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第9話

 カーコが来なくなってから、一ヶ月が経とうとしていた。


 その代わりに、時折、ギョロギョロと変わった声で鳴くカラスが私の前に現れるようになった。でもそれはカーコじゃない。私は挨拶程度の隣人くらいに考え、そのカラスに軽い会釈をして通り過ぎる。カラスに会釈というのもおかしな話だけど、そのカラスが私を見て鳴くものだから、私は何となく挨拶を返さなきゃって気になったのだった。




 朝、リビングに行くと、ミーコが鳴きながら忙しなくガラスを擦っていた。


「どうしたの?」


 私が外に目をやると、そこにはカラスが一羽、立っていた。


「カーコ!」


 私は考えなしに、掃き出し窓を開けた。縁側へ飛び出し、慌ただしくサンダルを履き、カーコに寄る。


『久しぶり』


 そう言って、カーコが笑った気がした。




 私はしゃがんで、カーコとミーコの食事風景を眺めた。前と同じように、ミーコとカーコが並んで食事をする。


「カーコ、少しやつれたんじゃない?」


 母が私の後ろから重い声を落とした。


「そうだね。少しやつれたかも」


 でも、食欲はあるみたいだ。ということは、病み上がりみたいなもので、今は元気なのだろうか。食事風景を見ている限り、やつれてはいるけど弱っているという様子ではない。


 カーコは粗方食事を済ませると、残ったレタスの切れ端を咥えて、飛び去った。でも、今日は前と違う。いつもはそのまま遠くに飛んでいったのに。


 電線に、カラスが一羽止まっていた。カーコはそのカラス目掛けて飛んでいき、傍に止まった。


 カラスがカーコの咥えるレタスの先を突きはじめる。


「カーコ、自分のご飯分けてあげようと思ったんだ」


「そうみたいね」


 母と二人して空を見上げる。


 足元を見下ろすと、ミーコも空を見上げていた。猫ってそんな遠くまで見えるのかな。でもミーコは『見ている』みたいだった。




 それから、カーコの食事スタイルが変わった。まずはミーコとの食事を楽しむ。粗方食べ尽くすと、飛んで運べそうな残りを咥えて飛び去る。それから近くの電線に止まって、待っていたカラスと食事を楽しむのだ。


「もしかしてなんだけど」


 私と同じように空を見上げる母が、口を開いた。


「カーコ、お母さんになったんじゃないかしら」


「え!」


「一時期、カーコ来なかったでしょ? あれ、もしかしたら産卵でかなって」


 以前、母はカラスの生態を調べたらしい。母の根拠を聞き、私は成程と納得してしまった。


「確かに、産卵の時期と合うね」


 ということは?


「なら、あの電線に止まってたの、カーコの子供?」


「それはいくらなんでも早いわよ。多分だけど、旦那さんじゃないかしら」


 少しだけ、母が気まずそうな空気を醸し出す。気にしなくていいのに。


「そっか。カラスの夫婦って結構仲良しなんだ」


 なんだか、目の前がグルグルして、気分が悪かった。




 何で、気分が悪かったんだろう。びっくりしたから?


 ベッドで寝返りを打つ。なかなか寝付けない。明日が日曜で良かった。


 私は人間なのに、結婚の一つもできなくて、それなのに、カーコはいつの間にか結婚して、子供を作っていた(かもしれない)から?


(でも、動物の方が案外淡泊だし)


 『結婚』などという重みもなく、ただ、本能に従って繁殖するのが動物だ。人間と同じではないのだから、そう深刻になる必要もない。そう思うのに、私の胸中は晴れなかった。




 私はぼんやりとミーコとカーコの食事風景を眺めた。だんだん日差しが強くなってきたな。このままこの生活が続くのなら、何か日よけを作ってやった方がいいかもしれない。そんなことを考えながら彼女たちを眺める私はきっと、酷い顔をしているのだろう。


 カーコが飛び去ったので、私は朝の仕事が終わったといった様子で食器を持ち上げた。後ろからミーコが付いてくる。私がサンダルを脱いでいる間に、ミーコはトンと軽やかに縁側に上がってしまうと、母の足に擦り寄った。


「はーい。おてて拭こうね」


 母が手に持っていたタオルでミーコの手足を拭いてやる。ミーコは嫌がるどころか、気持ちよさげに目を細めた。




 母に用意してもらった朝食を食べる。でもあまり進まない。昨日、寝るのが遅くなったからかな。


(これ食べたら、もう少し横になろうかな)


 私は欠伸をかみ殺し、ほんのり涙目でトーストを齧った。


「ねえ」


「ん?」


 咀嚼しながら、母に顔をやる。


「お母さんね、来月からお料理の先生を始めることにしたの」


「え!」


 手に持つトーストを落としそうになり、慌ててトーストを受け止めた。


「なんで、また、急に?」


 生活が不安なのかな。それとも、何か、騙されている?


 目を白黒させる私に、母がどこか得意げに微笑んだ。


「ご近所の、山田さんいるでしょ?」


「うん。確か、料理の先生してるんだよね?」


「そうそう。山田さん、助手さんがいるんだけど、その人が旦那さんの転勤でお引っ越しをされるんですって。だから手伝ってほしいって」


「でも、そういうのって、どうなの?」


 免許とか、要るんじゃないの?


 その質問に、母はきょとんとした顔で答えた。


「お母さん、調理師免許持ってるわよ」


「ええ!」


 初耳だ。


「知らなかった?」


「うん」


 すると、母は心外だと眉を歪ませた。


「毎日こんなに美味しいご飯を食べておきながら、気づかないなんて」


 『なんて鈍い子なのかしら』と言わんばかりに、溜め息をつく。


「いや、気づかないでしょ」


 気づくはずもない。私は生まれてから今までずっと、『母』の手料理を食べてきたのだから。


「世間のお母さんは皆、これくらい料理が上手いもんだと思ってたよ」


 調理師免許を持つ者だからこその味なのだと、思ったことなどない。


 母はまた、溜め息をついた。


「そんなはずないじゃない。そりゃ免許なんて持たなくても上手な主婦はいっぱいいるでしょうけど、これを当たり前だと思われちゃ、お母さんちょっとガッカリよ」


 私は少しだけ、世間を知らないみたいだ。母の呆れた眼、面目ない。


「じゃ、何で今まで働かなかったの?」


 私は専業主婦を怠惰だと責める意図はなく、折角の免状が勿体ないのではいう純粋な疑問から尋ねた。


 母が暗い笑みを見せた。


「結婚する前に働いていた職場があったんだけど、結婚が決まった途端に同僚と上手くいかなくなっちゃって。居心地が悪いから辞めちゃったんだけど、次に入った職場もね、あまり良い環境じゃなくて」


 そうしているうちに私ができて、その職場も辞め、私を育てていたら今になったらしい。


「家庭を守ることで忙しかったのもあるけど、働くことに逃げ腰になっちゃってたの」


「そっかぁ」


 昔も、結婚が原因での不仲ってあったんだ。


(うちの職場にも、いたもんな)


 私の結婚が決まった途端、態度を変えた人がいた。部署が違うおかげで適当に流していたけど、あのまま結婚していたら、ずっとその人に嫌味を言われ続けたのだろうか。


(その心配はなくなったんだけど)


 休職開け、トイレで彼女とすれ違った。


『ザマーミロ』


 すれ違いざまそう言われ、私は真綿で包まれていた心臓を針で突かれたような気分に陥った。


 ところがその三日後、彼女は上司との不倫がばれて退職したのだ。私はつい頭の中で、『ザマーミロ』と呟いてしまったけど、おかげで傷は浅く済んだのだった。


(まぁこれは、余談だけど)


 すぐ記憶の片隅に追いやる。今は母の第一歩を祝わないと。


「頻度はどれくらいなの?」


「週に三回、公民館でするのよ」


「そっか。頑張ってね」


「うん、ありがと」


 ふふ、と、顔を見合わせ笑い合う。


 表情とは裏腹に、私の胸にはまた、得体の知れない黒い塊が鎮座していた。


 何だろう、この黒い感覚は。カーコがお母さんになっていたことを知った時にも感じた感覚。もしこの黒い感覚が結婚に対してだけのものなら、母に感じるはずがないのに。


 ミーコに顔をやると、ミーコはキャットタワーの一番下の段に座っていた。その滑らかな形状に、少しだけ気が晴れる。


 ミーコは上の段に目をやると、トンと軽やかに上がった。そしてまた、トンと軽やかに伸び、ついには一番高い段にまで上がってしまった。その光景に、私は目を丸めた。


「ミーコ、上れるようになったんだ」


「ええ。一昨日ぐらいまではもっと危なっかしかったんだけど、もう慣れたものね」


 一瞬にして、黒い感覚が私を抱いた。黒いものは、私の中に鎮座などしていなかったのだ。それは私にピッタリと張り付くようにして静観し、襲い掛かる機会を窺っていたのである。


 私は心の中で抗うように手足をばたつかせたけど、黒いものは簡単に私を取り込んで、私は闇の中に引き摺り込まれていった。




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