第8話
「今日も、来てないか……」
庭を眺め、私は溜め息をついた。燦燦と輝く朝日に似合わない、憂鬱な胸中だ。
突然、カーコは家に来なくなった。
一日目は、『あれ? どうしたのかな?』と思った。
二日目は、『んー、そんな日もあるのかな』と、安易に考えた。
三日目に、『本当に、どうしちゃったのかな』と、心配になった。
四日目に、『もしかして』と、良からぬ想像が芽生えた。
ミーコが気にしている様子はなかった。カーコが来なくなったその日もミーコは平常運転で、庭先を眺めながらも、縁側で自分の食事を楽しんだのだ。
「ミーコ。カーコから何か聞いているの?」
母が尋ねても、ミーコは大きな欠伸をするばかり。ミーコはいつもどおり、丸まったり遊んだり、気ままな日々を過ごしていた。
「ミーコ。いくらなんでも、ちょっと薄情じゃない?」
私が少しばかり強い口調で尋ねても、ミーコは丸い目を向けるだけだった。
『何で怒ってるの?』
困っても、驚いても、悲しんでもいない。いつもの顔。
ミーコは『意味が分かんない』と言わんばかりに伸びをすると、軽やかなジャンプでキャットタワーの一番下の段に上り、丸くなった。まだミーコはキャットタワーの一番下の段にしか上がれない。それでも、以前はやっとのことで登っていたのが、一回のジャンプで上がれるようになったのだ。でも今は、成長にばかり気を取られてはいられない。
所詮、動物、だからなのか。なぜ相手が急に来なくなったのか、なんて考えないのだろうか。
所詮、私たちとは別の生き物でしかないのか。
動物の世界とは、なんてドライなのだろう。でも、それは仕方がないことなのかもしれない。ライオンに食われた子供を想って悲しみ続けるインパラはいないだろうし、飢えのあまり死んだ仲間を想って悲しみ続けるライオンだっていない。
ただ、私が少し、勘違いをしていただけだ。猫もカラスも人に近いところで生活をしているから、同じように感じてくれるものだと勘違いをしていただけ。ミーコに薄情ではないかと訴えても仕方がない。彼女は、――彼女たちは、そういう生き物なんだ。
自宅の最寄り駅を出ると、大木に一羽のカラスがいた。一瞬、『カーコ?』と思ったが、すぐに違うと勘が働いた。カーコと他のカラスを見分ける方法は、実のところ私自身よく分かっていない。ただ、勘が働くだけだ。見た瞬間『この子はカーコ』と、頭が閃くだけなので、他人から『見分け方を教えて』などと求められても、何も教えられない。
そのカラスはすぐ夕暮れ空に飛び去ってしまった。まるで、カーコみたいに。でもそんなこともあるだろう。私は母の待つ家へと急いだ。
神社の玉垣に、カラスが止まっていた。さっきの駅にいたカラスと同じカラスなのかは分からない。カーコとカーコじゃない子の区別しかつかないのだから、仕方がない。私はそれもただの偶然と判断し、その子の前を通り過ぎた。
「ギョロロロ」
通り過ぎる瞬間、私はカラスの妙な声を聞いた。初めて聞く音だ。そんな声で鳴いたりもするのかと気を取られたが、何なんだろうと少しだけ困惑しながら、家路に就いた。
私は張り合いのない休日を過ごし、縁側に座って夕暮れ空を眺めた。
夕食の支度を整えた母が、私の傍に腰を下ろした。
「ねえ」
「ん?」
「お母さん、思うんだけどね」
話しながら、私と同じように赤い空を見上げる。
「カーコはミーコを食べようとしていたんじゃないと思うの」
今だから思えることだけど、と付け加える。
「どうして?」
「だって、あんたがお医者さんに連れて行った時、ミーコは少し毛を毟られただけだって言われたんでしょ?」
「うん」
ミーコの毛は、毟られたといっても皮膚から剥ぎ取るような毟られ方ではなく、毛先を千切ったような毟られ方だったのだ。
「カーコが本気なら、きっとミーコのお腹ぐらい簡単に破ってたと思うわよ。目玉突いたりね」
母の声から想像が浮かび、思わず気持ち悪くなった。縁起でもない、と、頭を一度左右に振って想像を消してしまう。
「なら、カーコは何をしようとしていたんだろ」
もしかして、嘴で摘まんで病院の前にでも置いておこうと考えたとか?
私の想像に、母は小さな笑い声を立て、頭をゆっくり左右に振った。
「多分だけど、わざと虐めて誰かに拾わせようとしていたんじゃないかしら」
「どうして⁉」
虐めなくても、拾う人はいるだろうに。
「なら、あんたはミーコがカーコに突かれていなくても、ミーコを助けた?」
「それは……」
もしかしたら、気づかなかったかもしれない。気づいたとしても、見て見ぬふりをしたかもしれない。『可哀想だけど、私には何もできないよ』、『誰かいい人に拾ってもらいなね』って、ミーコを見捨てていたかもしれない。ううん、見捨てていたと、思う。
母は、私の心情をすぐに察知したようだ。静かに一度、頷いた。
「でも、カーコに突かれていたせいで、『今、私が助けないと、この子は助からない』って、思ったでしょ?」
「うん……」
『今、何とかできるのは私だけ。今、私が何とかしないと、この子は死ぬ』
これほど明確な言葉となってはいなかったけど、それくらいの焦燥感と緊迫感は覚えていた。それくらい気を昂らせる何かがなければ、助ける一歩は踏み出せなかった。
「カーコはそれを狙ったんじゃないかって、思ったのよ」
「なるほど……」
以前、何かの番組で観たことがある。カラスがわざと道路にクルミを置いて、車に轢かせて割る映像だ。
そうやって、カラスは硬い殻を自分で割らなくても、美味しいクルミにありつけた。カラスは人を使役できるくらい、賢い動物だということだ。
(それの応用だとしたら、カーコってかなり賢い)
「なら、もしかしたら、人がいない時は突いてなかったのかもね」
「そうね。人が通るのを待っていたのかも」
「うん」
住宅地の小道で、一匹でほったらかしにされたミーコ。どんな事情で放っておかれたのか分からないけど、カーコにはどうすることもできない。
『おい、頑張れよ』
時々突いてみるが、そんなことで生まれて間もないミーコが頑張れるはずもない。
人が来たので、カーコは咄嗟に突いてみた。でもその人は気づかずか、敢えて気づかないふりをしたのか、一匹と一羽を素通りしてしまった。
『チッ、薄情だね』
突くのをやめ、そんな言葉を吐き捨てる。
『でもあんな奴に拾われたところで、いいことなんてないよ』
『これで良かったんだ。次に賭けよう』
『いい? 次はもっとか弱い声で鳴くんだよ』
励まし、レクチャーしつつ。
『人が来た。悪いけど、ちょっとだけ毛先を毟るからね』
『大丈夫だよ。いい人が必ずあんたを拾ってくれるからね』
そうして、誰か拾ってくれそうな人を探していたのだとしたら。
(ミーコがカーコに懐くのも頷ける)
私は自身の想像に、大きく頷いた。
「なら、もしかしたら、カーコはご飯を貰う期限を決めていたのかな」
ミーコがちゃんと大きくなるまで、少なくとも自分の力で生きていけるようになるまで。まだそれには早いけど、この家になら任せられると思い、去ったのだろうか。
「だから、ミーコはカーコが来なくなったことを気にしないのかな」
カーコからちゃんとお別れの言葉があったから、ミーコは通常運転だったのだろうか。
「かもしれないわね」
「うん」
カラスが野生の動物であることを誰よりも分かっていたのは、カーコ自身だったのかもしれない。
カーコはもう、家には来ないのだろう。でもどこかで元気に生きている。そうして私は自身を慰めた。