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Ⅱ シュヴァルツヴァルトの黒い森

Ⅱ シュヴァルツヴァルトの黒い森


 エリックがスタンドから買ってきてくれたガソリンを

フェラーリに入れて太郎丸とあき子は一路モンパルナス

の会社の事務所に向かった。

 警察での事情聴取はあっさりとしたものだった。恐ら

く車目当ての物取りということで進められ、怪我がなく

て何よりでしたねと言われた。

「だけど、なんでドイツに行くのさ。モン・サン・ミッ

シェル行きはいいの?」

「モン・サン・ミッシェルへは、会社の若いのを向かわ

せたわ。それより、ドイツの方がいい話なのよ。紗矢か

らの電話でもっといい話が舞い込んできたのよ!」

 あき子は、はしゃぐ女子高生みたいにうきうきして言

った。かわいい三十五才だ。

「紗矢っぺえってことは、もしかしてシュトゥットガル

ト?」

 頭の中に「シュトゥットガルト、イコール、ポルシェ

本社&ポルシェミュージアム、メルセデス本社、イコー

ル、行ってみたい!」という図式が浮かんだ。

 次女の紗矢はドイツ南西部にある都市シュトゥットガ

ルトで暮らしていた。太郎丸の中学入学に合わせて子供

達だけで日本に戻った時、紗矢はちょうどパリ第六大学

(工科)を卒業し、そのまま日本の大学院に行った。小

さい頃はほとんど太郎丸の専属家庭教師でとにかくお勉

強ができる頭の良い理知的な姉で弟としては絶対歯が立

たない。

 紗矢はドイツに興味を持って言葉の勉強を本格的に始

めただけでなく修士課程を終えるとシュトゥットガルト

大学の大学院に留学し機械工学を学んだ。紗矢は二十九

歳の若さでこの大学の講師になり機械工学、電気工学の

研究をしていて将来を期待されていた。もう三年目にな

る。その紗矢が珍しく姉のあき子に電話をしてきたのだ。

 話はこうだった。

 紗矢は最近、研究の一環としてよくシュトゥットガル

トにあるポルシェ本社に行くことがあり、そこの食堂で

知り合った社員の何人かに日本の「KAGUYA」のブ

ランドのことを聞かれたそうだ。紗矢が姉のあき子から

もらって使っていた洒落た和装食のスマートフォンケー

スやペンシルケース、車のキーホルダーに社員たちが関

心を示したそうだ。それはどこで売っているのかと聞か

れ、これは私の父と姉のやっている会社「KAGUYA」

で作っていると言うと、一度会って話がしたいと言って

きたのだそうだ。あき子は二つ返事で紗矢と会う約束を

した。

「とりあえずモンパルナスの事務所にいったん帰って準

備してから出発よ」

 あき子はにこにこしながら、もう太郎丸が一緒に行く

前提でそう促した。

「ちょっと待ってよ。テストも近いし」

 太郎丸はどんどんバイトの日が延びるような気がして

聞いていたが、まあ久しぶりに会った姉の頼みだからし

ょうがないかと引き受けた。ポルシェ本社に行けるとい

ううれしさもある。しかし、ひとつ気が重いことがあっ

た。いったんモンパルナスに着いて準備することになれ

ば父の蔵太郎に会うかも知れない別荘からふらっと帰る

こともあるからだ。会えば将来のことや跡継ぎのことを

言われるに決まっている。今回は仕事の手伝いとはいえ、

勝手にフェラーリまで持ち出している。何を言われるか

分かったものではない。

 母が亡くなった原因の一つは、父が「KAGUYA」

をヨーロッパで展開するために無理に家族をフランスに

引き連れてきたことにあるのではないかと思うこともあ

る。母が白血病になったのは、夫を支えつつ、子供五人

を育てながら慣れないパリの生活に一所懸命になって、

心身共に疲れたからなんだと根拠はないがそう思うのだ。 

 父を恨まないまでも、言いたいことは少なからずある。

母が元気だった小学校五年生までは家族みんなが一緒で

朗らかな明るさがあり、父もゆとりがあり優しかったし

家族の団欒が楽しかった。

 母が死んでから父はしばらくぎすぎすしていた。そう

いう思いが強くなると母が死んでからの父への反感が強

く増してしまうのだ。それは間違った考えだと自分では

分かっていたがどうすることも出来ない感情だった。父

に会って話がこじれれば恐らく感情的になってしまう自

分が分かっていたのだ。

 

 モンパルナスの街は六月にしてはいつもより暖かだ。

パリの六月の平均気温は十九度くらいだが今日は二十三

度はある。日差しも眩しいくらいだった。

 「KAGUYA」の事務所はメーヌ通りの近くにある

こぢんまりとした事務所だ。そこはサルトル、モーパッ

サン、ボードレール、ユトリロ、数え切れない程の芸術

家、作家など著名人が眠る広大な敷地のモンパルナス墓

地の裏手にあたる。

 事務所は、太郎丸たちが日本に引き揚げる前は社員も

今より少なく自宅を兼ねていた。今は自宅に使っていた

部屋はリフォームされている。太郎丸にとってそこは外

見は昔のままだから懐かしい建物だ。昼下がりの陽光が

気持ちよく彼を包み込む。事務所内では二人の日本人女

性スタッフが仕事をしていて二人を出迎えた。あと数人

いるはずの男性スタッフはみな営業に出ていた。

 社長の蔵太郎はいなかった。

「実は、さっきお父さんに電話したのよ」 

父親と気まずい関係にあることを知っているあき子は

こっそりと電話して聞いていた。

「大丈夫だから心配するな、病院でちょっと検査した後

は別荘で静養するから。お前はドイツに早く行って仕事

を取ってこいってさ」

「ふーん」

「お父さん結構元気そうだったわよ。ただ血圧が高いの

と、それと人間ドッグもしばらくやってないから、いろ

いろ検査するみたい。この際だからちゃんと診てもらい

なさいと言っておいたわ」

 と少し安心した様子で言った。それと蔵太郎は、フェ

ラーリを持ち出したことは怒っていない、乗りたければ

いつでも乗っていいが今度からはちゃんと断ってから乗

れとあき子から伝えろと言っていたらしい。それから、

太郎丸がこちらに来た時の足が用意してあって、ガレー

ジにシートがかぶせてあるからそれに乗れと言っていた

らしい。随分優しくなったものだと思った。大学入学の

ことは何も言わなかったということだ。

「ちゃんと姉さんをフォローしなさいって、安全にドイ

ツまで送り迎えしなさいって、お父さんは言ってたわ。

分かった? マルちゃん!」

「送り迎えっていうことは、ドイツまではやっぱり車で

行く気だね」

「さすが! 分かってるわねマルちゃん。向こうに行っ

て動きが取りやすいし、経費の削減にもなるし、運転は

大変だと思うけど頼むわね。「KAGUYA」の商品サ

ンプルを幾つか持って行って見せなきゃ、今度は商品結

構積むから会社のナビ付きの車でね。シュトゥットガル

トはパリからすぐよすぐ、よろしくね。頼りになるわー」

「すぐよすぐって、あのねー、何時間かかると思ってん

の。ノンストップでも六時間は最低かかるよ。嫌だよ会

社の車は。営業用のミニバンでしょ。アウトバーンは怖

いよ。ドイツには乗りかかった船だからつき合うけど。

営業車は嫌だよ。営業車ならTGVに乗っていった方が

いいよ。TGVなら三時間で着くんだろ」

「営業車は嫌? 燃費はいいのに」

 太郎丸は本当に営業車は嫌だった。それに、もし万が

一、また狙われて車で逃げるようなことがあればという

不安もよぎったのだ。車ならできれば速い車の方がいい。

「フェラーリならいいよ、運転してつき合うよ。商品サ

ンプルだって小さいし入るだろ」

「あんたは馬鹿ねー、ポルシェ本社にフェラーリで乗り

付ける気。商談する前にけんか売ってるわ。あ、そうだ。

お父さんが言ってたマルちゃん用のシートかぶってるの

って見た? そんなのあったかしら」

「そう言えば、ガレージからフェラーリ持ち出す時、シ

ートかぶさったやつが一台あったな。ちょっと見てくる

よ」

 ガレージには小さいバンのワーゲンを商業用にカスタ

マイズしたのが一台あった。車体の脇に浮世絵のあしら

いのデザインがあり「KAGUYA」と大きく書いてあ

ってそれはそれなりに渋くていい車だった。あと二台あ

るというバンは社員が乗っていったという。隅にシート

をかぶせられた車が父の言う通りある。太郎丸はそれを

はずして驚いた。

 次郎おじさんに何回か乗せてもらったことがある前か

ら欲しいと思っていたポルシェ911だった。そいつは

しかも新しい型のポルシェじゃない、黒の930型カブ

リオレだ。一九八九年型、930の最終型だ。ビッグバ

ンパーと呼ばれていた奴だ。羽ばたくように大きくせり

出したリヤウイングはターボか、ターボルックに違いな

い。なめらかなうっとりするようなヒップラインだ。そ

うだ、と思いマフラーを覗いた。

 マフラーが二本出ている。ターボだった。ターボルッ

クなら一本だ。空冷911のポルシェだ。信じられない

が、走行距離は四万キロ少し、手入れもよく、かなり大

事に乗られていた車だと一目見てわかった。あの親父の

ことだから、エンジンもオーバーホールされているかも

知れない。オリジナルのままで改造もされていない。

 こんなに程度の良い930型のポルシェ911がまだ

あるんだな、さすがはヨーロッパと感動した。前オーナ

ーは911をこよなく愛していた人に違いない。でも何

で俺に? 

 放浪の間の激怒が大学に入ったことで安心し、会社の

跡を継いでもらいたいが為の車なのか。真意は計りかね

るが、単純にうれしかった。飛び上がりたい程うれしか

ったが、あき子の手前わざと平然を装った。しかし、思

わず声が出た。

「すげえ、これ乗っていいんだな」続けて、あき子に媚

びるように言った。

「これなら、どこまでもお供いたします。あきねえ様」

「分かったわ。ポルシェ本社に行くんだからポルシェに

乗って行くって手は最高ね。いいわ、乗ったわ。またナ

ビついてないけど。ほとんど高速道なんでしょ」

「高速道オートルートA4を使うよ。パリを発って、ラ

ンスからメッスに向かい、ストラスブールを通って国境

を渡ったらドイツだ。北上してプフォルツハイムから回

り込んでいけば、すぐシュトゥットガルトだよ。調べた

んだ。もしかして車じゃないかと思ってね。ほとんど高

速だよ。道行きは東京から大阪の手前って感じかな」

 二年間の放浪時にシュトゥットガルト近辺には行った

ことがない。ポルシェ本社とポルシェミュージアムには

行きたいとずっと思っていたが、恐れ多いというか、楽

しみはあとに取っておこうというか、結局行かずじまい

だった。

「あのねえ、マルちゃん。ちょっと頼みがあるのよ。頼

みというか、お願いね」

 ちょっと怪しく、しなだれるような声であき子は言っ

た。

「なんだよ、気持ち悪いな! まだ何かあるのかよ」

 そう言いながら、太郎丸はガレージを後にしつつ事務

所のロビーがある部屋の方に歩き出した。あき子は後か

ら追いかけるように小走りでついていく。

「マルちゃんも六時間、七時間、八時間とずっと運転じ

ゃ大変でしょ。そこで妙案なんだけどね、最近私ね、休

みもあんまり取ってないのよ。シュトゥットガルトの近

くにバーデンバーデンっていう有名な温泉地があるの知

ってるでしょ?」

「出た、出た。それで何?」

 ロビーのソファーに座る太郎丸の横にあき子は近づい

た。

「そこで一泊してゆっくり行きましょうよ、ねっ、ねっ?」

 念押しするように迫ってきた。弟としては、ちょっと

気持ち悪い。少し離れる。

「あとねバーデンバーデンの前にメッスを通るわよね。

そこに有名なスイーツのお店があってね。メッスってロ

レーヌ地方の素敵な街らしいのよ。前から一度行ってみ

たかったのよ。そこも出来れば一泊したいなー、紗矢と

会う日はいくらでも調整するから、ねっ?」

「分かった、分かった。分かったからそんなに近よんな

って」

 あき子とそんな会話をしていると意外な人物が事務所

に入ってきた。

「本部長! いらっしゃいませ。ご苦労様です」

 二人の女性スタッフがびっくりしたような大きな声で

立ち上がって挨拶をする。

 阿川だった。ハンチングを脱ぎ、にこやかにソファー

に座りながら言った。

「いやー、これはこれは太郎丸ぼっちゃんがいらっしゃ

るとは。お久しぶりですね。お元気でしたか」阿川はち

らっと太郎丸の胸にあるペンダントの黄色い石を見た。

「あら、なんで本部長がここにいるの? 私がこっちに

来ている時は高瀬専務の元でしっかり東京を面倒見なく

ちゃだめだっていつも言ってるでしょ!」

 さっきまでのしなだれあき子をとっさに捨てて副社長

として阿川に向かって言った。

「すみません副社長。東京でのことで、どうしてもこち

らで処理しなければいけない問題が起きてしまいまして。

申し訳ございません。二~三日で解決いたしますので、

副社長にお手間はとらせませんので」

 阿川は「KAGUYA」の東京本部長と「小倉小路屋」

の和菓子製造部本部長という肩書きを持っている。とい

っても「KAGUYA」の本部事務所は実質モンパルナ

スであり、製造本部長という肩書きも名ばかりである。

阿川には和菓子部門を兼任する少人数の部下がいるだけ

であった。これには現社長の蔵太郎の意向があった。

 しかし、最近は意外なことに日本で「KAGUYA」

が少しずつ伸びてきていた。むしろ和菓子の売れ行きは

ダイエットブームの影響を受けここ数年伸び悩んでいる。

会社にとっては頭の痛いところで、ヨーロッパの「KA

GUYA」を伸ばしていきたかった。

「分かったわ、早く終わらせて東京に戻るのよ、そのた

めの本部長なんだから」

 あき子は昔からこの阿川が好きではなかった。先代の

社長、祖父の一蔵が真偽は分からないが友人の頼みで断

れなくて入社させたといううわさがある男で、如才なく

要領がよく人の良い一蔵には気に入られてはいたが、何

か影があるように感じていた。

 あき子もここ何年かは東京よりパリにいる方が多いの

で、それ以上は言わなかった。

「分かりました副社長。なるべく早く東京に戻ります」

 阿川はそう言うと煙草を取り出し、ジッポライターで

火をつけようとした。

「阿川っ、この事務所は禁煙よ! 気をつけなさい。東

京の事務所じゃないのよ」

「あ、失礼いたしました。申し訳ありません」

「あら阿川、その親指の包帯はどうしたの?」

 ジッポーライターを持つ阿川の右親指が白い包帯で巻

かれていた。

「これですか。ちょっと慣れない炊事で怪我をしました。

大したことはありません」

 親指を触りながら、にやりと独特の笑みを浮かべた。

阿川はバルセスとの契約の際に契約板に親指をあてたが、

目が覚めると親指の腹に解読できない不思議な文字跡の

火傷をしていたのだ。

「ところで副社長、今日のご予定は? 太郎丸ぼっちゃ

んは、またどうしてこちらに。 東京の大学はどうされ

ました? まだ夏休みではないですよね?」

 頭の回転の速い阿川は抜け目なく、矢継ぎ早に質問す

る。

「太郎丸はちょっと仕事の手伝いで無理言って私が呼び

出したのよ。これから一緒にドイツに行くわ。いい話が

取れるかもしれないのよ」

「ほう、ドイツですか。それは忙しい。ル・マンでの仕

事が終わったばかりだというのに。飛行機で行かれるの

ですか。それともTGVですか。ドイツのどちらへ」

「あら、何で阿川がル・マンの仕事を知っているの」

「東京の部下がちらっと会話しているのを聞きまして」

 阿川はしまったという顔をした。

「あらそう。情報が早いのね、相変わらず」

「恐れ入ります」

 阿川は平然を装う。前髪をキザな手つきでかき上げる。

 黙っていた太郎丸が口を開いた。

「車でシュトゥットガルトまで行くんだよ」

 太郎丸は阿川にほとんど会ったことがない。小さい頃

は冷たそうな感じのおじさんというイメージを持ってい

たが、今、久しぶりに会ってみるとそういうイメージよ

りも、やけにあき子に従順だなという印象を受けた。

「車で、ですか。シュトゥットガルトへ? ベンツミュ

ージアムにポルシェミュージアムもありますね、本社も。

そのあたりの仕事ですね」

「阿川本部長! 余計な詮索はいいから、まだ話にもな

っていない仕事だから。それより自分の仕事を早く片づ

けなさい。マルちゃん! 準備の続きをするからいらっ

しゃい」

 あき子はちょっといらいらした感じでそう告げるとバ

ッグを持って、太郎丸を促して一緒に社長室へ入ろうと

した。その時、阿川が追うようにしてペンを差し出しな

がら書類をあき子に見せた。何かの契約書のようだ。

「お急ぎの所、申し訳ありませんが先ほどの東京での件

でこちらに副社長のサインを頂きたいのですが」

「はいはい」と言いながら、あき子はいつものように阿

川に指さされた二カ所にささっとサインをした。あき子

はやれやれという感じで社長室に急いで入って行く。

 太郎丸も続いた。阿川は事務所の机に座るとパソコン

を開きインターネットを立ち上げてパリからシュトゥッ

トガルトまでの行程と要所の街を調べ始めてほくそ笑ん

だ。


 フランス国内の高速道路はオートルートという。

 原則無料だが有料の場所もある。ドイツの高速道路は

アウトバーンと呼ばれているのは有名だ。無料で制限速

度はないが百三十キロが推奨速度とされている。アウト

バーンもオートルートも密接に連携されている。

 高速道で気軽に行けると言っても、あき子と太郎丸は

さすがに疲れたので明後日出発することにした。あき子

は事務所で準備をしてからマンションに帰ることになり、

太郎丸は自由の身になった。

 早速、ポルシェ911を走らせた。手動のカブリオレ

だから自分で幌を上げてオープンにする。カチャという

911独特の小気味のいいドアを閉める音に痺れた。オ

イルの微かな匂いもする。太郎丸はこの時代のポルシェ

の微かなオイルの香りが好きで、一度このことを友人に

言ったら変態扱いされた。

 古さの中に感じられるメカらしい良さがこのポルシェ

からは伝わってきた。五速ミッションも良好だ。よく、

これより前の時代のポルシェ911のシフト・チェンジ

の感触を「冷えたバターをナイフで切るような感じ」と

か、「スプーンで蜂蜜をかきまわすような感じ」という

が、この車もそれに近い感じがした。太郎丸は伯父の次

郎から借りて何回か運転したことがあったが、やはり乗

りこなすまでにはもっと練習が必要だ。シュトゥットガ

ルトまでの道はいい練習になるのでうれしくなった。そ

の前にこのパリ市街地で肩慣らしをしようと思った。太

郎丸は普段は決して無理な運転をしない。飛ばさない。

スポーツカーを紳士に乗る。安全運転で車を駆る。それ

が太郎丸のスポーツカーへの自負だった。

 930の加速はすばらしかった。魂が楽しい恐怖を喜

んでいるかのようだ。背中がシートの奥の眩惑の宇宙に

吸い込まれていく感覚だ。上質のシングルモルトウイス

キーを喉に流し込んだ熱さが来るように、エンジンの重

低音がアクセルを踏み込むと次第に高音質の硬質で上品

な音に変化していく。純白のサウンドといっていい。風

の彼方から奥深い森の香りまで引き寄せてくるようだ。

いつしかオートゥイユ競馬場からブローニュの森を回る

ようにロンシャン競馬場の脇に出てきていた。セーヌ川

の緩やかな流れが見える。ブローニュの森の緑が美しく

空の青に映えた。

 太郎丸は一陣の風になっていた。

  

 二人を乗せたポルシェはオートルートを快調に飛ばし

ていた。もうすぐ最初の目的地のメッスに着く。メッス

はロレーヌ地方の中心都市で古来より交通の要だ。

「やっぱり阿川は苦手だわ。まあ向こうも昔から私のこ

とあんまり気に入らないんでしょ。社長の娘だからって

いうだけで副社長になったから。所詮は子供扱いしてる

のよ」

「それはないでしょ。あきねえは優秀だから実力の副社

長だよ。でも、阿川さんて昔はもっと偉かったんじゃな

かったっけ? 確か、常務って言ったっけ」

「まあ、いろいろあったのよ。お父さんが社長になって

からね。今の役職に降格みたいになったのよ。まあいい

や、さあマルちゃん!メッスのスイーツよ、美味しいわ

よ~!」

 太郎丸はやれやれという顔で車を市内へと向かわせて

いった。

「泊まるところも探さなきゃね」

「私に任せなさい。ちゃんといいホテルを予約してある

のよ。ラ・シテダルっていうのよ。ここも前から泊まり

たかったのよ」

「さすが、あきねえ。ほんとにバカンス気分だね」

「その通り! 久しぶりの夏休みみたいなものよ!」

 あき子は屈託なく楽しそうに笑った。久しぶりに底抜

けに笑うあきねえの顔を見て、何だか自分もうれしくな

るような気分だった。

 小学生の頃はうちの中で姉弟たちとよくある感触だっ

た。今、東京で広い小倉小路の家の中で独りで住んでい

る彼には懐かしい感触だ。そんなことをふと思った。

 車をホテルに止めてチェックインした後、二人は街に

繰り出した。あき子のいち押しで、スイーツの店に向か

った。スイーツの店は太郎丸は興味がなかったが仕方な

くつき合い、そのあと小粋な作りのパブに入った。

 店内は思っていたより広く客も多くほぼ満席だった。

このメッスはドイツ色が濃い料理が多く当然ビールの種

類も豊富でアルザスビールを飲んだ。パブの中央にステ

ージがあり、ピアノとドラムセットが置いてある。お客

たちの指笛や歓声とともに五人の男女がそのステージに

歩いてきた。スタンダードナンバーの陽気なジャズが演

奏され始めた。

「すごいわ! 初めてこういうライブをやる店に入った

けど、こんなに盛り上がるのね」

 あき子はアルザスビールを飲みながらはしゃいでいた。

「ヨーロッパを旅している時にいろんな店に入ったり、

バイトもしたことがあるけど、みんな陽気なんだよ。常

連客の人もいるはずなんだけど変に気取ったり、威張っ

てなくていいんだよ。始めてきた人もすぐ仲間に入れる

感じでいいよな。ほら見てごらん、おじいさんもおばあ

さんも楽しんでるし。自分たちの会話を楽しんでるんだ。

店に媚びないというか、自然なんだよ。静かな雰囲気が

好きな人はそういうナンバーしかやらない店に行くしね。

自然体なんだよ」

 ライブも終盤になってきていた。アンコールナンバー

が演奏される。あき子はアルザスビールが体の芯にまわ

ってきた様子でご機嫌だった。

「あきねえ、大丈夫かい。そろそろホテルに帰って休も

うか」

「なーに言ってんのよ! これからよ、これから。メッ

スの夜はこれからよ。ほら、マルちゃんも飲みなさい!」

「しょーがねえな、このおばはんは」

「えっ、なんだって。今なんてった? オーバーは着て

ないよ。よく聞こえないわ。いいわねこのナンバー。何

て曲?」

 アンコールナンバーにかき消されて「おばはん」の所

がよく聞こえなかったみたいで太郎丸は助かったが、こ

の酔い方はいつものことだし、それにはっきり言ってあ

き子は酒が強いからそんなに心配はしていなかった。ラ

イブが終わりスローナンバーなジャズのBGMに変わり

店内は静かになる。あき子は隣にいた二十代後半くらい

のフランス人女性とさっきから意気投合し二人でげらげ

らと話している。こうなったらおしまいだ。恐らく夜更

けまでこの店に居続けるだろうと思い、太郎丸は席を立

った。時間はまだ宵の口だ。

「あきねえ、せっかくメッスに来たからちょっと散歩が

てら、大聖堂を見に行くからこの店で待っててよ」

 メッスは美しいステンドグラス装飾の教会が多くある

と聞いていて、特にサンテティエンヌ大聖堂はさっきコ

ンシェルジュにも勧められていたので行きたかったのだ。

 閉館まであまり時間がなかったが、圧倒的な姿を間近

で見たかった。この建物は十三世紀から十六世紀にかけ

て作られ、高さは四十メーターを超え、ステンドグラス

の総面積はヨーロッパ最大級ということだ。ゴシック建

築の最高峰といえた。画家シャガールもステンドグラス

の一部を手がけている。

「わかったわ、ほんとマルちゃんは勉強熱心ね。そんな

もの見て楽しいんだから。私はこのお嬢ちゃんと飲んで

るわ。このお嬢ちゃん、日本に来たいんだって」

「マジ、ウゼー!」そのお嬢ちゃんが太郎丸を見ながら

言った。

「違う違うその言葉の意味は違うのよ、さっき教えたで

しょ、それを言うなら、マジカッコイーよ! イケメン

ねーよ!」

 あき子はフランス語でそのお嬢ちゃんに手振りを交え、

笑いながら教える。

 お嬢ちゃんが太郎丸を見てウインクした。黒髪で緑の

瞳のきれいな人だ。

「ゴメンナサーイ! マジカックイー! イカメシねー!」

 俺はイカ飯じゃねえと思いつつ、シャガールよりこの

ちょっといかれたきれいなお姉さんと飲んでいる方がい

いかなと一瞬迷ったが、年の差を考えてやめた。


 太郎丸はあき子をパブに残して一人メッスの街へと繰

り出した。

 時間は宵の口だがまだまだ明るい。この時期の日没は

もっと先の刻限だ。人通りも多い。皆楽しそうだ。ショ

ッピングを楽しむ人が多くいるのだろう。

 大聖堂への入館に間に合い、堂内を見学していると一

人の若い男が近づいてきた。ゆっくりとしたフランス語

だった。背が低く細い体型の男でリュックをしょった黒

い眼鏡だ。

「こんにちは。やあ、日本人かい?」

「はい、そうですが」太郎丸もゆっくりとしたフランス

語で返す。

「僕は日本が好きなんだよ。テレビでしか見たことがな

いけど秋葉原の町は憧れだよ。アニメのセーラームーン

も大好きなんだ。乃木坂46も欅坂46も好きだよ」

 かなりの日本オタクフランス人だ。太郎丸はセーラー

ムーンには興味はなかったが乃木坂46が好きだったこ

とと、日本が好きだとこんな場所で言われれば悪い気は

しない。

「それはどうもありがとう」

「このステンドグラスはシャガールがデザインしたんだ

よ。シャガール知ってるかい?」

「はい知っています。好きな画家の一人です」

「それはそれは、僕も好きでよくここに来るんだよ。ど

うだい、ちょっと少し一緒に飲まないかい。日本の話を

聞きたいな」

 太郎丸はヨーロッパ放浪の時もこういう出会いや、つ

きあいを大事にしてきた。何でも経験が一番だと思って

いたからだ。

「いいですよ。いい店知っていますか」

「やあ、ナイスガイだ。じゃあ行こう。ついておいで。

いい店に連れていってあげる」

 大聖堂を出て他愛のない会話をしながら一緒に歩いて

いくと狭い路地裏に出てきていた。こんな人通りの少な

い路地裏に店なんかあるのかなと、ちょっと変だと思い

ながら足を止めると二人の若い男が道の横からすっと出

てきた。屈強な外人の男達だ。

「この野郎! そのペンダントをよこせ!」

 いきなりその二人のうちの一人がフランス語でそう叫

んだかと思うと殴りかかってきた。太郎丸は一瞬何が起

こったがわからなかったが、とっさに身を右斜め後ろに

かわした。殴りかかった男の拳は空を切りながらすかさ

ず振り返り次の一打を繰り出した。

 太郎丸はそれをよけて男の向こうずねを思い切り蹴っ

た。男は前のめりになり苦しく唸りながらも今度は左り

拳で殴りつけてくる。太郎丸は両腕で顔をガードしなが

らよけようとしたがそのパンチが腕にかすり、バランス

を失って足をもつらせながら倒れた。

 もう一人の男がフランス語で叫んだ。

「大人しくねんねしろ! このくそガキ!」

 倒れている太郎丸を蹴ろうとしたが、太郎丸はごろご

ろっと回転しながらそれをよけて大きなゴミバケツにぶ

つかってもんどりうった。ふと横を見ると先がほげて捨

ててある木製のモップの棒があった。しめたと思った。

太郎丸はそれをつかむと立ち上がって、はじめに殴りか

かってきた男の右首に思い切り一打を食らわした。

 男はうめいた。そして、すかさずその男の喉仏に強烈

な片手突きを打ち込んだ。

 男は後ろに吹っ飛んだ。剣道三段、インターハイベス

ト十六の剣が唸った。

 十六というところが渋い。だが、もう一人の男が首を

後ろから巻き付くように抱え込んできた。しまったと思

ったが、あまりの力でもがいても離れられない。

 その時だった。激しい気合いの声と共に後ろの男が引

き離され、一本背負いで投げ飛ばされた。投げ飛ばされ

た男はそいつよりも屈強なその男に立ち上がる暇もなく

二度三度と殴られてのけぞってゆく。そして、もう一度

激しく投げ飛ばされた。太郎丸をここに連れてきたオタ

クフランス人は影に隠れ、震えながらあっけにとられて

それを見ている。

 暴漢を投げ飛ばした男が叫んだ。

「おととい来やがれ! この腐れおたんこなす!」

 日本語だった。しかも昔の。暴漢の二人とオタクは這

々の体で走って逃げて行く。

「エリック! なんでここにいるんだよ!」

 息を押さえながら太郎丸は笑みを浮かべてエリックを

見た。ブルターニュのかえでさんの息子エリックだった。

 片言の日本語でエリックは言った。

「大丈夫ですか? お怪我ありませんか?」

「ありがとう! あぶないとこだった。強いなエリック!」

「いえいえ、そんなことありません。ちょっと柔道やっ

てただけです。太郎丸さんも強いね。剣豪、侍ね!」

「エリック日本語喋れるんだね。ハハハ」

「へへ、実はほんの少しね。ハハハ」

 やつらはこの胸の黄玉を狙っていたんだな、カグの言

っていたことは本当だったんだと太郎丸は服の汚れを払

いながら思った。

「良かったです。農協の慰安旅行でここに来たらあなた

見かけたので追っかけてきました。途中見失いましたが。

間に合いました。怪しい人についていってはだめです」

「ありがとうエリック。あきねえもいるから一緒に飲も

う」

 二人でパブに戻るとあき子はすっかりできあがってい

て目が据わっていた。

 うわごとのように「うぜー」と言っている。フランス

娘のお嬢ちゃんは日本人の老女性と話をしていた。その

女性はかえでさんだった。太郎丸は驚いて近寄っていっ

た。

「かえでさん! かえでさんもエリックと一緒に来たん

ですか」

「あら、太郎丸さん。奇遇ですね。あき子さんからさっ

き聞きましたよ。ご縁がありますね。ホテルも同じみた

いですよ」

 そう言ってエレガントな笑みを浮かべる。彼女はワイ

ンを飲みながらエリックを見た。

「エリック、太郎丸さんと会ったのね。ほんとうに奇遇

ね」

「はい、ママ。大変だったんだよ、変な奴らに絡まれて」

「エリックに危ないところを助けられました。エリック

むちゃくちゃ強かったです!」

「まあ、大丈夫なの。お怪我は?」太郎丸は胸のペンダ

ントを軽く触った。

「大丈夫です。さあ飲みましょう! ここでの再会を祝

して」

 太郎丸はさっきの暴漢たちのことを忘れようと陽気に

振る舞った。エリックも陽気だった。パブの夜は更けて

ゆく。かえでさんはロレーヌ地方やアルザス地方の街の

ことなどを教えてくれた。その知識の多さに太郎丸は舌

を巻いた。もっとも、あき子は高いびきで寝ていて、み

んなで店を出た後ホテルまでエリックの背中におんぶさ

れていったが。

 つぶれて寝ている何も知らないあき子には絡まれたこ

とは言わないことにしようと太郎丸は思った。カーチェ

イスのこともあり、心配させたくなかったからだ。


 翌朝、太郎丸とあき子が二日酔いで遅く起きてきてホ

テルのレストランで朝食をとった時には、もうかえでさ

ん達の姿はなかった。

 あき子の部屋のドアノブにかえでさんのきれいな字の

メモがあり、

(昨夜も楽しかったわ。道中お気をつけて。かえで)と

だけあった。何だか、メモはよい香りがしていた。

 二人を乗せたポルシェは順調にオートルートを走って

ゆく。流れる景色は単調ではなく美しさの中にほのぼの

とした暖かみのある田舎風景だった。村の家々が見えれ

ばそこに住んでいる人達への感慨も一瞬だが浮かんでく

るというものだ。太郎丸が旅を愛する理由の一つだ。い

ろんな人間がいろんな生活をして生きているのだ。そこ

には当然、様々な人生がある。若い太郎丸には思いも及

ばない様々な人生。

 次に目指す地はあき子が行きたがっているドイツの有

名な温泉保養地バーデンバーデンでそこで一泊する予定

だ。しかし、太郎丸はその前にドイツ国境際の都市スト

ラスブールに立ち寄ってみたかった。噂に聞いているノ

ートルダム大聖堂が見たかったのだ。高さが百四十二メ

ーターあり、中世に二百五十年もの歳月をかけて創られ

たヨーロッパ最高の尖塔だからだ。

 ドイツの文豪ゲーテは「荘厳な神の木」と讃えている

と昨夜かえでさんから教えてもらった。聖堂内の天文時

計も有名でキリストとその使徒たちが現れるという仕掛

け時計だ。

 ドイツ側のシュヴァルツヴァルト、いわゆる「黒い森」

を一望することが出来る。太郎丸はかいつまんであき子

にストラスブールに寄りたい訳を説明した。

「何よ黒い森って」あき子は助手席で興味なさそうに太

郎丸の説明を聞いていた。

「国境に沿うようにライン川が流れているんだ。その向

こう側はドイツで、南北に約一六十キロメーター広がっ

た森林地帯が黒い森なんだ。密集して生えるドイツトウ

ヒや背の高いもみの木が暗く黒く見えるのでドイツ語で

シュヴァルツヴァルト、黒い森っていうのさ。街もある

し有名な修道院が幾つもあるんだ。バーデンバーデンも

その地域に入るんだよ。多くの木は植林されたらしいけ

ど、地方一帯の歴史は古くて紀元前四千年頃の居住跡も

発見されているし、紀元前八百年頃には鉄器を引っさげ

てケルト人も入ってきていたらしいよ。まあ、昨夜かえ

でさんから教えてもらったんだけどね。今度もっとよく

勉強しておくよ。あ、そうだ、これから行くシュトゥッ

トガルトはこの黒い森を含むバーデン・ヴュルテンブル

ク州の州都なんだぜ。とにかく展望台から壮大さを眺め

たいんだ」

「ふーん、何だかよく分かんないけど、いいわ、かえで

さんお勧めなら。ところでストラスブールには大聖堂の

他に何かおもしろいところあるの?」

「そうだ、かえでさんが言ってたけどお菓子屋さんがた

くさんあるって、焼き菓子が美味しいとか。パリで活躍

するパティシエはここの出身者が多いらしいよ」

「お菓子屋さん!? マルちゃん! それを先に言いな

さい。何だ、楽しいとこあるんじゃないの。さあ急いで

ストラスブールを見て、夜までにはバーデンバーデンに

着いてお風呂に入るんだから!」

 不思議なことだが、ここ何日かあき子と旅もどきのよ

うな生活を一緒にしていて知らず知らずのうちに子供の

時の頃のようなあき子に対する接し方を感じるようにな

った。それは忘れていた感覚だった。母親がいなくなっ

てからはあき子に母のような感覚を抱いた時期も少しあ

ったが、それではなく今こうして二人で旅をしていて仲

のよい姉弟の感触を感じるのだ。姉弟の懐かしい感覚だ

った。それには少しほっこりとする暖かさがある。

「あきねえ、まずはノートルダム大聖堂に行くよ。お菓

子はその後ね」

「分かったわ。しょうがないわね」

 百四十二メーターの大聖堂は圧巻でちょっと空がひら

けた場所からなら街のどこからでも見える。聖堂内は暗

くやはりステンドグラスが美しく映えた。

 平日だからだろうか観光客の姿もまばらだった。三百

三十二段の階段で六十六メーターの高さという展望台に

登った二人はドイツ国境付近から展開されるというシュ

ヴァルツヴァルトの黒い森を遙かに眺望した。階段で息

が切れた。しかし、そこには絶景のパノラマが見えた。

ライン川が遠くかすかに光っている。快晴の空はどこま

でも青く、白い雲がほどよく気持ちよさそうに流れてい

る。

「きっとあっちの方向がシュトゥットガルトの方だよ。

ライン川も見えるね」

「すごいわ。たいした高さじゃないから馬鹿にしていた

けど、きれいなものね。エッフェル鉄塔もそうだけど、

周りに高い建物がないと見晴らしがいいものね」

「言うね、あきねえ。だから日本だと城郭の天守閣や展

望台から見える景色がいいんだよ。城下町やのどかな田

園風景は圧巻だよ」

「ちょっと反対側見てくるわ」

 あき子はそう言うと一人移動した。太郎丸は深呼吸し

て目の前のパノラマにひたろうとしてベンチに座った。

遠く異郷の茫洋とした景色の中に染まっていると少し疲

れたのか眠気にすっと襲われうとうととしてしまった。

気持ちの良い風に包まれた。そして、よい香りがふわっ

と鼻先を包んだ。それはゆずの香りに似ていた。これは

夢なのかなあと暖かで真綿に包まれる意識の中に入って

いた。

「おい、ちょっと。おい、起きなよ。まったくすぐ寝る

奴だな。赤ん坊みてえだな」

「う、うわっ。お前、何やってんだ。こんなとこで」

 太郎丸は目の前に現れた少女カグの顔面アップに面食

らった。カグは不機嫌そうな瞳だが、その美少女ぶりは

この間の夜より太陽の下のここでは脱帽ものだ。

「ふん。何やってんだは、こっちのセリフよ。あんたシ

ュヴァルツヴァルトの方に向かってるよね。あっちには

行かない方がいいぜ」

「何言ってんだ。お前には関係ないだろ。だいたい何で

こんなとこにいるんだ。あの夜はどこに消えたんだ」

「そんなことよりあんたの名前はほんとに大伴じゃない

のか? あ、やべえ姉貴がきた」

 カグはそう言うとすっと柱の影に走っていった。

「あ、ちょっと待てって」

 彼女の声は乱暴な話し方とは裏腹にこの間と同様なん

ともきれいな声だった。久しぶりに会った恋人が早く帰

ってしまうような感覚に襲われ、柱の影の方に走って行

って追いかけようとした。するとあろうことか、その影

からあき子が鼻歌交じりで歩いてきてぶつかりそうにな

った。あき子は太郎丸の顔をまじまじと見て言った。

「なーに、にやけてんのよ! 気持ち悪い子ね。さあ、

降りてお菓子屋行ってバーデンバーデン目指すわよ」

 言うが早いかもう階段を降り始めている。訳の分から

ない歌を口ずさみながら。

「両手伸ばせる、お風呂、な・の・よ~、バーデン、

バーデン、イェイ、イェイ」

 自分ではにやけているつもりはなかったが、あたりを

見回してもカグがいなかったので黙ってそのままあき子

の後を追った。 

 国境を越えケルンというドイツの最初の街を抜けてラ

イン川に沿ってポルシェは北上していく。ドイツに入っ

て自分の故郷だと分かったのか、この車は快調に走る。

 助手席で寝ているあき子のスマートフォンがミュージ

カル「シェルブールの雨傘」の楽曲で鳴った。思いがけ

ない人物からだった。

「啓? どうしたの。久しぶりね、元気?」

 三女の啓だった。啓は子供の頃太郎丸に対し、ちょっ

と困るほど優しかった。そして、ぞっとするほどキュー

トな顔立ちの姉で日本のデザイン専門学校を出て一年間

小さな雑誌社で編集の助手やイラストデザインの請負仕

事をしていた。しかし、本場のパリで仕事がしたいと父

の反対もあったが、あき子に紹介してもらってパリに来

ていた。あき子とももう半年近く会っていない。

「やっと繋がったわ。あのね、お姉さんにちょっと相談

があるの。携帯繋がらないから事務所に電話したらシュ

トゥットガルトに行ったって言うから、今どこにいるの?」

「えっ? 携帯がつながらなかったって、おかしいわね。

今ねドイツのケルンという街を過ぎて車でバーデンバー

デンに向かっているとこよ。相談ってなあに? やっと

『KAGUYA』の専属デザイナーになる決心が付いた

の?」

 あき子は啓に今の会社をやめて「KAGUYA」のデ

ザイナー兼秘書として来ないかと誘っている。実は「K

AGUYA」が出したスマートフォンカバーのデザイン

は社長の父には内緒で啓のものを採用した。浮世絵チッ

クなそのデザインは独創的で、今回のル・マンの会場で

も外国人によく売れていた。あき子はその才能を買って

いた。

「そのことも含めてね、もっと大事な相談があるのよ。

直接会って話したいから、休みを取って実はシュトゥッ

トガルトにTGVで追いかけて来たのよ。紗矢ねえさん

に電話したら、まだお姉さん来てないって言うから」

「えっ? シュトゥットガルトにいるの。わかったわ、

でもバーデンバーデンでもう一泊する予定なのよ、マル

ちゃんと一緒で。日曜日にはそっちに着く予定よ。え? 

そうそう、マルちゃんが今、隣で運転してるのよ。あれ、

なんか電波が変ね、よく聞こえないわ……そう、じゃ、

そっちに着いたら連絡するわ。ホテルにいるのね。えっ、

紗矢のマンションに行くかも? えっ何・・・・・・電波悪い

から切るわよ。いい、啓?」

 啓の相談とは一体なんだろうとあき子はいぶかしく思

ったが、もし「KAGUYA」に来てくれるというのな

ら心強かった。デザイナーとしてはもちろんだが、秘書

としてだけでなくパリでの会社運営の精神的な助力にも

なるとあき子は思っている。

 それから大学を出た後の太郎丸には跡を継いでもらい

たいとあき子も思っているが、そのことは誰にも話して

いない。

「啓って、啓ねえさんからの電話? しばらく会ってな

いなあ。放浪した年の秋にパリでご飯ご馳走になったっ

け。あの時の肉はうまかったなあ。相変わらずたまに体

を気遣うメールや時候挨拶のメールは来るんだよ」

「私も久しぶりなんだけど、何か相談したいことがある

みたい。もうシュトゥットガルトにいるみたい。何なの

かしら相談て」

「啓ねえさんが? それはいいや。あのスマートフォン

のケースのデザイン啓ねえさんなんでしょ? センスあ

るもんな。世間は見る目がないよ」

「そうでしょ、そうなのよ。うちに来ればもっと大々的

に作品を出してもらおうと思っているのよ」

 啓は、他の姉たちと違って優しいだけではなく時折り

閉口するぐらい過保護じゃないかと思うこともあった。

母が亡くなって落ち込んでいた太郎丸と末の妹の史瑠紅

を一番気遣ったのは啓だった。母性が強く、おっとりと

してはいたが芯の強さみたいなものがあった。その啓の

相談なのだから太郎丸も何だろうと気になった。

 ふと、母が元気な頃を思い出した。それはたまに思い

浮かぶひとつの心の情景だ。


 母の綾子がキッチンで夕食の準備をしている。

 パリに来てもなるべく和食を献立ていた母。

 漬け物を乗せた皿がある。

 けんちん汁のほのかな匂い。

 小学校の友人達と遊んで帰ってきた太郎丸がキッチン

にいる母に今日の出来事を話しながらまとわりつく。

 優しい笑みと朗らかな笑い声で応じる母。

 湯気が立ちのぼっている。

「だから、クレール達に言ってやったんだ。まだ俺はフ

ランス語がよく分からないからしょうがねえだろって、

あいつら女子のくせに俺たちにうるさいんだよ。そした

ら、ジルダとアントニーが俺を助けてクレール達と口ゲ

ンカになってさ。おまえら立ちしょんべんできないだろ

って言って、大変だったんだ先生まで来てさ」

「あらまあ、大変。それでどうしたの?」

 と言いつつまた笑う母。

 リビングルームでは大学院生のあき子が時折り絶叫し

ながらテレビゲームをしている。

 中学生の啓がソファーに座りながら買ったばかりのか

わいい絵本を読んでいる。

 大学生の紗矢はダイニングテーブルの上で小学生の史

瑠紅に宿題をフランス語で教えている。

 史瑠紅はお下げ髪を触りながら足をぶらつかせてそれ

を熱心に聞いている。

「あき子ちゃん、ちょっと手伝ってちょうだーい。ハン

バーグ焼くわよー。啓ちゃんも、サラダの盛りつけ頼む

わねー」

「はあい! ママ」

 という元気な返事で答えながらソファーから飛び上が

るようにして啓がキッチンにゆく。

「啓ちゃんはおりこうさんね」

 と母が言う。聞こえないふりをしてゲームを続けるあ

き子。やれやれという感じでそれを横目で見ながら紗矢

もキッチンの母の横に並んで手伝い始める。

「しょうがないおねえちゃんね」

 と言いながらまた笑う母の優しい顔。その様子を見な

がらも横で母にまた話し始める太郎丸。

 啓が太郎丸の話をおもしろがって聞きながらハンバー

グをフライパンで焼く。

「ただいまー」

 と言いながらキッチンに来て、

「おっ今日はご馳走だな」

 と母に笑いかける父のほっとした顔。

 本当にありふれたあの日常が断片的だけれど映画のシ

ーンのように頭の中を過ぎてゆく。


 バーデンバーデンの街は湯治客や観光客でにぎわって

いた。バーデンとはドイツ語でそのままずばり「入浴」

という意味だ。

 紀元前の時代からローマ人によって浴場が作られ始め

たという所だ。ナポレオン三世、ビクトリア女王、ドス

トエフスキー、ブラームスなど数え上げればきりがない

ほどの貴族や有名人も訪れている。欧米人が数週間は滞

在してのんびりと過ごす場所でもある。

 あき子は、「ニューヨーク、ニューヨーク♪ 早く入

浴、入浴!」と中年のおっさんでも近頃は言わないよう

な駄洒落を飛ばす。どこで買ったのか、観光雑誌をめく

りながら。

「何がニューヨークニューヨークだよ全く。あきねえ、

宿はどこに予約したの?」

 ポルシェを町の中心部に走らせながら太郎丸は聞いた。

「宿はね。えーっとなんだっけ。あ、これこれ、デア・

クライネ・プリンツっていうホテルね。『星の王子さ

ま』がマスコットというホテルよ、お洒落らしいわ。内

装が部屋毎に凝っていて女性向きらしいわ。カジノにも

行くわよ。マルちゃん二十一歳よね? 二十一歳未満は

入れないって書いてあったから」

 星の王子さまの飾り付けの部屋は嫌だったが、カジノ

には敏感に反応した。

「えー、女性向き? 何それ、でもカジノはいいね。大

丈夫だよ二十一になったから」

 カジノと聞いて太郎丸はワクワクした。この間ロンシ

ャン競馬場で馬券が買えなかったせいもある。賭け事は

叔父の次郎から十八の頃から教わっている。しかしカジ

ノは二十一歳以上でなければ入れないのでまだ次郎にも

連れて行ってもらったことはない。

「さあ、とりあえずホテルに向かって、そこを右みたい

だから」

 浴場はたくさんあるが、ほとんどの浴場が二十二時く

らいまでで、二十時までには入らなければならなかった。

水着着用というところが多い。二人はチェックインした

後、入浴道具を持ってバスに乗り、街の中心部に行き散

策した。太郎丸は水着のことを聞いていなかったのでそ

んなものは持ってきていなかったが、あき子はしっかり

用意してきていた。

「私は水着でいろいろなお風呂が楽しめる浴場に行くけ

ど、マルちゃんはどうするの?」

 太郎丸はわざわざ水着を買うのは馬鹿らしい思い、ホ

テルの人が教えてくれた水着がなくても入ることができ

るお勧めの浴場に行くことにした。

「じゃあね、夕食は美味しいドイツ料理の店に行くから、

七時にここで待ち合わせね」

 そこは町の中心部に位置する市庁舎の前だった。人通

りは多く、観光客も多かったが、一人で行かせるのは少

し心配だったので、太郎丸はあき子が大丈夫よと言うの

を無視して浴場まで送っていった。

 太郎丸は自分とこの黄玉が得体の知れない妖精や悪人

に狙われていることをどうしてもあき子には言えなかっ

た。ましてや妖精などと、信じられないようなことはな

おさら言えない。ドイツに行くことすらやめてしまうか

も知れない。こう見えても臆病な姉だから、いらぬ心配

はさせたくはない。とりあえず、なんとか、仕事をうま

く片付けて姉をパリまで送り戻した後に自分の身に迫っ

てきていることを解決すればいいと思っていた。

 あき子を浴場まで送り、太郎丸はお勧めという浴場に

着いた。思っていたほど客はいなかった。暗くて湯煙が

濃く視界が悪い。湯が張ってある場所につき胸ぐらいま

でつかったその時だった。目の前で「ふあー」という湯

に浸かるリラックスした男の声がする。

「なんだ男か……」その男はぼそっとつぶやいた。湯煙

が流れて男の顔が現れた。

「あっー!!」二人はお互いのことを指さしながら声高

に同時に叫んだ。

「太郎丸っー!」

「次郎おじさんっ!」

 周りは湯煙でよく見えなかったが、(静かにしてくだ

さい)(静粛に)(声が大きいですよ)というドイツ語

や英語、フランス語の声が一斉に聞こえてくる。

 二人は「しっー」と言いながら指を口に当てた。小声

で話す。

「なんで、おじさんがこんなとこにいるんだよ」

「おまえさんこそ、好きやなあ」

「えっ、どういう意味よ。好きやなあって」

「この浴場は混浴やぞ。大体なんでこんなとこにいるの

や。ヨーロッパ放浪やめて東京の大学に入ったのとちゃ

うのんか?」

 叔父の次郎は変な関西弁を使う。関西にいたことはな

いが、やくざ映画の見過ぎで高倉健の影響だという。と

いっても高倉健がそんな関西弁を使っていたかと疑問に

はいつも思っていた。

高倉健が亡くなった時はショックの長文メールが太郎

丸に届いた。それは(俺はほんとに、背中で泣いている)

で始まる名文で太郎丸も感動してしまった。

 また次郎は寅さんのファンでもあり何度か中学生の時

にカートの練習の帰りに柴又帝釈天に連れて行かれたこ

ともあるほどだ。だから、たまに寅さん言葉にもなる。

ややこしい叔父だ。

次郎は独身で神出鬼没の風来坊だ。太郎丸の母の弟だ

が小倉小路の家も継がす飛び出した。太郎丸の父の蔵太

郎とは昔から折り合いが悪かった。太郎丸をかわいがる

ことにいい顔をずっとしていなかった。太郎丸が母を亡

くして、元気づけにと少し次郎とのつき合いに眼をつむ

っていたことも確かだが、あいつはとんでもない奴だか

らつき合いもそこそこにしろと太郎丸に対して言い続け

ていた。

 次郎は昔、飄々として無精ひげをさすりながら太郎丸

によく言っていた。

『ええか、太郎丸。車ってのは、人間を運ぶ道具や。命

を運ぶ道具や。だから、大切に扱わなきゃならんのや。

愛情を込めて扱うんや。道具は粗末にしたらあかんで』

無類のスポーツカー好きの次郎の影響もあり、車だけ

は自分の金で買うのだと決めていた。小さい頃からのお

年玉と小遣いと高校時代にたこ焼き屋のアルバイトで貯

めたお金でフランスに渡って中古のおんぼろフィアット

500をすぐに買った。それに乗ってアルバイトをしな

がらヨーロッパを旅した。何かを求めるように放浪した。

その叔父が目の前にいた。面食らうもうれしい気持ち

になった。

「混浴だって? そんなの聞いてないよ、まじか。それ

はやばいよ、早く出なくちゃ」

「まあ待て、太郎丸君よ。そんなに急いでどこへゆく。

人生は長そうで短いのや。ここは足だけつかって長湯や、

スーパー半身浴や。のう、わいが何分待っとったと思う

んや。おしゃべりは厳禁厳禁、しーっと、な、な。ブロ

ンドのかわい子ちゃんが来るよってに」

 しっかりと次郎に腕を掴まれ湯船のへりに座らされた。

これじゃ足湯だ。太郎丸はあっけにとられたが、可笑し

さも込み上げてきていた。こういうところが好きだった。

「しょうがねえ、おっさんやね」

 太郎丸は小声でドイツにいる理由を話し出した。胸の

黄色い石が濡れて光っている。

 二人が少しのぼせながらロッカールームに戻ってきた

のはそれから一時間後だった。

 裸のブロンドのかわい子ちゃんはついに来なかった。

二人のブロンドの品のいい老婆が次郎達を見てウインク

してきたくらいだった。その二人は「旅を楽しんでる?」

と小気味よくフランス語で言ったが、次郎は精一杯の笑

みで返事をして、この人は偉いなあとつくづく太郎丸は

感心した。

 というか次郎は女性には誰にでも愛想がいいのだ。

「あれ? 俺のロッカーが開いてる」太郎丸のロッカー

の鍵が壊され荒らされていた。

「ひでえことしやがる奴がいるなあ。金は大丈夫か? 

盗まれたもんはないか?」

 次郎が少し関東弁に戻り、太郎丸を心配そうに見た。

ホテルに貴重品は預けて小銭くらいしか持ってきていな

かったので心配はなかったが、幸い何も盗られてはいな

かった。ペンダントは胸にある。 恐らくこれを探すた

めに何者かが鍵を壊したのだとすぐに太郎丸は思ったが、

叔父には心配をかけたくなかったのでペンダントのこと

は言わなかった。

 やはり誰かがつけているか見張られている。あたりを

見たが誰もいなかった。太郎丸は胸のペンダントを見な

がらふいに右手でそれをつかんで言った。

「うん、大丈夫みたいだよおじさん。盗まれたものはな

いみたいだよ」

「そうか、それは良かったな。一応フロントにわいが行

ってくるから待っとれ」

 次郎はそう言うとペンダントを指さした。

「そのペンダント、わいの姉貴からもらったペンダント

やろ。大事にしとるんやな」

「ああ、そうだよ。やっぱり・・・・・・盗まれなくて良かっ

たよ」  

「えっ、なんやて?」

「いやなんでもないよ・・・・・・」

 次郎は首をかしげなからフロントに行った。スタッフ

が来て事情を説明してその場は事なきを得た。二人は建

物を出て待ち合わせ場所へと歩き出した。外の風が心地

良かった。

「さあ、次郎おじさん、仕切り直して一緒に食事でもし

ようよ。あきねえが美味しい店調べてあるらしいから」

「おっいいねえ、ちょいと一杯やるか。それにしても、

こんなとこで会うなんてな。あき子に会うのも久しぶり

やな。ま、縁てやつや。わいにとっては大事な数少ない

身内、甥っ子姪っ子やからな」

 次郎は気ままに旅をする。放浪癖がある。仕事は何を

しているのか分からないが、お金は持っているようだっ

た。太郎丸がヨーロッパを放浪していた時は連絡がつけ

ば金銭面で助けてもらったこともある。小遣いだからい

いよと言う次郎に、律儀な太郎丸はちゃんとお金を返し

ていた。太郎丸から見ればうらやましい自由人だった。

 ぶっきらぼうだが優しくダンディズムな男だ。そして

底抜けに明るく前向きだ。

「どうだ、最近、車乗ってるか」

 父親のフェラーリに乗ったことを言おうとしたが、カ

ーチェイスのことは言いたくなかったので普通に返した。

「大学に入ってからは自分の車はないよ。おじさんは今

何乗ってるのさ。去年乗ってた白のボクスター981な

の? そうだ、探してた911スピードスターは見つか

ったの?」

 911スピードスターは、930最終型の終わりに二

百五十台限定で生産された伝説のポルシェスピードスタ

ー911のことで、次郎はこの出物を昔から探していた。

 もちろん破格の値段だが。カブリオレで車高が低く運

転席からリヤにかけて稜線のようななだらかな膨らみが

ある。その膨らみはエレガントでもあり、アグレッシブ

さも漂う。

「よく覚えてらっしゃる。まだ981に乗ってるよ。あ

いつは早い。スピードスターはなかなか手に入らねえ。

遠い存在でもねえが近くにも来ねえ。なかなか出会えね

え。ま、それがいいんや。いつかきっと出会える。もっ

とも、最近は九十三年に出した空冷最後のスピードスタ

ーでもいいと思ってる。それでも九百三十六台しか作っ

てないんだがな」

「おじさん、言い忘れてたけどパリからここまではポル

シェ911で来てるんだよ。前におじさんが乗ってたの

と同じ930で八十九年型だよ。同じカブリオレさ。す

ごいきれいで走行距離も短くて調子がいい車なんだ。ど

ういう訳かあの親父が俺がこっちに来た時に用って買っ

てあった車なんだよ。変でしょ、あの親父がだよ。後で

見てみてよ。エンジン部分と周辺の細かいチェックとか

お願いします。おじさんに見てもらえば安心だから」

「ほー、930か。あいつはいい。文句なくいい。古き

良き時代のマシンだ。俺のももっと乗っていたかったん

だがよ、訳ありでよ。蔵太郎の親父もやるじゃねえか、

まったくどういう風の吹き回しだ。それとも焼きがまわ

ったか。おまえさんに車を用意するとは、いよいよ跡継

ぎ確定を迫るんじゃねえのか」

(跡継ぎ)という言葉が出て太郎丸はちょっと顔をしか

め、

「跡継ぎのことはまだまだわかんないよ。今何がやりた

いか、はっきり自分の中で決まってないんだよ。そのこ

とはなしね。ま、おじさんだからいいけど」

「お、悪りい悪りい。俺も焼きがまわっちまったかな」 

 ふと太郎丸はその時カグの質問のことを思い出した。

「そうだ、おじさん。うちの名前の小倉小路だけど昔か

ら小倉小路なの? 大伴っていう先祖じゃない?」

「なんでえいきなり。変なこと聞くなあ、うちは小倉小

路だろよ平安の昔から。それよりおい見てみな、あき子

じゃねえのか。なんかこっち見てどなってんぞ。相変わ

らずだな。ハハハ。それにしても、やけにお洒落だな」

 次郎は大げさにあき子を見て笑った。なんだかうれし

そうだった。

 七時に市庁舎前で会う約束を十分ほど過ぎていた。あ

き子は二人を見つけてこっちこっちと手招きしている。

カジノを意識してか、お洒落なドレス姿だ。

「なんで次郎おじちゃんがいるのよ。またさすらってん

でしょ。何やってんの二人で。マルちゃん遅刻よ。何分

待たせる気、早くレストラン行くわよ。話はその後その

後」

 例によってけたたましく仕切って、あき子はレストラ

ンまで二人を案内しながら同時に次郎とも久しぶりの挨

拶を交わしている。この一族は少し変わっているのかも

知れない。

 ドイツレストランは「ラテルネ」という名前でビスト

ロ風の店だった。三人は積もる話にワインも進み、楽し

いひとときを過ごした。太郎丸は胸の石のことも跡継ぎ

のことも忘れ、あき子は井坂さんとの進まぬ結婚のこと

も忘れた。次郎はスピードスターへの憧憬の念も忘れた。

太郎丸もあき子も腹の底から笑えた。

「さあさあ、それではカジノにでも行きますか。イェイ」

 久しぶりに次郎に会ってテンションが上がっているあ

き子が立ち上がって拳を上げた。

「おういいねぇ。おまえさん達も行くのかカジノ。しか

し、あれやな、太郎丸はこの服装じゃ無理やな。あそこ

は伝統的なカジノやから確かフォーマルでないとあかん

のや」

「おじさんだって、そんなカッコじゃん」

 太郎丸は相変わらず上は白いTシャツに濃紺の作務衣

とブルージーンズという出で立ちで、次郎はストーンウ

ォッシュのジーンズ、チェックのタブカラーシャツにラ

イダージャケットだ。バーデンバーデンのカジノはドイ

ツで一番古く格式と伝統を重んじる。男はネクタイ着用、

女もフォーマルドレスでなければ入場できない。

「俺か、実は俺はそもそもここにはカジノ目的で来たん

や、ホテルに着替えがあるんや」

「私はこれがフォーマルドレスよ」

「あきねえ、だからそんなカッコしてんだな。自分だけ

用意周到じゃないか。何で来る時言わないんだよ」

「大丈夫よ、ちゃんと調べてあるわ。服はレンタルなの

よ、レンタルでOKよ。へへへ」

「何が、へへへだよ」

「ま、いいじゃねえか。こう見えてあき子も一所懸命、

生きてんだよ。そうか、レンタルとは知らなかった。レ

ンタルでいけ。服装なんざどうだっていい。行くぞ太郎

丸!」

「いくぞ、次郎丸!」

「次郎丸か、こりゃいいや。おまえさんの弟分だな」

 太郎丸が少し酔った勢いで次郎に合いの手を入れる。

三人は店をはしゃぎながら出て行く。あき子の真っ白な

フレアスカートがふわりと風に揺れていた。

 伝統と格式のあるバーデンバーデンのカジノは千八百

二十三年にできた。ギリシャ様式のような建物のクーア

ハウスと呼ばれる社交場の内部にカジノはある。

 華美な作りの中にも歴史を感じさせ、天井から吊され

たシャンデリアが心を躍らせる内装のカジノだ。ドイツ

一、いやヨーロッパ随一のカジノである。

「すごいねおじさん。さすがドイツで一番美しいってい

うだけはあるね」

 太郎丸は着付けないレンタルのジャケットとネクタイ

を整えながら店内を見回した。

「よく聞け太郎丸、ここにはトルストイやドストエフス

キーも来たことがあるっていう由緒正しき賭博場だ。心

してかかれや。カジノは博打や。この華やかさに騙され

るな」 

「バカラはやめた方がいいんだよね」

「あたりめえだ。まだ早え」

 次郎はホテルで着替えて、さっきまでとは違って真っ

白の三揃えのスーツをまとい、これまた白のボルサリー

ノできめていた。煙草は吸わないので、のど飴をなめて

いる。

「太郎丸君! 君のカジノデビュー記念の今宵はルーレ

ットで勝負だ」

「はい、おじさんに付いていきます」

「何が付いていきますよ。大げさなのよ、あなたたちは。

私はスロットをやるわね」

 あっけらかんと白いスカートを翻して、あき子はスロ

ットに向かっていく。

「いいか太郎丸。今日は初めてだから大勝負はするな。

赤か黒、奇数か偶数、あとは1から18もしくは19か

ら36の前半後半賭けのアウトサイドベットにしておけ

や」

「分かった。配当二倍のやつだね。もし調子が上がって

きたら他の賭け方をしてもいい? 一目賭けの三十六倍

とか、二目賭けの十八倍とか。倍率の高いやつ」

「だめややめとけ。いいか太郎丸。シンプルイズベスト

だ。江戸時代で言えば丁半の賭けだ。欲張らずに二倍配

当で行くんだ。それにやつらディーラーは意図的に出目

を狙えるんや。だから一目、二目、三目賭けなんてのは

止めておけ」

「ディーラーは本当に出目を狙えるの? すごいなあ。

でも、無理だって言ってる人もいたよ。おじさんが言う

ことを信じるけどさ。で、おじさんはどうするの」

 ディーラーが任意の場所にボールを入れられると昔か

ら言われているが、現在の一般的なカジノにおいては不

可能とされている。ただ、狙えるディーラーは存在する

らしい。

 もしそうであるなら、ディーラーとプレイヤーの心理

的な読み合いのゲームとなり、不正が働けるからカジノ

側がそのようなディラーを雇わないと考えられている。

ここにはないが、人間のディーラーではなく機械がボー

ルを投げる機械式のホイールもある。

「俺か、俺はいろいろ狙う。太郎丸にはまだ早え。へへ

へ」

 そう言いながら鼻を指でこすった。少年のような眼差

しになっている。

「何だ、やるんだ。ずるいなあ。ま、いいや。そんなに

お金持ってないし二倍賭けで」

「金は心配するな。甥っ子に遊び金くらい渡さねえでど

うする。ほら」

 といって、分厚い財布を見せた。恐らく始めからカジ

ノに来る予定でそこで遊ぶ金だけ用意してあったのだろ

う。それがなくなれば帰る。そうやって次郎は賭け事を

する。

 ホールはかなりの人でごった返していた。様々な人種

が見える。日本人もいる。賑やかだ。この喧騒、息吹、

匂い、欲の渦まく人々の瞳、多様な言語がBGMのよう

に奏でられる。ピアノの音がムードを盛り上げる。

「たまらんねえ」と次郎が言った。

 二人はブロンドで青い瞳の若い女性がディーラーをし

ているテーブルを選んだ。

「さっきの浴場で出会いたかったような人や」

 と次郎は太郎丸に囁いた。

 太郎丸は「何言ってんの」と次郎に軽く肘鉄を食らわ

した。次郎は大げさにニコッと笑い彼女のスーツの豊か

な胸元を見つめる。『おいおい見てみろよ』と言わんば

かりに太郎丸を小突いた。

「グラマーなオネイさんでんなー」次郎はにやける。

 もちろん彼女は無視している。太郎丸はやれやれとい

う顔で次郎を見た。次郎は勝手にその彼女に「ステファ

ニーちゃん」などと名前を付けている。

 ディーラーのステファニーちゃんがベルを鳴らす。

 ベット(賭け)の合図だ。バーデンバーデンの掛け金

は二ユーロ、約三百円から遊べる。もちろん、チップに

換えてからだ。

 プレイヤー達は数字が書かれたテーブルの上、思い思

いの場所にチップを置いていく。友人やカップルで来て

いる人達はああでもないこうでもないと言いつつ置いて

いる。寡黙に置く者もいる。遊びさという感じで無造作

に置く奴もいる。みな様々だ。だが瞳は真剣だ。次郎は

本当にいろいろな所に置いていて太郎丸は自分のことも

あり、それを一つ一つ確認できない。ちょっとは参考に

しようという下心もあったのだが。

「すごいね、おじさん。本当にたくさん置くんだね」

「こう見えて実は作戦立てながら賭けとるんや。太郎丸

も早くしいや」

「ああ、分かってるよ。ええと、こことここに・・・・・・」

 太郎丸は赤と奇数にベットした。ディーラーがホイー

ルを回転させ、回転方向とは逆にボールを放る。プレイ

ヤー達は追加ベットをしている。太郎丸はしない。次郎

は追加した。多様な言語のBGMは止まない。欲望と緊

張の鼓動が高鳴る瞬間だ。

 ディーラーが「ノー・モア・ベット」と告げて、ベル

を二回鳴らした。もうベットは禁止だ。ファウルすると

チップは没収となる。ボールが回転に逆らうようにゆっ

くりと軌道をさげつつポケットに落ちた。

 ステファニーちゃんが心地良い声でその数字を高らか

に告げた。

「Red 9!」

 赤色の9に落ちた。ホイールはまだ回っているが、は

っきりと見えた。

「やった! おじさん、当たったよ! 二倍が二つで四

倍だよ」

生まれて初めて賭けたルーレットが当たったので素直

に嬉しい。

「それぐれえ分かる。小学生だって分かる。ま、そうい

うこともある。ビギナーズラックっていうやつや」

 次郎は駄目だったらしい。次郎に気兼ねすることはな

かった。

 次のベットだ。太郎丸はまた同じ赤と奇数に置いた。

ホイールが回転する。

「ノー・モア・ベット!」

 ポケットを見てステファニーちゃんが告げた。口紅の

赤色が鮮烈に艶めいている。

「Red 1!」

「やったぜ、おじさん。二連チャンだ」

 次郎はまた駄目だった。かすりもしない。笑みが少し

消えている。

「まぁ、見てなって。トウシローはそこまでだ。玄人は

これからよ」

 次郎はさっきよりもたくさん置いている。眉間に少し

皺が寄った。太郎丸はまたまた赤と奇数に今までのすべ

ての配当チップを賭ける。この辺がギャンブラーだ。物

怖じしない。突き進む。負けてもどうせ初めのチップの

分だけだと思える。

 ブロンド髪の先の方がロールしていて、そのロールを

背中にかき上げながら色っぽくステファニーちゃんはポ

ケットの数字を告げた。青い瞳が太郎丸をちらっと見た。

「Red 1!」

 さっきと同じ目だ。三回連続の奇数目だ。しかも赤だ。

「おじさん! すごいぜ三連チャンだ。見た見た?」

 太郎丸の所に配当のチップが押し出される。次郎はま

たまたはずした。

「ぼちぼちや。まあ、これからや。これから爆発や。太

郎丸もおごらずに行けや」

 次郎は眼差しがますます真剣になり、笑みは完全に消

える。だがステファニーちゃんを見てツキを頂戴という

ようにウインクまでしている。そのウインクはいかさま

を促しているのではなく単なる色仕掛けのウインクだっ

たが、やはり無視されている。

「おじさん、俺はまた同じに賭けるよ。三度あったこと

が四度はないっていうのが普通だろ。その裏をかいてみ

るのさ」裏という意味が次郎にはよく分からなかったが、

「そうか。その辺がまだまだトウシローや。四度目はね

えのよ、太郎丸くん」

 そう言いつつもベットの一つに赤を加えた。太郎丸の

ツキで保険を初めてかけたのだ。日本円に換算すると始

めに賭けたチップが一万円分くらいだから太郎丸が今度

すべて賭ける額は六十万円強になる。しかし、太郎丸は

ひるむことなくすべてベットした。  

 回転するホイールにボールが投げられる。ボールがポ

ケットにすべり込む。

「Red 9!」

 ステファニーちゃんの心地良い声がこだまするように

聞こえた。

 ステファニーちゃんは確かに太郎丸を見て微笑んだ。

彼も微笑み返す。四度目が来たのだ。奇数の赤だ。

「やったぜ!」

 また太郎丸が勝った。

 次郎はかろうじてついてる太郎丸に乗った赤だけ取っ

た。テーブルの周りのプレイヤー達が「おーっ!」と声

を上げた。前の場でも実は少し声は上がっていたのだが、

今回はトーンが大きかった。太郎丸に対してではない。

 プレイヤー達の声と視線は一人のプレイヤーに向けら

れていた。そのプレイヤーは小柄な女性だった。まわり

に仲間や家族らしき人は見えないから一人だろう。赤い

ドレスを着こなしていて落ち着いた二十代に見える。少

女らしさが目元に残る顔立ちで終始にこやかにしている。

洒落たロングのブラウンの髪の毛がシンプルな赤いドレ

スの肩と白いうなじに薫るように掛かっている。周囲に

爽やかなレモンの風が漂って来るような魅力的な女性だ

った。

 太郎丸は今まで自分のことで精一杯でその存在に気付

かず、なぜみんなが彼女を見て歓声を上げているのか分

からない。

「おじさん、なぜみんな彼女に歓声を上げてるの?」

「見てなかったのか。初めあの子は千くらいから始めた

んだ。数字四つの四目賭けにな。分かるだろ、九倍配当

だ。四つのうちの一つが当たればいい。それをあの子は

四回立て続けにすべての配当を懸け続けていたんだ。だ

から、今度の配当は大体日本円換算で六百五十万といっ

たところだ」

 次郎は伊達にステファニーちゃんだけを見ているわけ

ではなかった。周囲の状況をディーラーの視線も含めて

よく観察していた。ここら辺が次郎の玄人っぽいところ

だ。

「おじさん、よく見てるね。すげーなぁ。それにしても

彼女の瞳きれいだと思わないかい。見たことない色だよ」

 それはカグの瞳の色と同じに見えた。しかし、カグと

は髪の色や顔立ちが違った。

「そこだよ、よく見とる。あれはバイオレットアイだ。

往年の大女優エリザベス・テイラーがそうだったんだ。

ヨーロッパでも稀有の瞳だ。ブラウンの髪にあの瞳だと

もしかするとハーフかクォーターかも知れん。きれいす

ぎる。お前もしかして惚れたか?」

 最後の(惚れたか?)という所は無視した。これ以上

突っ込むと余計ややこしくなってしまう叔父だ。

「ふーん、エリザベス・テイラーね。誰それ? でも、

きれいな瞳だ」

「ほんまきれいや。青紫というか、濃い紫というか、す

みれ色というか、彼女を『紫の君』と名付けよう」

 また次郎は勝手に見知らぬ女性に名前を付けている。

彼の趣味と言える。一年に二四回は付ける。

「むらさきのきみ、か。源氏物語だね。まあ、ステファ

ニーちゃんよりはましだよ」

「ところで、太郎丸。君の勝ち分はもう二百五十万は超

えてるんじゃないのか。もういいかげんいいんじゃない

のかな」

「何言ってるんだよ。あの子に較べりゃ大したことない

さ、二百五十万たって、元は一万さ。それより、おじさ

ん何か気づかないか」

「何かってなんや」

「俺たちが来てからのルーレットの出目さ」

「9,1,1,9やな。赤が四回も続いてるんが、非常

に気にくいませんが」

「ポルシェだよ」

「ポルシェ?」

「ポルシェ911さ。俺が今乗ってる型式はなんだかわ

かるよね」

「930や、あれはいい。930は最高や。えっ? ま

てや太郎丸!」

「そうさ、次は30だよ。」

「911930か、そんなアホなことはないやろ。いく

らなんでも」  

「俺はやるよ」

 太郎丸の瞳が不適に微笑んでいる。この瞳は二十一歳

とは思えない。博打打ちの目だ。

「しかしや、太郎丸。3は赤やけど0は緑やぞ。30は

赤だ。したけど30は偶数や、奇数やないで。3に賭け

るんか、全額」

「3と0じゃ、俺たちが来て六回目で911930にな

るよね。五回目じゃなきゃ駄目なんだよ。だから次は3

0の赤に賭けるよ。赤の偶数さ。五回連続の赤で奇数じ

ゃないけど、ここに来てから五回目で911930にな

って完結するのさ」

「なんで五回にこだわるんや」

「たいした意味は無いよ。俺が五人姉弟っていうだけさ。

五が好きなだけさ」

 次郎は黙った。なんとなく太郎丸の悲しげな表情をか

いま見たからだ。太郎丸は全額のチップを赤と偶数にベ

ットした。くればおよそ一千万だ。テーブルの周りの人

達は自分のチップを置きつつも紫の君のチップがどこに

置かれるかも見守っている。太郎丸は初めて彼女が置く

ところを見た。目を疑った。また四目賭けだったが、彼

女が置いた十字の四升の数字は26の黒、29の黒、

27の赤、そして30の赤のある十字だったのだ。

 しかも、今までの勝ち分全額のチップだった。くれば

六千万円近い額だ。テーブルの周りの人達はどよめいた。

「クレイジー!」と言う人もいる。だが彼女はにこやか

にしている。動揺している様子もないのだった。なおも

レモンのような風は周囲に薫っている。

 四回立て続けに当てている彼女が、もしまた当たると

して太郎丸の目はこの中では赤の偶数の30しかない。

赤の30が来れば彼女も太郎丸も勝つことになる。

 もちろん、26、29、27が来ても彼女は大金を手

にする。27が来れば太郎丸は赤だけ当てて二倍の配当

で500万は来る。しかし、それ以外のポケットにボー

ルが来ることの確率の方が高いに決まっている。奇数と

黒と0がらみの緑なら太郎丸は全額負けだ。

 当然、四回立て続けに勝ってきたこの二人に視線が集

中した。隣のテーブルの人も覗きに来ていた。

ステファニーちゃんは相変わらずにこやかにしている。

「おじさん、見たかい。彼女と俺、二人一緒にMAXで

勝つとしたら、赤の30しかないよ。30だよ。911、

930が五回目で完成さ!」

「ああ、そうや。そんなことは分かってるわい。偶然に

も30に重なっとる。怖いくらいや。俺はどこに置いた

らええんや」

「おじさんらしくないね。好きなとこに置くんじゃなか

ったの」

次郎はもう二十万近く負けていた。

「ええい、乗ったるわい。30に一点賭けや! 若けえ

のに負けてられっかよ」

 次郎はそう言うとあろうことか残りのチップすべて日

本円換算で三十万円分を30にベットした。三十六倍だ

から来ればやはり一千万だ。自分でもこの土手頭と思っ

た。

「そうこなくっちゃ。やっぱりおじさんはただのスケベ

じゃないね」

「背中で泣いてる、唐獅子牡丹ってなー。いったるわい。

健さん、お願いします!」

 こんな所で高倉健さんに神頼みする人も珍しい。怪し

い人を伺うような顔でこの二人を見ている外国人達を無

視して、ステファニーちゃんが冷静な、しかし、美しい

笑みを微かに浮かべながら回転するホイールにボールを

投げ入れた。テーブルの周りは一瞬の静寂に包まれ、太

郎丸もさすがに少し手が震えていた。ボールがプレイヤ

ー達の視線を吸い込むように回転する。

しばらくして彼女は宣言する。

「ノー・モア・ベット!」

 

 車妖精バルセスはかなり忙しかった。

 無能な人間、阿川と契約を結んだことを少し後悔し始

めていた。なにせ、阿川に言われるまま阿川の乗った飛

行機を追うようにして、友人の龍神の背に乗り東京に飛

んで行き、広尾にある「小倉小路屋」の事務所の金庫を

夜中にアラームも鳴らさずに壊さず開けて、株券や会社

に関する重要書類を阿川に渡しただけでなく、その後、

健康ランドのサウナに付き合わされ、湯上がりに化粧鏡

の前でウットリする彼に今後のレクチャーをし続けたの

だ。

「ところでバルセスさんよ。俺の手下どもは優秀ってい

う言葉にはおよそほど遠い所にいましてね。実は二回も

しくじっちまったんですよ。今度はシュヴァルツヴァル

トの森で太郎丸をひっつかまえようと連絡があったんで

すがね」

「シュヴァルツヴァルトだと! あそこは黒い森と言わ

れて我々の種族の仲間がたくさんいるぞ。それは好都合

だ」

「ほんとですかい? なんとかなりませんかね。手下の

野郎どもはどうも今いち使えねえんでお願いしますよバ

ルセスさん」

 そう言うと阿川はジッポライターで煙草に火をつけた。

バルセスの出方をうかがう。

「なんとかなることはなるが」

「ほんとですかい!」

「あの森にいる仲間のハラグロサイラに連絡してみるが、

私も行こう。東京にいても全然埒が開かないみたいであ

るし、おまえはどうする?」 

「何ですか。その腹黒さん、とか何とかは? 腹黒い奴

なんですか」

「違う。ハラグロサイラだ。おまえは本当に人の言うこ

とを適当に聞いているな。こいつは使える俺の友人でな。

ただちょっと人間の女に弱いという弱点があるのが玉に

きずなのだが。特に熊本弁や博多弁の女子にはめっぽう

弱い。きょうび、テレビの悪影響だ」

 しかしそれにしても、この妖精は相変わらず能弁な奴

だなと阿川は感心した。

「なんだかよく分かんねえけど、俺は東京に残って計画

を進めるから。バルセスさんよ、とにかく頼んだよ手下

どもを」

「仕方ない。明日、知り合いの龍神がドイツに行くから

乗せてもらうように頼んでみる。おまえは私がレクチャ

ーした通りに事を進めるのだぞ。ところでハラグロサン

とはどういう意味だ? 本当に人間の言うことはよくわ

からない。まあいい、しっかりやるのだぞ」

 そう言ったかと思うとバルセスは阿川の目の前からす

っと消えた。

 阿川は煙草を灰皿に揉み消すと「うるさい奴め」と小

さく呟いた。

 

 東京、広尾の街の一角にある「小倉小路屋」のオフィ

スの社長室の金庫の異変にはまだ誰も気づいていなかっ

た。そんなものを開けることができるのは社長の蔵太郎

と副社長のあき子だけだったからである。まさか、金庫

の中から株券と重要書類だけ抜かれているとは見た目だ

けではわからない。

 社長室のソファーに座り新緑の残り葉が陽にさらさら

と揺れるのを窓の外に感じながら書類に目を通していた

専務の高瀬仁史は少し不機嫌だった。社長と副社長はパ

リにいることが多いので二人が東京にいない時は実質こ

の高瀬が東京を仕切っていた。めったに怒ることのない

穏和な人物だが、さすがに気持ちがざわめく。彼は五分

刈りの頭をさすってため息をついた。本部長の阿川がパ

リに行って仕事の片をつけると言ったきりでその後連絡

がないからだ。

「専務、お客様です。史瑠紅お嬢様です」

 秘書の喜里川がそう言いながら、史瑠紅を社長室に案

内してきた。四女の史瑠紅は太郎丸の一つ上の年子で美

人だが恐ろしく気が強い。小さい頃は双子みたいですね、

などと言われ実際仲も良かった。しかし、パリの中学1

年で太郎丸のために東京に急に帰ることになったことが、

ずっとひっかかっていて、段々と史瑠紅の方から太郎丸

を避けるようになっていった。せっかくパリの生活に慣

れ始めていて友達も増えて東京には帰りたくなかったの

だ。

 史瑠紅は今年大学の四年生だ。この大学は共学だが、

いわゆるお嬢様が多い大学だ。

「あ、お嬢様これは珍しい。よくいらっしゃいました」

「こんにちは、高瀬おじさん。ここ何日か、あきねえに

全然電話が通じないの。近くを寄ったから来ちゃったわ。

あきねえは?」

「副社長は今ドイツです。私も連絡が取れないのでちょ

っと困っているのですが」

「あら、そうなの。あきねえは一度火が付くとそれこそ

糸の切れた凧みたいになり、周りが見えなくなるから。

ちっちゃい頃から変わんないのよ」

 史瑠紅のさらさらとした漆黒の長い髪の毛が窓からの

陽光を受けて輝いている。睫毛と瞳に少し憂いを持つよ

うな危険な美少女だ。並の男なら近寄り難さを感じてし

まう。性格の強烈さをどこからも感じさせない。

「前の電話ではどうやら太郎丸ぼっちゃんとご一緒のよ

うです。ル・マンでの仕事の後、モンパルナスの事務所

には戻られたらしいのですが、スタッフの話ですとその

後ドイツに向かわれたようです」

「マルと!? ふーん、マルと一緒なんだ。あいつやっ

と大学に入ったと思ったら、またあっちに行ってるの? 

ほんと好き勝手やってるわよ。極楽蜻蛉ってやつね」

 太郎丸の名前が突然出てきて史瑠紅は不機嫌さを露わ

にした。ここ数年自分から距離を置いている。だから、

太郎丸が日本に帰ってきて青山の自宅に住むというので、

史瑠紅はマンションを借りて出て行った。

「ほほう、極楽蜻蛉とは古い言葉をご存じで。史瑠紅お

嬢様も大人になられましたね」

「高瀬おじさんに誉められるとお世辞でもちょっとうれ

しいわ」

「ところで、今日は副社長にどのようなご用件で」

「あ、それはいいの、いなければ。直接話さなければな

らないことだから」

 史瑠紅はその黒曜石のように輝く瞳をすっと寂しげに

社長室の赤い絨毯に落とした。

 高瀬は急に史瑠紅の顔が少し翳りを帯びたように感じ

られたので、それ以上聞かなかった。窓からの陽光がソ

ファーの前のテーブルのガラス細工に反射していて、史

瑠紅はその反射光から目を反らすようにして窓を見て呟

いた。

「今日はいいお天気ね」

 今日は良い天気だ。高瀬もそう思った。いろいろ煩わ

しいことがあってもそれだけでいいじゃないか、そうい

う気持ちに高瀬も一瞬なれた。きっと、このまだ少女と

呼んでもいい子にも小さな胸に納まりきれない程の悩み

や苦しみがあるに違いない。でもそれは誰もが通る青春

と呼ぶ素敵な出口がたくさんある大きな迷路なのだ。

「ほんとに良いお天気で。ところで史瑠紅お嬢様、聞く

ところによると大学院に進まれるそうで。おくればせな

がら、おめでとうございます」

「あら、耳が早いのね。どうせあきねえが喋ったんでし

ょ」

「ご研究熱心だと、副社長も喜んでおられましたよ」

「それはそれで結構大変なのよ。じゃ、また来るわ。あ

きねえが日本に帰ってきたら連絡ちょうだいね。高瀬お

じさんもあんまり無理しないでね」

 そう言って史瑠紅は颯爽と踵を返して社長室のドアを

開けて出て行った。長い黒髪が揺れている。風が吹き過

ぎるみたいだ。すれ違いざまにコーヒーを持ってきた秘

書の喜里川はあら、という顔でその後ろ姿を見送る。

彼女の去り方はいつもそうだった。


 一週間前のことだ。

 テニスサークル内の仲間の飲み会に史瑠紅は向かって

いた。場所は広尾にある小さな童話の絵本に出てくるよ

うな店「レ・グラン・ザルブル」だ。ツリーに囲まれた

店先から感じる世界はそこから妖精が出てくる気がして

史瑠紅は好きだった。

 その日は特に仲の良い仲間達だけの集まりで、最近落

ち込んでいる詩乃を励まそうという飲み会だった。史瑠

紅が店に到着するともう友人達四人は集まっていた。四

年生で就職内定をもらっている子は暇を持て余していた。

「何よー。幹事より早く着くなんて、みんなどうしたっ

てわけ」

 史瑠紅はびっくりしながらも嬉しそうにおどけた。幹

事といっても予約しただけだ。

「遅いじゃない、幹事。遅刻だから史瑠紅の奢りね」

 いつもシュールな礼和が軽いジョークを飛ばした。

「何でそうなるのよ、時間より早く来てるのはあなた達

でしょ」

 みんなそれぞれ笑いながら史瑠紅を迎えていたが、詩

乃だけが少し表情が暗い。

 礼和が皆の飲み物を聞いてオーダーする。隣同士の雑

談の中、史瑠紅が、

「ところで、今日はどうしたの急に店を予約してって」

と場に投げかけた。史瑠紅がちらっと詩乃を見た。

 イタリア人と日本人のハーフの底抜けに陽気なジェリ

ーナが、運ばれてきたコース料理や飲み物を手際よくウ

エイトレスからもらってテーブルに配りながらしゃべっ

た。

「詩乃の元気づけよ。まじわけわかんない。いきなりラ

インで(もう生きてくのがやんなった)って、どういう

こと? びっくりするでしょ、あんなマジメール」

「ないわー、いきなり本論? ジェリーナ相変わらずだ

なあ。とりあえず乾杯しよ」

 礼和がちょっと釘を刺すように目配せしながらジェリ

ーナからカクテルグラスを受け取った。

「はい、はい、はい」と、史瑠紅はちらっと詩乃の伏し

目がちな表情を察しながら場の雰囲気をまとめるように

乾杯の音頭を取った。みんな好き好きな飲み物のグラス

を持って「イエーイ!」と乾杯をした。

 しばらくは詩乃に気を遣いつつも最近の大学での出来

事などを思い思い話しながら飲んだり食べたりしていた。

場が少し温まってきた時だ。

 寡黙だった詩乃が三杯目の生ビールをグイグイと飲み

干して、カッとジョッキをテーブルに叩きつけて、みん

なの顔を見回して口を切った。

「えっ」という顔をして皆が詩乃を見た。

「いいのよ、みんな気を遣わなくて。今日はありがとう! 

私のためにみんな集まってくれたんでしょ。ほんとごめ

ん」

「いったい、どうしたっていうの? 詩乃らしくないよ

最近」

 まじめな里美がそう言うと詩乃はいきなり涙をためて、

「いいんだ、私が馬鹿なんだから、あんな奴を信じた私

が馬鹿だったんだから」

 隣の席の里美の生ビールを横取りしてグイグイとまた

飲み干した。

「おかわりー、早く」詩乃は涙を素早くぬぐうと、そう

叫んだ。

「やびゃあ、やびゃあ。シノピーやびゃあ。まじ受ける」

 ジェリーナがケタケタ笑って詩乃を見ながら五杯目の

スコッチウイスキーボウモアのダブルを一気に飲み干し

て手を叩いた。陽気な女だ。かなり酔ってきている。

「ジェリーナ、そういう下品な言葉やめなさいって言っ

てるでしょ」

 里美が言葉を制するようにたしなめる。 

「話してごらん。何があったの? 私たちは中学から一

緒なんだから」

 史瑠紅が業を煮やして質問した。珍しく厳しい表情で

詩乃を見た。それでも美しい。

 この五人は付属の中学校からエスカレーター式に一緒

に上がってきて今の大学にいる唯一無二の親友同士と言

っても良い仲間だったから、他の三人はどうかは分から

なかったが史瑠紅の思いは強かった。もちろん、他の三

人も詩乃を心配していたのだが、そのリアクションの仕

方がそれぞれの個性によって違ってくるのだ。

「あきら……明よ」詩乃はそう静かに呟いた。

「あきらって、あの明? 元副部長の明、明がどうした

の」

 里美が念を押すように詩乃の顔を見た。

 明はこのサークルの元副部長をしていて、いわゆる世

で言うイケメン、かっこいい奴、いい男、きれいな顔の

男子、昔で言うところの二枚目、ハンサムだった。誰に

でも優しくそれでいてチャラチャラしたところがなく、

しっかりしていて頼りになりサークル内の人望も厚かっ

た。当時の部長の佐伯が野暮ったい感じで、まじめでサ

ークルを仕切っていく能力はあったのだが、女子に変に

厳しいところもあって、余計に女子が五十人強もいるこ

のサークルでは人気の的だった。明も今は彼女らと同じ

四年生でサークルには深くは関わっていないのに、この

テニスサークル「ジャスティス」のプリンスと陰で未だ

に称えている後輩の女子グループもいる。しかし、いつ

もクールで彼女を作らないという男だった。

「明が、どうしたってぇ」

 酔いが回ってきたというのにボルモアのダブル八杯目

を持ちながら肩肘を付いて詩乃の目を貫くように見据え

てジェリーナがドスのきいた声で呟いた。瞳が虚ろだ。

「ジェリーナはいいの。黙ってなさいね、はい。ちょっ

と飲み過ぎよ。いいかな」

 そう史瑠紅に言われるとジェリーナはテーブルに顔を

沈めて眠ってしまったかのように見えたが、すっくと顔

を上げてこう叫ぶ。

「あいつは、わたしを騙したのさ。虫けら野郎さ、けだ

ものさ!」

 ドンという音とともにやはりジェリーナは机にうっぷ

した。皆は何を言っているのだこの女は、という感じで

ジェリーナを見たが、詩乃は驚いた顔で机にうっぷした

ジェリーナの肩を揺すりながら叫んだ。

 「ジェリーナ、何言ってんの。騙したって何よ。けだ

ものって何よ! 何のこと」

 詩乃は、もしや明はこの子とも関係を持っていたのか

と愕然とした気持ちでジェリーナの肩をなおも揺さぶる。

ジェリーナの傍にあったグラスと皿が床に落ちて激しい

音を立てて割れた。この部屋は貸し切りの個室だったか

ら良かったものの、こんな女子大学生の修羅場はこの閑

静な広尾の街中の店では場違いな感じと思われても仕方

なかった。

 ガラスの割れる音を聞いてマスターが部屋に入ってき

て物静かに言った。

「大丈夫でございますか、お怪我はありませんか」

「ごめんなさいマスター。ちょっと酔ってしまった子が

いて。片付けますから」

 そう言いながら、史瑠紅が片付け始めると里美も手伝

って部屋の中は静寂に包まれた。

 マスターは笑みを浮かべて史瑠紅を見ながらガラス片

をちり取りに入れて去っていった。このマスターは史瑠

紅の父の友人で融通が利き史瑠紅に優しい。マスターが

立ち去るのを確認するようにして礼和が詩乃を見てボソ

ッと言った。

「ひょっとして、私だけかと思っていたけど、詩乃も?」

「うそでしょ、礼和」詩乃が礼和の顔をいぶかしげに見

つめた。

「『俺は恋人は決して持たないと決めていたんだ、今は

やることがたくさんあるから。だけど君は自分でも知ら

ないうちに特別な人になってしまった。君に会って決心

が崩れたんだ。良かったら俺の初めての恋人になってく

ださい。ずっとずっと前からそう思っていたんだけど、

やっと今日、世界を敵に回してもいいって、勇気が出た

んだ』って言われなかった? あいつはクズ野郎だ」

 礼和が飄々とした顔で男の声色を使い長い台詞を淡々

と述べる。めったに感情を表に出さない礼和が言うので

余計その「あいつはクズ野郎だ」という言葉には深い重

みと真実味が溢れていて恐ろしい言葉にさえ感じられた。

しばらく沈黙の時間が流れた。

「オーマイガー、まじ受ける! 同じやん! その台詞。

何なんだ。あいつやっぱサークルクラッシャーだぜ」

 机にうっぷしていた顔をずどんと上げてジェリーナが

右手をテーブルに叩きつけた。酔い潰れていないらしい。

ちゃんと話を聞いていた。しかし、瞳は美しく虚ろだ。

 サークルクラッシャーとは、サークル内の小さい世界

で人間関係を一人でめちゃくちゃにする人のことを言う。

明は下級生の女子の人間関係に亀裂を作る男だという噂

を彼女らも最近聞いたことがあった。しかし噂は噂でし

かなく彼女らは話半分に聞いていた。

「やっぱりそうだったんだ。私一人じゃなかったのね。

別れ際がうまいんだ。遊ばれたって感じを残させないん

だ。時間が経ってから、私ひょっとして遊ばれたのかし

らって、雨の降る日曜日の午後に部屋の中に一人いたり

すると、じわっと思うんだ。だから余計許せないんだ。

でも・・・・・・」

 あろうことかその言葉は一番その男とはほど遠い所に

いると思われていた里美の口から発せられた。誰もが、

里美だけは男に決して騙されないと信じていた。そう思

われるような貞淑で気丈夫で頑固な面もある今時珍しい

大和撫子タイプの女子なのである。

「でも、明さんはほんとは寂しい人なのよ」

続けて里美がそう言ったので、

「何言ってるの。里美みたいな善良な女子までたぶらか

すなんて。サイテーのサイテーの男よ、クズ野郎よ。そ

んなふうに言うのやめなさい! みんな、あんな男忘れ

ようよ!」

 さっきまで落ち込んでいたのを忘れたかのように詩乃

が切れて里美に言ったので、場が少し笑いに包まれるよ

うに和やかさを取り戻した。切れたのに場が和む女だっ

た。ここにいる五人のうちまさか四人も明に騙されてい

ようとは誰一人思っていなかった。

 しかし、せっかく和んだ場を突き崩すように史留紅の

口から爆弾発言が発せられた。

「そうかあ、今やっといろいろなことが分かったわ。何

もかもあの男のせいだったんだ。でも、私たちお嬢様な

のかなあ。何で簡単にあんなクズに騙されるんだろ。ほ

んとに悔しいね、復讐しようよ。ねえ、みんなどう思っ

てるの!」

史瑠紅の言葉は意外だった。『私たち』という言葉に

酔い潰れたジェリーナ以外の三人が息を飲んだ。史瑠紅

の気の強さは半端なものではない。ここにいる親友はそ

れを知っている。しかし「復讐しようよ」などと、感情

を露わにすることは仲間たちの前ではない。

『史瑠紅まであの男に騙されたっていうの?』三人とも

一瞬そう思ったがまさかそんな馬鹿なことはないに決ま

っている。この史瑠紅が男に欺されるなんて絶対にあっ

てはならないことだ。三人は同時にそう思った。しかし、

出てくる言葉が見つからない。

 史瑠紅はこの五人のリーダー的存在でこの五人だけで

なくこのサークル内のすべての女子のリーダーと言って

もよかった。ジャスティスの現部長は二年生の藤柴みな

みという少林寺拳法三段のキュートな子だが、入学した

時から「史瑠紅先輩、よろしかったらわたくしめを舎弟

にしてやってください!」と、およそ女子学生が使わな

い言葉を連呼し、まとわりつくように慕って、ついに少

林寺拳法部をやめてこのテニスサークルに入ったくらい

だ。彼女を慕う学生は多く、カリスマ的存在なのである。

品性と知的さと包容力とリーダー性とを合わせ持つ美少

女である。ただ一点、その容姿とは想像もできない程の

気の強さを内に秘めてはいた。そこがまた良いのだとい

う女子学生もいたのも事実だ。

 当然、男子学生の中でも人気はあったが、「恋人など

は作らない」というオーラを発していると言う男子もい

たり(事実、史瑠紅はコンパの席でそう公言していた)、

あまりに女子の間でカリスマになっているので近寄りが

たいと思って遠ざけている男子もいた。

 そのこともあってか史瑠紅を部長にという、そういう

声も出なかった。内心はあんな子と恋人になってみたい

と思っている男子がほとんどだったのだが、気持ちの上

に留めてしまう男ばかりであった。それにいつも史瑠紅

の周りには取り巻きの女子がいて物理的にも近寄り難か

った。普通の感覚を持った男子学生なら史瑠紅に近寄っ

て恋人にするということは至難の業に思え、かなり面倒

くさいことのように思えたのだ。史瑠紅のメールやライ

ンのアドレスを入手することは織田信長から褒美の天下

茶碗をいただくほど難しいとうそぶく史学科の学生もい

た。よしんば何かの間違いでアドレスを手に入れたとし

ても返信をもらうことはUFOに乗った宇宙人からのメ

ッセージを受信するくらい困難なことだと泣く学生もい

た。明はいついったいどうやって皆の目を盗んで近寄っ

ていったのか。近寄るだけではなくこの史瑠紅とつき合

うなど、ほとんど奇跡に近かった。明がいくら東日本一

の陰のプレイボーイと噂されていてもだ。では、なぜ明

は史瑠紅に近寄れたのか。近寄れたのではない。そう、

史瑠紅から近寄ったのだ。

 史瑠紅が明に惚れてしまったのだった。恋は盲目を地

で行ったのだ。三人は言葉を失いつつも様々な憶測と想

像、妄想を短時間の内に抱いた。そして詩乃、礼和、里

美の三人の頭の中での結論も一緒だった。

『史瑠紅、恋しちゃったんだ』

 窓の外に中庭があり、闇の中ライトアップされ浮かび

上がっている新緑の葉が風に揺れていて、静寂に包まれ

たテーブルの上のグラスと対照的に史瑠紅の眼に映った。

 史瑠紅は皆の告白から激しい動揺の連続攻撃を受け、

一瞬我を忘れてあの明に自分は皆よりもきっと長い時間

騙されていたという現実を他人事のように受け止めよう

と、言ってはならない言葉を口走っていた自分に気付く。

(復讐しようよ)などという言葉は普段の史留紅からは

想像だにできない言葉だったのだ。

『何を言ってるの? 私』そう思ったが、やはりもう遅

かった。

 伏せっていたジェリーナの耳にも史瑠紅の言葉は聞こ

えていたのだ。ここにいる五人全員が騙されていたんだ

な、と酔った頭の中でジェリーナは反芻していた。

「まさか史瑠紅まで。あんちくしょう許さねえ。何人騙

しやがったんだ。ガッデム!」

 ジェリーナが静寂を突き破ってテーブルから起き上が

りそう叫ぶと九杯目のボルモアのダブルをあおって再び

撃沈した。

 史瑠紅は言葉を失う。『やっちまった』と思った。そ

んな普段言わない下品な言葉さえ内心浮かんでしまう。

 しかし、もう本当に遅かった。

自分の身の内に起きたことなど棚に上げて皆は真剣に

史瑠紅を慰め始める。史瑠紅はただただ涙だけはこらえ、

黙するのみだった。それは唯一残されたプライドの証だ

った。

 そうして広尾の夜は皎々と彼女たちを包み込んで更け

ていった。


 ステファニーちゃんの艶めいた「ノー・モア・ベット」

の声がテーブルの周囲に響いた。ベルが二回鳴った。高

額をベットした紫の君と太郎丸はもう後戻りはできない。

 次郎は自分の賭け分よりも二人の勝負の行方が気にな

っているようで二人を交互に見ながら唾を飲み込んで

「ジーザス」と小さく呟く。妙なことだが太郎丸は二百

五十万強のチップを懸けていることを「ノー・モア・ベ

ット」の言葉を聞いた瞬間、現実として受け止めた。武

者震いをしたかと思うと冷や汗が背中を走った。さっき

まで元は一万だと思っていたことが嘘のように気持ちの

中で掻き消され、『ああしまった、何てことをしたんだ』

と強烈な後悔が一瞬だけよぎった。それが普通の感覚を

持った大学生と言えばそうなのだが、その後悔の気持ち

を上回るほどの勝負に懸けた揺るぎない確信と潔さもあ

る所が彼らしかった。紫の君は動ずる様子を微塵も見せ

ずに可憐で清楚な勿忘草の花びらのようにたおやかな笑

みを浮かべている。凛としたその姿は周囲の大人達の影

さえ薄くさせた。

 一体どういう子なのだろう、学生ではなさそうだ。O

Lか。こんな所で大金を懸けて平然と笑みを浮かべてい

るOLはそうそういるはずもない。大金持ちのご令嬢、

いわゆるセレブっていうやつか。しかし、セレブという

には庶民っぽい雰囲気もあり、取り巻きや親も側にいな

い。ただのキュートな普通の女の子と言われればそう見

えないこともないが、やはりどこか不思議な魅力を持つ

オーラのある子だな、本当に勿忘草のような人だと太郎

丸はそんなことを思った。

 ホイールはボールを乗せてテーブルの周囲にいる人間

達の吐息を飲み込んでいく。ボールのスピードが落ちつ

つあった時だ。何か生き物に触れたかのようにボールは

ポンと跳ねたかと思うとポケットに入った。数字が見え

た。ステファニーちゃんが厳かに告げた。

「Red 30!」

「どっ!」という大きな音がテーブルを包んだ。歓声、

叫声、感嘆、そしてため息が入り交じった音だった。

何やらぶつぶつ言いながらテーブルから去る客もいる。

「やったぜおじさん、二人勝ちだ! やっぱり30が来

たね。911の930だぜ!」

 太郎丸は肘を曲げて握り拳を身の内側に引いて静かな

ガッツポーズを次郎に見せた。

 二人にそれぞれ一千万近くが入った瞬間だった。

「よっしゃあ、見たか一点勝負。こうこなくっちゃよぉ」

 次郎は他の客に気兼ねしてか静かに吠える。しかし、

そんな気兼ねは必要なかった。

 紫の君の方に皆の視線があったからだ。彼女は六千万

相当の勝ちをただにこやかにしていて手にした。そして

笑みを浮かべながら、すっと身を翻すといつの間にか現

れた黒服の大柄な紳士に何か二言三言ささやくとその場

から素早く立ち去ってしまった。

「そういえば、あれ、彼女は? おじさん彼女がいない

よ」

「あの女、六千万で勝ち逃げしやがったな。全くたいし

た女や。まだ若そうなのによ」

「どこ行ったんだろう。この勝負が終わって、もし勝っ

たら声かけて一緒に飲もうと思っていたのに。930を

完結させてくれたお礼に奢ろうって」

「まあ、あの若さでこの大勝負、何か裏のある女かも知

れねえから、ご一緒しない方が良かったんじゃないの。

縁があればまた会えるさ。さあ太郎丸くん、俺たちもこ

こで引き上げや、深追いは禁物だ。これだけ勝てばいい

やろ。それとこの勝ち分、君には大金すぎる。しばらく

叔父さんが預かっといてあげよう、ね!」

そうほくそ笑むと次郎はチップを換金するため、とっ

とと手続きに行ってしまった。

「えっえっ、何言ってんの、冗談でしょ。ちょっと待っ

てよ」 

 太郎丸は唖然としながらも素早い行動の次郎について

行った。しかし、叔父の言うことも最もかも知れない。

一千万は学生の身には大金だ。預けておくのも悪くない

なと太郎丸は思った。ただ頭の中では日本に帰ったら欲

しかったあの車をこの金で買おうと思いながらついて行

く。まあその時は次郎も大目に見て幾らかは引き出して

くれるだろうとやけにうれしい想像をして次郎の背中を

見ていた。欲しい車はそんなに高くはない。 

 手続きを終えて二人はバーで軽く杯を交わした。勝利

の美酒というやつだ。まだあまり美味しいとは思ってい

なかったビールがやけにうまく感じられる。ドイツビー

ルだからという理由だけではなく緊張感から解放された

安堵も手伝ってのうまさだった。

「ちょっと、あんたたちどこにいたのよ。探したのよ、

まったく」

 小遣いの大方をスロットですってしまい、目がでんと

据わって不機嫌なあき子が次郎の肩を後ろから思い切り

はたいた。

「おっとっと、なんだい、あき子か。どうだったスロッ

トは」

 オーバーアクションで次郎が陽気にジョッキをあき子

に向ける。

「もう散々よ。やっぱり私は体質的にギャンブルに向い

てないみたい」

「ギャンブルに体質って関係するんだっけ」

 太郎丸が冷やかすとあき子は憮然とした表情で太郎丸

のジョッキを奪って飲み始める。

「何よ、そういうあんたたちはどうだったのよ。勝った

んなら奢りなさいね」

「あ、そうや」と言いながら次郎はジャケットの内ポケ

ットからおもむろに数十枚の二つ折りにした紙幣を取り

出すとあき子に手渡した。

「こちとら、ちょっとだけ勝ったんで少しだけどご祝儀

な、取っといてや」

「えー、こんなに。おじさん一体いくら勝ったの。すご

い! ありがとう」

 あき子がスロットですった分の十倍以上の額だった。

もらえるものは速効もらう女だ。

「まあ、大したことはない。なあ、太郎丸くん。よーし、

じゃあ、河岸を変えて俺の泊まるホテルのバーにでも行

って飲み直すか! あそこは美味いつまみがあるんや」

 次郎はそう言うと太郎丸の顔を見て少年のように笑っ

た。太郎丸は笑みを返す。 

「やったぁ、ご馳になります。美味しいもの食べちゃお

っと」

「よく食う女だなあ。夕飯食べてから、まだそんなに時

間経ってないぜ」

 さっきのドイツレストランでの夕食ですでにお腹が一

杯の太郎丸は呆れて言った。

「負け組はぐずぐず言ってないで、ほら、マル、行くわ

よ!」

 あき子はまさか太郎丸も勝っているとは思っていない

ので、そう言いながら手を引いて出口に向かっていった。

次郎は太郎丸を見て(言わない方がいいぞ)というよう

に口に人差し指を立てて後について行った。

 外に出ると爽やかな夜風が一陣吹いて火照った頬をよ

ぎる。バーデンバーデンの夜は、まだまだこれからとい

うように夜の灯りと人の活気で賑わっていたが、太郎丸

の心にはさっきの紫の君の笑みと魅力的なバイオレット

アイの残像があって、なんだか少し落ち着かないのだっ

た。

 

 ポルシェ981ボクスターとポルシェ911・930

ターボは太陽光を一杯に浴びながらマフラーから青空に

消えゆく純白のサウンドを奏でていた。しばらく併走し

ていたが、次郎はシュトゥットガルトには当然用は無く

気の向くままの旅なのか左に曲がる道を選ぶようにして

去っていってしまった。もちろんあき子と太郎丸の乗る

911は黒い森シュヴァルツヴァルトに沿った道をシュ

トゥットガルトに向けて快調に飛ばしていく。あき子は

また二日酔いみたいで寝不足の顔で不機嫌そうにしてい

る。

「まったくまったく、やっぱりあの次郎おじさんとはあ

んまり関わらない方がいいわ。まさか三時までつき合わ

されるなんて。また飲み過ぎちゃったわ」

「おじさんのせいじゃないでしょ。自分で率先して飲ん

でたよ。それに次郎おじさんはめったなことじゃつぶれ

ないさ。めちゃくちゃ酒に強いの知ってるでしょ」

 そう言う太郎丸は昨夜は早い段階で酔ってしまい結局

次郎の宿泊する部屋で寝てしまったのだった。次郎の宿

泊しているホテルの部屋はこれでもかというほど広く豪

華な部屋だった。結局三人ともその部屋で夜を明かして

いた。

「ねえマルちゃん。それにしてもいったい幾ら勝ったの、

おじさん。あんなに酔ってるのについに白状しなかった

し。言いなさいよ。もうおじさんいないんだから」

「それは言えないよ。男と男の約束だからね。今度会っ

たら、また聞いてみたら」

 太郎丸はそう言うと、『俺も勝ったんだけど』と思わ

ず言いそうになり口を噤んだ。「へん、生ちゃんね。何

が男と男よ。まあいいわ。たくさんご祝儀戴いたから。

ほんとあのスロットにはまいったわ。うっ、うー、ちょ

っと、マルちゃん止めて。気持ち悪くなってきた。止め

て、吐きそう」

「げっー、やめろよ。車の中で絶対吐くなよなー! 今

止まるから」

 黒い森に沿っての道で店らしきものなど全くなかった

ので仕方なく道沿いに止めた。

 あき子は、うっーと唸ると車から降りて二、三度深呼

吸してニコッとした。

「ふー、大丈夫みたい。吐かなくても」

「あせったー、ほんとあせったー。頼みますよ、お姉様!」

「水が飲みたいわ。お店探して走って。朝飲んだ薬と違

う薬も飲みたいから。二日酔いの薬。こんな時コンビニ

は便利よね。この辺にないかしらセブン」

 911はまた発進した。日本じゃないんだからこんな

所にコンビニがあるわけないだろうと心の中でつぶやき、

車の中で吐かれたら最悪だから、幾分飛ばし気味に店を

探して車を走らせた。エキゾーストノートが心地よく黒

い森に木霊するように走っていく。

 紺碧の空から白い雲が手招きして流れていく。この街

道はよくある美しい絵葉書写真を完全に凌駕している。

やはり風景は呼吸しているものなのだ。屋根をオープン

にしているから風も心地よく吹いて来る。すべてがベス

トドライブと思われた。ただこの隣で頭を抱えている姉

を除けば。何なんだいったいと笑ってしまう。

「あきねえ大丈夫か。あったぜ店らしき建物が。止まる

よ」

 その建物はヘンゼルとグレーテルのお話に出てくるよ

うなクラシカルでかわいらしい赤や緑、黄色、青といっ

た色を壁と屋根に淡く配色した建物だった。

 ちょっと道から奥まった所にあって駐車場が二、三台

という敷地しかなく、一台も止まっていないそこへ止め

た。あき子と太郎丸は車から降りるとその店の中へ入っ

ていった。

 店内はアンティークなテーブルと椅子、ロココ調装飾

の壁と家具で満たされていた。クラシックカーの古びた

宣伝ポスターが何枚か貼られていて、店内のテーブルに

は誰も座っていない。店員も見あたらなかった。厨房ら

しき所がない。テーブルと椅子はあるのにレストランで

はない感じがする。これでは休憩所みたいだと太郎丸は

変に思った。

「すみませーん。誰かいませんかー」

 慣れないドイツ語で太郎丸は店内を見渡すように叫ん

だ。返事がないから今度はフランス語で言ってみる。ま

た返事はない。そして、最後に英語で言ってみた。

「はいはい、いらっしゃい。どうぞどうぞ、おかけにな

ってください」

 一人の店員が入り口とは逆の奥のドアからへこへこし

ながら出てきて日本語でそう言うなり、エプロンを腰に

回した。コック帽を目深にかぶっている。薄茶のサング

ラスをしている。男は背が高いやさ男風で動きがぎこち

ない。どう見ても白井だ。

「ご注文が決まりましたらお呼びください。テーブルの

上にメニューが置いてあります」

「とりあえず、水持ってきて頂戴」あき子は早く早くと

いう手招きをして椅子に座った。

「あ、ただいま持って参ります。エビアンでよろしいで

すね」

男はドアに消えたかと思うとすぐさま、またドアを開

けエビアンをあき子の前に瓶ごと差し出すとドアを閉め

て行ってしまった。ドアはバタンと強い音を放った。

 あき子は薬とともにぐいぐいと水を飲み干して「ふー」

と息を吐いた。

「人心地付いたわ。ありがとねマルちゃん。それにして

も変わった店ね。今の店員、どう見ても日本人よね」

「そうでしょ、普通に日本語しゃべってたし。でもちょ

っと不慣れな感じで挙動不審ぽかったね。できたばっか

りの店なのかな。外観も店内も新しい感じだし」

「水だけ飲んでお金払って出て行くのも何だから、マル

ちゃん何か注文しなさいよ」

 二人はテーブルに置いてあったペラペラした一枚紙の

メニューを手にした。

「そうだね。これがメニューか。って何これ水とお手ふ

き、前菜サラダ。それとビールにワイン? 変な店だな。

こりゃ変なメニューだよ。お手ふきも金取るの三ユーロ

って」

「ほんとね。他にメニュー表あるんじゃない。あ、私ソ

フトドリンクやめて迎え酒でビールにしようかな。大人

気名物地ビールって書いてあるし。迎え酒で二日酔い治

すわ」

「何言ってんの! わけ分かんないなあ。二日酔いで気

持ち悪いんでしょ、やめなよ。すみませーん。メニュー

他にはもうないんですかー」

 返事もなく、しーんとしている。やや待ったが、太郎

丸は店員が去ったドアに向かって歩いてそこを開けた。

中を見ると同じような部屋がある。店員はいなかった。

「あきねえ来てごらん。もう一部屋あるよ。意外に広い

んだな」

 あき子はやれやれという感じで次の部屋に入っていっ

た。テーブルにメニューが置いてあり、二人は座るとそ

れを見た。

「パンとライスしかないよ。やっぱり変な店だ。まあさ

っきのメニューより進歩してるけど、おかずがないのに

どうやってパンとライス食べるんだよ」

 そう言いかけた時入ってきたのとは逆の奥のドアを開

けて店員が入ってきた。今度は小太りの背の低い男でマ

スクをしていて目が据わっている。エプロン姿の円田だ。

「いらっしゃいませ、何にいたしましょう」

「とりあえずビール頂戴。あと他にメニューはないの?」

 あき子が間髪を入れずに言うと、男はにやっと笑って、

「あい、すぐにお持ちします。少々お待ちください」

「あい」という言葉のイントネーションがやけに粘っこ

く気持ち悪く聞こえた。

『「あい」じゃないだろう。「はい」だろう』と太郎丸

は、こいつは何もんだという顔でその店員を見た。小太

りの店員は体に似合わず機敏にさっと振り返ると後方の

ドアを開け、すぐさま一本のビールの小瓶を持ってきて

あき子の座っている席に置いた。

「お待ちどおさまでした。当店自慢の地ビールです。メ

インディッシュのメニューは次の部屋にあります。それ

とこれは特性ジュースです。そちらの男性の方へのサー

ビスです」

 小太り店員はビールの小瓶と橙色をしたジュースのよ

うなものが入ったグラスをテーブルに置き、また機敏に

後方のドアに消えた。少しスキップ気味に行くように見

える。

 あき子は喉が渇いていたのか、運ばれてきたビールを

本当に迎え酒してしまった。

 美味しそうにぐびぐびと飲んで太郎丸を見て微笑んだ。

「ジュース、サービスだって。マルちゃんラッキーね」

「まじかー! ほんとに飲んでます、この人は。何なん

でしょう。俺、知らないからね」

「大丈夫大丈夫、回復してきたから。それにしても何な

のこの店は。また奥のドアに消えたわよ。次の部屋って、

まだ部屋があるの? そんなに外観大きく見えなかった

けど。マルちゃん飲まないの? そのジュース。いらな

いなら私飲むわよ」

「ちょっと待てよ。これってさ、どこか似てない? あ

の童話に」

 自分でそう言いかけて背筋に嫌なものが走りそうにな

った。

「何よあの童話って。何のこと」あき子は特性ジュース

を少し飲みながら言った。

「宮沢賢治の童話だよ。読んだことないの? 『注文の

多い料理店』さ」

「『注文の多い料理店』? 聞いたことあるけど読んだ

こと無いわ。私、文学部といったって仏文だし。どんな

お話なの」

「猟をしていた東京の二人の紳士が道に迷い込んで、山

の中の一軒のお店に入るんだけど誰もいなくて小さい部

屋を一つずつ進んでいくんだ。その部屋の扉にはいろい

ろお客に対して注文が書かれていてね。体の泥を払えと

か、銃を置け、身につけている金物を取れだとか、終い

には体にクリームを塗れとか、酢を振りかけろとか」

「酢? 酢って、あの酸っぱい酢を?」

「酢を振りかけろとは書いてないんだけどね。香水をか

けろって書いてあったのが酢みたいだったのさ」

「それで?」あき子が少し怖がるような素振りを見せて

店内を見渡した。目の前のテーブルの上には醤油と酢と

ラー油、それに塩がのっかっている。

「それで、二人は進んできた最後の部屋の手前で気付く

んだ。今度は体に塩をもみ込めってあったからね。さす

がにおかしいって思うのさ。この注文は誰だかは分から

ないけど向こうがこちらに対して注文していて最後には

自分たちを食べようとしているんだって。実際、おなか

におはいりくださいと書かれた紙が貼られてあって、最

後の扉の鍵穴からは二つの青い目玉がきょろきょろのぞ

いていて」

「何よ、やめてよ。変な声色使わないでよ。それからど

うしたの? 二人は食べられちゃうの? かわいそう」

 あき子が段々と怖がっている様子が分かって太郎丸は

面白がって声色を変えて話した。

「逃げようとしてもそこに来た後ろの扉は開かないのさ。

おまけに前の扉の向こうから化け物の早くいらっしゃい

という声がしきりとするんで二人は泣いて動けない。絶

体絶命っていうやつさ」

「ちょっと待ってよ。ほんとに少し似てるわね。ディテ

ールは少し違うけど、なんていうの、流れというか、気

味が悪いわ。メニューないのに調味料だけこんなに置い

てあるし。あの店員達も変だし。マルちゃん後ろのドア

開けてみて」

 太郎丸はこの部屋に入ってきた後ろのドアのノブを持

って開けようとした。ガチャガチャとしたが鍵が掛かっ

ているのか開かない。

「えっ! 開かないぜ。ほんとに開かない。どうなって

んだ」

「やめてよ。ほんとに開かないの。冗談でやってるんで

しょ! 怒るわよ」

 あき子もドアに来てガチャガチャやるが開かない。

「嘘でしょ! 何で開かないのよ。店員呼んでよマルち

ゃん」

 まさかとは思うがテーブルの上の酢を入れた小瓶があ

き子の視野に入る。

「さっき来た店員は反対の前のドアに行ったからそっち

を開けてみよう」

「ちょっ、ちょっと待って。注文の多い料理店の話では

後ろの扉が開かなくて前扉から化け物の声が聞こえてき

たのよね」

「そうだけど、えっ? じゃ何、この先の部屋が・・・・・・」

 その時あき子がふらっとよろけた。そして椅子に座り

テーブルにうっ伏した。

「やだ、私なんだか少し体の先が痺れて少し眠たくなっ

てきたわ。どうしたのかしら」

「二日酔いなのにビールなんか飲むからだよ。でも変だ

な眠くなるって」

「さっきのビールかしら。ジュースに何か入ってたのか

しら・・・・・・ほんとに眠い・・・・・・」 あき子は睡魔と戦う

ように髪の毛をかきむしるようにしたが、まだ寝てはい

なかった。

 意識は遠のいているのだろうがあき子なりに必死だ。

「マル、後ろのドアを蹴破って、逃げよう・・・・・・私たち

食べられちゃうの・・・・・・や、だ」

「あきねえ、寝ちゃだめだよ!」

 もしこれが、この胸の黄玉を狙うための誰かの仕業だ

としたら前のドアの先にはいいことが待ち受けていると

は到底思えなかった。そこで大きい声で叫んだ。

「すみませーん。おーい店員さん。帰りたいんですが、

代金はここに置きますよー。後ろのドアが開きませんが

ー。無理矢理開けますよー。いいですねー?」

 自分でもなんか間抜けな叫びだなあと思いつつお金を

テーブルに置き、再び後ろのドアのノブを回したがやは

り開かない。えーいままよと思いドアを思い切り蹴った。

 しかし、びくともしない。すると電気がパッと消えて

薄暗くなった。その部屋には窓がない。真っ暗にならな

い理由はすぐに分かった。暗い中に前のドアだけがまる

でそこを開けろと言わんばかりに紫色に不気味に輝いて

いる。ドアだけが浮き上がって見えるようだった。暗く

なったのにあき子は声を出さないから寝てしまったのだ

ろう。

 恐らくあのジュースに睡眠薬のようなものが入ってい

たに違いないと太郎丸は思ったが遅かった。自分が寝か

される所だったと背筋に少し恐怖が走った。    

「誰かいるのかっ、灯りをつけろ!」

 凄む声で恐怖心を打ち消すように光るドアの方向に向

かって怒鳴った。とっさに薄暗い部屋の中に棒を探した。

いざという時は戦うつもりだ。

 しかし、長い棒などどこにもない。テーブルと椅子だ

けだ。そこで、木でできた椅子を床に叩きつけて壊し、

その脚の部分の棒きれを両手に持った。剣道有段者だか

らこんな短めの棒きれでも手にすれば力強くなれる。

「まあ、そんなに意気込むな」

 声は怪しく光り輝くドアの向こうから高いトーンで、

しかもエコーをかけたように響いて聞こえた。ヘリウム

を吸った時のような声に似ていた。

「大人しくこのドアを開ければよいのだ。危害は加えな

い」

「誰だお前は。さっきの店員とは違うみたいだな。こん

な状況に追い込んでそんなこと信じられるか」   

「信じろ。そうすれば良いのだ。ドアを開けよ」

 太郎丸はもう一つの椅子を後ろのドアに投げつけた。

椅子は激しい音を立てて壊れて跳ね返った。ドアはびく

ともしない。やはり後ろからは逃げられそうになかった。

「だから、無駄なことはやめて素直にこの光るドアを開

ければよいのだ」

「そうだ。そうだ。開けりゃいいんだ。こっちにおいで」

「こっちにおいで」さっきの店員二人の声のようだった。

ハモっている。   

「うるせえ! 誰だお前ら。そんなに言うんだったらそ

っちから開ければいいだろ」

 どうやらこの怪しく光るドアの向こうには誰だかは分

からないが三人はいるらしいと太郎丸は思い、こりゃめ

んどくさいことになりそうだと腹を括った。

「こちらから開けられないのだ。こちらから開ければ我

々が襲ったことになる」

 今までの声とは違う声だった。声の低さはさっきの声

と似ていたが、掠れている。

 しかもさっきの声と決定的に違ったのはその声が耳か

ら聞こえてくる声ではなく明らかに頭の中に囁いてくる

ような声だったのだ。

「勝手に眠らせてこんなとこに閉じこめて、とっくに襲

ってるだろ」

「いいやこちらから襲ってはいない。静かにドアを開け

てこちらに来い。こっちに来て言われるようにすれば決

して危害は加えない」

 太郎丸は胸の黄玉を手でそっと確かめるように触った。

「お前なあ。人にものを頼む時は敬語を使って頼むんだ

よ。小学校の時教わんなかったのか。だいたい命令され

たってそんな怪しい所に行くわけないだろ」

「ごもっともで」「ごもっともで」

 またハモっている。店員の声だった。

「うるさいぞ、お前達は黙っていろ。満足な仕事もでき

んくせに」

 そう言ったのは頭に囁く低い方の声ではなく、ヘリウ

ムの声の方だった。

「うるせえのはお前だ。ヘリウム野郎、早くここから出

せ」

 太郎丸は間髪を入れずに怒鳴った。ドアの向こうの仲

間割れは今のこの状況下では滑稽だったが、太郎丸にと

ってはいらだちの材料だ。なんだか馬鹿にされているよ

うだ。

「私はヘリウムではない。ハラグロサイラという名前が

ちゃんとあるのだぞ」

 ヘリウムの声は多少いらついた感じでそう言った。

「ハラグロだあ?」ヘリウムの声はいらつきを取り戻す

かのように再び冷静に続ける。

「ハラグロではない。ハラグロサイラだ。失敬な。とこ

ろでハラグロとはなんだ?」

「ハラグロっていうのは平気な顔して心の中で悪いこと

考えている奴のことだ。そんなことも知らないのか。何

にも知らねえんだな。俺をそっちの部屋に連れ込んで何

か悪いこと企んでるのは分かってるんだよ」

「なるほどねえ」「なるほどねえ」

 店員がまたハモっている。あまり利口そうではない。

「何がなるほどねえだ。お前達は外に行って見張ってろ!」

 ヘリウムが怒鳴った。高いトーンで素っ頓狂に聞こえ

て滑稽だったが店員は反応する。

「へい、すんません。行ってきやす」

「ほらやっぱり悪いこと企んでるだろ。なんで見張りが

いるんだよ。危害を加えないなんて嘘だろ。このヘリウ

ム野郎!」

「だからヘリウムではない。名前を覚えろ」ヘリウム怒

る。

「こら、ハラグロサイラ。あの人間二人を外に行かせて

どうする。我々は彼に触れられないんだぞ。あいつらに

取ってもらわんと」

 今度は頭の中に囁く方がヘリウムに怒る。

「あ、しまったすまんすまんバルセス。今呼び戻すから

待っていろ」

「お前は相変わらずそそっかしいのお。二百年前からち

っとも変わっておらん、ハハハ」

「それを言うな、それを言うならバルセスお前だって変

わっておらんぞ。もっとも見た目は最近大分変わってき

てポンコツ車みたいだが。ふぁふぁふぁ」

「おまえこそ、廃車寸前みたいだぞ。ハハハ」

 二つの声のやり取りは、太郎丸には何のことかさっぱ

り分からない。前のドアは尚も不気味に光っていてやは

りあき子を連れてそこへ飛び込んで行くことはどうして

も無謀に思えた。あき子はまだ寝ているようだったが、

睡魔と戦っているのかもぞもぞ動いている気配はある。

起きようとしているのかは分からない。

 突然、シューっという音とともに光るドアの四隅の隙

間からオレンジ色の霧状のガスが出てきた。それは得も

言われぬとても香しい匂いだったが、太郎丸は咄嗟に危

険なガスかと思い、腕で口と鼻を覆った。

「やめろ! 何だこのガスは」

「このドアを開ければいいのだ」

 太郎丸はそのガスのあまりに誘惑的な香しい匂いに誘

われるように抵抗する意識とは逆に足が前のドアの方に

よたよたと誘われていった。そして、ドアを開けてしま

ったのだ。

 ガチャリと音がしてまばゆいばかりの紫の光とオレン

ジ色のガスが太郎丸とあき子のいる部屋になだれ込んで

きた。ガスのせいなのか太郎丸は頭がくらくらする感覚

を覚えた。 

目の前に紫とオレンジの竜巻が起こり、前面だけぱっ

くり開いた所にバルセスの姿が現れた。もちろんブルタ

ーニュの森の中で阿川の前に現れた時と同じく空中に浮

いている。

「うわぁ! 何だ何だ。ロボットか、岡本太郎か」

 やはり、顔の中心が太郎丸にも岡本太郎が作る彫像の

ように見えたのだろう。

「やあ、バルセスだ」

 声は頭の中に飛び込んで来た。バルセスの隣には同色

の竜巻があり、同じくぱっくり開いた前面に車の廃品が

圧縮されて固まった物体があった。物体の中心には黒く

塗られた顔がどおーんと鎮座している。それは太陽の塔

の裏側にあるダークシンボルに見えたが自動車が発明さ

れた当初のクラシックカーのフロント部分にも似ていた。

バルセスに比べると全体が黒っぽい。バルセスと同じよ

うに背中にはクラシカルなハンドルが付いていた。こい

つで運転だけはしたくないなと太郎丸は瞬間思った。す

るわけがない。

「やあ、初めまして。ハラグロサイラだ。よろしくです

な」ヘリウム声が言った。

「何がよろしくだ。お前ら誰だ!」

 太郎丸は幾分朦朧としてきた意識の中から叫んだ。恐

怖はそれほどなかった。

「こう見えても我々はフェアリーだ。君のその首に下が

っているものを頂きたいのだ」 

 バルセスの低い声が届く。

「お前らか、この黄玉を狙っている奴は。何でそんなに

これが欲しいんだ」

「我々の種族は車の妖精なのだ。現代に入り人間どもが

車を粗末に次々に新しい車に乗り換え、古い車を廃車に

するから我々の姿はどんどん醜くなってしまった。すべ

てお前たち人間のせいだ」

 バルセスは幾分悲しげな声で訴えた。

「そうか、言うことはごもっともだけど、生憎俺は古い

車が好きなんだ。お前が言う人間とは違うぜ」

 バルセスはうなずきながら聞いていたが、ハラグロサ

イラが口を開いた。

「そのようだな、今までの行動を見ていてそれは分かる。

しかし、その黄玉はどうしても必要なのだ。悪いがもら

うぞ、フェアリーのプライドに賭けて。行け、円田、白

井!」

「何がフェアリーだ、ふざけんなロボット野郎!」

 そう怒鳴って近くにあった二人がけ用の木製テーブル

を持ち上げてバルセスとハラグロサイラをめがけて投げ

つけた。テーブルは空を飛びハラグロサイラのちょうど

顔のあたりにぶつかりそうになった。だが、竜巻が激し

い回転でハラグロサイラの全身を覆ってテーブルは激し

い音を立てながら砕け散る。その木片が真後ろに細かく

散ってハラグロサイラの後方で怯えて突っ立っていた円

田と白井にぶち当たった。

「ひえー!」「ひえー!」叫び声もハモる。ハラグロサ

イラを包む竜巻の前面だけまたぱっくり開いて黒い顔が

現れると円田と白井に向き直り高音のヘリウム声で怒鳴

った。

「何をしている早くしろ!」

 二人はハラグロサイラの声に押されるようにして太郎

丸の前に躍り出てくる。涙目だ。

「神妙にしやがれ小僧!」「大人しく渡しな!」

 今度はハモらない。言うことだけは一丁前だったが体

は蹌踉けながらオドオドして太郎丸に近寄っていく。二

人とも彼の強さはストラスブールで見ている。ピストル

はバルセスに事前に没収され壊されてしまっていたから

素手でなんて無理だろうなあという気持ちも働いていた。

 太郎丸の意識はさっきよりもいよいよ朦朧としてきた。

しかし、初めに襲ってきた背の高い方の白井の向こうず

ねを身をかがめて持っていた椅子の脚の棒きれで思い切

り打ち込んだ。白井は激痛で悲鳴を上げた。脚を抱え込

むようにして太郎丸の左側に前屈みに倒れる。やったと

思ったが太郎丸の意識はどんどん遠のいていって目も霞

みつつあった。続いて及び腰で躍り出てきた背の低い円

田は近くにあった椅子を持ち上げて太郎丸目掛けて振り

下ろした。太郎丸は咄嗟にかわして円田の右腕をしたた

かに打つ。

「ごつっ」というにぶい音がした。

「ぐわー! この野郎っ!」

 円田はすかさず左手で太郎丸の首に手を回し力ずくで

床にねじ倒した。倒れていた白井が体勢を立て直し覆い

被さるようにして太郎丸の首にあるペンダントを引きち

ぎろうとする。太郎丸の腕が邪魔するのでなかなか盗れ

ない。

「やめろ・・・・・・」

しかし、その言葉の直後にペンダントは白井の手にあ

った。

 太郎丸はもうほとんど体がなぜだか動かない。気持ち

よい感じさえする。もうこのまま眠りたい感覚に陥った。

その時あき子が眠い目を擦りながらむくっと起きてこう

呟いた。夢でも見ていたのか、なぜか博多弁で寝言を言

ったのだった。はっきりした口調だった。

「なんしとーとー?」

「うっわー、だめやんそれわー!」

 バルセスが絶叫した。ハラグロサイラの術が一気に消

え失せる呪文のような博多弁だ。ハラグロサイラは竜巻

が萎むように失せていく。そして恍惚としてこう言った。

「いいですのー、最高ですのー、女子の博多弁最高です

のー」

 部屋に充満していた紫とオレンジの光も徐々に失せて

いったが何より術によって出来ていたのか、部屋と建物

そのものが薄靄のようになり陽炎と化してゆく。

「まずいぞハラグロサイラ、目を覚ますのだ! 部屋が

消えてしまう」

 バルセスがハラグロサイラの横っ腹にドライブシャフ

トの足で蹴りを入れた。ハラグロサイラの中心部の黒い

顔がピンク色に輝いて幾分硬骨とした表情に見える。あ

っけにとられた円田と白井は太郎丸から離れて二人の妖

精の争いを見ていた。

 そこへアップライトにして暗闇を劈くようにしてクラ

クションをけたたましく鳴らした一台の車が突っ込んで

きた。太郎丸の911だ。運転しているのは赤い服を身

に纏ったダークブラウンの髪の可憐な少女だった。ポニ

ーテールがさやかに風に揺れている。

「早く乗れよ!」

「アンニョンハセヨ! ブシっ!」

 カグとバブシが叫ぶ。そして、二人を車に乗せて助け

た。太郎丸は気が遠のいていて何が起こっているのかさ

えよく分からない。

「どげんなっとーと?」

 あき子は寝ぼけながらさらに甘い口調で寝言を吐いた。

ハラグロサイラにとっての最後の一撃の言葉だった。女

子の博多弁を二度も聞いてはたまらない。

「グァーグッション」と昭和のおっさんが痰を吐くよう

な声を出してハラグロサイラは高回転で竜巻を回し、空

に向かって吹っ飛んで消え失せた。あたりには車のオイ

ルの匂いがした。おそらく失禁した上に気絶したのだろ

う。バルセスは車に乗って逃げる円田と白井を追うよう

にして消えた。一瞬の出来事だった。白井の手にはきら

りと光るものが見えていた。三人を乗せた911はポル

シェサウンドを残しながらバルセスを追うように疾走し

てゆく。後にはシュヴァルツヴァルトの黒い森だけが残

り、そこには何事も無かったかのようにただ一陣の風が

吹きすぎた。


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