第7話
警察は私の訴えに、きちんと耳を傾けてくれた。
『えー、あんた百万円しか盗られてないのに来たの? こっちは忙しいんだけど』
てっきりそんな風に、鼻で笑われるものだと思っていた。少なくとも私はそれくらいの覚悟で行ったのに、警察は誠実に、ときに献身的とも思えるくらいに、私の声に耳を傾けてくれたのだ。
私は落ち着いているつもりだった。もう終わったことなのだからと、見切りをつけて挑んだつもりだった。なのに、話しているうちに、だんだん思い出が蘇ってきて、気づけば大粒の涙を零していた。
人前で泣くのは、いつぶりだろう。
小学生のころ、ほんの些細なことだった。算数の時間に文章題のプリントが出て、他の子たちはどんどん解き終えて提出しているのに、私はなかなか解けなかった。
他の子たちの達成感に満ちた足音。それが幾重にも重なり、その音を耳にすればするほど私は焦って、問題に集中できなくなっていった。
『そんなのも解けないのかよ!』
クラスのある男子にそう言われ、私は泣き出してしまった。ただでさえ焦りと苦悩に頭がいっぱいだったのに、急にからかわれて、感情のリミッターが外れてしまったのだと思う。その男子はすぐ謝ってくれたし、クラスの子たちも慰めてくれたのに、私はなかなか泣きやむことができなかった。
その時は、なぜ自分があれほどまでに泣き続けてしまったのか分からなった。後々になり、『何でたったあれだけのことで泣いてしまったんだろう』と、赤面するくらいだったのに。
今、やっと理由が分かった。私は悔しくて、仕方がなかったのだ。自分を粗末に扱う人がいて、その人に傷つけられ、なのにそれを本人に面と向かって訴えることもできず、つらさより悔しさが勝って、仕方がなかったのだ。
「大丈夫。聞いてますよ。ゆっくりで構いませんから」
警官がティッシュを差し出してくれた。私はそれを受け取り、恥も外聞もなく、思いっきり鼻をかんだ。すると不思議なもので、浄化できないと思っていた悔しさが、強い鼻息とともに飛んでいった。
涙みたいなお上品な水滴では出しきれない。そんなものは、鼻から出してしまえ。思いっきりティッシュにブーッと吹き出して、あとは丸めてポイ。
私は自分の想像がおかしくなって、緩く笑った。目の前の警官も私を見て笑みを浮かべるけど、その笑みには若干、『この人おかしくなっちゃったのかな?』といった苦みが含まれている。
「すいません」
私が涙目のまま微笑んで謝ると、警官は「いえ」と、頭を緩く振った。
「ただいま」
家に帰ると、母はすぐさま私を出迎えてくれた。
「どうだった?」
悲壮感漂う顔。その顔じゃ、私が容疑者みたいじゃない。
「うん。ひとまず、言えることは全部言ってきたから、大丈夫」
鼻をかんだ後は、冷静に話を続けられた。言いたいことは全て吐き出してきたという実感はあるから、気持ちはすっきりしていた。
「そう」
私の返事に、母の頬も少しだけ解れた。
「ね、ケーキ買ってきたの。デザートに食べよ」
「え!」
私が袋を持ち上げてみせると、母が突き抜けるような声を放った。
「どうしたの?」
「やだ、こんなことなら連絡すれば良かったわ」
「なんで?」
「お母さんも買ってきちゃったわよ」
きっと、だけど、私を慰めたり、励ましたりしようと思って用意してくれたのだろう。
「因みに、何買ってきたの?」
「ショートケーキよ」
「なら良かった。私はチョコレートケーキ」
二個食べたらいいじゃない、と、悪魔の声で囁く。
「そうねぇ。でもいいのかしら。最近、太ってきちゃったのに、食後にケーキ二つなんて……」
悪魔の誘いに心揺らされる母。
「ナー」
私と母が床に目を落とすと、ミーコがじっと私たちを見ていた。
『分かりました。そういうことでしたら、私もお手伝いしましょう』
精悍な目つきがそう言っているようだ。私だけでなく、母もそう感じたのだろう。私と母は同時にプッと吹き出した。
「残念でした。ミーコは食べられないよ」
意地悪な声と視線を落とすと、ミーコの顔が一瞬だけ、鬼瓦となった。
人に話してしまうと案外肩の荷が下りるもので、それ以降私はすっきりした気分で職場に向かえるようになった。以前の様子と変わらなくなった私に、職場の人たちもだんだんと以前の振る舞いを取り戻してくれた。吐き出すのって大事だな。不貞腐れるのをやめて、警察に行って良かった。
一歩前に進めた気がした。亡くなった父は戻らないけれど、すっかり元通りだと思えた。……少しだけ、思うようにした。
家の最寄り駅を出ると、カーコがいた。私はカーコだけ、見分けがつくようになっていた。
カーコは時折、最寄り駅で私を待っている。そんな日は大抵、駅のロータリーにある大木に止まっていた。夕暮れ時の赤い空に照らされ、黒い羽が柔らかく輝いて見えた。
カーコは私を見つけると、すぐさま赤い空に羽ばたいていった。随分つれないなぁと溜め息をつき、歩を進める。
家の近所にある神社まで来ると、玉垣にカーコが止まっていた。
『遅ーい』
そんな顔を一瞬だけ、私に向ける。そしてまた、どこかに飛び去ってしまった。
なんで、二ヶ所で待ち伏せするんだろう。
「カーコさ、私が無事に家まで帰れてるか、心配なのかな?」
母特製の漬物を頬張りながら尋ねると、母は
「かもしれないわね」
と頬を緩め味噌汁をすすった。
カーコは案外、心配性なのかも。私はそう片づけ、もう一口漬物を頬張った。
いつもミーコとカーコの夕飯を母に任せているけど、休日は別だ。休日である土曜日と日曜日だけ、私は夕飯も用意する。
日が長くなってきたからか、夕飯後、彼女たちの遊び時間も長くなってきた。
夕日の中で、ミーコの白い体が柔らかな橙色に染まる。カーコの黒い体も明るい黒に輝く。
こうして、二人と一匹と一羽で、いつまでも一緒にいられたらいいな。
そう思っていた。