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Ⅲ シュトゥットガルトの薫風

Ⅲ シュトゥットガルトの薫風 

 

 シュトゥットガルト大学のそばにある一軒のカフェの

店内はおよそ太陽の光をこれ以上は降り注げないだろう

というくらいに目映いほど明るかった。この街の湿度は

肌に心地良く、空がここまでかというほど高く抜けてど

こまでも青い。

 その気持ちのいい土曜日の朝に紗矢は啓からの電話で

突然呼び出されたため幾分寝不足気味な顔でカプチーノ

を飲んでいた。休みの土曜日ならまだベッドでうだうだ

している時間だ。律儀な啓にしては珍しく待ち合わせの

時間を二十分は過ぎているというのにまだ店には現れて

いなかった。小さい頃は利発な紗矢と穏やかな啓は妙に

気が合って仲が良かった。紗矢がパリ第六大学の理系大

学生の時に啓は本や絵を描くことが好きな大人しい中高

生だったからけんかにもならなかった。

 突然、カフェのドアベルが小気味よく鳴ってストレー

トロングヘアーに淡いピンク柄のワンピースをかわいく

着こなした啓が店内に入ってきた。すぐ紗矢を見つけて

軽やかに右手を小さく上げて微笑んだ。黒目がちな大き

な二重の瞳とすっと通った鼻筋に小さな唇、美しく長い

黒髪、全体から醸し出される様子は相変わらず清楚で姉

から見てもかわいい妹だと誰かに自慢したくなる。二人

が会うのは五年ぶりだった。

「ごめんなさい。紗矢ねえさん。遅れてしまって。ホテ

ルを出る時に急に電話がきちゃって、本当にごめんなさ

い」

「いいのよ。そんなに謝らなくても。それより久しぶり

ね。どう? 元気にやってるの。わざわざパリからこん

なとこまで来て。どうしたの、何かあったの?」

 そう言いながら紗矢は大きめの黒縁メガネを指で軽く

押さえた。セミロングボブの髪に理知的な顔立ちの涼し

い瞳の紗矢にはちょっと不似合いなメガネだ。

「相談したいことがあって、ごめんなさい、忙しい時に

急に呼び出したりして」

 「相談」という言葉は意外だった。啓はウエイトレス

を呼んでミルクティーを注文して、笑みを浮かべた。

「なに、相談って?」

「わがまま言って悪いんだけれど、あき子ねえさんがこ

っちに来たら一緒に聞いてもらいたいのよ。だから、今

日は相談の前の相談ていうか、ごめんなさい。何言って

るんだろ私。紗矢ねえさんをわざわざ呼び出して」

「相談の前の相談? 啓ちゃんは相変わらずだね、おも

しろいこと言うわ。しょうがないわ、あきねえがまだこ

こに来ないんだから。そう言えばマルちゃんも一緒に来

るらしいのよ。ところで、啓ちゃんはいつまでこっちに

いられるの? 会社は休みを取れたの? 私は平日は大

学だから夜しか会えないわよ。それにあきねえが着いた

らポルシェの人達に会わせる件もあるし、忙しくなるわ

よ。あ、でも、夜のがいいか。飲みながら話聞けるし、

ふふ。美味しいお店たくさんあるのよシュトゥットガル

トの街って」

 紗矢はなんとなくこの「相談」というのは、ただの

「相談」ではないなと感覚的に察して久しぶりに啓に会

ったというのにやけに能弁になっている自分を可笑しく

思った。

「会社は辞めようと思って・・・・・・」

「えっ? 辞めようって、何よどうしたの? 順調にい

ってたんじゃないの。あきねえから聞いてた感じじゃ仕

事内容もお給料もいいって」

「うん。悪い会社じゃなかったんだけれど、実は相談す

ることにも関わりがあるの」

「あきねえから聞いているけれど、『KAGUYA』に

行く気になったのね」

「それはだめだわ。お父さんに認めてもらう一人前のデ

ザイナーになってからじゃないとそれは絶対にできない

わ」

「お父さんに認めてもらうデザイナーか。啓ちゃんお父

さんの反対を押し切ってパリに来たからね。それは分か

るわ。でも、もう五年近くも頑張ってきたんだし、それ

にあきねえから聞いたわよ。『KAGUYA』の商品を

デザインしたんでしょ。売れ行きもまあまあだって、あ

きねえ喜んでメールで自慢してたわよ。ちゃんとお父さ

んに話したら?」

 紗矢は啓をねぎらうような口調で優しく諭した。しか

し、少し啓の顔が曇る。

「あのスマートフォンカバーは、あき子ねえさんがお父

さんに内緒で進めた商品だから、それはできないわ。あ

き子ねえさんにも迷惑がかかっちゃう」

「啓ちゃんは、ほんとに真面目ねえ。家族なんだから迷

惑も何もないわ。迷惑懸けてなんぼでしょ。あきねえだ

ってうまくお父さんに話す自信があるからきっと啓ちゃ

んを誘っているんだと思うわ」

 聡明でいつも冷静に理論立てて話す紗矢の口から「迷

惑懸けてなんぼでしょ」という言葉が出てきて、啓は不

思議な安堵感を感じた。久しぶりに会った紗矢に対して

幾分緊張していたのだがリラックスできる感覚がふっと

湧き起こったのだ。その感覚は昔の何の気も遣わない心

の底から笑い合い、ふざけ合えた幼い姉妹の頃の感覚だ

った。

「迷惑懸けてなんぼって・・・・・・紗矢ねえさんっぽくない

ね。ふふ、でもいいね。そう思うとなんだか気が楽にな

るわ」

「そうよ、離れていても私たち家族なんだから。私は啓

ちゃんの力になるわ。助け合わなくちゃ。遠慮しなくて

いいのよ。あきねえだって啓ちゃんのこと私と同じよう

に思っているから、『KAGUYA』においでって言っ

てるんだと思うよ」

 二人が向かい合っているテーブルの上に尚もさらさら

と土曜日の陽は注いでいる。窓硝子の向こうシュトゥッ

トガルト大学のキャンパスの樹木たちが青い空の手前で

穏やかに風に揺れている。啓はそれを見ながら家族とい

う言葉を一人かみしめていた。

 この五年近く家族なんて言葉はあんまり意識しないで

一人パリで頑張ってきた。

 とにかく早く一人前のデザイナーとして独り立ちでき

るまでになりたいという一心で、他人から見たら地道に

やっていると見られたかも知れないけれど心の中は必死

だった。

「家族かあ、そうだよね。私たち家族なのよね」

「そうよ、家族なのよ。今はみんな離れて暮らしてるけ

ど。きっとお父さんだって同じように啓ちゃんのこと心

配していると思うわ。意地を張らないでお父さんに話す

べきよ。で、相談の前の相談って何なの?」

 啓はキリッと体育系の部活少女が厳しい顧問の前に立

ち真剣にまっすぐ前を向くような表情になって話し始め

た。世の中をなめていない二十六歳の大人の女の瞳だ。

「実は今、結婚を考えている人がいるの。でも、この結

婚はいろいろなことに大きな代償を払いそうだし、もし

かして自分の考えは間違っているんじゃないのかって思

う時もあるのよ。恐らく会社も辞めなくちゃならないし、

そうすると新しいデザイン関係の仕事も見つけなくちゃ

ならないし、何よりお父さんや家族に賛成してもらえる

かどうか。反対されたままでもいいって言えばそうなん

だけれど、相手の人ができればちゃんと家族に祝福され

て結婚したいって言うから・・・・・・やっぱりみんなに言っ

て結婚した方がいいわよね」

 話を聞いている途中から紗矢はテーブルの上に右手を

差し出して話を制止するようなポーズで啓をまじまじと

見る。珍しく紗矢が動揺した。

「ちょっ、ちょっ、ちょっと待って! 結婚っ!? 啓

ちゃんが結婚っ?」

「ごめんなさい。三十五歳と三十一歳の独身の姉二人を

差し置いて」

「えっ? あっ、それはいいのよ。結婚って聞いてびっ

くりしただけだから。でもどういうこと、今の話からす

ると不倫ってこと? 相手は妻子持ちってこと? そう

なのね」

 紗矢は相談の内容が思っていたより重く、これはまい

ったなという表情でカプチーノをすする。この手の話は、

やはりあき子の方が向いていると思った。啓はうつむい

ている。その様子から紗矢はますますそう思ったが話を

聞いた手前最後まで付き合うしかない。

「まあいいわ。不倫と聞いても驚かないわ。もう啓ちゃ

んも二十六だからね。で、どんな男なの? ちゃんと離

婚して啓ちゃんをもらうのじゃなかったら、その男、許

さないからね。ワンパンチ、ツーキックは食らわすわよ。

大丈夫なんでしょうね」

 紗矢は極真空手二段の腕だからワンパンチ、ツーキッ

クはまずい。

「違うわよ。不倫じゃないのよ」

「不倫じゃないって。じゃヤクザな奴とか、博打好きで

金遣いが荒いとか、女癖が悪いとか? そんなの結婚す

る前に治させなさい。でも治らないんなら、そういう男

がいいんならそれはそれで啓ちゃんの好き好きだから私

は何にも言わないわ。それとも、あ、分かった。遠洋漁

船の乗組員で一度海に出ると一、二年かそこら帰ってこ

ないってやつ? いいじゃない。亭主がいつもいない方

が気が楽でデザインの仕事もはかどるわ」

 紗矢のこういう時の想像力は貧困で偏っている。およ

そリケジョらしからぬ想像力だ。

「何言ってるの。本当に紗矢ねえさんって変なことばか

り考えるわね。可笑しい、ふふ」

 啓は紗矢の理知的な顔立ちとその発言のギャップから

可笑しさをこらえきれずに吹き出した。この姉は本当に

シュトゥットガルト大学で教えているのだろうかとチラ

っと思う。

「じゃ何? 啓ちゃんがちゃんと言わないからでしょ。

何を相談したいの?」

 紗矢は怒りはしないものの少しトーンダウンしてそう

言った。

「今日は相談の前の相談で、でも家族に反対されるかも

知れない結婚という意味では大体同じようなことなの。

紗矢ねえさんだったら、家族に反対されると分かってい

るなら内緒で結婚する? それに今順調にいってる仕事

を辞めたりする? 会社に内緒で結婚するのは無理よね? 

紗矢ねえさんの考えを聞いて納得できれば、このまま帰

ってあき子ねえさんにも今は言わない方がいいかなと昨

日の夜ホテルの部屋で考えて、それで紗矢ねえさんに電

話したのよ。本当にごめんなさい」

「うーん、なんだかよく分からないけれど、啓ちゃんと

しては結婚することはまず大前提って感じなのね」

「うん。しないっていう選択肢も考えたけれど、結局お

互いの気持ちはこの先も変わらないと思うからいつかは

結婚すると思うの。結婚にこだわらないという形も当然

あっていいと思うけれど私たちは「結婚」という形にあ

えてこだわってみたいの。後はその結婚を家族や会社に

公表するかしないかだと思っているの」

「結婚したら会社にはちゃんと言うべきよ。手当とか付

くんだし。でも同じ会社ならどちらかが異動するか、や

っぱりどちらかが辞めるしかないか」

「内の会社には支店なんてないわ。公表したら恐らくど

ちらかが辞めるか、場合によっては二人とも辞めるか、

相手の人は残ってもいいと言ってるけれど、私は無理か

も。周りが変な目で見るかもって思うの。私は会社続け

られない、やっぱり」

 啓は瞳を伏せた。少し思い詰めた様子が肩の震えで分

かる。

「分かったわ。仕事のことは啓ちゃんが嫌って言っても

『KAGUYA』に移るっていう手もあるから、それに

他を探せばなんとかなるわよ。思い切って独立する手も

あるし。後から考えましょ。でも結婚のことは別よ。ち

ゃんと籍を入れて式を挙げるべきよ。啓ちゃんに結婚し

たい人ができたのであれば。さっきも言ったでしょ。私

たちは家族なのよ。たとえどんな結婚であろうと私たち

は応援するし守ってあげるし味方になるわ。家族なんだ

から当たり前でしょ。あの頑固なお父さんは少し時間が

掛かるかも知れないけれどかわいい娘の初めての結婚な

んだもの、大丈夫よ。私たちが付いてるわ。あきねえだ

ってきっと、うん、絶対そう言うわ。そうだ、天国のお

母さんも応援してくれるわ。きっと!」

 暖かな日差しを浴びながら啓は両手を膝の上に真っ直

ぐに乗せたままうつむき加減で瞳に涙をためて聞いてい

た。しなやかな長い前髪が真白い端整な顔を半分隠して

かすかに揺れている。涙がひとしずく優しくなでるよう

に手の甲に落ちる。

啓は小さな声でささやくように「ありがとう」と言っ

たが、もうあとは何も言えなかった。


 太郎丸はおぼろげな意識で夢の中で母の膝枕で寝てい

るようだった。自分は小学生で頭を横にして薄く目を見

開いて目の前の大学生くらいのあきねえが口を開けて昼

寝をしているのを見ている。母の膝の上は暖かくふわふ

わとしていて心地が良かったのでもう少しこのままでい

たかった。昼寝をしているあきねえの向こうには靄が掛

かったように森があってその中で横顔のきれいな少女が

白馬に乗っているのが見える。 

 少女は赤いワンピースを着ていてダークブラウンの髪

のポニーテールが風に揺れている。太郎丸に気付いたの

かこちらを向くと微笑んだ。夢なのかどうかはっきりし

ないような暖かさに体が包まれる。この笑顔はどこかで

見たことがある。どこで見たのだろうか、思い出そうと

してもどうしても思い出せない。幼かった時に見た母の

若い頃の笑顔だったろうか、そうとも思えるし、違うか

も知れなかった。小学校三年生で日本を去る時に同じク

ラスにいた大好きだった初恋の由香里ちゃんの笑顔にも

それは見えた。もう会えないかも知れないというのに由

香里ちゃんは空港のロビーで一緒に見送りに来てくれた

何人かの友達の中で笑っていた。なぜ、さよならするの

にこの子は笑っているんだろうってそれが余計に寂しく

感じられてやっぱりフランスなんかには行きたくないと

思うのだった。そんなことを思い出したがその子でもな

い。いっこうにこの子が誰だか思い出せない。

 ふと、あたりを見回すと森はずっとずっと奥深く繋が

っていてよく見ると森の間には石でできた丸い煙突屋根

造りの家や洋館風の洒落た家や銀色の金属がピカピカし

た三角屋根の家が点々とある。しかもどの家にも一階に

は玄関らしきものがなくてガレージの扉があって、なぜ

どの家にもガレージがあるのだろうと不思議に思うのだ

った。気がつくと少女は家々の前に行っては何かを言っ

ているようだ。その声が不確かだが聞こえてくる。声か

どうかそれすらよく分からないが遠く遠く夢の中で聞こ

えるようだった。

「バルセス、バルセス、どこにいるの。いるのは分かっ

ているのよ。どこなの?」

 けれども、家も森も深閑として答えない。遠くにきら

きら光る山々が見える。その山々は金属片でできている。

金属は潰れたり、ひしゃげたりしている。原型をとどめ

ている金属の突起物もある。それは車だ。そして車の部

品だ。それらが、おびただしい数でその山々を作ってい

る。廃車でできた山々だ。醜いとか汚いとかという感じ

はしなかった。廃材置き場で廃車や鉄金属片を積み上げ

たものを見たことがあるがそれとは違って見えた。硬質

ではありそうだけれども見ようによってはごく自然な生

きている山にも見える。

 そう思えるととたんに美しい山々に見えるのだった。

峰が長く長く横に広がり続く。壮大な金属の連峰になっ

て見えるのだった。空は恐ろしいほど美しく澄んだ紫色

だ。やがて連峰は夕闇に包まれて薄墨色の影になってゆ

く。天空の高みから連峰の上にある大きな雲の塊にレン

ブラント光線の薄いオレンジ色の光の帯が数本差し込み

始め、その光景を遙か彼方に見て感動を覚える。少し涙

がこぼれそうになる。その空に向かって白馬に乗った少

女がポニーテールをなびかせて何かを追うように飛び去

ってゆく。

 

「ちょっと、早く起きなさいよ。まったく。ここどこよ? 

なんで寝てるわけ!」

 あき子のけたたましい呼び声で太郎丸はポルシェの運

転席で目を覚ました。助手席のあき子は口を開けてお昼

寝はしておらず、怒りと不安が混ざった顔で太郎丸を見

ていた。

「あきねえ、ここどこ?」

「ここどこじゃないわよ。それはこっちの台詞よ」

 近くに人気はほとんどないが、人々の遊ぶ歓声や子供

の声が遠くで聞こえていた。散歩している老人もいる。

車は閑静な住宅街が遠くに見える森の中に止まっていた。

 いやそこは森の中と言えば森の中なのだが、看板が近

くにあってどうやらここがシュトゥットガルト郊外にあ

るローゼン・シュタイン・パークだと分かるまでにそれ

ほど時間は掛からなかった。そばにある樹木たちの枝の

中を気持ちの良い風が吹きすぎてゆく。

「ここ公園みたいだね。あきねえ、ケガはないかい?」

「ケガはしてないみたいだけど・・・・・・私たち何してたん

だっけ?」  

 太郎丸はぼやけた頭の中を整理して記憶をたどった。

そうだった得体の知れないロボットのようなフェアリー

と名乗る怪物のせいで部屋に閉じこめられていたのだ。

「あっ、ない!」と、太郎丸は声を上げ胸のペンダント

のある位置を触った。

 太郎丸の胸にあった黄玉はなかった。

「ないって、何がないのよ」

「ペンダントだよ黄色い石の!」

 太郎丸は自分の胸を二、三度叩いて頭をふった。

「どこかに置き忘れたんじゃないの。そんなに大切なも

のだったの?」

「おふくろにもらったものだったんだ。くそー、ほんと

にあいつらに盗られるなんて、マジかよ!」

「えっ? ちょっと待って、お母さんにもらったって言

った?」

「おふくろが亡くなる何日か前だよ。一回病院から家に

帰ってきた時があっただろ、どうしても家に帰りたいか

らって、病院に許可もらってさ、何日間かだけさ、その

時におふくろと部屋で二人だけになった時があって、そ

の時にもらったんだ。先祖代々伝わる石だから、この石

を私だと思って大切にしてねって言われてもらったんだ

よ。でも、他人には言っちゃだめよって」

「実は私ももらったのよ、お母さんから同じようなこと

を言われて」

「えっ! 本当」

「私のは黒い石で。同じようにお母さんにもらったもの

よ。でも、さっき言ってた『あいつら』ってなんのこと? 

盗られたってどういうこと?」

 太郎丸はかえでさんの家の庭で見た夢のことを、いや

こういう状態を考えれば決して夢ではないことも、言う

べきかどうか一瞬迷った。あき子に言っても信じてもら

えないかも知れない。しかし、今ここにこうしている不

思議さを考えてみれば言うべきだと確信した。何より大

切にしていた黄玉がない。奪われたのだ。あき子はあき

子で森の中の店で怪しい部屋に閉じこめられ強烈な睡魔

に襲われたことを思い出していて、気がついて二人が今

ここにいることはどう考えても尋常なことではないなと

思い始めていた。この弟は一見不真面目そうには見える

が物事をしっかりと推し進めていくタイプで、嘘をつく

ような人間でないことはあき子が一番よく知っていた。

車で寝ていて起きたらシュトゥットガルトの公園に着い

ていたなどという手の込んだ嘘をつくわけがない。恐ら

く車の中で二人ともあの後ずっと寝ていて誰かがここま

で連れてきたに違いないのだ。太郎丸もそのことには感

づいていた。きっとカグがここまで自分たちを運んで来

たのだろうと。

「実はさ、あきねえ。カグっていう妖精に会ったんだよ。

フェラーリを運転したあの子だよ。それでもって、あの

かえでさんの家の庭で夜にさ、また会ったんだよ。それ

は夢かも知れないけどリアルな夢だったんだよ。あきね

えが夜かわいらしい少女を見たって言ってただろ、きっ

とその子だよ。信じてもらえないかも知れないけど。不

思議な会話をしたんだよ」

「そう言えば、かえでさんが『それはきっと妖精よ』っ

て言ってたわね。私、相当酔っぱらってたけど確かに庭

にいたあの少女の姿ははっきり覚えているわ。でも、妖

精がフェラーリ運転するかしら」

 太郎丸はあの夜のカグとの会話のことをあき子に話し

た。公園の樹木の葉が気持ちよさそうにまた風に流れる。

車と二人の影を木漏れ日が揺らしている。こんな時はき

っとカグとバブシがそばで話を聞いている。そんなこと

を太郎丸は感じながらあき子に話をした。

 本当におとぎ話を聞かせるように。あき子はいつにな

く神妙に話を聞いた。

「分かったわ、マルちゃんを信じるわ。もし、夢だった

としてもあなたの石を狙っている奴がいて、それを盗ら

れたことに間違いはないようね」

「俺、さっき気がつくまで夢を見ていたんだよ。不思議

な夢で、あの部屋から助けてくれた子に似ている女の子

が出てくる夢なんだよ。きっとカグだと思うんだ」

 太郎丸は見ていた夢を思い出していた。はっきりとし

た世界のようでそれはやはり夢とは言えないかも知れな

いと感じつつ話した。しかし、少女の顔はよくは思い出

せない。

「助けてくれた女の子? そうだ、私たちどうやってあ

の部屋から脱出できたの? 私は完全に寝てて覚えてい

ないのよ。宮沢賢治の童話に似ていたんだよね確か。怪

物に食べられなかったみたいだけど。私たち生きてるか

ら」

「賢治の『注文の多い料理店』のラストは二人が連れて

きていた狩猟犬が助けに来るんだ。それと同じように俺

の車が部屋に突っ込んできたのは覚えているんだけど、

そのあたりからの記憶が夢の中のようではっきりと覚え

ていないんだ。ただ、女の子が運転していたような微か

な記憶があるんだ。それで助けられたような微かな記憶

が。で、さっきまで見ていた夢の中の女の子にその子は

似ていると思うんだ。それがカグじゃないかって」

「なんでそう思うの、その二人に何か共通点があるの?」

「赤い服と、ポニーテールの髪さ、あとかわいい感じ!」

「結構覚えているんじゃない。それにしてもかわいい感

じ、には力を入れるのね。ということはカグさんてこと

かしら。カグさんが私たちを助けてくれたのね」

「カグさん、なんて『さん』付けするような子じゃない

んだけどね。黄玉は盗られちゃったけど、あのピンチか

ら救い出してくれたのかも。それでここまで連れてきて

くれた。でも、たぶん今もあの妖怪みたいなロボットみ

たいなフェアリーを探してるのかも。黄玉を取り返すた

めにさ。夢はそんな感じの夢だったから」

「なあに? その妖怪みたいなロボットみたいなフェア

リーって」

「あきねえが寝ていた時に最後の部屋から現れた化け物

さ。でもフェアリーだって言ってたけど。二人現れたん

だよ。あきねえ見なくて良かったよ。見てたら気絶して

たよ。そいつらが俺の黄玉を狙ってたんだ」

 その時、スマートフォンがミュージカル「エリザベー

ト」の楽曲でけたたましく鳴った。

 電話に出たあき子は拍子抜けする声を上げた。

「えっー!? 三日、三日って何よ、三日って! どう

いうこと、こっちが聞きたいわよ、えっ・・・・・・うんうん

・・・・・・わかったわ、とにかくすぐにそっちに向かうわ」

「どうしたの? 誰から」あき子は電話を切ると驚いた

顔でスマートフォンの画面を見ていた。そして、その画

面を太郎丸の顔に差し向けてこう言った。

「私たちがバーデンバーデンのホテルを出たのは日曜日

の朝よね。見てよこれ」

 あき子のスマートフォンの画面は一人の男性写真が壁

紙になっていた。どうやらあき子がご贔屓にしているミ

ュージカル俳優の井上芳雄だが太郎丸は知らない。

「誰それ、その男の人がどうかしたの? なまら、かっ

こいいじゃん」

「どこ見てんのよ、芳雄さんじゃなくて、今日の日付よ」

「えっ、あれ、六月二十五日、水曜日?」

「今の電話、紗矢からだったんだけど、『一体こっちに

いつ来るの、もう水曜日よ。どこで何してるのって言わ

れたのよ」 

 太郎丸は自分の腕時計を見た。曜日と日付は(WED

 25 14:50)と表示されていた。あき子のスマ

ートフォンが狂っているわけではなかった。二つとも同

じ時間だ。

「あれから三日も経っているってことよ。私たち三日も

寝ていたの? それにしては変だわ。ちょっとうたた寝

していたくらいにしか感じないし、まだ二日酔いのよう

な感じも残っているし・・・・・・」

太郎丸は自分のお腹を軽くさすりながら言う。

「お腹も全然減っていないし、喉だって渇いていない。

どういうことだ。これって、もしかして浦島効果の一つ

かな?」

「何よ、ウラシマコウカって?」

「ほら、浦島太郎さ。竜宮城に三年いたのに、戻ってき

たら三百年も時間が経っていたっていうあれさ。俺が見

ていたのが夢じゃないとしたら、カグがあのへんてこり

んな妖精を追っかけていくのにこの車に俺たちは同乗し

ていただろ。きっと妖精界に行ってたんだよ。妖精の世

界が異界だとしたら時間の経ち方が違って向こうではほ

んの少しの時間だったのに、こっちでは三日経っていた

のかも」

 そう言って太郎丸は自分の腕時計を見た。

「そうかしら、本当にそんなことってあるのかしら。ま、

どちらにしてもカグさんに助けてもらったことは事実の

ようね。まあいいわ、こうして二人とも無事なんだから、

感謝しなくちゃ。さぁ、考えても分からないから早く紗

矢の所に行くわよ。何かぴりぴりしてたから怒ってるわ

よきっと」

「はいはい」と言いながら、太郎丸はエンジンをかけた。

ポルシェ911は当然の如く一発でそのサウンドを奏で

た。ガソリンもあの日曜日の朝確認したとおりFULL

を指しているし、どこも異常はなさそうだ。太郎丸はあ

き子の言う通りにシュトゥットガルト大学を目指してハ

ンドルを切る。黄玉が無くなっていることは、恐らくカ

グとバブシがなんとかしてくれるに違いないと腹の中で

信じて、ちょっと太郎丸には珍しく険しい表情をして車

を走らせていった。


「やりましたよ兄貴っ! 野郎のペンダントぶっちぎっ

て持ってきましたよ」

 温泉の脱衣場で白井は得意げに黄玉の付いたペンダン

トをポケットから取り出して円田に見せた。円田と白井

は阿川に借りていたジャガーXKRに乗ってバーデンバ

ーデンの温泉地に戻ってきていた。白井は上機嫌だ。

「それにしても、おめえよくあのバルセスとかいう妖怪

に平気で嘘つけたな。俺は感心しちまったよ。あいつも

まさかあの渡した玉石がただの黄色いトンボ玉だとは思

うめえ」

「いや、そのうちもしかすると気がつくかも知れません。

だからあの嘘が効くんですよ後から、へへへ」

 円田と白井は思い出していた。

 白井は奪ったペンダントをバルセスから渡せと言われ

てあらかじめ用意しておいたトンボ玉の偽ペンダントを

バルセスに渡していた。阿川に渡さず、直に渡すことに

なった。

『おおー! でかしたぞ、これがあの青年が持っていた

黄玉か。本当である。きれいである。よくやったよくや

った。あの口の軽い阿川よりおまえ達の方が使えるわい。

あいつは契約のこともすぐにおまえらに喋ってしまうし、

まあいいわい。こうして黄玉が手に入れば。早速妖精界

に戻ってこのパワーを試してみるとしよう! しかし、

あれだな、あまりパワーを感じないがこんなものなのか

のお』

『へい、間違いなくあの野郎の胸から奪ったもんです。

バルセスさん、あれじゃないですか、ここはまだ人間界

だからパワーが感じられないんですよ』

『そうだな、そうかも知れん。ただひとつ気になること

があるのだ』

 白井はぎくりとしたが、平静を装い聞いてみた。偽物

と感づかれてはまずい。

『なんですか、気になる事っていうのは?』

『このかぐや姫の海に住む龍の黄玉なのだが本当は五つ

あるのだ。龍の首の五色の玉と言ってな。赤、青、黄、

白、黒とあるのだ。そのうちの黄色をあの青年が身につ

けていることが分かったのだが、われわれ車妖精界では

黄玉が伝説の玉と言われているわけではないのだ。それ

が何色かは本当のところは分かっていないのだ』

『というと・・・・・・馬鹿なあっしにもわかります。五つす

べての石があれば本当のパワーが分かるということです

ね。五つそろって真のパワーが出るって事で!』

 白井は自分でも咄嗟に都合のいい理由付けを取って付

けたように言えたと思った。人をおだてることと嘘の上

塗りは得意中の得意だった。円田も援護射撃する如く言

った。

『そうですよ! バルセスさん。その黄玉にパワーがい

まいち感じられないのは五つすべてそろってないからに

決まってます。そうなんですよ!』

『うーむ。そうかも知れんし、そうで無いかも知れん。

そうだお前たち、もののついでだ、あの青年が黄色を持

っていたということは、もしかするとあの青年の近辺で

他の四つの玉が出てくるかも知れん。それを探してこい。

もちろんただとは言わん。一生あっても使い切れないく

らいの褒美をくれてやる。私はとりあえず妖精界にもど

りこの黄玉のパワーを試してみる。分かったな、このこ

とは阿川にも一応連絡しておくのだぞ』

バルセスの言葉を聞いて円田と白井は常軌を逸して喜

んだ。と、同時に白井にはある考えが浮かんだ。バルセ

スにさらに偽物の玉を渡すという考えだ。


 シュトゥットガルトは十九世紀までヴュルテンベルク

王国の都だった。文化施設も多く芸術都市でもある。ド

イツで二番目に大きい収穫祭の祭典やクリスマスマーケ

ットも大勢の人でごった返すが、太郎丸たちが訪れた六

月はそういった行事の狭間で観光客は落ち着いている時

期であった。宵の口のシュトゥットガルトの目抜き通り

にあるレストランの個室であき子、紗矢、太郎丸の三人

の姉弟は久しぶりに顔を合わせた。紗矢はあまり酒は飲

まないので付き合い程度にワインを口に含んであき子に

向かって話し始めた。

「久しぶりよね。こうして会うのは。お父さんは元気?」

 あき子は相変わらずドイツビールをぐいぐいと飲んで

いる。

「お父さんね。検査入院してたんだけど、さっき電話が

あって何でもなかったって、でも、気分転換に少し休み

たいから、南フランスの別荘に行くって。働き過ぎだか

らちょうど良かったのよ」

「あの古くさいぼろの別荘ね。でも、よかったわね。お

父さんもそろそろ年だしね。あ、お父さん幾つになった

んだっけ?」

 紗矢が尋ねる。

「いやあねえ、自分の父親の年齢も忘れたの、今年で六

十よ。そうだ還暦のお祝いも考えなくちゃ。公務員なら

定年退職よ。それにしても紗矢、なかなかいいお店ね」

「いいお店でしょ。料理も美味しいのよ。それはそうと

マルちゃんとは一年以上会ってなかったわよね? 確か、

放浪している時ミュンヘンでお金が無くなったとかで電

話が来たとき以来だったかしら、今日は作務衣じゃない

のね。髪が赤ね、前は茶髪だったのに」

 紗矢があき子と太郎丸を見て微笑んだ。久しぶりの再

会だった。太郎丸は紗矢に久しぶりに会うというので今

夜はカジュアルなシャツとジャケットの出で立ちだ。

「紗矢っぺえも元気そうで何よりです。その節は大変助

かりました」

 頭をぺこりとして太郎丸が変に改まった言い方をした

のであき子が頭をはたく。

「何を改まってるのよ。似合わないからよしなさい」

「いてえなあ。それよりあきねえ、今日は飲み過ぎない

ようにしな。この間みたく、また二日酔いになっちゃう

から」

「分かってるわよ。でもやっぱりドイツビールは最高よ

ね。私ドイツに生まれたかったわ。ドイツじゃビールは

水代わりみたいなもんなんでしょ、料理も美味しいし男

も渋めのイケメンが多いし、ねー!」

「何が、ねー、よ。本当にあきねえは変わらないわね。

楽しそうでいいわ。ところで、ずいぶん遅いご到着です

こと。どこで寄り道してたわけ?」紗矢が呆れた声で言

う。

「ごめんよ、紗矢っぺえ。これにはいろいろと事情があ

って話すと長くなるんだ。ねえ、あきねえ・・・・・・」

 太郎丸はそう言ってあき子を見た。今までのことを話

したとしてもこの理知的な紗矢がそれをすぐに信じると

は思えない。話も長くなる。あき子も同じことを思った

のだろう。

「うん、まあ、私のわがままにマルちゃんがつき合って

くれてちょっと見たい所とかあって買い物もしたかった

し、ごめんなさいね紗矢。それよりポルシェの話だけど、

先方さんにはいつ会えるの」

「あきねえがこっちに来たら連絡しようと思っていたか

らまだ連絡はしていないのよ。でも、その人たちすごく

こちらに好意的で電話一本入れて来てくれればいつ来て

もいいと言ってくれてるのよ。だから、そっちは大丈夫

なんだけれど。それより違う問題が起きちゃって、啓ち

ゃんからあきねえに連絡いかなかった?」

 紗矢はいつになく心配そうな顔つきだった。彼女はふ

と外を見る。レストランの二階の窓から見える通りを歩

く人々はまだ明るい街を楽しんでいるかのようだ。

「あったわ。バーデンバーデンに向かっている車の中で

電話とったのよ。電波が切れ切れでよく話せなくて。何

でも直接会って話したい大事な相談があるって言ってた

わ」

「私、土曜日に呼び出されて先に大体の所を聞かされた

のよ。啓ちゃん、あきねえに話す前に私に『相談の前の

相談』をしたいって。たぶんあきねえが怒るかどうか気

にしてるんだと私は思ったんだけれど。実はこれから啓

ちゃんがここに来るのよ」

 太郎丸は咳払いをしながら言った。

「あのー、俺がいてもいいのかな、その話って。大丈夫? 

なんなら席はずそうか。女同士のがよくない?」

「大丈夫よ。家族なんだから。マルちゃんも男の立場で

一緒に話を聞いてあげなさい。で、どんな相談だったの?」

「そ、それがね。啓の相談ていうのは、たぶんこれから

連れてくる人に関係があると思うのよ」

 紗矢も啓の相談の核心部分についてははっきりと聞い

ていないわけだからどうしても煮え切らない話し方にな

ってしまい、自分でもどう話そうかと思っていた。

「どういうこと? はっきり言いなさいよ。家族なんだ

から」

「あの子、不倫してるみたいなの」

「不倫!?」あき子と太郎丸は声をそろえて紗矢を見た。

思いもよらぬ言葉だ。啓が不倫など全然イメージが浮か

ばない、二人にとってそういう言葉だった。しばしの間、

沈黙が流れた。太郎丸はやはりこの話は聞かない方が良

かったと後悔しながらワインを含んだ。

「・・・・・・嘘でしょ! どういうこと!」

 あき子の声のトーンが高くちょっと声がうわずってい

る。少し切れ気味の時の声だ。それでもあき子は落ち着

きを取り戻そうとしていた。長女として冷静に聞かねば

と思ったせいもある。あき子のビールは瞬く間に飲み干

される。ビールを追加した。まずい展開だ。『やばいな

ぁ』と太郎丸は思う。紗矢は話の続きを始めた。

「不倫だと、はっきり言ってはないんだけれど、話の感

じからするとどうもそんなふうに思えるのよ。だってね、

結婚を考えている人ができたって言うんだけれど、周り

に反対されるかもとか、大きな代償を払うかも知れない

とか、会社を辞めなきゃならないとか、家族に言うべき

かどうか迷っているとか、変なのよ。だから」

 紗矢の言葉を途中で遮るようにあき子が強く言った。

「けっ、結婚ですって! 不倫相手と結婚ってこと? 

啓が!?」

「あきねえ、声が大きいってば」

「ちょっと信じられないな。啓ねえさんが不倫なんてす

るかな。紗矢っぺえの思い違いなんじゃない? それに

はっきり不倫してるとは言ってないんでしょ」

 太郎丸は冷静にあき子と紗矢を見据えてそう言ったが、

紗矢は四姉妹の中では一番冷静に理知的に物事を判断で

きる人なのはよく分かっていたので、単なる気休めの言

葉には違いなかった。願望と言っても良かった。あき子

がすかさず言った。

「それはマルちゃんの希望的観測でしょ。紗矢がそう思

ったんならたぶんそうなんでしょ。啓だってもう大人の

女なんだから、あり得ない話じゃないわ。で、その時紗

矢はその話を聞いてなんて言ったの?」

「啓ちゃんね、たとえ反対されてもお互いが一緒になり

たいという気持ちは変わらないと思うって言ってたわ。

だからあえて結婚という形にこだわりたいって。家族に

打ち明けないで一緒になる道さえあるって言ってたわ。

仕事は辞めるって。あの子大人しそうに見えるけれど決

心は固そうなのよ。だから、私は周りが何て言おうと啓

ちゃんが結婚したい人なら応援するし守ってあげるって

言ったわ。家族なんだから味方になるのは当たり前でし

ょってそう言ったの。そしたら啓ちゃん下向いて小さく

『ありがとう』って言って、それから泣いちゃって。

私、姉として間違ったこと言ったかしら。数学や理科は

得意だけれど、実はこういう人生相談みたいなのは本当

は自信ないのよ・・・・・・あきねえどう思う?」

 あき子は紗矢の話を全部聞き終わる前に涙ぐんでいた。

気丈夫だから涙は落とさないようにこらえた。太郎丸は

紗矢の口からも出た『家族なんだから』という言葉に胸

を打たれていた。ここ何年か太郎丸が遠ざけていた、い

や遠くならざるを得なかった言葉を二人の姉の口から今

夜は二度も聞いたのだ。なぜだか少し暖かいものが体の

中を駆けめぐっていく感触がした。そして嬉しかった。

あき子はビールを一気に飲み干して言った。

「不倫はだめだけど、啓のことだから何か訳ありなのよ。

きっとそうよ。いいわ。紗矢の言葉は間違ってないと思

うわ。それでいいわ。私も啓を信じるわ」

「よかった。私、あきねえも、それから天国のお母さん

もきっとそう言うと思うわって言ったのよ」

「そうね、お母さんならきっと同じ事言うでしょうね。

わかったわ、啓が来たらちゃんと話を聞いて応援してあ

げましょ。それから仕事の事とか今後の事とかもね。と

ころでマルちゃんはどう思うの?」

「俺、俺ですか? 俺もいいと思うよ。不倫は駄目なこ

とだけど、啓ねえさんのことだからただの不倫じゃなく

て何か訳ありだと俺も思うな。きっとそれなりにきちん

とけじめはつけて結婚に踏み切っていくんだろうと思う

よ。まあ、俺もこの二年間、好き放題やってきて反対で

きる立場じゃないし、弟だから姉貴たちの意見に従いま

すです。それに啓ねえさんはやっぱり俺にとっても大事

な守ってあげたい姉さんだしさ」

「何よ、こんな時だけ弟だからとか言っちゃって」

 あき子はちょっと酔ってきたのか、半分おどけながら

太郎丸に毒づいたけれども、涙目を軽くぬぐいながら笑

って言うその顔を見て紗矢も太郎丸も一緒に笑うのだっ

た。二人ともあき子の照れ隠しだと分かっていた。その

時、啓が個室に現れた。少し離れた後ろにはフランス人

らしき女性が立っていた。啓はテーブルの前に来て挨拶

をした。

「あき子ねえさんごめんなさい。忙しいのにこんな所に

呼び出したりして」

「あら、啓。久しぶり、ほら、早く座りなさい。あら、

後ろの方は?」

「あ、この人レナさんです」

 啓はそう言うと後ろに立っていたそのフランス人の手

を取って自分の横に並ばせて紹介した。そのフランス人

はボーイッシュなショートヘアだったが鼻筋の通ったブ

ラウンの瞳が輝く清楚なフランス人女性だった。彼女は

外人にしては流暢な日本語で挨拶をした。

 笑顔が爽やかだが緊張しているらしく少し伏し目がち

だ。

「どうも初めまして、レナ・ボードレールと言います。

今夜はお忙しいところ申し訳ありません」

 彼女は丁寧にそう言うと深々とお辞儀をした。きれい

な言葉遣いだ。

「あ、よろしくお願いいたします」

 あき子、紗矢、太郎丸は思わず三人とも椅子から立ち

上がり挨拶した。彼女の日本語の挨拶が若いのに丁寧か

つ気品があって緊張はしているものの堂々としていたか

らだ。

「ま、ま、座ってください。あ、啓ねえさん久しぶり、

元気そうだね」

 と太郎丸が気を遣って椅子を引いて二人を座らせる。

「マルちゃん元気だった? 大学入ったんだって? お

めでとう! 教えてくれればお祝い送ったのに」

 啓は淡い青のワンピースにショートブーツを清楚に着

こなしている。レナという娘はボーイッシュで洒落たア

ウターにブルージーンズという装いだ。二人が並んでい

るとファッション雑誌のモデルのようだった。レナは挨

拶をして安心したのか少しにこやかになったが、まだ緊

張しているようだ。啓はそんなレナを気遣っているのか、

すぐにメニューを見せてオーダーを取るためにあれやこ

れやと二人で選び始める。この今の状況を飲み込めない

あき子と紗矢と太郎丸は沈黙してその様子を見てあれこ

れ考え始めた。

 流暢できれいな日本語をしゃべるこのお洒落で美しい

フランス人女性は誰なんだというクエスチョンマークが

三人の頭を駆けめぐる。あき子はほとんど口をつけてい

ない紗矢のグラスに意味もなくワインをつぎながら小さ

い声で耳打ちする。

「ねえ紗矢。さっき言ってた『その人』っていう人はど

うしたのよ、不倫の人を連れて来るんじゃなかったの? 

あの子どう見てもフランス人の女友達よね。どういうこ

と?」

「分からないわよ私だって。でも啓ちゃん、今夜の集ま

りはあきねえに相談するためのディナーだって言ってた

わよ。私が聞きたいくらいよ」

 紗矢はあまり飲めないワインに口をつけて飲む。混乱

する頭を沈めたかった。太郎丸はその二人の小声の会話

の内容は聞こえなかったが内容は推測できた。同じ事を

思っていたからだ。啓とレナの二人はウエイトレスに追

加オーダーすると太郎丸と紗矢がついでくれたワインを

持ち、あき子の音頭で皆で乾杯をした。

「かんぱーい!」みな声をそろえて言ったが、あき子と

紗矢は怪訝そうな表情での乾杯だった。しかし、太郎丸

は『まあいいや』と思って楽しい気分になってきている。

 この目の前にいる美しくボーイッシュな啓の友達と思

われるフランス人女性と一緒に楽しく飲めればいいや、

こうして三人の姉貴たちと久しぶりに楽しく飲めればい

いやと思ったのだ。太郎丸はそう思うと楽しい気持ちが

暴走するように目の前の料理にがっついた。 

しばしの間、皆は取り留めのない会話をしながら食事

を楽しんでいたが、ふいにレナのファミリーネームの

「ボードレール」のことを紗矢が聞いた。紗矢はリケジ

ョではあるが文学についての造詣も深く特に韻文学、近

代文学が好きだった。シャルル・ボードレールは十九世

紀のフランス詩人でヴェルレーヌ、ランボーと共に世界

の近代詩に大きな影響を与えた内の一人であったからだ。

 レナの話ではその名のとおりボードレールとは姻戚関

係にあり、子孫の一人にあたるのだという。レナはその

影響もあってか幼い頃から詩に興味を持ち始め、日本の

詩や詩人にも興味の範囲が及び、パリ大学から日本の大

学の文学部に編入して、その後日本の出版社で数年勤務

していた。母が病気になり、フランスに戻らざるを得な

くなりアルバイトで今の啓が働いている会社に入ったと

いう。人に嫌味な感情を与えない雰囲気の才女であった。

お腹を満たした太郎丸がワインの入った勢いもあってい

きなり切り出した。

「ところで、啓ねえさん、不倫の話ってほんとなの? 

冗談だよね」

 あき子は飲みかけたワインのグラスを口につけたまま

固まった。紗矢は食後のコーヒーを吹き出しそうになり

口をおさえた。あき子と紗矢は話を切り出すにしても言

い方があるだろうと内心凍りついた。レナは笑っている。

啓が「えっ?」という顔で答えた。

「紗矢ねえさん、不倫って言ったの? だから違うって

言ったでしょ。困ったものね」

 啓は少し微笑みながら優しい口調でそう言った。案外、

冷静に切り返されて紗矢は逆にとまどって、すぐに言い

返した。

「だって、核心の部分をこの間は言わなかったから、私

はてっきりそうだって思ったのよ。じゃ、やっぱり啓の

結婚相手は女癖の悪い、博打好き、酒好き、その上道楽

に走るどうしようもない最低男ってこと?」

「え、紗矢っぺえ、ちょっと待って。それって男として

どうしようもない最低男なわけ? 俺いくつか当てはま

るんですけど、その意見には反対でーす。男はそういう

所があってこそ魅力的になるんだと俺は思うなあ・・・・・・

まあ女癖が悪いのはまずいと思うけど、それだってケー

スバイケースじゃないかと」

 酔っていなければ紗矢には絶対異を唱えないが、太郎

丸は勢いでワインで赤くなった顔をさらに赤くさせるよ

うに力みながら言ってしまった。しかし、女性陣の『何

言ってんの』という厳しい視線に気圧されて語尾が弱く

なっていったのだった。

「マルちゃん、何言ってるの! あんたはただの酒好き

博打好き車好きかと思っていたけど、その上女癖まで悪

いの!?」

 あき子が女性陣を代表するかのようにたたみかけた。

顔は笑ってはいたが。

「い、いえ、女子を尊重する人生を送るようにしていま

すです。はい・・・・・・」

 わざとらしく小さくなる態度をとってそうは言ったが、

太郎丸はこんな時ここに次郎おじさんがいたらなと一瞬

思った。次郎おじさんなら正面切って反論するだろう。

「博打は駄目よ!」紗矢が追い打ちをかけるように言

う。

「はい、紗矢っぺえの言うとおりです。さすがです、紗

矢ねえ様」

 太郎丸がそう言ってわざとらしく手を挙げた。紗矢に

は子供の頃から苦手意識がある。

「あら、博打は少しならいいんじゃない」

「あ、さすが、あきねえ様! やっぱりそっちの意見に

賛成です」

 太郎丸がまた手を挙げる。あき子が紗矢を見ながらビ

ールを飲んだ。あき子は『酒だっていいと思うわ』と続

けて言おうと思ったが、自分の立場がまずくなるのでそ

の言葉はビールとともに飲み込んだ。

「駄目よ博打は。博打に少しも多いもないわ、博打は博

打よ。ギャンブルは底なしよ。堅実じゃない人間がする

ことよ。あきねえは三十五にもなってそんなこと言って

るから、なかなか結婚できないのよ」

 こういうところは堅実な紗矢は一歩も譲らない。啓は

この二人また始まったと思いながら微笑んで見守る。レ

ナは驚いた顔で二人を見比べた。

「ちょっと何ですって、私には一応、井坂さんがいるわ。

そういう紗矢だってまだ独身でしょ。人のこと言える立

場じゃないんじゃないの。大学で計算ばっかりやってて

も男は計算通りにいかないみたいね」

「何ですって、このボスゴリラ!」

「何よ、メガネザル!」

 それは小さい頃、二人がよく言い合っていたあだ名だ

った。声を張り上げているわけではなく座ったままで厳

しいことを言い合っていて役者の台詞合わせみたいだ。

「ま、まあまあ、おねえさんたち、レナさんもいるので

その辺で」

 と、太郎丸が中に入るが、一緒に住んでいた昔はこん

なやり取りが家の中ではもっと激しくあって、それを思

い出し懐かしい感じがして思わず笑ってしまった。あき

子も紗矢も昔を思い出したように、

「なぁーんてね! ひゃはは」

あき子が笑い、紗矢も昔の感触を思い出したのか、

「なぁーんて、言ったりして、ふふふ」

すかさずあき子に向かって笑った。

 太郎丸はやれやれと思いながらも感傷的な気分になっ

た。本当にあのパリのモンパルナスでの家族みんなが一

緒だった頃の生活はあったのだろうかと感じた。そんな

に昔のことではないのに幻だったのではなかったかとさ

え時々思ってしまう。それは切ない記憶だ。

 黙って微笑んでいた啓が真剣な顔つきに変わって話し

始めた。

「ごめんなさい。元はと言えば私が悪いのよ。ちゃんと

言わなかったから。でもねあの時は言えなかったのよ。

相談の前の相談だなんてわがまま言ったのに、あの日紗

矢ねえさんが全部私の話を受け止めてくれて安心したの

よ。何があっても家族なんだから味方になって応援して

くれるって言ってくれて。勇気が出たのよ。あき子ねえ

さんにもちゃんと言って、もちろんお父さんにも。みん

なに公表してけじめつけて結婚しようって、そう思った

のよ。応援してくれるわよね、あき子ねえさん、マルち

ゃん・・・・・・」

 幼かった時とちっとも変わっていない、たどたどしく、

ゆっくりゆっくり話をする啓の一言一言に、あき子は首

を上下に大きく振ってうなずいて聞いていた。涙目にな

っている。太郎丸はそれをちらっと横目で見ていた。こ

ういうあき子が長女らしくて好きだった。姉弟たちを心

配する気持ちがすごく伝わってくるからだ。少し母の面

影を感じる時もあった。あき子が目頭を少しぬぐう。

「当たり前でしょ、紗矢に聞いた時に私もそう思ったの

よ。家族なんだからって・・・・・・結婚おめでとう! で、

どんなお相手なの。もういいでしょ、教えてくれても」

「おめでとう!」と紗矢も太郎丸も言った。

 啓はうれしそうに、しかし、真剣な顔に戻って横にい

るレナに向かってこう言った。

「紹介します。私のフィアンセのレナ・ボードレールさ

んです」

「よろしくお願いいたします。啓ちゃんを大切にします」

 レナは深々と頭を下げた。二人の顔は笑みで一杯にな

った。あき子と紗矢と太郎丸は一瞬固まり、それからお

互いの顔を見合わせた。すぐに言葉が出てこない様子だ。

 静寂の中、啓が静かに口を開く。

「ごめんなさい。驚いたでしょう? そういうことなの。

だから、会社には言えないと思っていたんだけれどちゃ

んと言って、私が辞めることにするわ。レナは今の会社

には無くてはならない存在だから。新しい仕事が見つか

るまで少し時間は掛かると思うけれど」

 啓は三人にカミングアウトして吹っ切れたようで、清

々しい顔で目の前にあるワイングラスを取り一口飲んだ。

あき子が事情が飲み込めたようで啓に優しく聞いた。

「啓、私・・・・・・今まで全然気付かなかったわ。こっちこ

そ、ごめんなさい」

「いいのよ、謝らなくて。私自身段々と気付いていった

から、別に家族に隠してきたっていう訳でもないのよ。

レナと会ってレナを好きになって確信したっていうか、

だから気にしないであき子ねえさん」

 段々と気付いていったと言うが、本当はいろいろと悩

んでいたのだろうとあき子も紗矢も太郎丸も思っていた。

啓は、そういうことをあまり外には出さないタイプだと

いうことも皆知っていたので、それ以上は言わなかった。

「苦労したんだね、啓ちゃん。ごめんね」

 涙ぐみながら小さい声であき子はそう言うと立ち上が

って啓のそばに行き、肩を優しく撫でた。二人は姉弟の

中でも一番仲が良かったから啓の気持ちが痛いほどわか

った。紗矢も立ち上がって寄り添うように肩を抱いた。

「でも結婚って、同姓結婚って言うの・・・・・・できるの?」

 あき子は拍子抜けする声で啓を見た。

「大丈夫よ。あきねえ」紗矢が優しい声であき子に向か

って言った。

「あきねえ、パリにいながら何にも知らないんだね、二

千十三年にフランスでは同姓結婚が法制化されて認めら

れたんだよ。俺、ヨーロッパまわっている時そういうカ

ップルいろんな国で見てきたから知ってるよ。大丈夫だ

よ、啓ねえさん。きっと会社の人達も祝福してくれると

思うよ。頑張って!」

「えっ、そうなの。良かったね啓。それから仕事のこと

だけど『KAGUYA』に来る件もこういう事になった

んだからもっと強く押すわよ、いいこと啓」

「ありがとう、みんなありがとう!」

「ありがとうございます!」

 啓とレナは頭を下げてそう言った。太郎丸の目に二人

はとても幸せそうに映った。

 今までいろいろなカップルを見たけれど、なんだかこ

の二人は爽やかなカップルだなと素直な気持ちで祝福で

きるのだった。紗矢がワインを皆につぎ足して音頭を取

った。

「さぁ、飲み直すわよ。啓ちゃんとレナさんの結婚を祝

して、かんぱーい!」

 シュトゥットガルトの目抜き通りは、夜の八時を過ぎ

てようやく日が沈みかけ辺りが薄暗くなってきていた。

風がその中を気持ちよさげにすうっと通り過ぎる。

通りや店の灯りが人々を優しく抱擁する。

これから本当のにぎわいを見せるかのように。


 翌朝、といってももうすぐ十時になろうとしていたが、

あき子と太郎丸は紗矢のマンションのダイニングルーム

で遅い朝食をとろうとしていた。紗矢はもうとっくに大

学に出かけたようだった。あき子が手際よく朝食を作っ

ているが、また例の二日酔いらしく頭を押さえている。

三階の窓から見えるシュトゥットガルトの空は曇って

いて今にも雨が降ってきそうなどんよりとした空だった。

 あき子が激しくパンクした目玉焼きと焦げたベーコン

と野菜が盛りつけられた皿をテーブルに置きながら言っ

た。太郎丸はコーヒーを用意する。

「相変わらずの料理上手ですね。あきねえは作るの早く

って」

「何よ。文句あるわけ、いいのよ少しぐらいパンクした

って。味はおんなじなんだから。それより、啓のことど

う思うわけ弟として」

「そりゃ、たぶんあきねえと同じだよ。最初はビックリ

したけど、幸せになってもらいたいさ。フランスは法律

でも認められたんだから理解があると思うよ」

 太郎丸が目玉焼きを食べながら答えた。

「ならいいけど。問題は啓の再就職よね。あの子やっぱ

り『KAGUYA』にはすぐに来そうにはない感じだっ

たわね」

 その時あき子のスマートフォンがミュージカル「ダデ

ィ・ロング・レッグズ」の楽曲を奏でて鳴った。着信音

がいつも違う。

「はい、はい・・・・・・それで? なんですって! それっ

てどういうことなの!? うん、うん分かったわ。すぐ

に戻るわ。じゃあ、そっちはそっちでできる限りの手を

打つのよ。何か新しいことが分かったらすぐに連絡ちょ

うだい。お願いします。えっ? そうなの、東京も! 

何なのかしら。東京はどうするかちょっと考えさせて。

専務は? 阿川本部長がつかまらない? 高瀬専務から

連絡あったのね? はい、頼んだわよ」

 コーヒーを飲みながらあき子の会話が断片的に太郎丸

の耳に入ってきていたが、何か尋常ではない内容だとい

うことは分かった。あき子はスマートフォンをテーブル

に置くとため息をついて窓際に立ちながらシュトゥット

ガルトの曇った街を見た。

「まったく! なんで次から次とこう短い間にいろいろ

と事件が起こるわけ!?」

「どうしたのいったい、誰から電話?」

「モンパルナスのスタッフからなんだけど、パリと東京

の会社のコンピューターが壊れちゃったらしいの全部。

ウィルスじゃないかって。どんな被害があるかコンピュ

ーターセキュリティ会社の人に来てもらって調べてもら

っているらしいのよ。ただのウィルスじゃなくてハッキ

ングとかだと大変だって。どうしよう」

 あき子は心配そうな顔で太郎丸に話しつつ身支度を始

めた。朝食をゆっくり食べ続けているどころではなくな

った。モンパルナスのコンピューターは十台あり、東京

は四十台でいずれもすべて立ち上げるとすぐに画面が紫

色になって、そしてアルファベットが一文字ずつ現れる

のだそうだ。その字の色はなぜかオレンジ色ということ

だった。スタッフには今のところその文字の持つ意味が

分からないそうだが、今から撮影してあき子のスマート

フォンに後で送るということだった。この手のウィルス

の文字には意味がないものも多いということらしいが、

一応副社長のあき子には見てもらいたいとのことだった。

あき子はせわしなく動いてけつまずいて、

「うんっ、もう!」などと口走っている。

「あきねえ、ちょっともう少し落ち着いた方がいいよ。

専門の会社の人呼んでるんだから。そうだ、こういう時

こそ紗矢ねえだよ。紗矢ねえの知識とスキルはすごいら

しいよ。シュトゥットガルト大学、いや、ドイツの将来

の機械工学界の有望株らしいから」

 確かに紗矢は機械工学、電気工学のエキスパートで、

またコンピューターに関してはハード面だけでなくソフ

トウェアの開発研究も手がけていて、ハイレベルの知識

とスキルを持っていた。

「そうよマルちゃん! 紗矢が一番よ。よその会社の人

には見られたくないデータなんかもあるから、できれば

社内で解決したいとスタッフも言ってたわ。マルちゃん、

あなたは車ですぐに大学に行って紗矢にこのことを話し

てちょうだい。それで紗矢を連れてすぐにパリに来てち

ょうだい。飛行機でね。私は先に飛行機ですぐに帰るか

らいいわね。そうだ、ポルシェ社との話はちょっと延期

ね。紗矢に後で私が電話するわ」

「ちょっと待ってよ。俺のポルシェどうすんのさ。強引

なんだからあ」

「何言ってるのよ。会社存亡の危機かも知れないのよ。

紗矢のマンションの駐車場にこのまま止めておいて後で

取りに来ればいいでしょ。さ、早く仕度仕度!」

 と言いながらもあき子は昨夜そのまま寝たらしくシャ

ワーをあびにいってしまった。

 文句を言いながらも太郎丸はあき子を空港まで車で送

ると電話でシュトゥットガルト大学の紗矢に連絡した。

紗矢は一週間くらいなら何とかなるということで一緒

にパリに向かうことになった。しかし、さすがに準備が

あるのですぐには無理だからと出発は明朝になった。な

んだかどんどんと慌ただしくなっていく自分の身に太郎

丸は可笑しさを覚える。

 その夜、紗矢の帰りは準備のため遅くなるか、もしく

は徹夜になるということで太郎丸は一人カフェで食事を

とった。カフェは仕事を終えた人々でにぎわっていたが、

太郎丸は昨日までせわしなく過ごしていたので久しぶり

に一人になって気持ちは穏やかで静かだった。食事を終

えてコーヒーを飲みながら窓の暮れゆく風景をぼんやり

眺めているとスマートフォンのマナーモードが震えた。

モンパルナスに帰ったあき子からのメールだった。

それにはまだ回復しないというコンピューターの画面

に現れる文字が画像で送られてきた。

紫の画面にオレンジ色に浮き出た文字はこうだった。

(Y F A U A F B U A F R U 

U F S U E F S U U F D U A 

F Y U A F A U B F A U R F 

U U S F E U S F U U D F A

 ・・・・・・)

 コンピューターセキュリティ会社の人は文字も消せず、

今日のところは復旧はお手上げだというので、あき子は

その人たちを帰したそうだ。紗矢をあてにして他の会社

も呼ばないことにしたらしい。もちろんセキュリティの

人たちもこのアルファベットが何を意味しているかは分

からなかったということだ。太郎丸はスマートフォンの

画面をじーっと見たがやはり分からず、パリ行きの飛行

機の中で紗矢に見せることにしてポルシェをマンション

に走らせた。


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