドアを叩かれて、

はっと我に返り一気に酔いも覚めた。これはとんでもな

いことをしたと思い、謝ろうと部屋を飛び出した。ドア

を開けると二人は鉢合わせになりお互いの顔を見て呆然

と立ちすくんだ。

「あれ?」「あれ?」

とお互い声を思わず出し合って、数秒の沈黙はあった

ものの事の次第を理解し合うのにそれほど時間はかから

なかった。史瑠紅と里美は指を差し合いながらけらけら

と笑い会うのだった。

 

 そんなことは知らずに太郎丸はもう夜も遅かったが、

小倉小路屋の保養施設、緑明館のエントランスの呼び鈴

ブザーを鳴らしていた。緑明館は街から離れた山の麓に

あり、周りには民家もなく、森と林しかなかった。緑明

館のやや前方に小倉小路屋の工場、といってもそれほど

大きくはない建物が立っていた。その横側には五面ある

というテニスコートらしき敷地と高いフェンスが暗闇に

浮かぶようにある。

 ちらりと工場に視線を送って、振り返ってもう一度ブ

ザーを鳴らすとエントランスの照明がぱっと明るくなり

中から人影が現れた。出てきたのは一人の初老の女性だ

った。よく見ると彼女は小倉小路屋古くからのスタッフ

の宮木のおばさんだった。宮木のおばさんは太郎丸が小

さい頃、東京の事務所で働いていて、太郎丸のことをよ

くかわいがっていた人である。太郎丸も「宮木のおばさ

ん」と言ってまとわりつくこともあった。小さい太郎丸

にはよく笑う大好きなおばさんだった。ガラス戸越しに

すぐわかったのか、鍵を開けると宮木のおばさんは太郎

丸を見上げて屈託なく笑った。老いてはいたがその笑顔

は昔のままだった。

「あらま、あらま、おぼっちゃんじゃないですか。お久

しぶりです。こんな夜中にどうしたんですか。まだ西洋

にいるんじゃなかったんですか、まあまあようこそ!」

 宮木のおばさんは、手を大げさに広げてビックリした

様子を体全体で表して、そう言いながらにこにこして太

郎丸の手を取って館内に迎え入れた。

「宮木のおばさんじゃないか。ここにいたんだね。久し

ぶりだね」

 宮木のおばさんは、相変わらず「ヨーロッパ」のこと

を「西洋」しかも「せいおう」と江戸っ子訛りのように

言うのでおかしかった。

昔、「西欧」とは違うと言うと「西洋」でしょと、わ

ざわざ紙に書いて説明してくれたこともあった。人に道

を聞かれて「まっすぐ行って左」と言うのを「まっつぐ

いってしだり」と言う。ちゃきちゃきの江戸っ子だった。

その気性も竹を割った性格とはこのことだと思わせる人

だった。

「さあ、早くおあがんなさい、おあがんなさい。お腹は

減ってませんか。何食べますか。あ、そうだわ。いい野

沢菜がありますよ。茶漬けにしますか。こんな夜遅くに

茶漬けはないね。小布施は美味しいワインもあるんです

よ。そうだわ、温泉が先ですね。おぼっちゃんはここは

初めてでございますよね。そりゃいいお湯ですよ。いや

ほんとに大きくなられて頼もしくなられて、中学生以来

でしたかね。大学生になられたとか。亡くなった奥様が

生きていらっしゃれば、さぞかしお喜びなさったことで

しょう」

 と、宮木のおばさんは矢継ぎ早に話し、後半は少し涙

ぐみながら長廊下を太郎丸の肩などをさすりながら急ぎ

足で歩いていくのだった。聞いていた太郎丸も何か心が

懐かしさでほっとするように包まれて癒されて、長旅の

疲れもほぐれるのだった。

 風呂上がりに宮木のおばさんの部屋でワインを酌み交

わしながらの話から、史瑠紅はまだこの施設には来てい

ないことがわかった。史瑠紅がここに向かっていること

も宮木のおばさんは知らなかった。目の前の宮木のおば

さんは史瑠紅に一年ぶりに会えることも喜んでいる。四

年生になった史瑠紅は夏の合宿に来ないことは知ってい

たのだ。緑明館の所有者の家族であるその史瑠紅でさえ

来ない合宿にその明という奴は4年生でただ一人、女目

当てに来るのだと想像できた。史瑠紅たちの怒りはもっ

ともだと思った。

恐らくあのプライドの高い史瑠紅は長い間その男に騙

され、二股三股とかけられていることも知らずにあっさ

りとふられたに違いないのだろうと太郎丸は夜の山影を

遠く見ながら上信越自動車道を走らせていた時に確信し、

許せない思いをつのらせていたのだった。

「おばさん、今年の夏合宿に男子学生は来てるの?」

「はいはい、来てますとも。今年は一年生の男の子が去

年より多く入ったんだね。男の子は七人いますよ。女の

子は二十六人ですよ。こうみえても、お客様の把握は誰

にも負けやしませんよ」

 ふん、といった感じで少しワインに酔ったのか、口調

もさっきと違って勝ち誇った様子で宮木のおばさんはそ

う言った。

「あ、そうだ。明日、一日遅れで朝来る女の子一人と夕

方来る男の子が一人いるって部長さんが言ってましたよ」

 『それだ』と太郎丸はぴんと来た。その一日遅れの男

が明に違いない。もしかしたら、その遅れてくるという

女子学生も何らかの関わりがあるのだろう。時間差で来

るというのが怪しいと太郎丸は思った。犠牲者の一人に

違いない。  

「ねえ、おばさん。その遅れてくる男子学生の名前なん

か知らないよね?」

 宮木のおばさんは返答しなかった。下を見てこくりこ

くりとしている。疲れているのだろう。太郎丸は布団を

敷いて宮木のおばさんをそこに寝かせると部屋を出た。

さっきおばさんが出てきたスタッフの宿直室に行ってそ

こで寝ようとしたのだ。もう夜中の一時をまわっている。

宿直室の入り口のドアは受付カウンターの脇にあった。

ドアを開けて部屋の中に入ろうとした時だ。太郎丸の

立っている右方向にあたるエントランスのガラス戸のそ

の向こうに一瞬だったが閃光が見えて視界に入った。気

のせいかとも思ったが、太郎丸はガラス戸の方に歩いて、

靴を履いて外をのぞいて見た。

 月明かりと工場の脇の街灯の微かな灯りにぼんやりと

工場の影が見える。太郎丸は何かに誘われるようにエン

トランスの鍵を開けて外に出た。山の麓の風が頬を撫で

る。初夏とはいえ信州の夜は少しひんやりする。あたり

は不気味なほど静かで、風が近くの森の木々を揺らす葉

音しか聞こえない。突然、静寂をつんざくような女の悲

鳴がした。

 悲鳴はそれほど近くではなかったが確かに聞こえた。

工場の方角から聞こえたように思えたがよくは分からな

い。そちらを見てみると懐中電灯のような小さな光が二

つ、ちらちらと工場の建物の下で見え隠れするのが見え

る。「キャッ」という悲鳴がまた聞こえた。 

さっきの悲鳴よりは少し小さかったがそのちらちらと

見える光の方からはっきり聞こえる。尋常なことではな

いとその状況からすぐに分かった。太郎丸は大玄関に引

き返し辺りを見回した。小さなお土産売り場コーナーが

あるのが目に入り、思った通りよくあるお土産の木刀が

数本ある。すばやくそれを一本抜き取るとまた外に出て

悲鳴のする方向に用心深く向かった。工場の入り口の近

くにその人影はあった。入り口の辺りは遠くから見るよ

り思っていた以上に街灯の明かりで様子がよく見える。

 四人の人影があり、明らかにもみ合っているようだっ

たが、近寄っていくうちにその内の二人が女であること

が分かった。あと二つの人影は男のようで「うっ」とか

「あっ」とか言いながら女からの蹴りやパンチを受け止

めつつ争っている。距離にしてあと十数メートルという

所で、二人の男が一人は背が高くやせていて、もう一人

は背が低く太っている者だと分かった。

覆面をした円田と白井だ。もちろん太郎丸には誰だか

分からない。

 円田と白井は阿川に言われた通りこの小倉小路屋小布

施工場に侵入してパソコンにバルセス特性アルミ弁当箱

フラッシュメモリを差し込んで作業をし終えて出てきた

ところを史瑠紅と里美に鉢合わせたのだった。円田と白

井はそのまま逃げようとしたが、気丈夫な史瑠紅は自社

工場に侵入した泥棒だと思い、勇敢にも二人に挑んだの

だった。二人はテニスサークル現部長の藤柴みなみから

少林寺拳法をもう二年近く習っていて腕に覚えがある。

「キャー」という叫びは里美の出す独特の気合いの声だ

ったのだ。

 史瑠紅と里美は小布施の宿の廊下で再会したあの後、

酔った勢いでタクシーを呼びこの緑明館に来たのだった。

当然、明に対する報復のためだ。寝入った明に水をかけ

て起こしてから緑明館から荷物ごと外にたたき出す作戦

を立てていた。気は高ぶっていた。

「うぉらーっ、何やってんだー! やめろ、この野郎っ

ー!」

 太郎丸はあと数メートルというところで木刀を右手に

持ち直し高くかかげながら、あらん限りの声で怒鳴り散

らした。遠目には男二人が女を襲う犯罪者に見えた。ま

さか逃げようとする男二人を女性二人が捕まえようとし

ているとは太郎丸には見えなかった。男二人がもしこち

らに向かってきたら、何も言わずに向こうずねと腕を木

刀で強打して相手の戦闘能力を奪ってから、その後は成

り行きに任せようと走りながら考えた。

 怒鳴り声に気付いたのか四人は太郎丸の方を見た。も

う七、八メートルの所まで来ていたので顔も見え始めて

いた。太郎丸はその女のうちの一人の顔を見て驚愕した。

 史瑠紅だった。史瑠紅も驚いたのか一瞬動作が止まっ

たが、すぐに叫んだ。

「シルッペー! こんなとこで何やってんだよ!」

「あっ、マルちゃーん、捕まえてーこいつらドロボーな

んだ!」

 その時けたたましい車のクラクションによく似た音が

辺り一帯を包み込んだ。クラクションの音に電子音が混

ざったような不思議な音だった。その音のする方向を見

るとさっき太郎丸が玄関から見た強い光がパッと走り、

一帯を照らした。激しい閃光だ。光の渦が現れ出した。

奇妙な電子音は徐々に激しさを増していく。そして、光

の色は紫色に変わっていく。その物体は空中に浮く小さ

な竜巻のように見えた。紫色の光が激しく渦を巻いてい

る。地上にいる五人は争いの手を止めて皆それを見た。

電子音が消えていく。すると紫の光の下からオレンジ色

の光が見えだしたかと思うとぱっくりと渦の真ん中が割

けて金属の物体が姿を現した。背中に車のハンドルのよ

うなものを付けている。バルセスだ。相変わらずの派手

な登場だ。円田と白井は声を上げた。

「バルセスさーん、助けてくださーい」

「出やがったなロボット野郎!」

 太郎丸は木刀をバルセスに向けて怒鳴った。

「また会ったな太郎丸。私はロボットではないと何度言

ったら分かるのだ。まあいい。残り二つの内の一つ、赤

玉をタイミング良く見つけたぞ。『運がいい』とか

『ラッキー!』とか『トンデヒニイルナツノムシ』とは、

こういう時、人間が使う言葉だろう」

 バルセスは相変わらず人間の意識に語りかけてくる。

太郎丸は声をあげる。

「どういうことだ!?」

「そこにいるお前の姉のバレッタを見てみろ。分からな

いのか」

「えっ、なになに?」史瑠紅はそう言いながら長い髪の

毛を上で束ねているバレッタを触った。それは亡くなっ

た母親からさずかったバレッタだ。白井が史瑠紅を見て

声を放つ。

「こいつは太郎丸の姉なのか!? おい、そのバレッタ

を見せろ!」

「白井、バレッタって何だよ。お前らだけで話を進める

なよ。バレッタって何だよー」

 バルセスが空中で一回転しながら続けた。

「そのバレッタに埋め込まれているのはかぐや姫の四つ

目の赤玉だぞ。私には分かる。悪いがもらうぞ。円田、

白井、その女を早く捕まえるのだ。私は人間にさわれな

いからの」

「それがさっきから俺たちも逃げられないんで・・・・・・捕

まえるなんて無理ですよ!」

 すると、そのバルセスの小さな紫色の竜巻から霧状の

オレンジ色のガスのようなものが史瑠紅と里美に向かっ

て吹いてきた。ガスはあっという間に二人を包み込んだ

かと思うと竜巻になって二人の姿を隠した。竜巻の回転

は徐々に薄れていく。そしてオレンジ色のガスが吹き飛

んだかと思うと地面には二つの鳥籠だけが現れた。

 史瑠紅と里美は鳥籠に入った白と黄色のオカメインコ

になっていた。史瑠紅の白いオカメインコの背中には赤

玉が埋め込まれたバレッタが乗っかっている。まるで背

中の装飾のように。オカメインコにされてしまった二人

は悲しげにただ「ピーピー」と鳴いている。太郎丸も体

が動かない。

バルセスが円田と白井の頭の中に厳かに言う。

「円田、白井、それならよかろう。早くその鳥籠を持っ

て車に乗り込むのだ」

 円田と白井の数メートル先に黒い車があって、二人は

雄叫びを上げながら鳥籠を瞬時につかみ取ると車に向か

って走っていった。二人の乗った車はバルセスに促され

るように森の中の漆黒の闇の中に消えていってしまった。

太郎丸は「待て!」と叫ぶが、叫びはむなしく森に響く

だけだ。

「うるさい奴め、お前もオカメインコにしてやろう」

 バルセスは今度は太郎丸の方に向き直ってオレンジ色

のガスを放った。太郎丸はシュヴァルツヴァルトの黒い

森で襲われたときと同じように強い睡魔の中に引きづり

込まれる感覚に陥っていった。その時だった。漆黒の森

の中から赤い光が太郎丸の瞳にまばゆく迫ってきた。赤

い光は次第に大きくなり太郎丸をまるでオレンジ色のガ

スから守るようにして包み込んだ。そして太郎丸の瞳に

一人のポニーテールの少女が写る。

「カグ?・・・・・・」

 太郎丸は小さく問いかけた。体は相変わらず硬直して

いるが、赤い光に包まれているからだろう、オカメイン

コにはならない。強くまた睡魔が襲う。太郎丸は呻くし

かなかった。頭の中で『シルッペを返せ。ちきしょう、

返せ』とうなった。しかし、その頭の中のうめきとは裏

腹に段々と意識は遠のいていく。その時、彼女の声がし

た。

「大丈夫か!? しっかりしろよ。今あの二人を助けに

行ってやるから!」

 バルセスはその赤い光の正体に気づき、「ちっ」と言

うとガスを吹くのをやめた。

「またお前か。あんまり人間界に出しゃばらない方がい

いぞ。それともまさかその男に惚れたのか? ハハハ、

お笑いぐさだぞ」

 そう言うと森の中へと姿を消していった。ポニーテー

ルの少女はバルセス達が消えた方向に向かって叫んだ。

「待ちなバルセス! 勝手なことは許さないよ!」 

 ポニーテールの少女は確かにそう言ったかと思うと美

しい姿を太郎丸の瞳の中に残し、瞬時に森の中へと消え

ていった。そして、黒い森で起きた時と同じような意識

の中で夢の中へと入ってゆく。

 夢なのかそうでないのかはっきりとは分からなかった

が、突然バブシが太郎丸の目の前に現れてこう囁いた。

『明日、小布施の龍に会うです! 待ってるですし!』

そう聞こえたが、もうその次の瞬間には太郎丸は強烈な

睡魔の中に溶けていくのだった。

 小布施の白い雲が鮮やかな紺碧の空の中に気持ちよさ

げに浮かんでいる。何事もなかったかのようないつもと

同じ青い空と白い雲の穏やかな朝は誰にでもくるものだ。

太郎丸は緑明館の一室でふわふわとした布団と真新しい

シーツの上で目を覚ました。朝といっても時計を見ると

もう九時を過ぎていた。ふと、部屋の隅を見ると宮木の

おばさんが台所らしきところで何か作っている。どうや

らこの部屋はおばさんの部屋らしい。

「おばさん。俺、ここで・・・・・・」太郎丸は半身を起こす。

 そう言いかけると、宮木のおばさんはあらあら目が覚

めたのですか、という様子で太郎丸の所に近づいて来た。

「よく寝られたですか、おぼっちゃん。夜中に外で大き

な音がしたって言って部長さんたちが外に出て行ったら

おぼっちゃんが木刀持って地面の上で爆睡していたって、

それでみんなでこの部屋まで運んだんですよ。だめです

よ、おぼっちゃん。酔って夜中に素振りしてそのまま寝

てしまうなんて」

 そう言って豪快に笑ってまた台所に戻るのだった。太

郎丸は事情を飲み込んだ。どうやら合宿中の部員たちに

ここに運ばれてそのまま寝ていたらしい。宮木のおばさ

んがそれ以上のことを言わないところを見ると夜中の外

での出来事は誰も知らないのだろう。

 太郎丸はバブシの言葉を思い出した。そう、龍のこと

だ。

「おばさん、小布施に龍の伝説なんかある? もしくは

龍の名の付く場所とか」

「龍? 龍って、あの髭のある空に登っていく龍ですか。

あんまり聞いたことないですね。といってもおぼっちゃ

んも知ってのとおり私はここの人間ではないですからね

え。あ、そうだ岩松院という寺院に葛飾北斎が書いた大

きな絵があったですねえ。あれは龍じゃなかったかしら。

北斎と言えば街の真ん中にある北斎館にも何かあるかも

知れませんよ。ごめんなさい、役に立ちませんね。さあ、

おぼっちゃんそんなことよりご飯できましたから食べて

ください。さあさあ」

 と言って、宮木のおばさんは底抜けの笑みを浮かべて

朝食を運ぶのだった。

 太郎丸は朝食もそこそこに済ませるとテニスコートに

行って部長の藤柴みなみという女の子に礼を言うとロー

ドスターに乗って小布施の北斎館へと向かった。北斎館

には有名だという祭屋台の天井絵の一つに龍と鳳凰の絵

があった。しかし、それよりも太郎丸の気を引いたのは

北斎が最晩年に描いたという富士の山から龍が天へと登

ってゆく掛け軸の方だった。それまで掛け軸を真剣に見

たことなどないから比較などできないのだが、言い知れ

ぬ感動を覚えたのだ。葛飾北斎の筆力なのか天へと登っ

てゆく龍に生きているような迫力を感じたのだ。しかし、

その絵を見ても何も太郎丸の身には起こらなかった。

 太郎丸はバブシの言う言葉の意味が間違いだったので

はなかったかという気さへした。もしかしたらバブシの

言葉の部分は夢だったのかもしれないと。

 気がつくと太郎丸はそんなことを考えながら昨夜の森

の前に来ていた。車から降りると森の前に立った。よく

見ると竹林がありその茂みの中に小さな古びた祠があっ

た。

『史瑠紅と友達が助かりますように。そのためには自分

の命が削られてもかまいません』

 静かに瞳を閉じて、そう祠に向かって心の中で精一杯

に祈った。

 すると、風が静かに太郎丸の頬を撫でたかと思うとざ

わざわと目の前の森の木々が揺れ始めた。風が強さを増

し髪の毛がなびくほどになった。森の中から一陣の風が

さらに強く吹いた。風は金色に見えるようだ。まばゆい

ほど輝く風が迫ってくるようだ。

 眼を細めるとそいつは突然現れた。一頭の黄色に輝く

龍、黄龍だ。といっても、それが龍だとはっきりとは確

信できなかった。もちろんだが実物の龍など見たことが

ないからだ。さっき見た北斎の龍そのものだったから龍

だと思ったのだ。しかも、直感だったが、この龍はその

北斎館で見た富士の山から登る龍に違いないと思ったの

である。

『これが龍か、絵とは大違いだ。なんて荘厳なんだ』

心の中でそう呟いた。その光は大きな愛に包まれてい

るようで体の中から暖かさを感じ、涙が自然とあふれて

くる。

 その瞬間だ。黄龍は彼の心に語りかけた。

「待っていたのだぞ! やっと来たな小僧! さあ来い、

お前の愛するものを助けに時の彼方に出かけよう!」

 黄龍はそう吠えると彼を背に乗せて山に沿う森の中に

消えゆくようにして天高く飛び去っていった。

小布施の空に龍の形に似た流れる白雲が透き通る紺碧

に映えるのを見た。


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