表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

Ⅰ ブルターニュの森

「かぐ」 だれも知らなかったかぐや姫の恋                          


                  秋村 風一


──太郎丸は時々、変な夢を見る。

 自分は平安貴族の衣装を着ている。部屋には良い香り

が満ちている。そして、目の前には見たこともないよう

な美しい着物、それは恐らく十二単というのだろうが、

豪華な衣装に包まれた美しい姫が目の前にいるのだ。

 姫は美しい瞳をやや斜め左に伏せている。その頬には

赤みがほんのりとさして笑みがあるが、恥じらっている

ようにも見える。

 太郎丸は唾を飲み込みその容姿に見とれている。

「どうして、また来られたのですか。もうお会いするの

はよしましょうと言ったはずですのに」 

 姫はそう言うと、頬から笑みが消えて少し悲しそうに

して御簾の向こうの庭の上にある少しだけ顔を覗かせて

いる青空を見るのだ。

 その様子を見て太郎丸は自然と声が出る。掴みたくて

も掴めないその姿がもっと遠くに行ってしまいそうで。 

「かぐ様、どうしてもあなたを忘れることができないの

です」

「御行様、それは私も同じです」

 姫の膝の上に革袋がある。こちらにしなだれかかって

きたためその革袋が膝からすべる。そしてその中から美

しい黄玉や赤玉などが幾つかことことと静かな音を立て

て床に転がる。こぼれた五つの玉が光り輝いている。

姫の柔らかな手が太郎丸の手を握り、その赤らんだ頬が

胸に置かれる。衣擦れのかすかな音がする。

 夢はいつもそこで終わってしまう。

その夢が千二百五十年前に本当にあったことだという

ことは、この出来事があって太郎丸は初めて知ったのだ。 


Ⅰ ブルターニュの森 

 

 この道はどこまでも果てしなく続いているように感じ

られた。そう、ずっと先の自分の未来にまで続いている

と。そして、走り去ったあとの風は今までの自分の過去

をどんどん蹴散らしていってしまうのだと。

 六月のフランス・ブルターニュ、紺碧の空には白い大

きな綿菓子雲が浮かんでいて、この中古のフェラーリ・

カリフォルニアのオープンにした運転席からもつかみ取

れそうだった。過ぎ去って行く道の両脇には片田舎独特

の針葉樹たちがポツンポツンと寂しげに並んでいる。白

い車体はその中を駆け抜ける。

 遠くまで麦畑が見える。小気味いい排気音がジャズを

奏でて空に流れていく。昔見た美しい風景画みたいだと

太郎丸は思った。

 それにしてもと思う。

(だいたい何でせっかくヨーロッパ放浪をやめて東京の

大学に入ったのに、またフランスに帰ってきてるんだ?)

 太郎丸はボサッとした髪を掻いた。 

 助手席の姉のあき子はついさっきまで、

「スピード出し過ぎるんじゃないわよ! ちょっと疲れ

たから寝るけどレンヌの町に着いたら起こすのよ。分か

ったわね」

 と、小うるさく言っていたが、今は小さないびきを掻

いてショートボブに風を少し受けながらよく寝ている。

姉に会うのもほぼ二年ぶりだ。その久しぶりの姉からの

電話は強引だった。

『あ、マルちゃんあのねえ、せっかく大学生活楽しんで

るところ悪いんだけど、一週間後の土曜日にパリのお父

さんの事務所に来てくれない? バイトよ、バイト。あ

なたル・マンレース見たがってたでしょ。会社の商品を

レース会場で急遽売ることになったのよ。そこの現場を

取り仕切るのを私と一緒に手伝ってもらいたいのよ。人

手が足りないの。えっ? お父さんに会いたくないって? 

それなら大丈夫よ体調をちょっと崩しちゃって、大

したことないらしんだけどしばらく静養を兼ねて別荘に

行くって』

あき子は、いつもの強い口調で人の都合なんて聞こう

ともせず、早口で一方的に言ってきた。眼がクリッとし

て、ショートヘアが似合う美人だとは弟ながらに少しは

思っている。

 彼女は小倉小路家が経営する和菓子の会社「小倉小路

屋」から和装飾だけのブランド「KAGUYA」をヨー

ロッパに広めようとやっきだった。しかし、思うように

はそうそううまくいかず休みさえあまり取れずに疲れて

いた。

『あのねえ、あきねえ。俺にも都合ってもんがあるんだ

よ。いいなりさんは? 何でも言うこと聞いてくれるい

いなりさんに頼めばいいだろ。なんで俺がわざわざ行か

なきゃならないんだよ。だいたい、あきねえはいつも突

然なんだよ。せっかく東京に戻ってきたのになんでまた

フランスなのよ』

『マルっ、人の彼氏つかまえて、『いいなり』っていう

のはやめなさいって言ったでしょ! 井坂さんと言いな

さい。イ・サ・カさんよ。彼はね、またミュージカルの

アンサンブルのオーディションとかで日本に行ったのよ、

まったく。才能もないのにミュージカル俳優で食べて

いくのなんて無理だって言ったんだけど。まあ、それは

いいとして、分かったわね。来るのよ。待ってるからね! 

じゃね』

 ほとんど最後は悲鳴のようだったので太郎丸はあきら

めて「分かったよ」と言ってしまった。呼び名が「マル

ちゃん」から「マル!」もしくは「あんた!」に変わる

のは危険信号だ。だいたい、この「まる」が付く名前が

太郎丸は好きではなかった。なかなか跡取り息子が生ま

れず四人も娘が生まれ、やっと五番目に男が生まれて家

族の喜びようは常軌を逸した。名前を付けたのは祖父の

一蔵だったが誰も文句が言えない。当時、一蔵はこの小

倉小路家の頂点に君臨する社長兼小倉小路財団の理事長

だったからだ。

 「小倉小路太郎丸」なんだか、江戸時代の廻船問屋の

船の名前みたいだと、中学生の時に日本史の授業をぼお

ーと聞いていて思ったものだ。

 相変わらずの景色と車の数もほとんどない広い道を走

る。紺碧の空と雲たちはどんどん後ろに過ぎ去っていく。

太陽はさらさらと降りそそぐ光線の雫になって二人の車

を包む。

 フランス北西部ブルターニュ地方の玄関口にあたるレ

ンヌの町はもうすぐだった。

 ル・マンの町を後にしてもう二時間近く走っている。

あき子と太郎丸のル・マンでの仕事は順調に終わってい

た。ブランド「KAGUYA」は、浮世絵チックなデザ

インや甲州武田の武家模様の絵柄のデザインで出来たス

マートフォンカバーや財布、キーケース、キーホルダー、

シートカバーなどをル・マンの会場のブースで売った。

 ヨーロッパの和文化ブームにやっと乗れそうな感じに

なってきていると、あき子は上機嫌で現場のスタッフ連

中を仕切って太郎丸をこき使った。

 太郎丸は憧れだったル・マンレースも少しだが見るこ

とが出来て満足だった。そのレースの迫力は想像以上で、

そこに集まる人々は、自分の身の内側のレースに対する

情熱を押さえられない連中ばかりに見えた。それが二四

時間続くレースだ。参加する様々な国の人々と観客と、

それは死を賭けて闘う祭りのようだった。

 四日間ル・マンに滞在して日本に帰ろうとした時、あ

き子は太郎丸に、レンヌの町とモン・サン・ミッシェル

にも用事があるからあと三、四日つきあって欲しいと言

ってきた。

『ちょっと新しい顧客になるかも知れないお洒落なお店

があってね。レンヌ郊外の田舎町らしいんだけど連絡が

あったのよ』

『え、話が違うじゃないか勘弁してよ。俺、テスト近い

んだぜ』

『ごめん、バイト代を倍にするから、ほんとにほんとに

お願いなのよ。ね、ね、ね』

『あー、分かった分かった。ほんとに倍だよ』 

『それにしても作務衣なんか羽織っちゃって、ほんと好

きね。まあ、ル・マンでは物珍しかったらしく集客にも

なったけど、少しはお洒落しなさいね。今度素敵な服を

見つくろってあげるわ』

『うるさいなあ、これがお洒落なんだよ』

 そんなやりとりがあって、太郎丸は今運転している。

 レンヌは、古くはブルターニュ王国の首府があった街

で、モン・サン・ミッシェル観光の起点にもなっていて

日本からの観光客も多い。人口の四分の一が学生という

都市で活き活きとしているが、十五、六世紀の木骨組み

の古い家並みもたくさん残っていて、おとぎ話に出てく

るような街が多く中世の騎士がふらっと現れてきそうな

伝統と歴史の地域だ。

 レンヌの六月は新緑がまばゆい。太郎丸は作務衣の袖

を少しまくって左肘をドアに乗せ、風を頬に受けた。レ

ンヌの郊外にあるというその店は、閑静な住宅街とお洒

落な店が並んでいる長い通りの一角にあって、雑貨やお

洒落な革細工の小物などを売っていてカフェも店内に設

置している店だった。

 あき子は、商品サンプルをいくつかその店の主人に見

せると、にこにこしながら契約を交わした。スリムな姉

の赤いジャケットの肩がうれしさで揺れていた。

「やったわよ! 長期の契約が取れたわ。それとこの店

ね、フランス国内に十店舗とイギリス、ドイツ、イタリ

アにそれぞれ五店舗支店を持っていて、そこにも商品を

置いてくれることになったわ。まだまだこの会社はヨー

ロッパで伸びていくわ!」

 あき子はうたた寝している太郎丸を起こすと、カタロ

グやサンプル商品が入ったバッグを持って、笑いながら

真っ赤な革張りの助手席に座った。かなりの大口契約だ。

 太郎丸はこの会社に本当にまったく興味がない。この

会社のおかげで自分がこんなに裕福に暮らせることもよ

くわかっている。そして、みんなには申し訳ないと思っ

ているが、跡を継ぐことも考えていない。このあきねえ

が継げばいいと思っていた。だから、適当に相づちを打

つばかりだ。

「東京でやってる饅頭も置かせてもらえば?」

「饅頭じゃないわよ。まったく何年うちの子供やってん

の。和菓子でしょ。うちの和菓子はまだヨーロッパ進出

には慎重にならなくちゃね。とりあえずまだ「KAGU

YA」の商品をもっともっと広げなきゃ」

 どうでもよかった。太郎丸はモンパルナスの事務所に

着いた時に久しぶりにちょっと見かけた父の顔を思い浮

かべるとその映像を消すように首を振り、エンジンをか

けた。小気味よくエンジン音が吹き上がる。

「さあ、次はどこでしたっけ? 女王様」

 太郎丸は憮然とした感じで尋ねた。

「なーにが女王様よ。次はモン・サン・ミシェルよ。夏

は渋滞するらしいけど、まだ六月だから一時間半くらい

で着くんでしょ?」

「まあ、そんなもんだよ。前に走ったことがあるよ。そ

の時はポンコツの黄色いフィアット500だったけど」

 そのフィアットには、ヨーロッパを放浪し始めた時随

分とお世話になった。

「まだ、夏休みじゃないから、やっぱり空いてるわね。

あー気持ちいい風!」

 あき子が助手席でショートの髪をかき上げながら言っ

た。

 レンヌからモン・サン・ミシェルへの道は国道で車の

行き来も多い道だが、さっきの町からその国道へ抜ける

道をまだ走っていた。ブルターニュをまだ抜けていない。

 太郎丸はレンヌに戻ってモン・サン・ミシェルへの国

道に行こうとしたが、森と畑だらけの車も走っていない

道に間違えて出てしまった。書き置きだけして黙って乗

ってきてしまったこの父のフェラーリにはナビがついて

いなかったのである。

「おかしいなあ、さっき来る時と同じ道を走ってきたつ

もりなんだけど……」

「えっ何。間違えたの? さっきはレンヌから契約した

店の町まですんなり行ったじゃないの。方向音痴? ひ

ょっとして」

 ちょっといらつく感じであき子は言った。

「うるさいなあ待ってろよ、もうすぐ広い国道に出るは

ずだから」

「だいたい、マルちゃんが会社の営業用の車は嫌だなん

て言って、おとうさんのフェラーリを勝手に乗ってくる

からいけないのよ。会社の車にはナビが着いてるんだか

ら」

「ナビなんていらないよ。地図があればいいんだよ。そ

れにあきねえだって、しょうがないわね、とかなんとか

言ってこの車の助手席に乗っただろ。同罪だよ。それに

せっかく久しぶりにドライブするのに営業車は嫌だった

んだ。これに乗りたかったし」

「あっ、そうだスマホにナビがついてるわ! ちょっと

待って調べるから」

 あき子はそう言ってバッグからスマートフォンを取り

出しいろいろとタッチするもうまくいかない。

「あーん、買い替えたばっかりでよく分かんないわこれ。

やっぱりガラケーのままにしとけばよかったわ。車止め

てあんたの携帯で調べてよ、ねえ」

 あき子はかなりいらついてきた。呼び方が『あんた』

に変わってきている。

「携帯のナビか、使ったことないな。俺のに入ってるの

かな?」

「何それ? ほんとあんたは今時じゃないわね。アナロ

グなんだから」

 と、その時だった。いきなり道路の真ん中に一人の人

間らしき姿が太郎丸の目に飛び込んできた。すかさず急

ブレーキを踏んだ。

 十メートルくらい手前で何とか車は止まったが、太郎

丸は肝を冷やした。

 高校生くらいの少女だった。手を横にいっぱいに広げ

て足を広げて大の字にこちらを静止しているように見え

た。

「何なんだよ、一体!」

 太郎丸はそう叫んで車から降りようとしたが、少女は

ぱっと体勢をこちらに翻して運転席にいる太郎丸の所に

素早く駆け寄ってきた。忍者のようなすばしっこさだ。

「説明してる暇はないわ! さっさと助手席に移って! 

それからお姉さんは後ろに座って!」

 日本語だ。少女は言うが早いか、太郎丸の手を取って

運転席から降ろすと運転席側に行くよう背中を押して、

自分は車に乗り込んだ。あっけにとられたあき子は助手

席から降りながら、

「何なのこの子! マルちゃんの知り合い?」

 と、あき子は暢気なセリフを言ったが、太郎丸はこの

ままでは車を盗まれると思い、背中を押されるままに助

手席側に回り込んで乗り込んだ。

「お、お前、誰だよ、泥棒か!?」

 自分でも間抜けな質問だと思いながら、その少女の顔

を見た。どう見ても泥棒には見えないが、新手の窃盗集

団の一味と考えられないでもない。よくよく少女を見て

ぎくりとした。ものすごい美少女だ。日本人か? いや、

日本語を話したが、その容姿はシルクロード付近で見ら

れる東洋系だがエキゾチックな雰囲気がした。 

 ダークブラウンの髪はポニーテールに束ねられている。

頬にはうっすらとピンクがさし、瞳はそれまでに見たこ

ともないような色をしていた。むらさき? ワイン色? 

こんなことをしているのに冷静ささえ感じられる落ち着

いた瞳。それから、とてもいい匂いがした。太郎丸は女

性の香水の匂いがまだ好きになれない年頃だったが、そ

の香りは違った。うっすらと安堵感に包まれる。

 太郎丸はもう一度まじまじとその横顔を見て、ふとな

ぜか懐かしい気持ちになった。どこかでこの少女に会っ

たような気さえした。

 少女は太郎丸の言葉を無視して車を急発進させた。フ

ェラーリの後輪タイヤがやや横滑りながら鳴る。強いG

と共に太郎丸の背中がシートにへばりついた。

「な、何? 誰この子? いつ乗り込んだの?」

後部座席からあき子の素っ頓狂な声がする。

「カグさん! 奴らもうすぐ来ますよ」

 太郎丸は後部座席を振り返った。そこには、ブロンド

髪の幼い少年があき子の隣に座っていて太郎丸の顔を見

て、まあるい目をくりっとさせてにこっと笑った。小学

校低学年くらいのその小さな体を不思議そうに見た。

「バブシ、奴らの様子を教えてくれな」

「ハイ! まかせるですし!」

 そう言うとその少年は狭い後部座席の上に座り込んで

後ろ向きになった。お出かけを楽しみにしている子供が

電車の席で外を見ているようだ。しかし、今はそうじゃ

ないだろと太郎丸は向き直る。

『奴らって、一体誰のことだよ? 後ろにも前にも車は

一台も走ってないぞ。もしかして、こいつらいかれてる

やばい奴らか』 

 太郎丸は運転している少女をもう一度まじまじと見て

声をかけた。ポニーテールの髪がさらりと風になびいて

美しいシルエットを作った。

「お前、何もんだよ」

「いいから、黙ってろよ。それよりしっかりシートベル

ト締めて掴まってろよ。あ、後ろのお姉さんもね!」

 太郎丸は慌てて乗ったのでシートベルトを締めていな

かったことに言われて気付きすぐさま締めた。内心、何

なんだよと思ったが強い命令口調に言い返すタイミング

もない。

 あき子は口をあんぐりと開け事の次第が飲み込めない

まま隣の子供の様子を見つつシートベルトを締めた。

 その時だった。ものすごい勢いで、一台の黒いセダン

タイプの車がフェラーリにクラクションを鳴らしながら

パッシングして迫って来た。

「お出ましか!」

少女の目が輝いた。

「打ってきたですし!」

 後部座席の少年が叫んだ。

「な、何を!? 打ってきたって?」

 太郎丸は意味が分からない。

「ピストルだよ。本気だなあいつら。燃えてきたぜ!」

 カーブの多い田舎道だ。少女はフェラーリのギアを入

れかえて急加速したり、減速したりした。背中がシート

にへばりつく。

 太郎丸はその手さばきと足さばきを見てこの少女がた

だ者ではないと感じた。恐らく自分よりは年下の十代後

半の少女だろうが、今やった運転技術はヒールアンドト

ゥだ。咄嗟に乗り込んだフェラーリのマニュアルをいと

も簡単に運転するばかりでなくヒールアンドトゥまでし

てしまう少女、その辺にはいない。太郎丸は小さい時か

ら叔父の次郎にカートを教えてもらっていたので運転に

は自信があったが、もしかするとこの少女は自分と互角

かもしくは上を行くかも知れないと感じた。

「きゃー! 何? 何? 何なのよー!」

 あき子は急発進とピストルという言葉に恐れをなして

頭を抱え込んで前のめりに伏せた。

「ピ、ピストルって?」

 太郎丸はサイドミラー越しに後方の車を見た。助手席

側から腕が出ていて確かにピストルらしきものをこちら

に向けている。

  エンジン音を突くように空に乾いた銃声音が鳴った。

 パンッ! パンッ! と二発そいつは鳴った。太郎丸

は後ろを見で黒いセダンに声を荒げた。

「ふ、ふざけんなよ! 映画じゃあるまいし!」

「まかせときな」

 少女は冷静さを失わず静かに言った。

「あのね、この車は俺のじゃないんだよ。親父のだから

やばいよ」

「車より、我々の命のが大事ですし」

 少年はさらりとそう言った。

「ごもっともで。て、てかあいつら何もんだよ!」

「いちいちうるせえぞ、黙ってしっかり掴まってろ」

 間隔を開けられながらも黒いセダンは執拗に追ってき

ている。車の往来のない田舎道は緩いカーブがまだ続き、

フェラーリにぶっちぎりをさせてくれない。タイヤが唸

り、のどかに広く開けた景色の中に響いていった。

 心地よいブルターニュの太陽光はさっきまでと同じよ

うに降り注いでいる。まるで何事もないように。この景

色と二台のカーチェイスの様子があまりに不釣り合いな

ので太郎丸は段々と少し可笑しさを感じ初めてきた。そ

んなことを感じる余裕まであることもまた可笑しかった。

今はこのやばそうな二人に身を任せるしかないと腹を括

った。 

「ちきしょう、フェラーリなめんなよ」

 太郎丸はそう言いながら、この少女ではなくこの状況

下で自分が運転をして後ろの車をかわしたい衝動に駆ら

れた。

 道の前がちょっと長めの直線になり、その先がきつめ

のカーブになっていた。

 太郎丸は目の前の道を見ていい考えが浮かんだ。この

直線で少しスピードを緩めて黒いセダンが追いついてき

そうになったらカーブの直前でまたスピードをあげる。

そして、カーブの手前ぎりぎりで急減速し、ドリフトを

かけて曲がれば黒いセダンのテクニックではカーブを曲

がりきれずに真っ直ぐ畑に突っ込むはずだ。

「あのさ、いい考えがあるよ。でも、無理か」

「分かってる。ドリフトだろ。いくぜ。バブシ、もう後

ろは見なくていいからしっかりシートベルトをしめな」

「もう締めてるですし!」

 フェラーリは減速した。太郎丸は唾を飲んだ。やる気

に違いない。自分でもこの状況下ではうまくやれるかど

うかのテクニックだ。

 黒いセダンが迫ってきてわざと追いつかれそうになっ

た時、また銃声が二発、空に響いた。当たらない。再び

鬼の如く加速した。背中がシートにへばり付く。フェラ

ーリのヘビーメタルロックの排気音が咆哮した。黒いセ

ダンも遅れまいと続いて加速してくる。

思った通りだった。

『で、できるのこの女にドリフトが!?』

 太郎丸は心の中で叫んだ。

「ふん」少女は鼻で笑った。後続車を軽く馬鹿にするよ

うな表情で、カーブ手前でシフトダウンして急減速し右

へのカーブに突っ込んだ。タイヤを道路に軋ませながら

きれいにカーブに沿って滑っていく。サイドブレーキを

引かずにブレーキテクニックだけのドリフトだった。鮮

やかで豪快なドリフト。そして、きれいに車を立て直し

て直線を向くとめいっぱいアクセルを踏んで加速した。

マフラーからの爆音が空に轟いた。次の瞬間黒いセダン

はカーブを曲がりきれずタイヤを鳴らして畑に突っ込ん

でいく。畑だと思っていたそこは、浅い湿地だったらし

く水しぶきをあげてもんどり打つ。

 フェラーリの影はもう見えないほど遠ざかっていった。


「いてて、馬鹿野郎! 何やってんだ! 下手こきやが

って!」

 黒いセダンの助手席に乗っていた小太りの背の低い男

が怒鳴った。運転していた背の高いやさ男は、「すんま

せん兄貴!」と叫んだ。二人とも日本人だ。

 ドアを開けて湿地に降りて道の方に歩いていった。

 足がずぶずぶと湿地にめり込むが歩けるようだ。そこ

へ、一台の黒いジャガーXKRが走ってきて二人のそば

に止まった。一人の日本人が運転席から降りて、二人の

方に歩いてくる。ダークスーツを着た小男だ。口ひげを

蓄えている。顔を見られたくないのか黒いハンチングを

目深にかぶっているが顔が大きいせいで表情が分かる。

 険しい目つきが獲物をあさるトカゲのようだ。年は四

十代後半ぐらいの日本人だ。ハンチングの男が怒鳴った。

「おいっ、円田っ、白井っ。何だそのざまは!」

 男は二台の車から離れながらも後方から追いかけて様

子を見ていたようだ。

「せっかくのチャンスをへたうちやがって、この間抜け

野郎!」

 そう吐き捨てると、煙草をポケットから取り出してジ

ッポーライターで火を点けた。

「すんません、阿川の旦那。野郎、運転がうまいのなん

の。それにあのフェラーリじゃ追いつけませんよ」

 運転していたやさ男の方の白井がへりくだってズボン

の泥を払いながら言った。

「まあいい。奴が連絡していれば警察が来るかも知れな

い。早く車に乗れ。町に戻るぞ、警察が来たらやっかい

だからな」

「えっ、旦那、この車はどうすんで? 高そうですよ」

「大丈夫だ。これは盗んだ車だ」

 阿川は車内が汚れないようにと泥のついた二人の靴と

ズボンを脱ぐように指示した。円田と白井は下半身だけ

パンツ姿の間抜けな姿をして、靴とズボンをトランクに

入れてそそくさとシートに座る。 

 車が疾走する。阿川は助手席の円田を見ながらため息

をついた。

「だいたい、何で今日を選んだか分かっているのか? 

円田っ!」

「は、はい。えっと、奴がこっちに来たからです」

「そうよ。こんなチャンスは滅多にない計画始動の初め

ての好機だったんだよ」

 阿川は煙草の煙で目を細めて呟いた。

「そう、ケイカクシドウですね。ってケイカクシドウと

はなんですか?」

「あほたれが、この間、話しただろう。小倉小路財団乗

っ取り始まりの火ぶたが切られたってことよ。跡取りは

邪魔だって教えただろう。野郎が大学に入ったことで居

場所が掴みやすくなったんだよ。この二年間は放浪して

たからな」

「そうだよ兄貴。あの野郎は火ぶただったんだよ。もう

忘れちまったのかい兄貴?」

 後ろの白井が得意げに前の円田の肩をはたきながら言

った。

「うるせえ、てめえは黙ってろい。ヒブタというのは火

の豚のことだ。下手な運転しやがって、あの野郎が火の

豚にならなかったじゃねえか。誰のせいで失敗したと思

ってやがんだ」

 円田はしゃれのつもりでは言っていない。内心、白井

は『このアホ』と思っていた。

「二人ともうるせえぞ! 少し黙ってろ!」

 阿川は考え込むように黙り込んだ。本当にこんなアホ

な手下に任せていいんだろうかと。町まではまだ田舎道

を戻る。ジャガーを道路沿いの木立の脇に止めた。

「どうしたんですか? 旦那」

「馬鹿野郎、自然現象だ。ちょっと待ってろ」

 そろそろ陽も暮れかけてきた。六月といっても、ここ

ブルターニュ地方の六月の平均気温は十六、七度だ。最

高気温も二十二度に満たない。今日は温かく陽もよく出

ていたが、夕暮れになり肌寒い。阿川は身震いしながら

背をかがめ、ほの暗くなった森の脇に向かって歩いてゆ

き一本の木の前に立ち、身構えると用を足した。あたり

に水蒸気が舞う。

 やはり温度は低い。すると、あろうことか後に止めて

いたジャガーが森の奧に向かって木々の間を走り出して

行った。

「なっ何だ? あいつら何やってんだ! おいっ、待ち

やがれ!」

 阿川は叫びながら車を追いかけた。車はずんずん走っ

てゆくが、それほどスピードは出ていない。息を切らせ

ながら足下の悪い森の中を走った。あたりはもう暗い。

 少し開けた場所のような所に出ると車が止まり、その

車体がゆっくりと二メーターほど空中に浮き上がってい

った。周りがオーラのように明るい紫色の光で包まれて

いく。オーラの幅は五、六メーターはあるだろうか、周

囲の木々がまばゆく照らされている。

 阿川は呆然としつつあっけにとられながらも、少年の

ような顔で『きれいだ……』と小さくつぶやいた。目の

前の光景をただ見つめていたが、二人の声ではっと我に

返った。

「旦那ー、助けてくださーい」

 窓が開いていて白井が下を向いて声をあげた。白井は

思いの外、冷静な感じだ。そういう男だった。少し薄気

味悪くさえ感じる。

「旦那、助けてくださーい!」

小太りの円田が叫ぶ。白井とは違って泣いているようだ。

「大丈夫かー、なんで浮いてるんだ」

 高さはさっきより高くなっている。七、八メートルと

いったところか。阿川は『なんで浮いてるんだ』という

自分で言った言葉が、おかしな質問だと思った。あり得

ないことに対する質問なんて奴らにも分かるわけがない。

「誰も運転席にはいないんすよー。勝手に車が走り出し

たかと思ったら、こんな状態ですー。下ろしてくださー

い!」

 白井は冷静に状況を教えた。

「飛び降りろ、飛び降りて逃げるんだ」

 阿川は自分でもできないことを口走った。光がさらに

眩しくなった。紫がかった光からオレンジ色の光の層が

現れ出している。

「ドアが走り出した時から開かないんすよー。窓もこれ

しか開きません、無理でーす」

 円田の間抜けな声がする。阿川はただ立ちつくしてい

た。どうすることもできないと思っていたから見ている

しかない。このあり得ない光景は何なのだろうと考える

こともしなかった。人間とは、こういう時そうなるもの

だと少しそんなことが頭をよぎった。

 この光景の背後に強い意志のようなものを感じた。誰

かの意志だ。誰だろう。

 その時、阿川の耳に声が聞こえた。低いトーンではあ

ったが、はっきり聞こえる。

「契約を結ばないか……」

 一瞬空耳かと思い、辺りを見回した。車が光の中でゆ

らゆら浮いているほか周りには森の木があるばかりだ。

 光の届かない先はもう漆黒の闇だった。

「契約だ」また声が聞こえた。それは声というより頭の

中に響いてくる囁きだ。低く少し掠れたような声だった。

しかし、耳から聞こえているわけではなかった。

「誰だ。どこにいる!」声を荒げた。少し恐怖を感じた。

 今、車が浮いていることに対してはあまりにも唐突な

現象すぎて恐怖までは感じていなかったのに、彼には見

えない声が怖かった。

「ここにいる。姿を現していないだけだ。信じろ」

『ここ』と言われてもどこにも姿はない。

「姿が見えないものをどうやって信じろと?」

「現にこうして車が浮いているだろう。私の力だ」

 声は馬鹿にするような感じでも怒っている感じでもな

く、むしろ説得するように語りかけてくる。しかし、神

々しいような声でもない。といっても、神々しい声など

聞いたことがないので比較しようもなく、思っているこ

とを尋ねた。

「あなたは神ですか?」

『神』という言葉を唐突に出してしまったので、自分で

も思いがけず敬語を使った。間抜けな質問だったかと内

心可笑しかった。

「神ではない」

「じゃ誰だ? 何者だ! 神じゃなけりゃ悪魔か!」

「バルセスだ」

「バルセスとは何だ?」

「バルセスは私の名だ。おまえたち人間の世界で言うと

ころのフェアリーだ。ゲルマン神話で言うエルフ、メソ

ポタミアのリリス、インド東南アジアでのナーガ、おま

えたち日本人の言う妖精だ。他にも人間はいろいろ呼び

名を勝手に付けているが」

 声はいきなり饒舌になる。

「妖精? 本当にいるのか妖精が」

「信じるか? 契約を結ぶか? 信じるなら姿を見せて

やってもいい。本当はあまり見せたくないのだが、おま

えたち人間は見える物しか信じようとしないのだろう」

「信じるも何も、この頭の中のおまえの声とこの車を見

れば信じるしかないのかもしれんが正直よくわからない。

それに契約って何だ?」

 依然として、車は闇の中で紫とオレンジの美しい光に

包まれ浮いている。中の二人はさっきとは様子が違って

大人しそうだ。というより動いていない。阿川は見上げ

て叫んだ。

「おい、二人をどうした! 死んでいるのか? 何をし

た!」

「安心しろ、うるさいから少し寝かせているだけだ。目

が覚めれば何も覚えていない」

「そうか、ならいい。それで契約って何だ。まさか何か

を売ろうっていうのか妖精さんよ。押し売りならごめん

だぜ」

 阿川はこの不思議な頭の中の声と話していて少しずつ

慣れてきたのか、冗談交じりの言葉をはさむ余裕が出て

きた。恐怖心は、この妖精とかいう声の主に対する好奇

心に徐々に変わってきていた。それに本当に妖精かどう

かも分からない。何かのトリックかも知れないという疑

いの気持ちも半分以上はあった。

「私のことを妖精と呼ぶな。バルセスでいい。よく聞け、

人間と妖精の契約は古来からある。おまえが知らないだ

けだ。契約とは俺とおまえの望みの交換だ。俺の望みを

叶えるためにおまえの望みも叶えてやる。どうだ、契約

を交わすか」

「望み望みって、よくわかんねえけど要するに望みの交

換で俺の望みが叶うんだな。分かった。信じるから早く

姿を現せ」

 阿川はもうどうにでもなれと半ばやけくそ気味にそう

言ってしまった。姿を早く見たかったということもある。

見れば信じられると思っていた。しかし、言ってしまっ

た後で、ああ、俺はいつもこうやって熟慮しないで行動

してしまう男だと少し後悔した。

 闇の中から木々の間を縫って風が強く舞った。かぶっ

ているハンチングが飛ばされるのではないかと思い、身

をかがめ頭を押さえた。それほどの風だった。浮いてい

る車が次第にゆっくり地面に下り始める。そして風が止

む。止むと同時に自分の鼻の先で車のオイルの匂いが微

かにした。目の前の草が円を描いてなぎ倒され竜巻が起

こった。竜巻は高さ二メーターぐらいの大きさに膨らみ

色を発している。さっきまで車を包んでいた紫とオレン

ジの光と同じ色だった。しだいに竜巻の真ん中がぱっく

りと割れて、その中から人型の影が徐々に見えてきた。

阿川は固唾を呑んですぐ目の前の光景を黙って見ていた。

影ははっきりと姿を現した。竜巻は光のオーラの如く見

える。

 そいつの胴体と手足は短く、いろいろな金属片や何か

部品の一部分みたいなものの寄せ集めでできていた。金

属片や部品片が強力な磁石に吸い寄せられているみたい

だと言った方がいいか。手足の継ぎ目が車のドライブシ

ャフトだった。背中に大きな車のハンドルがついている。

正面から見てもそれはハンドルだと分かった。クラシカ

ルな車の細い握りの大きなハンドルだ。よく見るとがら

くたの部品は車のものだ。

 頭部は四角に近い。その中央がきれいに丸くなってい

てそこだけ光るアルミのようにつるつるした表面だ。そ

のつるつるした表面に眼、鼻、口があるのだが、それら

はまるで二つの顔がぶつかり合ってせめぎ合って一体に

なっているかのように見える。これに似たものを見たこ

とがあると阿川は思った。何だ? そうだ、あの芸術家

岡本太郎の作る顔の造形に似ている。似ているどころか

そのままかも知れない。

「やあ、バルセスだ」

 表情はなく、口も動かずその止まった顔のままそう聞

こえた。

「ロボットか? 岡本太郎作か? 妖精じゃないだろう」

 阿川は拍子抜けしそうな声で聞いた。

「機械でもロボットでもない。ひょっとしてこの体を馬

鹿にしているのか? だからあまり見せたくはなかった

のだが私は妖精だ。本物のエルフだ。我々の種族は車に

つく妖精だ。十八世紀産業革命以後、妖精族は機械など

にもつくようになったのだ。新種族だ。我々は車が出来

てからだから、新種の中でもさらに新しい方なのだ。も

っと新しい種族も最近はいるが、それはまあいい」

「車、車の妖精? だからそのがらくたみたいな体は車

の部品でできているのか」

 阿川は不思議そうに聞き入った。

「我々はエルフ界の『妖精の王』と呼ばれていた鍛冶ヴ

ェルンド様の末裔だ。もともとは美しい金属の肌を持ち、

人型のエルフだったが、人間どもがどんどん車を作って

は、ろくに大事に乗りもせずに捨てていくからこうなっ

てしまったのだ」

 バルセスは少し怒ったような感じで饒舌に頭の中に語

りかけた。言っていることと語り口に妙に説得力がある。

もっとも、阿川はヴェルンドという名前も初めて聞いた

のだが。

 ヴェルンドというのは、名声ある人間だったが死後エ

ルフに列席し妖精の王になったという伝説の男だ。

「その岡本太郎が作ったような顔はなんだ」

「オカモトタロウは偉大な芸術家だ。我々のこの醜くな

った体に少しでも美をと思い、一族の長が最近皆にこう

してそれぞれいろいろな仮面を付けたのだ。美に救われ

るからだ。芸術に救われるからだ。私のこの顔は太陽の

塔という塔の真ん中にある顔だということだ。私の母に

聞いた話だ。私は見たことがないのでよくわからない」

 言われてみれば、その仮面のお陰で全体的に芸術的な

姿に見えるかも知れなかった。

「それでバルセスさんよ、契約とやらを早く交わそうぜ、

おまえの望みは何だ」

「私の望みはさっきおまえたちが車で追っていた青年だ。

あの青年を知っているのだろう。太郎丸だろう?」

「あの青年? 太郎丸だって!」

 阿川は意外なことを言われて驚くと同時にこのがらく

たの固まりみたいな妖精を信じ始めていた。なぜ太郎丸

の名を知っているのだ。なぜ追っていたのを知っている

のだ。もしかして、俺の心の中を読んでいるのかとさえ

思った。

「俺の心の中を読めるのか?」

「おまえの心の中は読めない。おまえが口に出したこと

しかわからない」

「じゃ、なぜ太郎丸を知っているのだ。おまえの望みが

太郎丸とはどういうことだ!」

 阿川は自分の心が読まれていないことに少しほっとし

て言った。何せ、考えていることはろくな事ではない。

それにこの妖精に完全に恐怖がなくなったとは言えなか

った。

 この妖精に心を読まれて足元を見られるのも嫌だった

のだ。

「太郎丸の持っているオウギョク(黄玉)が欲しいのだ、

あの青年がフランスに再び来た間ずっと探していたのだ。

やっとまた見つけたのだ。胸に付けていたペンダントに

ついているオウギョクだ」

「ちょっ、ちょっと待った。何を言っているかよく分か

らん。オウギョク? 何だオウギョクって。ギョクって

宝石のことか? そんなものが欲しいのか。そんなもの

すぐ手に入るだろう妖精なら」

「あのオウギョクは普通の石ではない。伝説の龍神の玉

だ。カグ姫がオートモからもらおうとした伝説の石だ。

もしかしたらすべての玉をあの青年は持っているかも知

れない」

「伝説の龍神の玉だあ? 何だそれは。だいたいカグ姫

って何もんだ?」

「カグ姫は時期女王になられるお方だ。それにしてもお

前は日本人のくせにあの伝説のカグ姫の話を知らないの

か?」

「知らねえなあ」

「カグ姫は罪を犯して王様の罰を受けられたのだ。人間

界に行けとな。成人したカグ姫に五人の貴公子が求婚す

るのだ。カグ姫は人間とは結婚できないので五人に難題

を課す。天竺の仏の石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、

海に住む龍の首の五色の玉、燕の子安貝の五つだ。すべ

て日本にはないものだ。この難題に対して五人のうち四

人は中国に買いに行かせたり、偽物を作らせたりしたが、

残る一人の大伴御行だけは、龍の五色の玉を海を渡り探

しに行く。そうだ、いいことを教えてやろう。おまえ達

の国の伝承では玉は一つと思っているらしいが実は五つ

だ。その龍の五色の玉は手に入っていたのだ。この五色

の玉は黄、青、白、黒、赤である。そのうちの黄のオウ

ギョクだ。それをあの青年が首につけている。伝説の龍

玉である」

「何だそりゃあ、かぐや姫、竹取物語だな。かぐ姫じゃ

ねえな。かぐや、だよ」

「馬鹿者、カグとは、火之神の一族の名だ。昔の日本人

が詠嘆の助詞ヤをかってにつけたのだ。カグ姫が正しい

呼び名なのだ」

「ああ分かった分かった。エイタンだか牛タンだか知ら

ねえが、それにしても、なぜそれがその黄玉だとおまえ

はわかるんだ」

「海に住む龍神は我々妖精族と同じ仲間なのだ。どうや

って手に入れたかそれは分からないが、何年かに一度、

首の玉が生え替わる伝説の龍神種族がいるのだ。とにか

く我々でも手に入らない代物だ」

 阿川はかぐや姫の知識は無かったが、この手の話に全

く興味がないわけではなかった。

「だとしても、その玉を手に入れて何かおまえに得なこ

とがあるのか? そんなに価値がある物なのか?」

「あのオウギョクの力で我々の種族が元の美しい体に戻

れるのだ。一刻も早く元の美しい体を得たいのだ。さあ、

私の望みはわかっただろう。おまえの望みを早く言え」

 阿川は黙り込んだ。目の前のバルセスが放つ光の竜巻

オーラでうしろのジャガーの車体がうっすらと見えるが、

それ以外はあたりは漆黒の闇だ。車内の二人はまだ眠ら

されている。誰にも助けも相談も求められない。深閑と

したこの森の中の小さな空間に奇妙な二人が向かい合っ

ていた。阿川は空を見上げた。

 木々の上にまばゆいばかりの多くの星々が囁いている。

この見える星も実際に自分が行ったわけではない。触っ

たわけでもない。この夜空に輝いているのは星だと教え

られただけだ。そう信じているだけなのかも知れない。

昔は天が回っていると人間は信じていたではないか。

今、星は見えてはいる。この星と夜空は宇宙であり、そ

の中に地球はあると信じている。『人間は見える物しか

信じようとしないのだろう』と、さっきこいつが言った

言葉を思い出し、そして、まじまじと目の前の妖精を見

た。本当に妖精と契約など結んで大丈夫なのだろうかと

いう心配はぬぐい去れはしなかったが阿川は決心した。

 この契約がどんな結果を招こうと行き掛かり上もう後

へは引けないとも思ったし、この得体の知れない饒舌な

妖精の言うことを信じてみようと、そして何より自分の

望みが叶うならばそれに越したことはないと思ったのだ。

阿川は口を開いた。

「俺の望みはあの太郎丸の父親が持つ小倉小路財団のす

べてだ。そして・・・・・・」

「そして、何だ」

「それ以上は妖精さんには言えねえな」

「うむ、まあいいだろう。その財団とか何とかを手に入

れるようにアシストしてやろう。よし、これで取引は成

立だ」

「だけど、少し分からないのは、太郎丸のペンダントを

胸から盗むくらい妖精だったら簡単なことだろうよ。な

ぜ俺に頼む」

「私はあの青年に近寄れないのだ。純真な心の持ち主や

子供にも触れる事が出来ないのだ。近寄ることが出来な

いからおまえにこうして頼むのだ」

 バルセスは悲しそうな響きで語りかけてくる。そんな

声は初めてだった。

「ということは、俺は純真じゃないということだな。ま

あ言われなくても汚れきってて、腹の中は真っ黒だけど

よ」

「そういうことだ。では、契約を結ぶ」

 バルセスがそう言うと阿川の目の前に十センチ四方ほ

どの銅板がすうっと現れ、草の上にバサッと落ちた。銅

板には見たこともない文字が小さくびっしりと刻まれて

いる。

「何だこれは?」

「契約板だ。それにサインして契約が成立だ。私は既に

サインしてある」

「契約板だと! 口約束じゃ駄目なのか」

「駄目だ。トラブルになった時にエルフ裁判にかけられ

ない。人間社会と同じだ」

「この文字は読めないぜ」

「読み上げようか、長くなるが」

「分かった分かった。信じるから。で、どうすればいい」

「その契約板に親指の腹を押し当てるのだ」

「ふん、血判書みてえだな。以外と古風じゃねえか」

 阿川は銅板の契約板に右手の親指の腹を押し当てた。

押し当てたと同時にバルセスを包む紫とオレンジの竜巻

が強風を発しながら高回転で舞う。そして、消えた。阿

川は一瞬閃光を浴びて地面に親指をあてたまま倒れ込ん

だ。銅板も消えている。阿川は眠くなるような意識の中

でバルセスの声を聞いた。

「契約は成った。このことを決して誰にも言ってはなら

ない。誰にも言ってはならない」

 言葉はフェイドアウトしていった。阿川の意識は強烈

な睡魔の中に落ちていく。

 一陣の風が吹き過ぎ、ジャガーの座席の中で円田と白

井はうなされながら眼を覚ました。二人は、車から降り

るとなぜこんな真っ暗な森の中にいるのだろうと不思議

がった。車のライトがすべて点灯していてハザードラン

プまで点滅している。ふと見ると地面に人が横たわって

いた。いびきを掻いている。

 幸せそうな顔だった。円田が倒れている男の名を呼ん

で揺すって起こした。

「旦那っ! 阿川の旦那! 大丈夫ですか? 何寝てん

ですか! こんなとこで」


 太郎丸たちを乗せたフェラーリは黒のセダンをまいて

から数キロ走った。と言っても、時間にすると数分だっ

た。その間、太郎丸は少女にいろいろ質問した。

『何であいつらが来ると分かったんだよ』

『あいつら、何もんなんだよ』

『運転うまいんだね』

『日本語うまいけど、何処の国の人? 日本人なの?』

 少女も後ろの少年も何も答えなかった。

 しばし車内に沈黙が流れた。あき子も不思議そうに隣

の少年の横顔を見ているだけだ。

「さっき、カグって後ろの子が呼んでたけど名前なのか?」

 その質問には答えた。

「そうだ、カグだ」

「何で俺を助けたんだよ」

「男のおしゃべりは嫌われるぞ」

 少女はそう一言言うと車を止めて運転席から降りた。

すかさず後部座席の少年も飛び降りた。

「いい旅しろよ! 気をつけてな!」

 そう少女は言うと反対車線の方へ走って行った。少年

も後に続いて走って行った。

「お、おい、ちょっと!」

 その言葉も届かないうちに素早く去った。太郎丸は気

がつかなかったが反対車線には丁度路線バスが止まって

いて二人はそれに乗り込んだ。バスは走り去ってしまっ

た。

 太郎丸とあき子はあっけにとられてその後ろ姿を見て

いた。

「なーに? あの子たち。マルちゃんほんとに知り合い

じゃないの?」

 あき子はそう言うとやれやれという感じで助手席に戻

った。

「知り合いのわけないじゃないか。あいつらそうとうや

ばい奴らだよ」

 太郎丸も煙に巻かれた顔で運転席に戻ってハンドルを

握った。しかし、こんな道に路線バスなんか通っている

のかなと太郎丸は不思議に思っていた。

 それからはまたあの黒いセダンが追ってくるかも知れ

ないとひたすら道を走り続けてた。ただ、少女の美しい

シルエットは太郎丸の脳裡に鮮烈に残っていた。

 暫くして二人はようやく落ち着きを取り戻した。

「大分走ったから、もう大丈夫よマルちゃん。一応さっ

きのこと警察に連絡しようと思って、でも全然警察に繋

がらないんだけど。どうなってんのよ! 電波が悪いの

っ? やっぱりガラケーのがいいわ!」

 あき子は助手席でスマートフォンをたたいたり、さす

ったりしている。あたりはすっかり夕闇に包まれていた。

 気がつくとほとんど人家も車もない静かな田舎道に出

てきてしまっていた。

「それよりあきねえ、やばいかもガソリンがなくなりそ

うだよ。レンヌにつく前から減ってたのは分かってたん

だけどスタンドなんかなさそうだよね」

 太郎丸は困ったようにボサッとした髪の毛をかいた。

「えっ? 何言ってんのマル! こんな田舎道でどうす

んのよ」

 膝の上のバッグをばんばん叩きながら、あき子は言っ

た。

「あーっ……」太郎丸はあき子の言葉を気にせず、気の

抜けるような声を出した。アクセルを踏んでいるのにす

ーっとスピードが徐々に落ちていく。ガス欠の時の嫌な

脱力感のある感覚だ。仕方なく車を小道の脇に惰性で寄

せていって止めた。

「ガス欠だ。ははは。全く今日はラッキーデーだ。笑っ

ちゃうね。もうちょっと走ると思ったんだけどな。まあ

しょうがないや」

 頭をかきながら屈託なく笑う太郎丸を横目で見ながら

あき子はため息をついた。

「何をぶつぶつ言ってるのよ! どうすんのよ、マル!」

「しょうがない、人家を探して助けてもらおう。大丈夫

だよ。なんとかなるもんだよ」

 そう言って太郎丸はあき子をうながし、車から降りて

キーを閉めた。

「フランスにはないの、JAFみたいの?」

「あるけど、どのくらい待つかわかんないし暗くなっち

ゃうよ。お金も高いし。ほらあの辺に家があるから。ス

タンドとかこの辺のことを聞いてみようよ。助けてくれ

るかも」

 六月のブルターニュは陽が長い。もう夕方の時刻はと

っくに過ぎていた。あたりは、暗くなりつつあったが、

空はまだほの明るかった。ちょうど太陽が西に傾きかけ

オレンジ色のレンブラント光線が雲の間を縫って見えた。

雄大な空の下、畑が広く見渡せて森が点在していた。二

人の目の前の道は木々で覆われた小高い丘の森に続いて

いる。ちょうどその丘のあたりの道に沿って家の灯りが

二、三軒ぽつぽつと見える。

 あき子はぶつぶつ言ったが仕方なく歩いた。なだらか

な坂道だ。坂道を登り切った丘のその一番手前にあった

農家らしき作りの家のインターホーンを押したが、体よ

くあしらわれる。二件目も灯りは点いているのに誰も出

てこなかった。道がそれて、少し離れて奥まったところ

に小さな城造りの家があった。丘の上の森に包まれてい

る。窓の灯りが点いている。二階建ての貴族の城を思わ

せるかのような家だ。

「今度はあたしが聞いてみるわ。女の方がいいのよ。こ

ういう時は。男だから駄目なのよ。私の方がマルちゃん

よりフランス語はできるしね」

 太郎丸は少し離れたところから見ていた。玄関先に人

影が出てきて、あき子が交渉している後ろ姿が見える。

相手は女性のようだ。少しして、ひげもじゃの男も出て

きた。体格がいい。旦那さんだろうか。あき子がにこに

こして太郎丸に駆け寄ってきた。

「ラッキーよ! あの奥さん日本人よ。もう遅いし、町

もスタンドもここから遠いし、よかったら泊まっていき

なさいって。だいいちスタンドはだいぶ遠いって。フラ

ンス人の旦那さんが今夜は用事があって帰らなくて心細

いからどうぞって。それから、息子さんがトラックで車

を引っ張ってきてくれるって」

 例によって早口で一気にあき子はまくし立てた。でも

顔は喜んでいる。ひげもじゃの筋肉隆々の息子が太郎丸

にフランス語で「来い!」と言って腕を上げた。

 広大な庭に面した一角にガレージがあって、その前に

無造作に止めてあるトラックに向かって歩いて行く。寡

黙そうな男だ。どことなく東洋人の趣がある。ハーフだ

からだろう。太郎丸は「すみません!」とフランス語で

言いながら小走りでついて行った。

 ガレージの片隅にクラシックな白いオープンカーがち

ょこんと収まっていたのを太郎丸はちらりと見た。かな

り古そうな、しかし魅力的な車に見えた。たぶんオース

チンだろう。トラックは太郎丸が乗ると白い煙を吐いて

走り出した。ごついトラックだ。

 日本人の奥さんの名前はかえでさんといった。品のい

い四十代ほどの女性で、息子のエリックは二十三歳とい

うことだった。父親のジャンとここで農業をして、かえ

でさんは長野の人でここに嫁いできたという。旦那も息

子も日本人に対しては友好的だから、心配しなくていい

ですよと遅い夕餉のテーブルの席で屈託なく笑いながら

話した。知的な感じのする素敵な女性だ。

「この家は代々続く家で、領主か貴族なのかよく分から

ないけれど、古い家でしょ? それにしてもこんな所に

日本人が二人もお見えになるなんてね。何かのご縁です

ね」

 かえでさんは食後のコーヒーを飲みながら、くすっと

笑って言った。

「お城みたいですよね。りっぱなおうちですわ。本当に

素敵だわ」

 あき子は人当たりがとてもよく、こういう時は良家の

お嬢様のような態度になる。まあ小倉小路家は良家には

違いないのだが。

「古いお城みたいで指定文化財だから、大切に残してい

く義務もあるから大変なのよ」

 二階の食堂から見える外には広い庭があった。その庭

の周りは森になっていて、そこも敷地ということだった。

庭と森の境目あたりには小川まで流れている。一体どれ

くらいの広さなのとあき子は驚いたが、太郎丸はヨーロ

ッパには昔の貴族の家や古い家をそのまま継承して住ん

でいる人がかなり多くいることを知っていたので、その

ことをあき子に教えた。イギリスの昔の首相ダグラス・

ヒューム卿はスコットランド貴族の末裔でその城と敷地

の広さは半端なものではないことや、河が個人の所有物

の場所があることや、だから河が汚れないことなど、二

年間のヨーロッパ放浪のことなど、ワインが体に入った

せいか饒舌に皆に語り出す。皆が自然とうち解けあって、

にぎやかな時が過ぎた。

 あき子のスマートフォンが鳴り、警察からの連絡があ

った。明日、詳しいことを聞きたいので署に来てほしい

ということだった。食事の片づけを終えて、かえでさん

とあき子は話が盛り上がり、ワインの続きを再び始める。

エリックは朝早いので、どうやら自室に戻ったようだっ

た。太郎丸はさっき見たガレージの車が気になって、か

えでさんに尋ねた。

「かえでさん、庭のガレージにある白いクラシックカー

ちょっと見に行っていいですか」

「あら、車が好きなのね。どうぞシートに座ってみて。

エンジンもかけてみます?」

「いえ、いいです。かけると走ってみたくなるから・・・・

・・酒飲んだからだめです。あの車はオースチンヒーレー

100-6ですか? いい車ですね」

 千九百五十八年から五十九年にかけて作られたイギリ

スのオープンカーだ。ファンの多い名車だ。

「あら、よくご存じね。その通りよ。実はあれは私の車

なの。古い車が好きで。変わってるでしょ?」

 そう言って朗らかに笑った。あき子と飲んで楽しそう

だ。太郎丸はガレージのある庭に出て行った。芝が敷き

つめられ、花壇があり、小さい木々やハーブが植えられ

きれいな広い庭だった。幹の太い大きなオリーブの木も

ある。ガレージは母屋から少し離れていて横は森になっ

ている。母屋の二階の食堂から見えた小川が闇の中で水

音を静かに奏でていた。ガレージの灯りはそんなに明る

くなかったが、そばにあったベンチに腰掛け、さっき息

子のエリックがくれたマグカップに入れられたホットワ

インを少し飲みながら白いオースチンを眺めた。母屋の

窓から洩れる明かりも庭を少し照らし出していて幻想的

な雰囲気がした。太郎丸は今日のことを思い出す。

 あの追いかけてきた黒いセダンはやはりただの物取り

とは思えなかった。

 それに結果的に助けてくれたあの少女は一体何もんな

んだ?

 殺されるということを考えると背筋がぞっとする感じ

がした。と同時に怒りにも似た感情も湧いた。

『なんで俺が狙われるんだ!』しかし、それ以上考える

のはやめた。分からないものは分からない。前向きに行

けばいい。『なんとかなるさ』と。

 小川のせせらぎに耳をやる。川面がガレージの灯りに

反射して微かにきらめいている。太郎丸は酔いが回った

頭でオースチンに座りたくなって立ち上がると車に近寄

った。

 ドアを開けて赤い皮のシートに座った。古い車のいい

香りがする。オイルと鉄と皮の香り。ゆったりとした気

分になり、ドア越しにふとさっき視野に入った幹が太い

立派な一本のオリーブの木を見ていると驚くことにその

後ろは竹林であった。それほど多くは生えていなかった

がこんな地に竹林があるのだろうかと思って見ていると

光るものがあった。

 光はほのかだが点滅している。その光は次第に増えて

いった。いろいろな方向に勝手に飛んでいるが高くは飛

んでいない。太郎丸は眼を懲らした。それは蛍だった。

美しくもはかない光の点滅だ。なぜか懐かしい気持ちで

心がいっぱいになる。こんなところに蛍がいる。フラン

スに蛍がいるのだろうかと思ったが、目の前を美しく点

滅しながら飛んでいるのはまぎれもなく蛍だった。それ

を見ていると太郎丸は気持ちの良い睡魔に包み込まれ、

いつの間にかうとうととしてしまった。夢の中で赤い光

がこちらに近寄って来る。

「おい、ちょっと。おい、起きろよ」

 真っ赤なワンピースを着たダークブラウンのポニーテ

ールの少女が太郎丸の肩を揺さぶった。太郎丸は心地良

い夢の中で青く澄んだ空の高みから聞こえてくるような

美しい声を聞いた。目の前には赤い光ではなく、赤いワ

ンピースのさらさらとした布地が見え、その次にたおや

かな女の胸元が目に入った。かぐわしい香りが鼻先にふ

わりとくる。そして、湖面に輝く満月の如き儚くも美し

き瞳が見えた。太郎丸は一瞬にして恋に落ちたかのよう

な感覚を夢の中で味わった。いやそれは夢ではなく現実

だったのだ。

「う、うわっ!」

夢の中なのかどうか自分の声で目を覚ましたのかどうか

もわからない。うつらうつらとした感覚のまま太郎丸の

視界に入ったのは愛らしい少女の顔だ。そして、その愛

らしい顔からは想像できない言葉が太郎丸にあびせられ

た。

「おい、起きろってんだよ。やっと二人きりで会えたっ

てのに寝てんじゃねえよ。何年待ってたと思ってんだ。

五年だぞ。おい、起きろよ」

 その怒鳴る声で完全に起きたが美しい少女とは真逆の

その言葉の迫力に唖然としていた。その少女の手が太郎

丸の右頬を叩いていたのでその手を握りかえし宙に上げ、

「痛えなぁ、何すんだよ! あ、お前は昼間の」と声を

荒げた。

 そして、少女の手を自分に引き寄せたが、手を掴んだ

ことに少し恥じらってすぐに手を離した。その少女に恋

の臭いを感じたからだ。

「あ、ごめん」太郎丸のその言葉に一瞬少女はひるんで

真顔になったが、太郎丸の顔をまじまじと見てこう言っ

た。透き通った瞳で真実を語る声だ。

「あんた、御行に似てるよ。やっぱり生まれ変わりなの

か?」

「何だよ、みゆきって? 誰なんだよお前は?」

「あたいは」少女は言葉を止め、ポニーテールの髪を後

ろになでた。

「分からないのか? そうか分からないよな。御行に似

てるけどよく見ると中身なさそうでアホっぽいから御行

じゃなさそうだ。それにこっちじゃ千二百五十年経って

るんだもんな。生まれ変わりでもなさそうだし」

 少女は悲しげな表情を浮かべてポニーテールの髪をま

たなでた。高貴な香りがふわりと立って太郎丸の鼻先を

かすめた。

「何わけ分かんないこと言ってんだ! 何だよアホっぽ

いって」

 太郎丸はまた憮然とした表情に戻り少女を睨む。その

顔は昼間、フェラーリを運転した少女に間違いなく、美

しいので少し声がうわずる。

「うーん、説明すんのがめんどくさいな。簡単に言うと

あんたを捜してたんだけど。あんたというかあんたとそ

の胸にある黄色い石と残りの石だけどな」

「何言ってんだ。頭おかしいんじゃないのお前」

 と言いつつ、太郎丸は首に下げている黄色い玉のペン

ダントを右手で触った。母綾子の形見で亡くなる数日前

にもらったものだ。

「信じないみたいだな。じゃ、あんた数年前にフランス

から飛行機で日本に帰る時、窓から何か見なかったか? 

雲の上の赤い屋根の家とか」

 太郎丸ははっとした。友達の何人かに言ったことがあ

ったが、誰も笑って取り合ってくれなかった事を思い出

した。中学に入るため日本に帰国する飛行機の中から不

思議なものを見たのだ。小さな雲の上に赤い屋根と緑の

煙突、クリーム色の壁の小さな一軒家。家の周りには小

さい赤い花も咲いていた。鮮明に見えたので思い出せば

今でも絵が描ける。

「俺が何を見たか、何で知ってるんだよ!」

 どうやらとんでもないものに遭遇している。これは夢

だ、と思いたい。

「あれは、あたいんちの別荘だからな。偶然あの時あん

たとその胸につけてる黄色い石を見たのさ。それから七

年後の夏にエジンバラの森のそばで黄色い車が故障して

そこで見たのが二回目さ。日本じゃあんたを探せなかっ

たからな」

 何を言っているのか太郎丸にはよく理解できなかった

が、放浪してから一年後に確かにおんぼろフィアットが

走らなくなったのはエジンバラの森のそばだ。そのまま

フィアットは廃車になった。

「エジンバラにお前がいたっていうのか?」

「あのエジンバラの森の中にあたいの国の入り口がある

からな。まあどうでもいいや。めんどくせえ、もう説明

は。残りの四つの石はどこにあるんだよ? ねえ」

 最後の「ねえ」だけ、ちょっと甘えるような声だ。少

し太郎丸はひるむ。

「おまえなどうでもいいけど、かわいい顔してさっきか

ら口の利き方がひどくないか。それに何だか分かんない

けど人にものを聞く態度じゃないぞ」

 太郎丸はあきれた様子で、車のドアを開けてシートか

ら降りるとそばにあったベンチに座り、テーブルに置い

てあったホットワインを口に含んだ。少女は愛くるしい

瞳で不思議な事でも言われたみたいに顔を横に傾け、太

郎丸の顔をまじまじと見た。

「とりあえず、女の子らしい口の利き方しろよ」

「ふん、このしゃべり方があたいなんだ。あたいはずっ

と変わんないよ。あんただいたい名前なんてんだ。自己

紹介くらいしろよ」

 少女もベンチに足を組んで座り、腕組みして太郎丸に

言い返した。

「お、俺の名前は太郎丸だ。小倉小路太郎丸」

 と、思わず相手の自己紹介すら聞いていないのにこの

傍若無人な、しかし可憐な少女のまっすぐな瞳に気圧さ

れて名前を言った。

「え、小倉小路。大伴じゃないのか? 間違いないか?」

「何だよ、おおともって?」

「おーい、バブシ出ておいで! 話が違う感じだぞ。バ

ブシ、おいで!」

 少女がそう呼ぶと車のサイドシートの辺りから声が聞

こえた。

「はい、お嬢様。もうさっきからいるですし」

見るとサイドシートには子供が座っていた。フェラー

リの後部座席にいた子供だ。

「お前も昼間いた奴だな。いつからそこにいたんだ」

「太郎丸さん、よろしくですし。アンニョンハセヨ!」

「アンニョンハセヨ? 韓国人か?」

「韓国人ではないです。ぼくはカグさんの親戚で妖精で

すし。ほら、羽もあるですし」

 そう言うと背中を見せた。一瞬にしてばさっと透明で

美しい青みがかった大きな羽が背中から出た。羽はすぐ

に元に戻るように背中に消えた。太郎丸はあっけにとら

れた。

「あ、そう言えばあたいも自己紹介してなかったな。悪

りい悪りい、あたいはカグさ。昼間言ったっけ? ま、

一応、妖精やってる。あたいは羽ねえけどな」 

 少女はいつの間にか向かい側のベンチからオースチン

のシートに移動していて、ワインボトルらしき物を左手

に持ち右手のグラスに注いで飲んでいる。

「おいおい、お前何飲んでんだよ。未成年じゃないのか、

だいたいそのワインどっから持ってきたんだ」

「まあ、気にすんなって。あたいはちょっと疲れたから

一杯やってるから。それに千年以上生きてるから未成年

じゃねえし。後はバブシから話聞きな。おいバブシ、そ

いつ大伴じゃないって言ってるぞ。一体どうなってんだ?」

 もう二杯目を飲んでいる。千年という言葉とワインを

飲む姿で太郎丸はあっけにとられている様子だ。少女の

紫の瞳が潤んでいる。あまり酒は強くなさそうだ。頬は

ほんのりと咲き始めの桜のようにピンクに染まってきて

いる。思わず見とれてしまう。

「お嬢様、間違いないです。この男の子の玉は探してる

ものです。長い間に名前は変わるですし。そうですよね? 

太郎丸さん、カムサハムニダ」

「カムサハムニダって何だ。何でさっきからちょこちょ

こ韓国語なんだ」

「ブシッ。何語でもいけるですし。最近は韓流マイブー

ム。チェミイッソヨ」

「お前ほんとに妖精なのか? どう見ても人間の子供に

見えるぞ」

「残念! 太郎丸さん。人間は瞬間移動できないですし」

 そう言うと、瞬間消えて、バブシはオリーブの木の横

に立っていて右手を恭しく胸に当てて太郎丸に向けてお

辞儀した。そして、後ろ手をしてオリーブの木の周りを

歩き、説明しだした。

「ぼくはスコットランドエルフのサリー族です。そんで

もってカグさんはちょっとややこしいですがお父様がレ

ッドエルフ族で、あ、これは火之神族です。スコットラ

ンドエルフの王でお母様はフランスブルターニュフェア

リーのノ・ボンヌ・メールエト種で、あ、これ『善き母』

という意味です。カグさんはだからハーフですが事情が

あってスコットランドエルフの時期女王の予定ですし。

ハアハア」

 バブシは早口で一気にしゃべったせいで息切れしてい

る感じだ。不思議なのは話している最中、オリーブの木

の上にスクリーンのように説明に合わせてその妖精達の

画像が立体的に出ていたことだ。太郎丸はその画像に見

入ってはいたが、子供が何を言っているのかはさっぱり

分からなかった。

 オースチンのシートから怒声が聞こえる。ワインは四

杯目みたいだ。ピンク色の頬がリンゴ色になってきた。

太郎丸はその怒声の方を見て、生唾を飲み込んだ。美し

い。

「すみませんですし」

バブシはその怒声を聞いて少ししょんぼりした。しかし

続けた。

「それより聞いて欲しいですし。太郎丸さんは悪いやち

に狙われてるですし。それから玉が狙われているですし。

なんとか守らないと。悪い奴らの悪いことですし」

「悪い奴らの悪い事ってなんなんだよ」

「契約です。バルセスという機械妖精が自分たちの都合

のために悪い人間と契約を結んだです。やってはいけな

いことです。それで太郎丸さんを狙ってるですし」

「バ、バルセスって何だよ。俺を狙ってるってどういう

ことだよ」

「バルセスは機械妖精から生身の妖精に戻りたがってる

です。それから車妖精界の汚染からの復活も狙ってるで

すし」

「それが俺のペンダントとどう関係あるんだよ」

少女とバブシを見ながら問いかけた。

 少女が意味不明なことをまた答える。

「あたいのおばさんのブルーフェアリーがピノキオを人

間にしたみたいにと奴は思ってんだけどそれは伝説の龍

玉じゃなきゃ駄目なんだ」

「バルセスは太郎丸さんの石を伝説の龍神の五玉の一つ

だと思ってるですし。でもその石はほんとは女王になる

ために必要な五種の神器の内の石ですし」 

「バブシ! 余計なことまでベラベラしゃべんじゃねえ

よ!」

太郎丸は頭を抱えそうな気分だ。何を言っているのか

皆目分からない。こいつらは夢だ。夢だと思いたかった。

「なんだかよく分かんないけど、このペンダントの石は

そんな大それたもんじゃないよ。ただの黄色い石だよ」

「ただの石なら、あんたを見かけた時、なぜいつも胸に

つけてるんだ?」

 少女が少し不思議そうに問いただした。酔っているの

か足をオープンのドアの上に投げ出していて赤いワンピ

ースからすらりとした美脚がのぞいている。

「うーん、それは」太郎丸はちょっと困った顔をした。

他人にはあまり言いたくないことだったからだ。

だから、黙ってはかなく点滅する蛍の光を見た。

少し寒くなってきたので庭に出る時羽織ってきた羽毛の

ガウンの前を閉めて襟を立てた。

「まあ言いたくなければ言わなくてもいいけどよ」

 少女の声は様子を察したのか、とても優しくなった。

「何でです? なぜいつもつけてるですし」

 バブシは好奇心から聞き出すようではなく優しい口調

で聞いてきたように太郎丸は感じた。そして、オースチ

ンの座席にいる少女も座り直して暖かいまなざしを傾け

てきた。

 不思議な今の状況をどう受けとめるべきか、はたして

この目の前のやつらは現実のものなのか、少し酒を飲み

過ぎたから酔っぱらって寝てしまい変な夢を見ているの

ではないか、夢の中でこれは夢だから大丈夫だと思うこ

とがたまにあるからそれなのか、太郎丸はいろいろと考

えた。しかし、昼間追っかけてきた黒いセダンのことを

思い出すと自分を狙っている奴がいるという話は本当な

のかも知れない。この目の前の二人が夢だとしても、信

じて話している自分の心はいつになく温かい感じがした。

夢だとしたら、心地の良い夢である。

『これは夢なのか?』と、もう一度自問した。

 かえでさんの家の窓は明るく灯っている。星もすばら

しくたくさん輝いている。胸に手を当てた。しっかりと

した感覚だ。黄色い石を触ってみた。冷たく堅い感触だ。

「この石はママの形見なんだ、大切な。俺が小学校5年

の時に死んでしまったんだ。死ぬ前、まだ少し元気だっ

た頃にこれをもらったんだ。『これをずっとママだと思

って大切にしてね』って言われてもらったものだから」

 そう言うと、太郎丸はその頃のことを想い出し少し目

頭が熱くなってしまった。

 母のことを「ママ」と言うことは人前では恥ずかしく

て言わなかったのに、夢の中にいるような感覚と優しさ

に似た感触につられて小学生のあの頃につい戻り「ママ」

と太郎丸は言ってしまった。この二人に心を許したわけ

ではないと思っているのにだ。

「悪かったな。言いたくないことを聞いて」

 少女は前髪をかき上げてから両足をまげて抱え、膝の

上にあごを乗せて言った。その手にはいつの間にかワイ

ンボトルもグラスもなかった。

 三人に沈黙が暫く流れ、小川のせせらぎと風が竹藪の

中を通る音が静かに流れた。太郎丸はベンチの上で強烈

な睡魔に引き寄せられる感覚を覚えた。その時バブシが

叫んだ。

「ブシッ、人間が来た!」バブシがあっという間に羽を

広げて忽然と消えた。

 バブシが見た方向はガレージの斜め後ろ、かえでさん

の家の方角で、太郎丸が眠い意識の中で振り返って見る

と、姉のあき子がふらふらとこちらに向かって歩いてい

る。

「マルちゃん、そろそろ寝るわよー、私リビングで寝て

たみたい。何やってんのー、そんなとこで、風邪引くわ

よ。ねー、今の子誰ー?」

 酔ったあき子が大きい声でそう言いながらガレージに

近寄ってきた。あき子はオースチンのシートで寝ている

太郎丸を見ると不思議そうに言った。

「あら、マルちゃん寝てるの? ねえ、起きなさいよ」

 あき子は寝ている太郎丸の肩を揺さぶった。


 翌朝、太郎丸は目が早く覚めたが、あき子は二日酔い

らしく、遅く起きてきた。かえでさんの作ったパンケー

キとガレット、ソーセージの朝食を頬張りながら、眠そ

うに目をこする。ガレットはこのブルターニュ地方ブル

トンの名物料理らしい。

「だって、本当に見たのよ私は。酔っ払って見た夢なん

かじゃないわ!」

「あのね、朝早く仕事に行く前のエリックに聞いたけど、

妹なんかいないってよ」

 果物やヨーグルトを持って、かえでさんがテーブルに

来た。

「あき子さんの見たそのかわいい女の子って、どんな女

の子でした?」

 かえでさんは、微笑みながらそれらをテーブルに置き

ながら優しく尋ねた。

「あ、はい。聞いていらっしゃったんですね。すみませ

ん朝から騒いでしまって。これ良いお味ですわ」

 あき子は急に態度をお嬢さんモードに変えてガレット

を食べた。

「そんな大きい声で言ってりゃ、聞こえるに決まってる

だろ」

「うるさいわね、あんたは! あ、失礼、わたくしとし

たことが、はしたない言葉を使いまして。ほほほ、うる

さいですわマルちゃん」

「大分飲んだみたいでごめんなさい。私が飲ませちゃっ

たみたいで。でも久しぶりに楽しかったわ。あき子さん

は陽気でいいわ。いいのよ、あらたまった言葉なんて使

わなくて昨夜みたいに気軽に話してくださって」

「ありがとうございます。それでですね、娘さんはいら

っしゃらないって本当ですか?」

「ええ、うちはエリックが一人っ子で。その女の子は小

さい子でしたか?」

「かわいい感じの横顔の少女で髪がポニーテールで、見

たのはほんの短い間ですけど。赤っぽいきれいな服着て

ました。私がガレージの車の方へ近寄っていくとさっと

森の方に走っていっちゃって、高校生くらいかな。あ、

そうだ走っていった方に白い馬がいたわ」

「その子はきっと妖精だわ。きっとその白い馬に乗って

行っちゃったのよ」

 かえでさんは、さっきまでとは違って凛とした表情で

唐突に言った。太郎丸はどきっとする。昨日のフェラー

リを運転していた少女が実は妖精で自分たちが狙われて

いるなどというめんどくさい話はこの姉にはしたくなか

った。心配性の姉なのだ。

「妖精? 幽霊じゃなくて妖精っ? マルちゃんほんと

に何も見てないの?」

「俺は小川のほとりのきれいな蛍の光をシートから見て

いただけだよ」

「かえでさん、本当にここに妖精なんているんですか?」

「そうねぇ、私は妖精だと思うわ。幽霊を見た人ってこ

のあたりでは聞いたことがないけれど、とてもかわいら

しかったのでしょう? きれいな衣装を着ていたのでし

ょう? たぶん妖精よ。このあたりにはケルト民族の伝

説がたくさんあって、妖精の伝説もあるのよ。あき子さ

んラッキーよ」

「なんでラッキーなんですか?」

「妖精を見たなんて、夢があっていいじゃない。きっと

いいことがあるわよ。うちの森も捨てたもんじゃないわ

ね」かえでさんは、子供っぽく無邪気に微笑んだ。

「そうかあ、ラッキーか! 結婚できるかな。へへっ」

 あき子も無邪気に笑った。かえでさんも笑っている。

二人はまた四方山話を始めた。

 ブルターニュの朝のさわやかな陽光が庭に積もる。

かえでさんの入れたコーヒーの香りが部屋に流れる。し

かし、太郎丸は心の中で笑えなかった。

 かえでさんは、庭の蛍の話をした。竹林も蛍もかえで

さんが育てたものだった。フランス人は蛍をあまり好か

ない。ケルト民族には蛍の光は「洗礼を受けずに早くに

亡くなった子供の魂」という言い伝えがあるらしい。だ

から、きれいというよりも不気味がる。

「同じ魂でも日本では恋こがれる魂として蛍の光を表現

していたのにね。こんな歌があるわ、『音もせで思ひに

燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ』源重之の歌

よ」

「すごい。かえでさん何でも知ってるんですね。ところ

で、どんな意味なんですか」

「恋こがれる自分の魂と蛍の光を重ね合わせている歌よ。

源氏物語の中にも似たような歌があるのよ。蛍の光は幻

想的だものね」

「幻想的な恋かあ、ロマンチックねえ……」

 と言いつつ、あき子は胸の前で手をからめる。ちょっ

と気持ち悪い。

「日本では蛍の光の美しさを求めて人が集まる所がたく

さんあるというのに文化の違いはおもしろいですね」

 と言って、かえでさんは、あき子を見て微笑んだ。

 かえでさんはブルターニュとイングランドの関係につ

いても話した。

 彼女は博識だった。そして、それを表に出さずに奥ゆ

かしい気品さえ感じさせた。

「イングランド西端コーンウォール地方にいたケルト人

がアングロサクソン人の圧迫を逃れて海を渡って移住し

て作った国がブルターニュ王国で、千五百三十二年にフ

ランスに併合され州になったのよ。だから、ケルト語の

一つでもあるブルトン語が残っていて誇りを持って話す

人も多いのよ。ここブルターニュはスコットランド、ウ

ェールズ、アイルランドとケルト言語や文化面でも密接

な関係があるのよ。ケルト神話もね。おもしろいでしょ、

海を隔てているのにケルトの繋がりね」

 太郎丸は昨夜の話を想い出した。確かカグの父はスコ

ットランドエルフで母がここブルターニュフェアリーだ

と・・・・・・そうか、イギリスとフランス、海を隔ててもケ

ルトの繋がりがあるのかと新鮮な驚きが心をよぎった。

 あき子のスマートフォンがミュージカル「モーツァル

ト」の曲で大音響で鳴った。迷惑にならないようにか、

スマートフォンを耳に押さえ食堂を出て行ったが

「あら! 紗矢どうしたの?」

 と大声が響く。太郎丸は、相変わらずいつも騒々しい

奴めとあき子を一瞥し、コーヒーを飲んで、かえでさん

にいろいろとこの土地の話を質問しだした。あき子はそ

れから、二、三十分戻ってこなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ